⚔45)─5─スペイン貴族ビベロの国王へ報告。「守る住民は多数で城郭が堅固、攻略は不可能」。〜No.190 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 2024年5月27日17:00 YAHOO!JAPANニュース 夕刊フジ「「城郭が堅固、攻略は不可能」スペイン貴族の国王へ報告 徳川家康の断固たる姿勢に…日本人がフィリピンに来ることを警戒
 徳川家康公之像=静岡市
 【内藤克彦 本当に強かった日本】
 ロドリゴ・デ・ビベロは、王妃小姓などをしていたスペイン貴族で、スペイン領メキシコに渡り、軍司令官・地方長官などに就いていた。フィリピン総督交代時に後任赴任が間に合わず、急遽(きゅうきょ)、代理総督として1608年3月にマニラに派遣された。
 09年4月、正規総督のマニラ着任と入れ替わり、メキシコ帰還する途中で台風に遭い、同年9月に日本に漂着した。10年8月、徳川家康が建造した日本製のガレオン船(帆船の一種)の提供を受け、メキシコに帰還する。
 ビベロは死亡時に伯爵で、日本の地を踏んだスペイン人としては高い身分であった。1596年のサンフェリペ号事件のこともよく承知していた。
 土佐に漂着したスペイン船「サンフェリペ号」の取り調べのため、豊臣秀吉から派遣された増田長盛は航海長を事情聴取した結果、「スペインは宣教師を送り込み、侵略の手先として広大な版図を手にした」という事実認識を秀吉に報告した。秀吉は、スペインに「侵略の下心あり」として、マニラ総督の派遣したフランシスコ会宣教師や、信徒26人を処刑した。
 1608年、有馬晴信が、徳川家康の占城(せんじょう=現在のベトナム中部にあった海上貿易の要地)宛の国書を携えた使者を同乗させ派遣した朱印船マカオ寄港中、取引をめぐって騒乱事件を起こした。これをマカオの長官が鎮圧し日本側に死傷者が出た。 
 この長官が総司令官として翌年、長崎に来航した折、家康は総司令官を召喚し弁明を命じた。総司令官は身の危険を感じ、出頭を拒否、出航を試みるが、家康の命により有馬は乗船を攻撃し、総司令官は火薬庫に火を放ち自沈した。
 これは、ビベロ来日中の事件である。ビベロは10年5月、スペイン国王に次のような書簡を送っている。
 「日本の諸都市は皆人口が多い。気候はスペインによく似て、小麦、大麦を豊かに生産する」「多くの金銀も産出する」「広大にして人口多く、清潔にして秩序正しく、欧州において比較できる国はない。家屋市街および城郭は美しい」
 「住民がメキシコ人のように野蛮なら恐れるに足りないが、彼らは長銃を持ち、最も熟練した兵士のように巧妙にこれを用いる」「スペイン人と同様に勇敢であるのみならず、議論および理解の能力においても劣らない」「住民は多数で城郭が堅固であるため、攻略は不可能である」
 「サンフェリペ号や最近のマカオ船事件は開戦の正当な理由となるが、武力侵入が真に困難であるとすれば、副音宣伝の道により彼らが喜んで陛下に仕えるようにする他に道はない」
 「少数の日本人により、マニラ市が陥落の危機にひんしたことが3度ある」「(日本)皇帝の怒りなどでマニラ攻撃をしようとすれば、マニラへの航海は好天なら15日に過ぎず、5万人、10万人を派兵することが可能。脆弱(ぜいじゃく)な500人のスペイン人では抵抗は不可能」
 スペイン貴族であるビベロは、家康の断固たる姿勢に対し、むしろ日本人がフィリピンに多数来ることを警戒していたようだ。
■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長、京都大学大学院経済学研究科特任教授などを経て、現在は東北大学特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。
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 ウィキペディア
 ロドリゴ・デ・ビベロ スペイン帝国の政治家
 生年月日 1564年
 出生地 スペイン帝国 (現メキシコの旗 メキシコ プエブラ州)
 没年月日 1636年
 第13代 スペイン領フィリピン総督
 在任期間 1608年6月15日 - 1609年4月
 国王 フェリペ3世
 ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(Rodrigo de Vivero y Aberruza、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ貴族、植民地政治家。江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、日本ではドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)の呼び名で知られる。
 村上直次郎訳『ドン・ロドリゴ日本見聞録』をはじめ、『国史大辞典』や『世界大百科事典』など、姓をビベロ・イ・ベラスコとする文献が多いが、これは父親のロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ (Rodrigo de Vivero y Velasco) との混同によるもので、誤りである。
 生涯
 1564年に父ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコの任地であるヌエバエスパーニャ(現在のメキシコ)で生まれ、エスパーニャ本国で成長し、フェリペ2世の王妃アナ・デ・アウストリアの小姓などを勤める。その後、ヌエバエスパーニャ副王だった伯父のルイス・デ・ベラスコに重用され、1595年サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長兼市長、1597年タスコ市長、1599年ヌエバビスカヤ地方長官兼軍司令官を経て、前総督在任中の死去にともない1608年に臨時総督としてフィリピンに派遣される。
 フィリピン臨時総督の後、パナマ地方長官兼軍司令官などを勤め、1627年にフェリペ3世によりバリエ・デ・オリザバ伯爵に叙爵され、1636年に没した。
 日本との関係
 フィリピン臨時総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し、貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し、家康に友好的な書簡を送る。
 1609年(慶長14年)、次期総督と交代のため召還命令を受け、ガレオン船3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ」は難破、9月30日に上総国大多喜藩領の岩和田村(現千葉県夷隅郡御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される[注釈 2][注釈 3]。大多喜城本多忠朝も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。なお僚艦の「サンタ・アナ」も、9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し、もう一隻の「サン・アントニオ」のみヌエバエスパーニャへの航海を続けた。
 地元民に救助されたロドリゴ一行は、本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナベントゥーラ」と命名、1610年(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。
 サン・ブエナ・ベントゥーラには、ヌエバエスパーニャとの交流拡大を目指す家康の使節アロンソ・ムニョス神父や京の商人・田中勝介らも同乗した。その翌年の1611年(慶長16年)、田中勝介らとともにヌエバエスパーニャからセバスティアン・ビスカイノが答礼使として来日し、1613年(慶長18年)にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団とともにサン・ファン・バウティスタ号で帰国した。
 現在、ロドリゴ一行が本多忠朝の居城大多喜城に立ち寄る際に通ったコースを走るロドリゴ駅伝が、漂着した御宿町いすみ市大多喜町で開催されている。
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 エセ保守とリベラル左派の影響力の強いメディアと教育は、歴史的事実を改竄し、捏造し、歪曲し、隠蔽して、起きていない話をでっち上げ、ウソで塗り固めた真実をことさら誇張して子供達に教え、洗脳している。
 歴史的事実として、日本人は被害者であって加害者ではない。
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 白人キリスト教徒商人は、宗教的人種差別主義者で、非白人非キリスト教徒の日本人を野蛮人・獣として偏見を持って差別し、日本人に対して生殺与奪の権利を行使していた。
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 中世キリスト教会・イエズス会伝道所群は、神聖な使命としてに日本に対して宗教侵略をおこなっていた。
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 キリスト教原理主義者・キリスト教過激派は、敬虔な日本人キリシタン数十万人を糾合して神聖騎士団を組織し、異教徒の王悪魔の天皇に対して聖戦を起こし、九州を異教徒の血で浄化しキリスト教化して教皇領にしようとした。
 つまり、天皇支配からの分離独立である。
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 キリスト教朝鮮人テロリストは、日本人の共産主義者無政府主義者テロリスト同様に昭和天皇と皇族を惨殺すべく付け狙っていた。
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 当時の日本人(人口1,200万人)は、現代の日本人とは違い、天皇と国と民族を裏切り、母国、家を家族、宗教を外国勢力に売り渡す者はいなかった。
 日本が外国の植民地にされず、日本人が外国人の奴隷にならなかったのは、日本・日本人が持っていた国力(軍事力・経済力・文化力・宗教力)ではなかった。
 当時の日本人は、「守るモノ」の為に、命を犠牲にしても武器を持って戦争をしていた。 
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 人口1,000万人のインカ帝国は、100人弱の兵士を率いた探検家ピサロに征服されて滅亡し、インディオは中世キリスト教会・イエズス会伝道所群によって虐殺され少数民族に追いやられた。
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 5月27日 MicrosoftStartニュース zakzak「内藤克彦 本当に強かった日本 イタリア・ルネサンスのエリートが見た戦国日本 「人々は礼儀正しく…領国内の治安は欧州よりも良い」
 ヴァリニャーノ著『日本巡察記』(東洋文庫)の表紙
 © zakzak 提供
 イエズス会宣教師が日本に現れた戦国時代は、欧州ではイタリア・ルネサンス円熟期である。宣教師には、イタリア人もおり、スペイン人やポルトガル人とは異なる目で日本を見ている。
 巡察師として3回来日し、合計10年近く日本に滞在したアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、ナポリ貴族出身でパドバ大学などで法学・神学・物理を学んだ、イタリア・ルネサンスのエリートである。
 ヴァリニャーノの記した『日本巡察記』には、戦国日本の詳細な記述がある。
 「人々は色白く、礼儀正しい。庶民や労働者も驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷使用人のようである。この点では、東洋の他の諸民族のみならず、欧州人よりも優れている」
 「国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供たちはわれらの学問や規律をすべて良く学び、欧州の子供より容易かつ短期間に、われらの言葉で読み書きすることを覚える」
 「下層の人々にも、欧州人に見られる粗暴や無能力がなく、優れた理解力を有し、仕事に熟達している」「服装、食事、その他の仕事のすべてが極めて清潔で、美しく調和が保たれている。すべての日本人が同一の学校で教育を受けたかのようである」
 欧州先端、イタリア文化人の日本人評価は非常に高い。
 法学を学んだヴァリニャーノは、戦国日本の制度分析も行っている。
 「諸国王は、経済的には一般に極めて貧しい。理由は、土地をすべて家臣に分配して、自分のため残された土地から取れる、わずかの米の他には何もないからである」
 「国王は人々に対して強大な権力を有し、大軍隊を擁しているが、ほとんど何も消費しない。なぜなら、家臣がその義務に応じ、自らの負担で一切の奉仕を行うからである」
 「欧州の国王と同様に権力は強大であるが、財産や俸禄の点では、はなはだ貧しく、領主には見えない」
 「国王の間では戦争が行われるが、統治権の下にある人々は平穏に暮らしおり、欧州よりもはるかに生活は安寧である」
 これは戦国大名と欧州王族の大きな違いである。欧州では、富は王権に集中するが、日本の大名は「地頭」連合代表の性格がある。意外なのは、領国内では欧州より治安が良いとの指摘である。領国争いはするが、市民社会の法的秩序は保たれていたのである。
 ちなみに、イタリア庶民出身の宣教師、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは「私たちは互いに賢明に見えるが、彼らと比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は真実のところ、毎日、日本人から教えられることを白状する。全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」(1577年、イエズス会総長あて書簡)と日本を賛美している。
 この時代、欧州の礼儀作法がようやく、イタリア貴族からフランス貴族に伝わり始めた時代である。欧州で食事にフォークを使う習慣が普及するのは17世紀に入ってからである。宣教師の手づかみの食事などは、日本人からは礼儀作法も知らない蛮人とみられたのである(山下英次氏の論文『ヨーロッパ人の見た戦国時代の日本』より)。
 日本が武力征服の対象とならなかったのは、日本の武力だけではなく、このような欧州文化に比肩できる文化水準の高さにもあったことに留意する必要があろう。 (歴史探求家) =おわり
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 2023年4月5日 YAHOO!JAPANニュース ZAKZAK「本当に強かった日本
 スペインに日本征服を断念させた武力と知性(上)大航海時代になぜ植民地にならなかった? 宣教師が伝えた「日本人に勝てる民族はいない」
 教科書の日本史を見ても、なかなか分からないことがある。例えば、「日本が大航海時代に植民地にならなかったのはなぜか」という疑問もその一つ。この謎は、世界との関係の中に答えがありそうである。当時の欧州人が戦国日本をどのように見ていたか探ってみよう。
 イエズス会フランシスコ・ザビエルの報告には、以下のようにある。
 「あらゆる民族の人々と話してきたが、日本人こそ一番良い発見であった。キリスト教以外の宗教を信仰する民族の中で、日本人に勝てる他の民族はいない」「人々の大半が読み書きの能力を備えている」「神の法を理解するのにとても便利」
 同じく、イエズス会のコスメ・デ・トーレスは「彼らはとても賢く、スペイン人のように理想的に自らをおさめることができる」「彼らは、何でも知りたがるのである。世界中に彼らのような民族はいない」と評価している。
 この時、イタリアはルネサンス円熟期である。
 イタリア人宣教師、ニェッキ・ソルディ・オルガンティーノは「われわれヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、彼ら日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は真実、毎日、日本人から教えられることを認めている。私には全世界中でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思われる」と語っている。
 日本にあまり好意的でなかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノでさえ、「道徳と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れたる能力ある人々のあることを知らない」と記録している。
 フランシスコ・ザビエル
 欧州の上流階級出身者からなる宣教師の知的水準は高い。その彼らの見た戦国日本は、国としての水準が高かったのである。
 宣教師は、日本の武力をどう見たのであろうか。
 ヴァリニャーノのフィリピン総督宛ての書簡に、「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ」とある。
 日本を、軍事力で征服することは不可能であるが、キリシタン大名を味方にすれば、キリシタン大名の兵力数千人の動員は容易で、スペイン本国派遣軍と合わせて1万人程度で、明の討伐可能と提案している。
 彼らは、明が基本的に文人の国で戦争を厭(いと)うところが強く、国の中枢の人間が、贅沢を旨として戦いを好まないので、1万の軍で制圧可能と考えていたのである。
 1596年10月、マニラ港からメキシコを目指していたスペインの豪華貨客船サン・フェリーペ号が台風のため土佐の浦戸湾において座礁沈没した。
 日本にあまり好意的でなかったアレッサンドロ・ヴァリニャーノでさえ、「道徳と学問に必要な能力について語るならば、私は日本人以上に優れたる能力ある人々のあることを知らない」と記録している。
 フランシスコ・ザビエル
 欧州の上流階級出身者からなる宣教師の知的水準は高い。その彼らの見た戦国日本は、国としての水準が高かったのである。
 宣教師は、日本の武力をどう見たのであろうか。
 ヴァリニャーノのフィリピン総督宛ての書簡に、「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難だ」とある。
 日本を、軍事力で征服することは不可能であるが、キリシタン大名を味方にすれば、キリシタン大名の兵力数千人の動員は容易で、スペイン本国派遣軍と合わせて1万人程度で、明の討伐可能と提案している。
 彼らは、明が基本的に文人の国で戦争を厭(いと)うところが強く、国の中枢の人間が、贅沢を旨として戦いを好まないので、1万の軍で制圧可能と考えていたのである。
 1596年10月、マニラ港からメキシコを目指していたスペインの豪華貨客船サン・フェリーペ号が台風のため土佐の浦戸湾において座礁沈没した。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民{海女、海人})、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持ち命を犠牲にして天皇を守ろうとした「帰化人」は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否し自己益で天皇を殺そうとする「渡来人」は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は敗戦利得者となって、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳し、民族主義天皇主義を日本から消滅させるべくメディア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 少数の超難関高学歴出身のAI強者・裕福資産家の勝ち組 vs. 多数の中程度高学歴出身のAI弱者・貧困労働者の負け組。
 日本を動かしているのは学閥である。
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 保守には、正統保守・エセ保守である。
 現代日本では、急速に新保守の守旧派が増えた。
 正統保守は古保守として守旧派ではない、もし正統保守が守旧派であったら日本民族に見捨てられとうの昔に消滅していた。
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 現代日本人は外圧に弱いが、昔の日本民族は外圧には強かった。
 それを証明するのが、聖徳太子である。
 現代日本歴史教育は、摂政・聖徳太子の存在を否定しようとしている。
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 戦争とは科学的な統計と合理的な論理による結論で「負ける」と分かっていても戦う時は戦い、そして戦う以上は「万に一つの勝利」を信じて命を賭けて戦わなければならない。
 それが、「バカ」な日本民族の生き方であった。
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