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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本民族の歴史とは、天皇と庶民の歴史であった。
日本民族にとっての男女・男男・女女の性行為は、人に見られたくない秘め事ではなくむしろオープンで、愛や恋ではなく「今」その時その場の快楽であり、それは日本中心神話・天皇神話=天孫降臨神話・自然崇拝神話に通じていた。
見方を変えれば、日本人は快楽主義で性は乱れ、日本は悪徳のソドムとゴモラであった。
一神教の西洋キリスト教絶対価値観は、不道徳で不潔な日本を絶対に許さない。
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日本家屋である旅籠の部屋は、壁ではなく襖や障子で仕切られ、客で混雑すると薄板の衝立を立てて相部屋で泊まっていた。
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2024年5月28日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「1000人以上もの飯盛女が「春」を売る…現在のイメージとはかけ離れた江戸時代の「品川」が面白い!
日本橋を出発点に、53の宿場を経て京都三条大橋を終着点とする東海道五十三次。
その約490キロメートルにわたる長い旅路の上には、四季の変化に富んだ美しい国土、泰平無事の世の艶やかな賑わいが確かにあった。
【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」
各宿場を舞台にした時代小説を解説しながら、江戸時代当時の自然・風俗を追体験する旅好きにはたまらない一冊『時代小説で旅する東海道五十三次』(岡村 直樹著)より一部抜粋してお届けする。
『時代小説で旅する東海道五十三次』連載第2回
『“イチモツ”を元気にするために旅へ…江戸・日本橋を舞台とした、女の愛憎渦巻くヤバすぎる「時代小説」』より続く
第1宿 品川
旧東海道沿いの品海公園にある「品川宿の松」。
『月影兵庫 上段霞切り』(南條範夫)
☆宿場歩きガイド
宿場は北から歩行新宿、北本宿、南本宿にわかれ、旅籠の数は93軒、本陣1軒、脇本陣2軒。品川宿は、奥州・日光街道の千住、中山道の板橋、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸の四宿とうたわれたが、宿場というより遊興街に近い。多数の飯盛女を抱えて、彼女らに春を売らせていた。
幕府は、いくたびも禁令を発して取り締まりに躍起となったが、効果は上がらなかった。どだい、飯盛女なしでは旅籠はおろか宿場の経営そのものが成り立たなかったのだ。天保15(1844)年には、規定の3倍近い1348人の飯盛女がいた。
だが、客の多くは江戸の住人だった。日本橋から品川まではわずか二里。東海道を上る旅人は「七つ(午前4時)立ち」といわれ、早朝に旅立つのだから、品川にさしかかるのは昼前。日の高いうちから飯盛女と同衾というわけにはいくまい。
という次第で、旅人は少数派なのであった。
江戸の賑わいは今も残る
旧東海道の北品川本通り商店会には、江戸時代からの名残りを残す店舗も。
JR品川駅から第一京浜国道に沿い、八ツ山橋をわたったあたりが宿の入口で、五十三次の宿場名を刻んだ石柱が並んでいる。八ツ山橋と聞いて、すぐざまゴジラの上陸地と連想する方は、御年が知れようというもの。
旧道は、立会川に架かる浜川橋をわたり、やがて鈴ヶ森刑場跡に出る。商店街入口から刑場跡までは約4km。途中、古風な店構えの履物店がある。わざわざ熊本からここで買い物をするためにだけ上京してくるファンがいるという。草鞋でも探してみるとしますかな。
鈴ヶ森刑場は、江戸に入ろうとする浪人への警告の意味をこめて、場所を選定したという。処刑第一号は、慶安の変の首謀者のひとり、丸橋忠弥とされ、天一坊、八百屋お七らも処刑された。浜川橋は"涙橋"とも称された。刑場に護送される罪人の肉親がこの橋まで見送り、涙ながらに別れを惜しんだために、涙橋と呼ばれたのだった。
東京湾とともに栄えた町
潮風が心地よい品川浦船だまり。
東海道線が明治5(1872)年に開業したことは広く知られているが、現在の田町付近から品川にかけては、途中から海に土堤を築き、その上に線路が敷設された。当時の品川駅は、現在地より南に寄った八ツ山の下にあった。下りホームのすぐ側に東京湾が迫っていた、という。
旧東海道となっている北品川の商店街に入ってすぐ、土蔵相模跡あたりの横丁を左折すると、船だまりにあまたの釣り船、屋形船がもやってある。民家と道路の境に築かれた石垣、鯨塚などは、海が東海道に迫っていたことを物語る生き証人である。
品川には、JR東海が2027年開業をめざすリニア中央新幹線のターミナル駅設置が予定され、山手線の品川駅~田町駅間に新駅が誕生することも決定している。
目黒川手前にある「東海道品川宿交流館」で、町歩き用のマップを入手してから歩くといい。
『月影兵庫 上段霞切り』あらすじ
海岸線が宿場のすぐそばまで迫っていたことを物語る石垣。
剣をとっては十剣無統流の達人、さらには薙刀・棒術・拳法・捕縄……武芸十八般なんでもござれ、おまけに早駆け術まで体得している月影兵庫。名門旗本の家に生まれたが、部屋住みの身分をいいことに、ノンシャランな日を送っている。
そこへ義理の伯父から呼び出しがかかる。老中筆頭・松平信明だ。屋敷に軟禁していた綾姫が侍女の萩枝と逃げた、姫を捕らえよとの命だ。
綾姫は中山大納言の息女で、京洛随一の美女と評判が高い。時の将軍家斉の機嫌を取り結ぶため献上しようとしていた矢先だった。この将軍さま、歴代の将軍の中でもとびっきりの漁色家として歴史に名を残している。
伯父の家臣である宗像、岡島、黒祖父の三名、奥女中の桔梗と手分けして探しまわったところ、どうやら駕籠で京へ逃げのびる公算が大きい。兵庫らは品川宿で網を張ったものの、魚は網からスルリ。で、東海道五十三次の追跡行がはじまった。その間、街道筋や各宿場で綾姫の奪還作戦が繰り広げられる、という趣向だ。
彼らの前に立ちふさがるのは、幽霊を思わせる不気味な幻一角。兵庫は、時と場所を変え再三にわたって一角と対決し、奪還とは無関係な事件に首をつっこみ、女難をかわしつつ京にたどり着く。京で待ち受けていたのは、予想外の結末であった。
読みどころ
兵庫は部屋住みの身。どこぞの旗本の養子にもぐりこむ以外に、いかなる身の立てようがあろう。ところが、この男、老中である信明の引きに頼って立身を図る気は毛ほどもない。欲得ずくで動く武士ではないのである。
そんな兵庫が、あえて信明の下命を引き受けたのは、生まれて初めての旅に出たい一心から。であるから、ゆるりと東海道を行きたい。通常なら13~4日の行程のところを25日もかけて京に着いている。
東海道を上る者には第一歩、下ってきた旅人には江戸入りの最後の関門が品川宿。そうそう泊まり客はいない。だのに100軒近くの旅籠が店を構えていたのには、別のねらいがあった。料亭を兼ねた娼家だったのである。旗本らお歴々が、釣りや遠乗りにかこつけて、息抜き、あるいは社交に、せっせと通った。
宿場であるからには、問屋場は欠かせぬ施設だ。幕府の公用旅行者の人足や馬、宿泊場所を手配したり、公文書をはこぶ飛脚業務を管理した施設である。
荒くれ者との大立回り!
当然ながら、駕籠をかつぐ人足も常駐している。時代小説では、おおかたは柄が悪く"雲助"などと記される。綾姫は駕籠で逃げたらしいと見当をつけ、兵庫らは問屋場で網を張る。
いずれも、肩には「しびね」という瘤を盛り上がらせる屈強の荒くれ者。なかでも牛六は、桔梗に無体を仕掛け手厳しくはねつけられた過去を持っている。それからというもの、権高な奥女中を慰みものにすることに執着しているのだ。
そこへ、当の桔梗が通りかかったからたまらない。桔梗、危うし。と思われた瞬間、兵庫の愛刀・助広が一閃、牛六は血しぶきとともに倒れ伏したのだった。以来、桔梗に付きまとわれる兵庫、シリーズ第3作『秘剣縦横』で桔梗と所帯を持つのである。
このシリーズ、昭和40年代に、殺陣の名手・近衛十四郎(松方弘樹、目黒祐樹兄弟の父)主演でテレビドラマ化され、一世を風靡した。ただし、人気を博したひょうきんな相棒・焼津の半次(品川隆二)は、原作には出て来ない。
『あのアメリカ領事も舌鼓を打った! …江戸っ子たちが片道10km歩いてでも食べたかった川崎の逸品「奈良茶飯」とは』へ続く
岡村 直樹(ライター)
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5月27日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「あのアメリカ領事も舌鼓を打った!…江戸っ子たちが片道10km歩いてでも食べたかった川崎の逸品「奈良茶飯」とは
岡村 直樹ライター
日本橋を出発点に、53の宿場を経て京都三条大橋を終着点とする東海道五十三次。
その約490キロメートルにわたる長い旅路の上には、四季の変化に富んだ美しい国土、泰平無事の世の艶やかな賑わいが確かにあった。
各宿場を舞台にした時代小説を解説しながら、江戸時代当時の自然・風俗を追体験する旅好きにはたまらない一冊『時代小説で旅する東海道五十三次』(岡村 直樹著)より一部抜粋してお届けする。
『時代小説で旅する東海道五十三次』 連載第3回
『1000人以上もの飯盛女が「春」を売る…現在のイメージとはかけ離れた江戸時代の「品川」が面白い!』より続く
第2宿・川崎
『宝引の辰捕者帳 朱房の鷹』(泡坂妻夫)
☆宿場歩きガイド
JR川崎駅下車。東口を出て大通りを南へ200mほど進むと砂子交差点。このあたりが宿場の中心だ。本陣2軒、脇本陣ナシ、旅籠72軒、宿内人口は2400人強。
多摩川(下流部は六郷川とも)河口近くの低地は大師河原と呼ばれていた。弘法大師ゆかりの真言宗・平間寺(川崎大師)があり、古くから江戸人士の信仰を集めていた。川崎は、この門前町として集落の体裁をととのえてきた。六郷の渡しを越えると、左手に「大師河原道」があり、2kmほど歩くと厄除けで有名な大師堂に着いた。
東海道の宿場として成立したのは元和9(1623)年。東海道ではもっとも遅い成立。宿場財政は厳しく、青息吐息の状態がつづいた。そのうえ、地震や火災が追い討ちをかけ、いよいよ困窮。その後、六郷川の渡船賃を伝馬費用に当てるなどして、財政は持ち直した。
平成25(2013)年10月、旧街道沿いに「東海道かわさき宿交流館」が開館した。入ってすぐ、川崎宿の茶屋「万年屋」を模したお休み処がある。2階では、当時の旅人の衣裳やカツラ姿で記念撮影できるコーナーが設けられている。背景は六郷の渡しになっていて、どっぷりと旅人気分にひたれる。また、往時の宿場を模型で再現。
「東海道 かわさき宿交流館」の床には、宿場の町並みが描かれている。
激変する街並み
万年屋はもともと一膳飯屋だったが、奈良茶飯が名を知られるようになった明和年間(1764~72)以降は、旅籠も兼業。東海道と川崎大師への分岐点という地の利もあって繁盛した。条約締結を求めて下田から江戸へ向かったアメリカ領事ハリスは、本陣が清潔でないと主張して、宿を万年屋に換えさせている。
奈良茶飯は、茶飯に豆腐汁、煮しめなどをセットにしたもので、お代は38文なり。
交流館の斜め向かい、宗三寺には遊女供養塔がある。川崎貸座敷組合によってたてられた供養塔で、薄幸な遊女たちの境涯そのままに侘しげなたたずまいだ。
鉄道の開通、宿駅制の廃止により、川崎宿の歴史も幕をおろしたが、日露戦争後には、川崎駅西口に東京電機(現・東芝)などの工場が進出、工業都市へと変貌する。西口一帯は広大な工場によって占められ、商業施設が集中する東口とは好対照の趣だった。
川崎宿があった旧東海道に当時の面影は薄い。
近年、東芝が移転、跡地再開発によって大規模商業施設「ラゾーナ川崎」に生まれ変わり、面目を一新した。
「まちにいろどりを」と活動している市民団体「からふる!」によれば、多摩川の象徴として若鮎色があげられている。本作の新吉も、諸手をあげて賛意を表するだろう。
『宝引の辰捕者帳 朱房の鷹』あらすじ
江戸は神田千両町の岡っ引き・辰は、42の厄年を迎えた。女房の柳のたっての願いで川崎大師に厄落としに出かけた。方位吉凶などは気にしないたちの辰は渋ったのだが、子分の算治が「横浜の異人見物がてらに」と勧めるので、その気になったのだ。話は、算治が語り手になって進む。
辰と柳の夫婦、ひとり娘の景、そして算治の4人は、暑さが一段落したある日、江戸を発って川崎に着いた。一行は、川崎名物の奈良茶飯を食べさせる「明石屋」に立ち寄る。
辰親分らは、年のころ14、5歳の少年が店に鮎を売りに来ているのに出会った。名は新吉といった。明石屋の料理人が、鮎を生簀に移しかえていると鮎がはねて、水しぶきが街道に飛び散った。間が悪かった。水しぶきが、通りかかった鷹匠役人の鷹を驚かせてしまう。店の主人が平謝りに謝って、その場は何とかおさまった。
しかし、江戸ではひと騒動が。羽田のお狩場で訓練されていた鷹が死に、頭を撲られたのが死因と判明する。将軍家が御寵愛の鷹だ。このままでは腹切りものだと、鷹匠頭が「犯人を捕えて」と奉行所に泣きついた。で、犯人探索が辰に命じられたのだった。
異人見物からの帰途、それを知らされた辰は再び明石屋に立ち寄り、探索をはじめる。さらに、鷹匠役人が泊まった旅籠に足を伸ばして女中らから聞きこみ、多摩川を六郷の渡しで越え、鮎を釣っている新吉からも事情を聞く。新吉が笹五位という鳥を飼い慣らしていることを知った辰には、犯人の見当がついた。辰は、八方が丸くおさまる解決策を胸に江戸へ戻っていく。
読みどころ
「捕物帳」の主人公は、たいてい江戸町奉行所の同心、もしくは岡っ引き。だから、舞台は江戸と決まったものだ。捜査権限の及ばない地にまで踏み出すことはほとんどない。では、プライベートな旅先で事件に出くわしたら、彼らはいかに対応するのか。その解答が本作だ。
辰親分は、ご府内では「宝引の辰」で通っている。福引の一首である宝引づくりを内職にしているための通り名なのである。
江戸っ子は、ご府内の外には出たがらない人種らしいが、箱根の関所を越えなければ話は別。近場の寺社や名勝地に、気軽に出向いた。黒船の来航に驚かされてからというもの、横浜の異人見物が流行となった。
女房殿の顔を立てて、まずは川崎大師をめざした辰。六郷の渡しを渡り終えるやいなや、騒動に巻きこまれる。川崎名物、奈良茶飯を食べさせる明石屋の店先でのことだった。
多摩川には。慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせたが、たて続けに洪水で流され。貞享5(1688)年以降、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。
奈良茶飯は、「煎じた茶に小豆や栗、慈姑などを炊き込んだ塩味の飯」。本書では明石屋としているが、もっとも有名なのは万年屋の奈良茶飯である。川崎宿は、品川から10km足らず。江戸からの旅人は、まず泊まらない。昼食、休憩が眼目だったろう。辰の一行も、その腹づもりで立ち寄ったのであった。
江戸時代も後期になると、街道筋の名物はほぼ出揃っている。駿河国府中宿はずれの安倍川餅、丸子宿のとろろ汁、宇津谷峠の十団子、三河国二川宿の強飯、伊勢国桑名宿の焼蛤(時雨煮)……。宿と宿のあいだの休憩場所「立場茶屋」でも、創意工夫を重ねて名物を売り出した。旅人は、これらの名物を楽しみとして、一日に10里(約40km)あまりの道のりを歩き通したのであった。
『黒船が火を吐き空を飛ぶ⁉…教科書には絶対に載ってない「当時の庶民の感性」が色濃くにじむ「歴史小説」の魅力』へ続く
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宿場で働く人足、雲助、駕籠かき、留女、飯盛女とはどんな人?
旧東海道など街道の宿場ではいろんな人達が働いていました。立場も違えば役割も違います。ここでは一般人の職業について説明します。
人足・雲助
人足(にんそく)とは主に物の運搬や、普請(ふしん)といわれる土木工事などの力仕事に従事する労働者。人夫とも。
また大井川などでは川越人足(かわごえにんそく)といって、肩車や輿(こし:みこしみたいなもの)で旅人を対岸まで運ぶ仕事もありました。
雲助(くもすけ:蜘蛛助)とは、わかりやすく言うと日雇い、臨時に雇う人足のこと。
出身地も定かではなく、素行の悪い者もいたみたいです。
例えば「人の足下を見る」という言葉があります。これは人のは弱みにつけこむという意味です。
この語源はかつて性格の悪い雲助が、客の草履を見て、擦り切れている(もうあまり歩けない)場合には通常よりも高い金額をふっかけたということに由来します。
駕籠かき
駕籠かき(かごかき:駕籠舁)とは、駕籠を担ぐ人足のこと。
駕籠は大名や公家(くげ)といった身分の高い人以外の庶民でも乗ることができました。
東海道には難所が箱根や大井川などの難所も多く、旅人の疲れもあったので、そういった場合に駕籠を利用したのです。
ちなみに料金はその宿場ごとに違いましたが、例えば『次の一里塚まではいくら』という、大まかな目印で設定されていました。
留女、飯盛女
留女(とめおんな)とは、旅籠での客引きをする女性のこと。東海道をはじめ、美濃路や佐屋街道の宿場にはたくさんの旅籠が存在していました。
例えば天保十四年(1843)の記録では、吉田宿(愛知県豊橋市)は65軒もの旅籠屋がありました。
旅籠も部屋を埋めればそれだけ利益になります。そこで夕暮れ時、今晩泊まる旅籠を探している旅人を半ば強引に自分たちの旅籠に引き入れたのが、留女たちでした。
飯盛女(めしもりおんな)とは、旅籠で旅人の世話をする女性たちの事です。しかしそれは表向きで、中には遊女の様な女性もいたのです。
飯盛女は宿場近くの村の貧農の娘たちも多く、親の借金のために期間で奉公(働きにでること)させられてもいました。
愛知県豊川市の東海道御油(ごゆ)宿にある東林寺には、飯盛女たち4人の墓が残っています。
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2021年4月8日 歴史人「1宿場150人…いや、その倍はいた「飯盛女」は和歌になるほど人気者【前編】
江戸の性職業 #036
■泊り客の食事の給仕がいつしか性の相手もすることに
図1『両雄奇人』(市川三升著、文政10年)、国会図書館蔵
飯盛女(めしもりおんな)は本来、街道の宿場の旅籠屋(はたごや)で、泊り客の食事の給仕をする下女である。客に飯を盛ることから、飯盛女と称した。
ところが、しだいに客に呼ばれると寝床にきて、性の相手もするようになった。いつしか、飯盛女は宿場のセックスワーカーになったのである。
その結果、飯盛女が多数いる大きな宿場は、遊里(ゆうり)の役割も持つようになった。飯盛女を置いている旅籠屋は、事実上の女郎屋となったのである。
飯盛女の揚代は、夜は四百文、昼は六百文が一般的で、手軽だった。
図1は、どこの宿場かは不明だが、街道には旅人や、荷を積んだ馬が行き交っている。一方で、仕出し料理を運ぶ若い者は、芸者らしき女ふたりと言葉を交わしており、遊廓としてもにぎわっていた。
街道に面した旅籠屋では、飯盛女が顔見せをしている。
さて、品川(東海道)、内藤新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光・奥州街道)は江戸四宿(えどししゅく)と呼ばれた。もちろん、江戸四宿の旅籠屋も飯盛女を置いていた。
なかでも、品川と内藤新宿は宿場と言っても、江戸市中から近かったので、江戸の男の感覚では、完全に江戸の遊里だった。
つまり、品川と内藤新宿の飯盛女は、江戸のセックスワーカーだった。
図2『東海道五十三次』(葛飾北斎)、国会図書館蔵
図2は、品川の飯盛女である。
旅籠屋の窓から海(東京湾)が見えるのが、いかにも海沿いの品川らしい。もちろん、現在は埋め立てが進んだので、かつての品川宿のあたりは海から遠い。
品川は道中奉行から、宿場全体で五百人の飯盛女を置くことを許可されていた。しかし、実際には倍以上いるのは、常識だった。
春本『旅枕五十三次』(恋川笑山、嘉永年間)によると、飯盛女の揚代には幅があり、高いところが銀十匁か金二朱、安いところが六百文や四百文だった。
また、嘉永五年(1853)の『品川細見』によると、揚代銀十匁が五十三名、金二朱が四十一名と、他の宿場に比べて、高級な飯盛女が多かった。
(続く)
[『歴史人』電子版]
歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.4
永井義男著 「江戸の遊郭」
現代でも地名として残る吉原を中心に、江戸時代の性風俗を紹介。町のラブホテルとして機能した「出合茶屋」や、非合法の風俗として人気を集めた「岡場所」などを現代に換算した料金相場とともに解説する。
永井 義男 ながい よしお
1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。
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2021年3月11日 歴史人「行商人を装った私娼「提重」 というお仕事【前編】
江戸の性職業 #034
■饅頭とともに体も売る江戸時代のデリヘル
吉原は公許の遊廓である。そのため、吉原の遊女は公娼(こうしょう)だった。
江戸幕府は、吉原以外での売春、つまり私娼(ししょう)を禁じた。しかし、これはあくまで建前であり、実態は野放しに近かった。
江戸の各地には岡場所と呼ばれる私娼街がたくさんあり、公然と営業していた。町奉行所は見て見ぬふりをしていたといってよい。
ところが、天明七年(1787)に松平定信が老中に就任し、断行した政治改革――寛政の改革は、杓子定規そのものだった。私娼は厳禁され、江戸市中の岡場所はすべて取り払われた。
寛政年間の見聞を記した『梅翁随筆』(著者不詳)は、岡場所の取り払いは徹底していたと記したあと――
夫より町に住て色を売る事あたはざるゆへ、女商人と成り提重へ菓子を入て、屋しきの部屋々々、辻番所に入来り情を商ふと成。此女を提重と異名して大に流行せしが……
と述べている。
本来、提重(さげじゅう)は提重箱の略である。【絵1】のように、取っ手を付けて、持ち運べるようにしたもの。
寛政の改革にともない岡場所が強制撤去され、そこで働いていた私娼は職を失ってしまった。
そこで、菓子を詰めた提重を手にさげ、さも女の行商人をよそおそった。
大名屋敷に出向くと、
「饅頭を売りに来ました」
などと告げて、門を通してもらう。
昼間であれば、各種の行商人が大名屋敷に営業に来るのは普通のことだから、門番はあっさり通行を認める。
女は屋敷内の長屋に行き、そこに住む藩士らに声をかける。
「饅頭はいかがですか」
実態は、饅頭も売るが、体も売った。
藩士は心得ているので、
「おう、買うぞ。はいってくれ」
と、女を呼び込む。
こうした女は「提重」と呼ばれ、大いに流行したようだ。
現代の性風俗産業でいえば、ハコモノが禁止されたので、業態をデリヘル(デリバリーヘルス)に変えたことになろうか。
セックスワーカーへの需要は変わらないため、たとえ禁止されても、業態を変えて生き延びたといえよう。
藩主の参勤交代に従って江戸に出てきた諸藩の藩士を、勤番武士と言った。彼らはおよそ一年間、藩邸内の長屋で暮らすが、ほとんどが単身赴任だった。
彼らは性に飢えているが、金銭的な余裕はないので、とても吉原には行けない。
勤番武士が遊ぶのは、もっぱら岡場所だった。
ところが、その岡場所がなくなり、もっとも困ったのが勤番武士だったのだ。
そうした需要を的確にとらえたのが、提重と言えよう。藩邸内の長屋に、提重のほうからやって来たのである。
大名屋敷の門限はきびしく、暮六ツ(くれむつ・日没)には門が閉じられた。だが、昼間はわりあいに自由で、前述したように行商人も出入りしていた。
真っ昼間、勤番武士は藩邸内の長屋の自分の部屋に提重を呼び、性行為を楽しんだわけである。
提重を自分の部屋に呼び込み、性行為をしていれば、当然、他の藩士に知れたであろう。
だが、誰も非難や糾弾はしなかった。お互い様だったのである。
(続く)
永井 義男 ながい よしお
1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。
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2020年12月31日 歴史人「事実上の女郎屋だった「矢場娘」「茶屋娘」というお仕事 ~隠れ蓑だった矢場営業~
江戸の性職業 #029
■矢場=近代の射的 だが狙う的は“矢場娘”
図1『間合俗物譬問答』(一片舎南竜著、寛政12年)国会図書館蔵
図1に描かれているのは矢場である。矢場は、楊弓場(ようきゅうば)ともいい、盛り場や寺社の境内などに多かった。
矢場は小さな弓で矢を射て、的に当てる遊びである。近代の射的に近い。
だが、射的が空気銃で景品を狙うのに対し、矢場で男が狙うのは矢場娘だった。
図1の画中に、
「矢取り女にのろくなると、老僧が陰間にはまると、いずれ」
と記されている。
矢取り女に夢中になる男と、陰間(かげま)に夢中になる老僧と、どっちもどっちだ、と。
矢取り女は、矢場娘のこと。客が射た矢を回収することから、矢取り女とも呼んだ。
矢場娘は四つん這いになって矢を回収に行くとき、ことさらに尻を突き出し、客をさそった。
つまり、矢場娘はセックスワーカーだった。矢場営業は隠れ蓑だったのである。
矢場が事実上の女郎屋(じょろうや)というのは、当時の男には常識だった。
客の男は弓で矢を射て遊びながら、矢場娘を物色し、気に入れば、奥の座敷で床入りした。
図2は、海岸近くにある茶屋。
『宝寿玉岩井模様』(東西庵南北著、文政4年)国会図書館蔵
柱に取り付けた掛行灯(かけあんどん)に、
「御休処 千客万来」
と記されている。
床几(しょうぎ)に腰かけて煎茶を飲み、煙草を一服して休憩するところである。茶代は十二文くらい。
ただし、美人の看板娘を置いた茶屋では、客は祝儀も含めて百文近く置いた。
茶屋の看板娘は、多くの錦絵に描かれている。
さて、ここで茶屋について整理しておこう。
茶葉を売る店を葉茶屋といった。湯茶を飲ませる店を、葉茶屋と区別して、水茶屋といった。
この水茶屋を略して、茶屋や茶店と呼んだのである。
また、茶屋の形態は多様だった。
盛り場や寺社の境内、街道沿いなどにある、葦簀(よしず)で陽射しを防ぎ、床几を数脚並べただけの簡便な茶屋を、掛け茶屋といった。
本格的な造りの建物で、料理屋並みの料理を出す茶屋を料理茶屋といった。
芝居街にあり、芝居見物に来た人が飲食を楽しむ茶屋を、芝居茶屋といった。
男女の密会の場を提供する、出合茶屋もあった。
男娼(だんしょう)である陰間を置いたところを、陰間茶屋といった。
そして、色茶屋と呼ばれる茶屋もあった。表向きは普通の水茶屋だが、声を掛ければ、奥の座敷で茶屋娘と床入りできたのである。
もちろん、「色茶屋」という看板が出ているわけではない。
こうした噂はすぐに広がるため、男たちは口コミでやってきたのである。
色茶屋の茶屋女は、セックスワーカーだったといえよう。
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2020年9月24日 歴史人「男色専門の男娼「陰間」のお仕事 第5回~陰間茶屋に売られた少年たちの悲哀~
江戸の性職業 #022
永井 義男
■副業で体を売っていた若手の歌舞伎役者
図1『女貞訓下所文庫』(月岡雪鼎、明和5年頃)国際日本文化研究センター蔵
若手の歌舞伎役者は、副業で陰間をすることが多かった。こうした役者の陰間を、舞台子(ぶたいこ)といった。
図1は画中に「舞台子の図」と記されている。
現在でも、舞台だけでは生活できないため、各種のアルバイトをしている役者は珍しくない。
江戸の役者はアルバイトで、舞台子というセックスワーカーをしていたと言ってもよかろう。
『男色大鑑』(井原西鶴著、貞享4年)に、大坂の歌舞伎界の状況として――
とかく合点する夜の客さえあれば、質は置かずに年はとるなり。
――とある。
華やかな世界であっても、貧乏な若い役者はたくさんいた。だが、そんな役者でも舞台子として金持ちの男をつかめば、質屋通いをしなくても安心して年越しができたのである。
図2『女大学宝開』(月岡雪鼎、宝暦年間)国際日本文化研究センター蔵
安永・天明期の江戸歌舞伎の名優、初代中村仲蔵の回想録『月雪花寝物語』には、仲蔵が若いころ、舞台子をしていたことが赤裸々に記されている。
同書によると、仲蔵は金持ちのひいき客に呼ばれ、男色の関係を結んだことがあった。それを知った兄弟子が嫉妬し、相弟子四人と共謀して、五人で仲蔵を輪姦した。これについて――
此時はむねんに御座候
――と、仲蔵は述懐している。
また、『当代江戸百化物』(馬場文耕著、宝暦8年)によると、越後新発田藩の七代藩主溝口直温(なおあつ)は男色が好きで、若いころの役者の二世瀬川菊之丞を寵愛し、大金をつぎ込んだという。
ところで、陰間は前髪が命といわれた。そのため、陰間は何歳になっても月代(さかやき)を剃らなかった。
図1で、舞台子が頭にのせているのは、紫縮緬(むらさきちりめん)で作った野郎帽子。紫帽子とも呼ばれた。これで、月代を隠したのである。
図2は、下になっている男は野郎帽子をしているので、舞台子とわかる。上になった客の男は、こう言っている――
「気のゆくときは、なお可愛いぞ」
「気のゆく」は、快感の絶頂のことである。
陰間の中で、舞台子が大きな位置を占めていた。
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2020年11月19日 歴史人「歌舞伎役者だけではなく相撲力士も?「男妾」というお仕事 ~女は若い男を自分好みに仕込む~
江戸の性職業 #026
永井 義男
■歌舞伎役者だけではなく、相撲力士も男妾に
図1『万福和合神』(葛飾北斎、文政4年)、国際日本文化研究センター蔵
三十歳の裕福な後家が、十七歳の奉公人に目を付け、性の手ほどきをした。その後は男妾(おとこめかけ)にして、思うがままに性を享楽している様子が図1である。
女にしてみれば、年若い男を自分好みに仕込み、性の奉仕をさせるわけで、至高の悦楽であろう。
男にしてみれば、女に性の奉仕をするのが仕事である。男妾はセックスワーカーと言ってよかろう。
春本『艶本葉男婦舞喜』(喜多川歌麿、享和2年)に、炬燵(こたつ)のそばで後家が男妾と情交している場面がある――
「さあさあ、早く早く、ぐっと入れて。ああ、もうもう、入れぬ先から気が生き続けだ。ああああ」
「男妾もつらいものだ」
悦楽の追求に貪婪(どんらん)な後家の相手をしながら、男は内心で「男妾もつらい」と愚痴っている。
雇い主である後家の要求が強すぎるようだ。
戯作『東海道中膝栗毛』(十返舎一九・じっぺんしゃいっく 著)の大坂の場面で、次のような話がある。
船場の大きな商家に、三十四、五歳の後家がいた。番頭がこぼす――
「どうも役者買うて、金使うてならんさかい、厄介のない男妾、抱えたい」
番頭は、後家が役者に入れあげて金を浪費するのが心配だった。下手をすると、家産を傾けてしまう。そこで、後家のために、もっと安上がりな男妾を抱えたい、と。
これを聞き、弥次郎兵衛と喜多八は目の色を変えて男妾を志願するのだが、もちろん、ふたりともあっさり断られてしまう。
ともあれ、女が金を出して歌舞伎役者と性を享楽するのを「役者買い」と言った。それにしても、男妾より役者買いの方がはるかに大金がかかったのがわかる。
この役者買いは、大坂に限らず、江戸でもおこなわれていた。
春本『馬鹿本草』(磯田湖龍斎・いそだこりゅうさい 安永7年)に、かなり高齢の女が役者買いをしている場面が描かれている。
若い役者が老婆に重なり、情交しながら、ねだるーー
「このじゅう、お約束の羽織をおこしておくれ」
「おおおお、呑み込みました」
役者の方は女に買われるのに慣れていた。状況を見て、羽織をねだっている。いっぽうの老婆は、快感にあえぎながら、了承している。
もちろん、当時の女は経済力がなかった。役者買いができるのは、金を自由に使える豪商の後家、大奥の奥女中(おくじょちゅう)くらいだったろう。
一部の若手の歌舞伎役者は、セックスワーカーだったといってよい。
そのほか、「相撲買い」もおこなわれていた。女が小遣いをあたえ、若い相撲取りを男妾にする。一部の力士もセックスワーカーだったといえよう。
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