✨64)─1─昭和天皇は敗戦利得者達から戦後日本を護った。〜No.236No.237No.238 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 軍国日本の軍部・陸軍は、ヒトラーナチス・ドイツから逃げてきたユダヤ人難民を助けていた。
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 昭和天皇は、親ユダヤ派、差別反対主義者、避戦平和主義者、原爆は非人道的大量虐殺兵器であるとして開発中止を厳命した反核兵器派、難民・被災者・弱者などを助ける人道貢献を求め続け、戦争には最後まで不同意を表明し、戦争が始まれば早期に講和して停戦する事を望むなど、人道貢献や平和貢献に努めた、勇気ある偉大な政治的国家元首・軍事的大元帥・宗教的祭祀王であって戦争犯罪者ではない。
 同時に、日本の歴史上最も命を狙われた天皇である。
 昭和天皇や皇族を惨殺しようとしたのは日本人共産主義者テロリストとキリスト教朝鮮人テロリストであった。
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 靖国神社の心・志・精神とは、人道貢献と平和貢献の事である。
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 回顧・現代を問う(3)
 「戦後利得者・左翼」が洗脳した歴史教育を見直せ…渡部昇一上智大名誉教授との対談から(岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜)
 2015/12/21 15:00
 産経WEST
 【回顧・現代を問う(3)】「戦後利得者・左翼」が洗脳した歴史教育を見直せ…渡部昇一上智大名誉教授との対談から(岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜)
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 3月10日(注・平成27年)、上智大学名誉教授の渡部昇一先生と対談という得がたい機会を得た。地方の小さな私学の理事長が希代の碩学(せきがく)と対談、筆者としては緊張せざるを得なかったが、充実した3時間であった。
 戦後歴史教育は「教育」ではない
 昨年(注・26年)9月、筆者がPHP研究所から「奇跡の学校」を上梓(じょうし)し、その記念講演を聴いたPHPの月刊誌「Voice」編集長の企画で、テーマは『日本の歴史教育を見直す』だった。
 文明の核心は「人間の心・精神」にあり、精神が歴史を動かし文明を形付ける(物質を核心とするマルクス主義唯物論は終焉(しゅうえん)した)。その精神の育成に欠かせないのが「歴史教育」である。戦後歴史教育は「教育」ではなく米国占領政策とそれを引き継いで「戦後利得者」となった左翼による「洗脳」である。
 渡部先生は一貫して朝日新聞を先頭とする「戦後利得者・左翼」と戦ってこられた。日本人の精神を排斥し、欧米の精神・価値観を植え付け、日本を一方的に「悪者」と決め付ける戦後歴史教育では日本精神・日本文明が消滅する。戦後歴史教育を見直さねばならない理由がここにある。先生との対談での結論だった。
 渡部先生はそのためには、昭和6年の満州事変から東京裁判に至る戦後の歴史教育を是正すべきと熱く語られた。「満州事変以後、日本は支那を侵略した」と教えているが(日清・日露戦争も侵略とする教科書もある)戦争を仕掛けたのは支那であり、日本は受身であった。東京裁判ですら「支那事変の開戦責任が日本にある」とは言っていない。
 朝鮮戦争が始まった1年後の昭和26年5月3日、東京裁判で日本を「悪者」として、7人を絞首刑にした張本人であるマッカーサー元帥は「米国上院軍事外交合同委員会」で「日本は自国の防衛のために開戦した」(侵略ではなく自衛戦争)と証言している。渡部先生は、この証言は「どこぞの講演」などではなく、「米国議会上院」の委員会という最高の権威ある「場」での証言なのである、という事実を強調し、「なぜ教科書に載せないのか」という。『あの戦争』の見直しは歴史教育の原点である。
 植民地から独立、日本に感謝するアジア諸国
 筆者からの「敗戦直後の昭和21年の21万人もの『公職追放』が戦後の歴史教育を日本自身がゆがめてきた原因では」という指摘に対し、「戦後利得者」の言葉を初めて作った渡部先生はわが意を得たりと、戦後進歩的文化人の責任を追及され、筆者としては留飲を下げたのである。
 また、日本はアジア諸国を侵略したというが、あの戦争によって、アジア諸国が数百年の白人による略奪・収奪型植民地政策による支配から独立を果たした、という視点が戦後歴史教育にはない。中・韓を除く大半のアジア諸国は「日本が戦ってくれてありがとう。おかげで独立できました」と感謝している。韓国は日本と戦争したわけではないにもかかわらず、中国とともに反日攻撃をしているが、そもそも「韓国併合」は日本が植民地にしたのではない。「併合」はアネクゼーション(annexation)といい、英国のイングランドスコットランドを併合した、というように使われる。植民地はコロナイゼーション(colonization)であり、併合は植民地化とは異なる、という渡部先生の指摘は貴重である。
 その他諸々、戦後歴史教科書を書き換える必要を痛感した対談であった。(この記事は、平成27年3月26日付岡山県版に掲載されたものです) 
  ◇
 森靖喜(もり・やすき) 昭和16年、岡山市生まれ。明治大学大学院卒業後、43年から金山学園(現・岡山学芸館高校)の教諭、岡山市教育委員長などを歴任。現在は岡山県私学協会長、学校法人・森教育学園理事長、岡山学芸館高校・清秀中学校学園長、教育再生をすすめる全国連絡協議会世話人。専門は政治学
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 敗戦利得者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日的日本人としてアメリカ・キリスト教系、ソ連中国共産党共産主義系、マルクス主義系、その他系の4派が存在し、戦後の教育界とメディア業界に潜んでいた。
 敗戦利得者には、数万年前の旧石器時代縄文時代から受け継がれてきた民族的な歴史力・伝統力・文化力・宗教力はない。
 敗戦利得者とは、保守派はもちろんリベラル派・革新派であり、左翼・左派、右翼・右派、反米派・反安保派、護憲派、反自衛隊派にも存在し、現代の超エリート層と言われる高学歴の政治的エリートと進歩的インテリ達はその後継者である。
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 敗戦利得者かそうでないかの唯一の見分ける方法は、天皇主義者か同化である。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士・悪党・野伏せり、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、相撲取り・力士、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 2023年3月24日 YAHOO!JAPANニュース デイリー新潮「東京大学の卒業式で厳しい「政府批判」が堂々と 南原繁総長の伝説的な式辞の中身は
 東大の式辞で時事的なテーマを扱うことは、昔から珍しいことではない
 新型コロナ禍から4年目の春。今日、東京大学は4年ぶりに学生・保護者揃っての卒業式を行った。東大の卒業式・入学式ではその時々の総長やゲストによる祝辞が読まれる。
 【この記事の写真を見る】「昭和天皇」が嫌いだった東京大学の総長
 昨年話題になった河瀬直美氏の祝辞はロシアウクライナ戦争に触れられたもので、「お祝いの言葉」という本来の主旨からは逸れるものではないかとの指摘もあった。
 しかし、東大の式辞で時事的なテーマを扱うことは、昔から珍しいことではない。
 たとえば、1949年に読まれた南原繁総長の式辞では、軍国主義天皇を頂点とした“神権的君主政治”についてかなり踏み込んだ表現が見られる。格調高い文章からは、過去のあやまちへの後悔の念と共に、新しい日本を作っていかねばらならないという強い決意が伝わってくる、まさに「名式辞」といえるものだろう。
 石井洋二郎・東大名誉教授の新著『東京大学の式辞―歴代総長の贈る言葉―』をもとに、南原総長の式辞の一部とそれが生まれた背景を見てみよう(以下、引用は同書より)。
 昭和天皇に嫌われた総長
 戦後最初の総長である第15代の南原繁(在任1945-51年)は、おそらく歴代総長の中でも最も知名度の高い一人でしょう。内務省勤務を経て、1921年東京大学政治学史担当助教授に就任した彼は、4年後に教授となり、1945年3月に法学部長に就任、内田祥三総長の補佐役として活躍する中で敗戦を迎えました。同年12月に内田の後を継いで総長となり、戦後の新しい東京大学を牽引することになります。
 南原総長就任直後の1946年1月1日には、いわゆる「天皇人間宣言」が発布されました。この詔書の最後には、天皇と国民の絆はあくまで「相互ノ信頼ト敬愛」によって結ばれるものであり、「単ナル神話ト伝説」より生じるものではない、また天皇を「現御神(あきつみかみ)」とし、日本国民を「他ノ民族ニ優越セル民族」とする「架空ナル観念」に基づくものでもない、という一節があり、これが天皇の神格否定とされて「人間宣言」と通称されるようになったわけです。
 南原繁はこの人間宣言を、これまで現人神(あらひとがみ)しての天皇を君主として頂く「神の国」とされてきた日本を偏狭な独善性から解放し、国民と文化を新たな「世界性」に向けて開くものとして高く評価する一方、東大でおこなわれた戦後初の天長節式典(1946年4月29日)では、今回の大戦において天皇に政治的・法律的責任がないことは明白であるけれども、道徳的・精神的責任は強く感じておられるはずなのだから、いずれ自らの大義を明らかにされるべきである、すなわち昭和天皇は時機を見て退位すべきである、という趣旨の発言もしていました。そのせいかどうか、昭和天皇は南原にたいして根強い不快感・不信感を抱いていたと伝えられていますが、いずれにしても両者の関係は微妙であったように思われます。
 『東京大学歴代総長式辞告辞集』には、1946年(昭和21年)5月1日の入学式式辞から1951年(昭和26年)4月12日の入学式式辞まで、全14編の文章が収められていますが、そのいずれもが質の高い名文であるだけでなく、量的にも全部で100ページに及ぶ充実ぶりで、ひときわ大きな存在感を放っています。
 しかしそれらの式辞を読む前に、まず1946年(昭和21年)3月30日、安田講堂で開催された「東大戦没並に殉難者慰霊祭」において彼が読み上げた「戦没学生にささぐ」という文章を見ておきましょう。この格調高い告文には、わが国がやみくもに戦争へと突き進み、多くの若い命を犠牲にしてしまったことへの痛恨の思いが滲んでいます。
戦争で亡くなった学生たちへの言葉
 広島・原爆ドーム
 〈今次大戦において出陣したるのみに永久に還らぬわが若き同友学徒並びに職員諸君のために、茲(ここ)に悲しき記念の式を挙行せんとして、感懐尽(つ)くるところを知らない。
 顧(かえりみ)れば此の幾歳、われわれ国民は何処をどう辿り来ったか。混沌錯乱あたかも模糊たる夢の中を彷徨しつつあった如くである。然し、それにしては余りに厳しき歴史の現実であり、次々に大なる事件の発生、それに依る不安と焦慮、緊張と興奮、絶望と悲哀の交織(こうしょく)であった。唯一事、それを貫いて、今や白日の下に曝されたことは、軍閥超国家主義者等少数者の無知と無謀と野望さへに依って企てられた只戦争一途と、そして没落の断崖目がけて、国を挙げての突入であった。〉
 この戦争が「軍閥超国家主義者等少数者の無知と無謀と野望」によって推進されたものであったことを明確に断言するこの一節を読むとき、ようやく「模糊たる夢」から醒めた理性の言葉が東京大学総長の口から発される日が来たのかという思いを禁じえません。
 狂躁の日々にあっても自らの理性と良心に従って冷静に学問に従事していた学生たちは、前章で見たように徴兵延期の特権を停止されてひとたび戦場に駆り出されると、複雑な思いを心中に抱えながらも「没落の断崖」めがけて突入していく国家の意志と命令に従うほかなく、軍人としての任務を忠実に遂行したのでした。そのことを述べた上で、南原総長は1945年8月15日という「呪はしき運命の日」を目にすることのなかった戦没学生たちに向けて、次のような言葉を贈ります。
 〈然し、諸君に告げ度いことは、われらの行手に民族の新な曙光、大いなる黎明は既に明け初めつつあることである。今やわが国は有史以来の偉大なる政治的社会的精神的変革を遂げつつある。われらはそれを通して平和と道義の真正日本の建設と新日本文化の創造を為さなければならない。これこそは就中(なかんずく)われわれ学徒が精魂を傾けて成し遂げねばならぬ偉業であり、心血を注いでのわれらの新な戦―「理性」を薔薇の花として、それと厳しき「現実」との融和を図る平和の戦である。〉
 敗戦によって国民が背負った「現実の十字架」の重みに耐え、理性の力をもって新たな日本を築かなければならないというこの決意は、その後数年間にわたって儀式のたびに読み上げられたすべての式辞を貫く基調となっています。
 その意味で、この慰霊祭で語られた言葉は戦没学生たちに捧げられた真情あふれる追悼の辞であると同時に、生き残った者たちに向けられた期待と鼓舞の呼びかけでもあり、総長としての南原繁の出発点であったと言ってもいいでしょう。彼が無教会主義のキリスト教信者であったことも、こうした姿勢の根底にあると思われます。
 戦後民主主義の出発
 明治10年の創立から東京大学は常に学問の中心としてあり続けた。大震災、戦争、大学紛争、国際化――その歩みはまさに日本の近現代史と重なり合う。時代の荒波の中で、歴代の総長たちは何を語ってきたのか。名式辞をめぐる伝説、ツッコミどころ満載の失言、時を超えて紡がれる「言葉」をひとつずつひもとく。南原繁から矢内原忠雄蓮實重彦まで、知の巨人たちが贈る、未来を生きる若者たちへの祝福と教訓! 『東京大学の式辞―歴代総長の贈る言葉― 』石井洋二郎/著
 1946年(昭和21年)11月3日、大日本帝国憲法に代わって日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行されました。いわゆる戦後民主主義の実質的な出発です。1947年9月30日の卒業式式辞には、こうした価値観の根本的な転換を高らかに宣言する文言が見られます。重要な文章なので、少し長めに引用してみましょう。
 〈まことに諸君が入りゆく国家の政治生活は、もはや昔日のそれではない。神聖化された国家主義軍国主義は永久に滅び、いま新しく平和と民主主義の国家は建設されんとしてゐるのである。それはわが国に於て永く抑圧せられた「人間の回復」であり、「人権の宣言」である。民主主義に不朽の意義ありとすれば、それは明らかに国家権力の優位などでなくして、何よりも主体的なる人間人格の諸々の自由と権利思想に在るのである。
 然るに、近代国家主義は、殊にわが国に在つては、余りにも人間の社会を非人間化し、奴隷化し、時に野獣化し来つたのである。それを極度に曝露したものが戦争であつた。本来、人間のために、人間自らが作った権力が、人間以上のものとなり、それ自身を客観化し、独自の存在と威力とを以て、人間の上に君臨するに至つたのである。今次の暴挙たる大戦の悲劇はかくして演ぜられたのであつた。
 いまわれわれは人間理想を深く自覚することに依り、正義に基づく恒久平和を念願し、戦争を絶対否定し、一切の武力をすら棄て去つたのである。ここに近代国家主義の表徴たる軍と戦争は、少くともわが国に関する限り、地を払つたのである。
 そればかりではない。軍国主義と共に、神権的君主政治と専制官僚主義は倒れたのである。国家の主権はわれわれ国民の手に在り、政府はもはや天皇の官府であるのでなく、国民の厳粛なる信托によつて国民のために存するのである。〉
 消えた帝国の二文字
 国家主義軍国主義の終焉を宣言し、恒久平和戦争放棄の理念を確認するこの力強い式辞を読むと、戦時中の東大総長たちが(おのれの意志に反してではあれ)軍部の意に沿った天皇礼賛と戦意高揚の言葉を繰り返し述べていたこととの対比が、いやがうえにも際立ってきます。
 前任者の内田祥三総長が卒業式の式辞で「大御心の有難さは、恐惶恐懼(きょうこうきょうく)、唯々感涙の流るゝを禁じ得ないのであります」と述べていたのは、ほんの2年前、1945年9月25日のことでした。しかし今、南原繁総長の口からは「軍国主義と共に、神権的君主政治と専制官僚主義は倒れたのである」という言葉が発され、政府はもはや「天皇の官府」ではなく、国民の厳粛な信託による機関となったのであるということが語られています。こうして両総長の式辞を読み比べてみれば、敗戦後の価値転換がいかに劇的なものであったかがうかがえます。
 なお、この式辞が述べられた1947年9月30日、「東京帝国大学」はふたたび創立期の「東京大学」という名称に変更されました。およそ60年ぶりに「帝国」という言葉が消えたわけですが、これも戦後における大学の位置づけや役割の変化を象徴するできごとのひとつでしょう。
 ※石井洋二郎東京大学の式辞―歴代総長の贈る言葉―』(新潮新書)から一部を再編集。
 石井洋二郎(いしいようじろう)1951(昭和26)年東京都生まれ。専門はフランス文学・思想。東京大学教養学部長、副学長などを務め、2023年3月現在中部大学特任教授、東京大学名誉教授。『ロートレアモン 越境と創造』など著書多数。2015年に教養学部の学位記伝達式で読んだ式辞が大きな話題になった。
 デイリー新潮編集部
 新潮社
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 MAG2NUWSまぐまぐニュース!
 日本は中国のもの? 祖国を中共に売る「敗戦利得者」たちの正体
 国際2020.11.12 139 by 『日本の情報・戦略を考えるアメリカ通信』
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 以前掲載の「中国の浸透工作に豪が陥落寸前。日本にも伸びる習政権の魔の手」等でもお伝えしたとおり、中国によるさまざまな工作が各国で行われていると囁かれていますが、我が国もその手に落ちてしまっているようです。「日本は既に中国共産党から目に見えぬ侵略をされている」とするのは、株式会社オンザボード代表の和田憲治さん。和田さんは無料メルマガ『日本の情報・戦略を考えるアメリカ通信』で今回、その「侵略を許した4つの土壌」を詳細に解説しています。
 日本が中国から“目に見えぬ侵略”をされる4つの土壌
 和田です。
 日本は既に実態として中国共産党から「目に見えぬ侵略」をされています。
なので、まず、日本がなぜ「目に見えぬ侵略」を受けるようになったのか?その理由を考えてみる必要があります。侵略を許してしまう・受けてしまう…その受け皿、土壌があるのです。
 「侵略を許す土壌」は、それは主に次の4点です。
 その1 共産主義
 戦前の日本では「治安維持法」という法律を制定しなければならないほど明確に「共産主義の脅威」というものがありました。それは、現代を生きる現在の我々の感覚ではなかなか実感としてわかりにくいものですが、私有財産を否定し、日本の国体の変革すら狙う…そんな思想に基づいた組織が共産党でした。
 そして、戦後になっても、様々な事情から共産主義シンパや隠れマルクスレーニン主義者たちはいわゆる「敗戦利得者」として、戦後から現在に至るまでしぶとく生き残り、その系譜に連なる人達が、一定の社会的影響力をもっていることは、最近の「日本学術会議」問題や、いわゆる「千人計画」の件において、図らずも明らかになったことは、皆さんもご存知だろうと思います。
 その2 公職追放
 1946(昭和21)年1月よりGHQから日本政府への指令で「公職追放」が始まりました。
 愛国者であり、戦前、国を守ってきたリーダーたちが、日本の要職から公職追放されました。
 当時首相候補だった鳩山一郎ですら追放されました(彼は、孫の由紀夫とは違って、わざわざ韓国に行って土下座するような男でない、真っ当な政治家でした)。
 政治家、公務員だけでなく、学校等の教育界やマスコミ、言論界からも保守の有力者20万人余りが追放されました。
 そして、代わりに入り込んだのは、共産主義者たちや反日的活動をして、戦前評価されていなかった者、加えて、思想を転向した者たちです。彼らがみな、前述のいわゆる「敗戦利得者」となりました。
 権力を握った人間は自分を否定しない同じ思想の者を後継に選ぶ。よって、現在でも、教育界とマスコミには脈々と反日的思想をもつ人脈が、「敗戦利得者」として跋扈し続けているわけです。
 吉田茂が進めた講和条約、それはつまり、日本が独立を取り戻す、ということですが、なんと、これに反対していた国会議員たちがいました。それが当時の社会党共産党やマスコミです。
 日本の再軍備憲法改正に反対する人、日本の独立に反対する国会議員やマスメディアの人間。
 日本が独立したら損をするのは誰なのか?ということを冷静に考えてみて下さい。
 これはまさに「今」に通じる問題なのです。
 その3 東京裁判
 「極東軍事裁判」は1946(昭和21)年5月3日から始まります。いわゆる「A級戦犯」7人の処刑など、この東京裁判の判決をもとにした「東京裁判史観」が戦後の日本人の思考回路と精神構造、そして、社会空間を支配しています。
 この裁判は法的根拠のないでっち上げの裁判でしたが、「アメリカは正義で日本は悪だった」という刷り込みによる日本人の勝手な思い込みが、当時よりもむしろ日本が主権を回復した後、より一層影響力を及ぼすようになります。
 媚中派として名を馳せた、故・加藤紘一などは、無邪気だったのか、意図的だったのかは知りませんが、「日本は東京裁判を受け入れて国際社会に復帰した」などと発言し、世に大嘘を広めていた…というお粗末さです。
 東京裁判当時の日本は占領されていたわけですから、「判決」それ自体は受け入れざるをえません。しかし、「裁判とそれに関わる歴史観」を承服したのか否か?となると話は全く別で、到底、「受け入れて」などはなかったわけです。
 実際、主権回復直後に、生き残ったいわゆる「戦犯」たちは、全員、正式に全国会議員によって名誉回復させている、という点を考えれば、「判決」には従ったのですが、「裁判そのもの」を受け入れてなかったことは、言うまでもないことです。
 しかし、現在の日本人の多くはそんな客観的な「歴史的事実」すらすっかり忘れてその歴史観は、あの加藤紘一らの頭と同様に、奇妙なまでに自虐的な思考に書き換えられたままです。
 その4 WGIP
 「War Guilt Information Program」=ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム、略称:WGIPです。
 GHQが、戦後、日本人に行った洗脳教育であり、「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画」のことです。
 GHQによる、この日本国民に打ち込まれた「楔」は当のGHQが日本から引いたあとも抜けることなく、延々と日本人の精神に残ったままです。未だに「日本は戦犯国家」だと勝手に思い込んでいる日本人が多いのではないでしょうか?
 大東亜戦争は太平洋戦争と言い換えられ、戦争の真実を語ることもできず、日本側の弁明は一切許されない。ましてや、戦勝国であるアメリカや中華民国らの批判などもってのほか。更には、第三国である朝鮮についても同様でした。
 周到なことに、GHQは、戦前の日本の良き伝統や当時の国際情勢を鋭く分析した日本の優良書物7,000冊を秘密裏に焚書しています。
 当然、この恐るべき「焚書」に協力した恥ずべき日本の知識人たちも多数いるわけですが、その協力者の詳細な名簿などは残されていません。
 平成から令和の御世となり、『古事記』や『日本書紀』に関する本などは読まれ親しまれるようになりましたが、昭和の時代は、『古事記』に記載があるような日本の神話について、公の場などで語っただけで「右翼だ!」とほぼ間違いなく言われたほどでした。
政治家と官僚のエリート層、大手マスコミ、そして教育界。
 この三位一体に巣食う「敗戦利得者」たちが日本人の美しい歴史を消し、戦犯国家としての贖罪意識を今も与え続けています。
 彼ら「敗戦利得者」は基本的に「日本は邪悪な国家なのだ」という考えですから、中国の側からすれば、これほど御しやすい相手は他にいません。これが、中国からの歴史侵略を易易と受け入れてしまう土壌となっているのです。
 日本は島国であったためか、隣人への気遣いを大切にする国です。これまで、外国人との交流は少なく、そのため諸外国の人に比べると、自分の意見を押し通さずに、相手の気持ちを慮ってしまう習慣があります。まず、相手に気に入られようとしてしまうそんな傾向を持つ国民性です。まずは自分が譲って、そして最後は同じ人間同士、わかりあえるという、性善説的「幻想」が災いしています。
 GHQはとっくの昔にこの島を去り、我が国は「主権国家」として、独立を回復したはずなのに、「日本が悪い国なのだ」と常に内外からオルグされ、心からそれが正しい歴史認識なのだ、と考えてしまったり、挙げ句の果てには、なぜか自らの母国を貶めるような言動で、「反日」でいることが「利得」となるような人たちがこの日本国にはまだまだたくさん居るのです。
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