・ ・ ・
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
江戸時代の犯罪者には人権はなかく、江戸時代の牢獄には人道はなかった。
江戸時代は、人命が軽視されていた。
江戸時代の日本は、ブラック社会であった。
・ ・ ・
2023年3月29日 YAHOO!JAPANニュース JBpress「獄死者は死罪の3倍超!悪党も恐れた江戸の牢獄では何が起きていたのか?
伝馬町牢屋敷の石垣(写真:アフロ)
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵宣以(のぶため)は18世紀後半に放火犯や盗賊を取り締まる火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため:火盗改)の長を務めた実在の人物。この役職は2~3年で交替するのが通例だったが、平蔵は8年間も務めた。わずか50人の部隊だったが、江戸の市中を取り締まり、高い検挙率を誇ったという。平蔵はどのような捜査をしたのだろうか。
【画像】鬼平と梅安が見た江戸の闇社会
(*)本稿は『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』(宝島社新書)の一部を抜粋・再編集したものです。
◎1回目「『鬼平犯科帳』から紐解く、高い検挙率を誇った江戸時代の犯罪捜査の秘密」から読む
『鬼平犯科帳』の「鈍牛(のろうし)」では、長谷川平蔵が放火犯の身代わりとなって捕らえられた亀吉を尋問するために、伝馬町牢屋敷に赴くエピソードがある。
多くの時代劇に登場する日本橋小伝馬町の牢屋敷は幕府最大の牢獄で、敷地面積は約2618坪(約8637平方メートル)あり、サッカー場をひと回り大きくした広さだ。周囲は高さ約8尺(約2.5メートル)の練塀(ねりべい)が囲み、その外側には堀がめぐらされていた。
徳川家康が江戸に入部した当初に創設されてから明治時代初期に取り壊されるまで、脱牢した者はほとんどいなかったといわれる。
江戸時代には懲役刑や禁固刑はなかったため、現在のような刑務所にあたる施設は存在しなかった。そのため江戸時代の牢獄は、詮議中の容疑者を収容する留置所や、刑が確定した囚人を勾留する拘置所にあたる。
ひと口に牢獄といっても、身分によって分けられていた。亀吉が収容されていたのが大牢で、これは江戸時代の戸籍にあたる「宗門人別改帳」に記載されている一般庶民が入る牢獄である。広さは約30畳である。
大牢は東西にあり、囚人同士の無用ないさかいを起こさせないために、宝暦5年(1755)には、牢馴れした常習犯は西大牢へ、初犯などの処遇の容易な罪人は東大牢への振り分けがなされた。
同じ庶民でも「宗門人別改帳」から外れた無宿(※)はやや狭い24畳の二間牢に入れられた。このため二間牢は「無宿牢」とも呼ばれる。
※「宗門人別改帳」から名前を外された者のこと。必ずしもホームレス状態にあるわけではない
■ 囚人による自治制が取られていた江戸の牢獄
御目見え以下の御家人、大名・旗本の家臣などが入る西奥揚屋(あげや)は18畳で、雑居房であることに変わりはないが、便所が設けられるなど、やや待遇はよくなる。
さらに500石以下御目見え以上の旗本、僧侶・社人などの上位身分の者は特別牢である揚座敷に入ることになる。揚座敷は個室で、軽犯罪者が身の回りの世話を行った。
これ以上の身分の者は基本的に牢獄に勾留されることはなく、藩の預かりとなる。
大番屋では男女問わずに収容されたようだが、伝馬町牢屋敷では西側の揚屋が女牢として使われ、女性は身分を問わず収容された。安永4年(1775)には江戸に流入して罪を犯した百姓を収容するための百姓牢が新設された。また遠島となる者は、東側の揚屋が使用された。
伝馬町牢屋敷では、これらの獄舎のほかに取り調べを行う穿鑿(せんさく)所、拷問蔵、さらに死刑囚人を斬首(打ち首)にする死罪場、死体の試し斬りを行う様場があった。
牢獄を管理するのは「囚獄(しゅうごく)」と呼ばれた牢屋奉行で、石出家が世襲し代々「帯刀(たてわき)」を名乗った。この石出帯刀配下の同心約50人と下男が囚人を監視していた。
逮捕された容疑者の取り調べは、主に自身番、大番屋、町奉行所で行われ、町奉行が入牢証文を発行し、牢屋敷送りを決定する。入牢は夕方に行われるのが慣例で、罪人は着物をすべて脱いで持ち物を改められた。
現在では考えられないことだが、牢内は囚人による自治制が取られていた。ボスである牢名主をはじめとして、収容期間の長い囚人の中から牢役人が牢内を取り仕切った。大牢は30畳あったが、畳は牢名主らが独占し、ヒラの囚人は板場で暮らした。
■ 過密な牢内で起きた人減らしの「作造り」
新入りはまずシャクリと呼ばれる気合入れが行われ、棒や板で背中を2~3回叩かれた。牢役人に逆らわないように「ヤキを入れる」わけだ。
その次に、「(命の)ツル(蔓)」と呼ばれる金を牢名主に渡すのが鉄則だった。金銭は着物に縫い込んだり、飲み込んだりして牢内に持ち込まれた。
新入りであってもツルが多い者、あるいは縁者による金品の差し入れ(届銭)がある者は、「穴の隠居」と呼ばれる身分となり、特別待遇を受けることができた。このツルは牢役人の階級によって山分けされた。
もしツルを渡さない、あるいは少額だった場合は容赦なく折檻(せっかん)され、時として殺されることもあった。囚人の入浴は夏場で月6回、冬場で月3回のみしか許されず、すし詰め状態の牢内の衛生環境は悪かった。
東西にあった大牢の収容者数は180人であることから、わずか30畳のスペースに最大で90人がひしめき合っていたことになる。
そのため牢内が過密になると、病人、規律を乱す者、いびきがうるさい者、ツルが少ない者などが夜のうちに殺された。人を減らして牢内のスペースを確保する暗殺は「作(さく)造り」と呼ばれた。
■ 死刑よりも恐ろしい牢内のリンチ死
牢内でのリンチや殺害方法は凄惨を極めた。便所を汚した者は、便所の覆い蓋で叩く「キメ板責め」や、数日間、汁や水などのあらゆる水分を与えず、飯のみや塩をなめさせるという「汁留め」を受けた。
牢役人に反抗的な者には「陰嚢(いんのう)蹴り」が行われた。四つん這いにして顔に濡れた雑巾を押し付けて、後ろから急所を蹴り上げるもので、この制裁を受けた者は声も出せず、激痛に悶絶した。
悪党から目の敵にされた岡っ引(目明かし)などが入牢した場合はさらに凄まじく、夜になるとわざわざ「座づくり(リンチ用のスペース)」を設けて押さえ付け、大便を口に押し込んで喰わせる「ご馳走取らす」といったリンチが行われた。
こうしたリンチによって囚人が死亡すると、2~3日経ってから牢名主から当番同心に届出が出された。ほとんどは「急病で死亡した」と伝えられ、町からやって来た牢医師もひと目見て「急病死」と死亡診断を下すのが常だった。
その際、遺体を運ぶ役割をした穴の隠居(多額の金銭の持参囚)が袖の下として二分金(0.5両)を牢医師に渡すのが慣例となっていた。遺体の衣服は「病死ヶ輪(びょうしがわ)」と呼ばれ、脱がされて保管し、新入りが入ってくるとその衣服と交換された。
伝馬町牢屋敷では、年間約300人が死罪となったが、獄死者は年間1000人を超えるという異常な状態だった。この牢屋を出られるのは、刑が執行される時であり、悪党も恐れるまさに「地獄の一丁目」だった。
三田 宏
・ ・ ・