🌈81)─1─日本民族日本人の温泉・入浴文化は数万年前の縄文人から受け継いだ。~No.140No.141 

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 日本民族アイヌ民族琉球民族は、南方系森林民の縄文人(日本土人)の子孫であって、黄河漢族系中国人や半島系朝鮮人とは遺伝子的に繋がりが薄い。
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 2023年3月26日 MicrosoftStartニュース 婦人公論.jp「日本人は縄文時代から温泉に入っていた!諏訪湖畔で湯垢だらけの遺跡発見、古代人と温泉との関わりが想像される
 佐々木政一
 消化器外科医・温泉療法専門医であり、海外も含め200カ所以上の温泉を巡ってきた著者が勧める、温泉の世界。安心して、どっぷりと浸かってみてください。
 ※本記事は『秘湯マニアの温泉療法専門医が教える 心と体に効く温泉』
 (佐々木政一、中央新書ラクレ)の解説を再構成しています。
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 【写真】湯垢にまみれた土器が発見された
 前回はこちら
 縄文人も、温泉が大好きだった!
 日本人はいつごろから温泉に入っていたのだろうか?
 文献の上では奈良時代からで、有馬の温湯(ゆ)(兵庫県有馬温泉)、伊予の温湯(ゆ)(愛媛県道後温泉)、 牟婁(むろ)の温湯(ゆ) 紀の温湯(ゆ)とも。和歌山県・白浜温泉)などが登場する。
 昭和39年、長野県考古学会会長であった藤森栄一が、故郷の遺跡発掘調査から、古代の人々と温泉との関わりを示す興味ある事実を発見した。
 諏訪湖畔で湯垢だらけの遺跡が見つかる!
 「現上諏訪駅前のデパートの建設工事のとき、地下5・5メートルの真黒な有機土層で、大石がごろごろと、ほぼ環状にならんだところがあった。硫化物の臭いが鼻をうった。硫黄質の湯が湧いていたことは確実である。そしてその大石の破目やその付近一帯から、爪形文の土器片や、刃だけ鋭く砥いだ局部磨製石斧などがたくさん出てきた。いずれも湯(ゆ)垢らしいものがこびりついている。これは、約六千年前の縄文前期はじめ、 子母口(しぼぐち)式(神奈川県の標式遺跡)という文化の人々である。私はいまのところ、はっきりわかる日本最古の入浴資料だと信じている」
 と『藤森栄一全集第4巻』の中で述べている。続いて第8巻では、
 「それに、もっと驚いたことには、6メートルのスクモ(腐食土)層下に大きな岩石が累々とあって、そのまわりは明瞭にかつて湯が湧いていたことを示す湯アカがいっぱい。遺物は土圧で、その岩石の間にはさみこまれてもっとも多く出てくるのである。調査員は、そのどろどろの、いまも硫黄臭と鉄のくさったような湯の匂いのただよう岩のそばで、思わず『湯に入っていたんだ』とつぶやいたのである。山の内温泉の地獄谷では野猿だって湯に入っている。何の不思議があろう」
 と書き綴っている。
 さらに、藤森は旧石器時代の人々と温泉との関わりについても触れ、
 「類推できるところでは、もっと古い例もある。駅前の片羽町遺跡の六千年よりもさらに古く、旧石器時代末の曽根人という人々は、街はずれの大和の湖岸から二メートルほどの深さの、いまの湖底でくらしていた。その村の外まわりには、いくつかの湖底湯釜、釜穴があり、近くには七ッ釜、三ッ釜とよぶ諏訪温泉最大の湧出孔があった」と述べている。
 諏訪湖東岸、現在の上諏訪温泉の泉質は硫黄泉と単純温泉であり、発掘調査結果と一致する。
 縄文人は、温泉巡りのための道を作っていた!
 諏訪湖畔の温泉跡とともに注目されているのが、古代の人々が往来していた道が温泉を繋ぐものとして作られてきたらしいということである。
 萩原進は『万座温泉風土記』の中で、
 「この付近一帯は実に豊富な温泉をもち、古来より有名であるが、古代人は進んでこの温泉を利用したであろうと思う。したがって温泉の利用ということと道の問題も古くからあったものと考えられる」と指摘し、草津温泉群馬県草津町)から万座温泉群馬県嬬恋(つまごい)村に進み、峠を越えて上州(群馬県)と信州(長野県)を結んでいた古代の道が《温泉を結ぶ道》であったと推論している。
 その手がかりを与えてくれたのが、この一帯に点在する縄文時代弥生時代の遺跡である。草津温泉からは縄文式土器や石鏃(せきぞく=矢じり)などが発見され、すぐ近傍の六合(くに)村諏訪原からも縄文式土器が出土している。
 ここが縄文人の集落であったことが明らかになり、草津温泉から信州へと繋がるルートのうち、最も古い道は草津温泉志賀高原(長野県山ノ内町)、草津温泉渋峠渋温泉(長野県山ノ内町)、草津温泉万座温泉~万座峠~山田温泉(長野県高山村)~牧村(新潟県上越市)などが考えられている。中でも萩原は万座峠を越える道が最古のものではないかと推察している。それは、草津温泉から万座温泉へ行く途中の吾妻(あがつま)硫黄鉱山跡下方の谷や干俣(ほしまた)牧場近傍(いずれも群馬県嬬恋村)から、縄文時代の土器片や石斧、石鏃などが出土しているからである。
 「古代の上州・信州の交通路は、山腹を連ねる等高線ではなかったかと思われる」という結論を導き出している。
 『秘湯マニアの温泉療法専門医が教える-心と体に効く温泉』(著:佐々木政一/中央公論新社
 © 婦人公論.jp
 温泉源周辺には遺跡がいっぱい!
 八岩まどかもその著書『温泉と日本人 増補版』の中で、「草津温泉でも、楽泉園に引き湯するためのパイプ敷設工事にあたって行なわれた発掘調査で、先史時代の土器が発見されたという。温泉源の付近に、古代の人々が住んでいたのである」
 と述べ、また、
 「日本全国に散在する遺跡には、現在の温泉近くに存在するものも少なくない」と指摘し、旧石器時代の遺跡では大台野遺跡(岩手県西和賀町)が、縄文時代では大湯遺跡(秋田県鹿角(かづの)市)、上之段遺跡(長野県茅野〈ちの〉市)、川頭〈こうがしら〉遺跡(長崎県諫早〈いさはや〉市)などがあり、弥生時代では九重〈ここのえ〉遺跡(島根県安来〈やすぎ〉市)、釜ノ口遺跡(愛媛県松山市)を挙げ、「何らかのかたちで人々が温泉と関わって生きてきたことが想像される」と結論づけている。
 草津温泉・西(さい)の河原公園には、自噴のむき出しの温泉がたくさんある。縄文時代に思いを馳せながら散策できる
 © 婦人公論.jp
 ※旧石器時代:~紀元前1万4000年頃、縄文時代:紀元前1万4000年頃~紀元前4世紀、弥生時代:紀元前4世紀~紀元3世紀中頃。
 ※本稿は、『秘湯マニアの温泉療法専門医が教える 心と体に効く温泉』(中央新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
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 縄文天然温泉 志楽の湯 あなたの志は何ですか
 和の原点、縄文の心を形に!
 2018年9月4日 ニューズレター
 志楽ニューズレター第六号
 和の原点、縄文の心を形に!
 ―ダイナミックな力強さと素朴な空間―
 ラジオ日本の番組「ブンブン探検レポート」で“志楽の湯”が紹介されました。
 放送日: 2006年8月2日 (水)10:30 a.m. 番組の取材より
 語り手はグループダイナミックス研究所所長 柳平 彬(さかん)です。
 “志楽の湯”の名前の由来を教えてください
 日本人は、かつては貧しかったけれど、やる気があってものづくり/人づくりでは、質の良い“志事”をするという目的意識があったように思います。ところが最近、その気風が失われてきてしまっているのではないかと思います。要するに、志を持って仕事をする人が、少なくなってきたのではないでしょうか。そこで“志の力”を何とか蘇らせ温泉でげん氣になって、更に、志を楽しむ余裕を得ていただきたいと言う願いを籠めて“志楽”と名付けました。
 なぜ縄文なのですか
 かつてはここ川崎・矢向も縄文の森でした。そこで原点に戻って足元を深く掘り始めたのです。2002年4月に1300メートル近く掘った所で、40℃くらいの天然温泉が出たのです。それは「ナトリウム塩化物強塩泉」という温泉でした。どういう温泉施設を造ろうか迷い、1年間かけて日本中の温泉を回りました。日帰りの温泉や健康ランド、ヘルススパなどもありましたが、今1つ納得できませんでした。和風のような感じの施設もありましたが、オリジナリティーが感じられなかったのです。自分がやろうとしているのは、そういうものじゃないと思いました。思い切って山の秘湯廻りをした時に、ここに、日本人の原点がありそうだと感じました。「Back to the Basics」です。日本人は縄文時代から温泉に入っていました。八ヶ岳山麓で縄文中期の文化(5000年程前)が最も栄えた頃もそうでした。縄文中期に日本人は縄文土器造りを通じて独創力を発揮しています。今、日本人に必要なことは、新しいことをただ追いかけることでなく、原点をしっかり把むことと独創力を発揮することだと思います。岡本太郎が日本においてただ一つすぐれた芸術性と独創力を発揮したものは、縄文中期に作られた縄文土器しかないと言っています。そこに日本民族の生命力を感じるのです。縄文の心が「和の原点」なのです。そこで日本人が、今失っているアイデンティティーの原点を取り戻すために縄文時代の心を形にしたかったのです。
 都会の中に、これだけの天然温泉をつくるには、どんなご苦労がありましたか
 熊本・黒川温泉の後藤哲也さんは露天風呂と庭造りで日本一の名人です。その哲也さんに「和の原点である縄文の心」を形にしてもらうため、縄文中期の文化の栄えた信州・八ヶ岳山麓の230トンの安山石と九州飛竜の山頂で育ったコナラを中心とした自然木を使って露天風呂を完成しました。タイルを一個も使わず自然の木と石のみを使用して、自然を限られた空間で蘇らせることを試みたことが大変でした。また、地下から湧いてくるエネルギーを伝えられるよう、二階建てにせず、土べたに這うような感じで平屋にしたのは土地の投資効率から言っても苦しい所です。
 泉質について説明してください
 温泉の分類には浸透圧による分類があります。温泉には溶け込んでいる成分によって、体への浸透圧が違ってきます。通常、日本の温泉は低張性で、火山性の温泉は意外と有効成分が低いところが多いのです。志楽の湯のような非火山性温泉は、塩分を多く含むナトリウム泉です。高張性と言って、ミネラルなどの成分が入り込みやすくなり、体の老廃物や有害成分などの毒素を含んだ水分が体外へ出るのです。免疫力が高まり、美肌効果も期待できます。逆に低張性の温泉は水分が入り込んでくるので、あまり長い間、温泉に入っているとふやけてしまいます。高張性の温泉は汚れた水分が外は出るので、夜中にトイレに行かずぐっすり眠れます。
 縄文パワーと志の力 
 やる気の健康学』というタイトルで、ラジオ日本(AM 1422kHz)が2006年5月7日より7月30日まで、毎週日曜日5:25am~5:30amに毎回約3分間の講話を13回続けました。各放送のテーマは次のとおりです。第1回:五月病、第2回:一本のひも、第3回:ぬれた毛布、第4回:66歳からの挑戦、第5回:縄文パワー、第6回:ヒトデを海に返す少年、第7回:失敗しようとする意思、第8回:「イエス、アイキャン」の精神、第9回:ほめることと勇気づけ、第10回:対他競争と対自競争、11回:心の目隠し第12回:笑力、第13回:志の力、その中で、第5回目の縄文パワーと第13回目志の力の内容をここに紹介します。なぜなら、この2つのテーマは縄文天然温泉.・志楽の湯を始めたコンセプトに直接関係があるからです。
 縄文パワー
 今年は美術界の異端児で、84才で亡くなった岡本太郎の没後十年になります。
 岡本太郎の評価は亡くなられてからむしろ高まっています。彼を知らない若い世代も含め、社会の不安を吹き飛ばすエネルギーと内発的やる気を彼の作品で感じる人が増えてきているのです。そのエネルギーの原点は実は縄文時代にあるのです。きっかけは昭和27年(1952)8月偶然、上野の東京国立博物館で展示されている縄文土器を通りがかりに見たときでした。そこで、その力強さに感動して動けなくなってしまったというのです。その岡本太郎さんと平成元年(1989)の12月24日、雪の降る中、八ヶ岳山麓にある尖石縄文考古館に縄文中期の土器と日本最古の国宝になったばかりの「縄文ビーナス」という土偶を見に行ったことがあります。八ヶ岳山麓の蓼科は、今から5500年前、日本の縄文文化の最も栄えた頃の中心地で、今の東京だったと言えるのです。当時の日本の人口は約20万人と推定され、この八ヶ岳山麓に15%以上の人口が集中していたとも言われています。また、露天風呂に入る習慣も、その頃からあったのです。縄文人は露天風呂に入ることによって、毎日を生き抜くための心身のエネルギーを吸収していたのです。岡本太郎は、日本においてたった一つの最初のすぐれた芸術性とオリジナリティは、縄文中期の土器しかないという結論に達したのです。その土器の中に日本民族の生命力の原点を発見したのです。まさしく、「和の原点は、縄文の心にあり」なのです。(縄文土器の中にダイナミズム、すなわち自分たちの生活の中から生れた「今を生きる」ことへの力強さと人生を達観する純粋な素朴さがあるのです。)今、瞬間瞬間に失いつつある人間の根源的な情熱を呼びさます力があるというのです。志楽の湯のロビーには、幸運にも岡本太郎が作った「縄文人」の銅像があるので、是非見に来られ、縄文パワーを吸収してください。
 志の力
 世界が21世紀に入った今、未解決の問題が多く残されています。そうした社会で、一人ひとりが直面した難問を解決していくための大切な心構えのヒントが、この志という言葉の中にあるからです。それでは、志という言葉がどのようにして生れてきたかを簡単に調べてみましょう。もともと日本語の「こころざし」は「こころ(心)」と指(ゆび)を指すの「さし(指し)」のふたつの言葉が合わさって出来た言葉です。これはある対象に心を引き付けられる時に生れる心の動きを意味していたのです。そこには、相手を思う気持ち、慈(いつく)しむ心、愛する心が含まれているのです。この「こころざし」が漢字の「志(し)」の訓読(くんよ)みに当てられるようになったのです。そして、この文字が次第に「心の中により高い人生の目的を定める」という精神エネルギーを意味する使い方へと移っていったのです。このより高い目的意識は、単なる目標達成という意味ではなく、よりよい目標を創造する能力のことをいうのです。それでは、志はどのような力を持っているのでしょうか。「志は気の帥なり」と孟子が言っており、「志(こころざし)」は気の力を正しい方向に導くリーダーの役割を果たすといっています。また、明治初期、ウイリアム・クラーク博士が札幌農学校を去るときに「Boys, be ambitious !(少年よ、大志を抱け)」と言った言葉には、それに続く言葉があります。「お金や地位、自分本位の欲望、名声などといった儚(はかな)いものではなく、人間としてこうあらねばならないということのすべてを実現しようとする、大志を抱け」という主旨を述べています。この意味を日本語では「志」という一語で表現できるのです。この言葉こそ、今、世界に日本から発信できる考え方なのです。
 志楽ニューズレター 第六号 2006年9月31日発行
 企画:グループダイナミックス研究所
 発行所:志楽ダイナミックス
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 PHPオンライン衆知
 縄文人は温泉に入っていたのか? 日本人と温泉の出会いを探る
 #石川理夫 #温泉 #中公新書
 2018年07月13日 公開
 2022年02月04日 更新
 石川理夫(いしかわ・みちお)
 温泉との出会いの始まりの可能性(写真:中世から存続する箱根「姥子<うばこ>の湯」の天然湯つぼ)
 ※本記事は石川理夫著『温泉の日本史』(中公新書)より一部抜粋・編集したものです。
 温泉の周囲に縄文遺跡がある例は多いが、入浴を断定もできない
 日本列島に住み着いた人々がいつ頃から温泉を利用していたのか、前史を正確につかむことは考古学上の確実な物証が得られないかぎり難しい。
 とはいえ、長いスパンを持つ縄文時代から人々は温泉の恵みにあずかっていたのではないか、と推測することは可能だろう。
 温泉が地上に湧き出るには、熱源、地下水、地上への通路という3条件を必要とする。
 火山列島で断層を無数に刻み、地下水のもととなる天水(雨雪)の年間降水量が多い日本は条件を十分備えている。
 しかも火山性の温泉、特色際立つ多彩な泉質と摂氏42度以上の高温泉が多い。卓越した温泉資源状況がこうした推測の前提となる。
 狩猟採集活動や交易を通じて生活行動範囲が広かったと言われる縄文時代の人々が、温泉と出会う機会は少なくなかったはずである。
 考古学者の藤森栄一が、温泉が豊かな長野県諏訪湖東岸の発掘調査で縄文前期の土器が出土した層から縄文人も「湯に入っていた」(藤森栄一『縄文の世界』)と思わせる「湯アカがいっぱい」の岩石類を見つけた、と報告したことは知られる。
 「地下五・五メートルの真っ黒な有機上層で、大石がごろごろと、ほぼ環状にならんだところがあった。硫化物の臭いが鼻をうった。硫黄質の湯が湧いていたことは確実」(『藤森栄一全集』)とも述べている。
 大いにあり得るが、留保すべき点もある。藤森栄一は別の本に、「湯アカがいっぱい」の岩石類を見つけたのは「スクモ層下」とも書いている。
 スクモ層は有機物の腐植質を含む泥炭層である。泥炭層は嫌気性の環境にあり、硫酸塩還元菌によって硫化水素を含む硫化物を生成しやすい。
 したがって「硫化物の臭い」も「湯アカ」状の成分もその生成物かもしれず、これだけで「硫黄質の湯が湧いていたことは確実」とは断定できない。
 貴重な自然湧出時代の温泉分析を載せた明治19年(1886)刊の内務省衛生局編『日本鉱泉誌』は、発掘地の上諏訪温泉は硫化水素を多少含む含硫黄泉系と単純温泉、と記す。
 そもそも総硫黄分が多い硫黄泉エリアではなく、今日では泉質は単純温泉となっている。
 次に、「大石がごろごろと、ほぼ環状にならんだところ」から、後に豊臣秀吉有馬温泉に築いた湯山(ゆのやま)御殿の石組み浴槽の類を想像したくなるが、これも早計だろう。
 ヨーロッパの先住民ケルト人も入浴遺跡は残していない。湧き出た温泉は自然の湯だまりをつくり、大がかりな手を加えずとも温泉を利用できる。
 むしろ環状の大石の配置は、縄文遺跡に見られる祭祀や墓地の跡かもしれないという推測も成り立つ。
 このように古くから温泉が湧いていた温泉地周辺に縄文遺跡がある事例は少なくない。
 ただし、温泉は渓谷や河畔など低地・窪地に湧出するが、縄文集落は土地の狭隘(きょうあい)さや増水、土石流などのリスクがなく、森林での狩猟や採集活動に向いた河岸段丘(かがんだんきゅう)や台地上など一般に高台に営まれ、立地的には区別される。
 動物発見伝説とのかかわり
 近年、温泉成分でも塩分(塩化ナトリウム)に着目し、温泉源(以下、泉源)と縄文遺跡に《有機的関連性がある》とする説も見られる。
 生存に必要な塩分を求めて食塩泉(ナトリウム‐塩化物泉)の泉源に動物が集まるため、そこは格好の食物連鎖の場、人間にとって狩猟場となり、海辺から離れた内陸部に大規模集落が形成される一因となる、というのが論旨である。
 事例には秋田県鹿角(かづの)市の大湯温泉と環状列石のある大湯遺跡も挙げられている。
 温泉が今も一部自然湧出する大湯川から離れた左岸台地上に大湯遺跡もある。
 温泉を利用しようと思えば、行動範囲が広かった縄文人にはさほど遠くなかっただろう。もっとも、大湯温泉の泉質は弱食塩泉で含有塩分量は多くないため、摂取効率は良くない。
 動物が塩分などミネラル成分を求めて集まることは知られている。一例が群馬県野栗沢(のぐりさわ)温泉である。
 摂氏約22度の含重曹‐食塩泉が湧く渓流にアオバトが集まり、摂取行動をする姿も記録・撮影されている。
 塩分濃度は大湯のおよそ5倍。水場と同様にどの動物にも必要な場は、強い動物や個体が優先されつつ一種の棲み分けがはかられて、持続的に利用される。
 そうした泉源地を人間が狩猟のターゲットにしたら、おそらく短期間にして動物は遠ざかってしまう。
 縄文集落の立地・形成の要因として、動物狩猟目的という視点から長いスパンで温泉源との間に有機的関連性を見いだすことは難しいのではないか。
 また、動物の温泉利用は飲泉・成分摂取行動だけではない。泉源に集まる、あるいは生息する昆虫類や魚を食料にする餌場利用もある。
 世界共通の動物発見伝説が示すのは、傷や虫さされ、寄生虫の排除、皮膚病などを癒すために動物が泉源を見つけて集まり、湯水を浴びたり、温泉泥をこすりつけるなどの利用行動をとるというものだった。
 摂取成分ひとつとっても食塩泉とかぎらないので、利用対象の温泉の泉質はさらに拡がる。
 動物発見伝説と温泉の泉質に着目した論考は、西川義方など戦前から知られる。
 それらをふまえて中央温泉研究所の甘露寺泰雄は、動物の種類別に登場する温泉の本来に近い泉質を調べた(「動物の発見伝説に係る温泉の泉質」)。
 最も多いのは塩化物泉、炭酸水素塩泉、硫酸塩泉を包括した塩類泉で半数以上を占め、次に含硫黄泉、単純温泉放射能泉、炭酸泉の順であった。
 塩化物泉をはじめ塩類泉が中心になるのは、日本の泉質統計に占める割合からいっても当然だが、動物と温泉のかかわりには硫黄泉、炭酸泉といった特殊成分を含む泉質も無視できないことがうかがえよう。
 日本の温泉利用の黎明期の探求は、端緒についたばかりなのである。
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 LIXIL
 入浴文化の変遷―日本人がお風呂に求めるものとは
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 更新:2017年3月16日
 日本人は世界に類を見ないほどのお風呂好きと言われますが、日本ではお風呂は身も心も清める場所から、保養や社交の場としての役割も担い、独自の発展を遂げてきました。「伝統的に日本人は、温泉にはさまざまな医学的な効果が期待でき、心身の癒やし効果があると、知っています」と温泉ソムリエ・アンバサダーの飯塚玲児氏はその理由を解説します。「日本には火山が多く、たくさんの温泉に恵まれていたことがまず根底にあり、その上で、高温多湿な夏、乾燥して寒い冬、花や新緑に彩られる春、紅葉が美しい秋と、四季を持つ風土も、温泉入浴を楽しいものにしてくれています。そうした温泉へのあこがれを身近に体験できるものとして、家のお風呂があると考えられます。身体の汚れを落とすことで気分を一新し、くつろいで心とからだの疲れやストレスをリセットすることで生まれ変わる、それが日本人にとってのお風呂なのです」。
 2017年はLIXILシステムバスルームの量産化を初めて50周年。日本のお風呂の歴史を振り返るとともに、時代やライフスタイルの変化を先取りするような、LIXILが目指すお風呂空間作りについて考察します。
 お風呂の原点、温泉
 © Yasuhiro Okawa全国に活火山が点在する日本には3,000を超える温泉地があり、古いものでは、縄文時代の遺跡から温泉が利用されていた痕跡が見つかっています。温泉の利用の歴史については、検証ができないさまざまな伝説や神話が多くの温泉地で語り継がれています。最も古い記録としては712年に編纂された日本最古の歴史書古事記』や、720年に完成した『日本書紀』に温泉についての記載が含まれており、こうした文献を基に、兵庫の有馬温泉、和歌山の白浜温泉、そして愛媛の道後温泉が「日本三古湯」と言われています。
 また、733年に編纂され、全国で唯一完本として伝わる『出雲國風土記』では、現在の玉造温泉を「一たび濯(すす)げば形容端正(かたちきらきら)しく、再び浴(ゆあみ)すれば、万病(よろずのやまい)悉(ことごと)くに除(のぞ)こる」と、土地の人が必ず効き目がある「神湯」と呼んでいたことを伝えており、温泉が古くから湯治を目的として利用されていたことがわかります。
 では、日本人はいつ頃から温泉以外の入浴をしていたのでしょうか。6世紀の仏教の伝来とともに、沐浴の功徳を説いた仏教の教えが広まり、身体を洗い清めることは仏に仕える者の大切な業と考えられるようになります。奈良時代には、貧しい人びとに施しを行う行為の一つとして、東大寺法華寺をはじめとする仏教寺院では施浴(せよく)が盛んに行われるようになりました。これらの施浴のほとんどは、現在のような浴槽のお湯につかる入浴ではなく、蒸気で身体の汚れを浮かせて洗い流す蒸し風呂でしたが、この施浴の普及が、その後の「銭湯」文化につながります。
 江戸時代になると、お風呂の習慣や楽しさがさらに広く認識されるようになり、「銭湯」がまさに庶民の憩いの場所として繁盛するようになりました。江戸時代初期の銭湯は、従来の蒸し風呂に、浴槽に足を浸す程度の湯を加え、下半身をひたし、上半身は蒸気を浴びる「戸棚風呂」と呼ばれる仕組みでした。その後、明治、大正時代と銭湯の近代化が進み、木造であった洗い場や浴槽はタイル張りになるなど、今日の銭湯に近づいていきます。
 © Mie Morimoto
 内風呂の発展
 日本人は明治維新とともにさまざまな西洋の生活様式を取り入れていきましたが、お風呂に関しては洗い場で汚れを流してからお湯につかるというスタイルを維持し、日本独自の入浴文化を発展させてきました。20世紀初頭の内風呂は木製あるいは鉄製が主流でしたが、タイル製造の発達とともにタイル張りのお風呂が人気となりました。
 内風呂は江戸時代からある程度広まっていたとはいうものの、昭和期前半においても庶民は銭湯に通うのが常で、内風呂を持つのは裕福な家庭に限られていました。家庭で内風呂が一般化したのは第二次世界大戦後の高度成長期を迎えた頃から。それまではオーダーメイドで作られていましたが、住宅需要が急激に高まり、それまでの在来工法から高品質ながら工期が短く、手軽な浴室が求められるようになりました。こうしたニーズに応え、LIXILは1967年に、システムバスルームの開発及び量産化を開始し、内風呂の普及に大きな役割を果たしました。
 自宅にお風呂があることが当たり前な豊かな社会となった今日、LIXILがお風呂づくりでめざすことはもはや単なる浴槽・浴室の提供ではなく、まさに「浴室という空間を演出することによる新しい生活者価値の提供」だとLIXILの浴室事業部 事業部長の深尾修司は話します。
 製品開発をするにあたり、「社会的な背景や文化を理解し、一人ひとりの生活者の目線にならなければ、お客様のニーズは見えてこない」と深尾は断言します。そのため、LIXILでは念入りな行動観察に基づいた製品開発を行っています。例えば、人はなぜ温泉に行き、どういう価値を求めているのか。温泉成分の効能を求め、湯治のために行く人、日常生活からはなれてリラクゼーションを求めて行く人、美容目的の人など、温泉の価値を掘り下げます。同じリラクゼーションでも皮膚感覚の癒やしもあれば、山並みや海などの風景から視覚的に感じる癒やしもあります。
 文化的・歴史的背景を理解した上で行動観察から洞察を引き出し、何に価値を置くかという傾向を見極め、技術とマッチングしてできたのが2014年に発売した「SPAGE(スパージュ)」。 "自宅にスパ(温泉)を作る"をコンセプトとし、肩湯や打たせ湯、そして四季の移ろいを感じさせる映像・音響といった五感で癒やされる付加価値の高い機能を搭載して今までの住宅のお風呂の概念を変えました。
 ライフスタイルの変化に対応した浴室空間の創造
 LIXILでは、2017年3月より戸建住宅用システムバスルームの主力シリーズ「Arise(アライズ)」をフルモデルチェンジし、シャワー中心の入浴スタイルに対応する「フルフォールシャワー」を提供し始めます。グループ会社のGROHEとの共同開発によって、大型シャワーヘッドを採用し、空気を含んだ大粒で柔らかいシャワーでワンランク上の心地よさを実現します。また、立ち姿勢、座り姿勢のいずれでもオーバーヘッドシャワーが楽しめるようシャワースライドバーの形状を工夫するなど、細部までシャワー浴のしやすさにこだわった仕様としました。子育てや介護、共働きなどで忙しい平日はさっとシャワーで入浴を済ませたい人びとにも、たっぷりとしたお湯の気持ち良さを体感していただけるバスルームを提案しています。
 ©HOUSE VISIONLIXILでは創業以来、建築家やデザイナーと手を携え、機能性と洗練された美しさの融合を追求してきました。ライフスタイルや時代に合った製品で暮らしを豊かにしたいという信念は、LIXILが掲げるブランドプロミス「Link to Good Living」にも反映されています。2016年夏、LIXILは建築家 坂茂氏とともに、HOUSE VISON 2016 TOKYO EXHIBITIONに「凝縮と開放の家」を出展し、風呂・トイレ・キッチン・洗面など、生活の核となる機能を集約して一括りに配置・工事できる画期的なシステムユニット「ライフコア(LIFE CORE)」を提案しました。このシステムユニットを使用すれば、建築の構造・工法を単純化でき、自由な空間設計が可能となります。少子高齢化やひとり暮らし世帯の増加といった現代日本が抱える課題と新たなトレンドに対応し、快適な住まいと暮らしを実現するために何が必要となるか、LIXILは今までの常識にとらわれずに、模索し続けています。
 「システムバスルーム量産化50年の節目の年にあたり、「日本は温泉と火山の国。自然の恩恵に感謝の気持ちを持ってそれが育んだ文化を大事にし、これからまた50年、人びとのライフスタイルにあった浴室空間を提案していきたい」と深尾は心新たにお風呂の開発に邁進しています。
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