💖40)─1─日本にはアフリカ人やユダヤ人に対する偏見や差別は弱い。〜No.168No.169 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本には、肌色によるアフリカ人やユダヤ人に対する偏見や差別がなかったのは、日本人はアフリカ人やユダヤ人と同じように中世キリスト教会や白人キリスト教商人同様に中国・東南アジア・中南米・西洋に奴隷として売られていたからである。
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 2023年2月25日 MicrosoftStartニュース GIGAZINE「人種差別に苦しむ黒人が日本に来て感じたこととは?
 アフリカ系アメリカ人の高校生が自警団団員に射殺された
 人種差別に苦しむ黒人が日本に来て感じたこととは?
 © GIGAZINE 提供
 トレイボン・マーティン射殺事件や、アフリカ系アメリカ人の男性が警察官の行動によって殺害されたジョージ・フロイド事件などに端を発し、黒人に対する人種差別撤廃を訴えるブラック・ライブズ・マターが世界的に広まりました。それでも海外では差別意識が根強く残っているもので、特に長らく差別の対象となってきた人々の心には根強い恐怖心が残っています。そんな人種差別を日本で受けたことがあるのかを、日本に長年住むアフリカ系アメリカ人にインタビューした動画をアメリカ公共ラジオのNPRが公開しています。 Living While Black, In Japan | All Things Considered | NPR - YouTube
 ジョージ・フロイド氏が警察官のデレク・ショーヴィン氏に首元を強く押さえつけられて死亡した事件に対し、インタビュイーは「こんなことが私の夫や息子に起こり得るなんて怖い」「こんなことが今でも祖国で起こるなんて」と話します。 インタビュイーは「誰かが僕らのことを警察に通報しないかとおびえていた」「人間というより驚異と思われていた」などと答え、祖国で差別を受けた経験があると振り返っています。インタビュイーの警察に対する恐怖心は強く、白人警官が近づいてきたときなどは特に緊張すると語る人も。
 人種差別に苦しむ黒人が日本に来て感じたこととは?
 © GIGAZINE 提供
 警察に相対したとき、ある人は「完璧に振る舞わなければ」と話し、ある人は「無力に感じる」と話します。何も悪いことはしていないにもかかわらず、何か悪いことをしたのではという態度を警察はとり、挑発的な態度をとってくることもあるそうです。 インタビュイーは、海外で勉強したいと考えたり、言語や文化が好きだったので移住して仕事したいと考えたりして、日本に移り住んできたといいます。就職先も音楽やエンタメの仕事だったり、スポーツトレーナーだったり、レストランを経営していたりとさまざま。
 人種差別に苦しむ黒人が日本に来て感じたこととは?
 © GIGAZINE 提供
 インタビュイーにとって、日本は「今までに体験したことのない開放感を感じられる場所」だとのこと。日本ではアメリカではできなかったことができ、タクシーも簡単に捕まえられ、お店に行けば他の顧客と同様にサービスを受けられることが新鮮だったそうです。 あるインタビュイーは、日本における黒人やアフリカ系アメリカ人の見方として、「テレビの影響が大きい」と語ります。黒人だからという理由で変なことを聞かれたり、勘違いされたりした経験もあるそうですが、そのたびに丁寧に間違いを訂正してきたと語る人もいます。ある人は「たいていの場合、分かってもらえます。日本の場合は無知が原因なことが多いですが、無知は打ち砕くことができます」と主張します。
 人種差別に苦しむ黒人が日本に来て感じたこととは?
 © GIGAZINE 提供
 日本における差別意識についても、ある人は「黒人だからといって差別されていると感じたことはありません。『外人だから』ということで差別を感じることはありますが」と意見しましたが、一方で「日本では人々が敬意を持って接してくれると感じます」と語ります。また、「黒人を見たことがないという理由で視線を集めることはありますが、ただ一つ違いはというと、誰かが僕を見た時に人々の目に憎しみがないということです」と語る男性も。 「アメリカに帰りたい?」という質問に対しては、「絶対ない」「分からない」「いつかは」などとさまざまな回答が行われています。 精神的な安寧を獲得できたという人も多く、ある人は「最終的に、自由とは安全に暮らせるということです。その安全という気持ちは、僕らの必要度の順位からすると、基本としてあるべきものです」と語っていました。
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 2023年2月25日18:45 YAHOO!JAPANニュース 神戸新聞NEXT「「ずっとありがとうと言いたかった」“命のビザ”で救われたユダヤ難民の男性、82年ぶり来日 ゆかりの地・神戸へ
 神戸ジューコムの石垣に触れ、目を閉じて思い出を振り返るマルセル・ウェイランドさん=中央区山本通1
 第2次世界大戦中の欧州で、ナチスドイツの迫害を「命のビザ」によって逃れ、神戸に滞在したユダヤ難民の男性が、82年ぶりに来日した。25日には、当時の面影を残す中央区・北野地区を訪れ、集まった地域住民らを前に「ずっと『ありがとう』と言いたかった」と笑顔を見せた。
 【写真】杉原千畝氏が発給したビザ。交流会で紹介された
■「穏やかで幸福な時間だった」
 男性は、ポーランド出身で、現在はオーストラリアで暮らすマルセル・ウェイランドさん(95)。
 1939年、ドイツが祖国に侵攻し、家族とともに隣国リトアニアへ逃れた。現地にいた日本の外交官、杉原千畝氏は、同じような境遇のユダヤ難民数千人に対し、独断で日本通過ビザを発給。このビザによって救われた一人が、ウェイランドさんだった。
 旧ソ連ウラジオストクから福井県敦賀港を経由し、41年にユダヤ人コミュニティーがあった神戸へ。当時、ウェイランドさんは14歳。大丸百貨店で焼きそばを食べたり、宝塚で歌劇を鑑賞したり。神戸で過ごした約7カ月間を「穏やかで幸福な時間だった」と振り返る。
■石垣に触れ「エモーショナル」
 その後、中国を経由して46年にオーストラリアへ渡った。建築関係の仕事に就き、現在はシドニーで孫2人と暮らす。今回の来日は、東京であった命のビザの企画展に合わせて招かれたのがきっかけで、神戸にも立ち寄った。
 24日に神戸市役所を表敬し、25日は北野地区の学校法人「コンピュータ総合学園」を訪問。敷地内には、ユダヤ難民救済の活動拠点だった「神戸ジューコム」の石垣がいまも残る。ウェイランドさんは、右手で触れると、一言「エモーショナル」とつぶやき、左胸に手を当てて日本語で「ありがとう」と繰り返した。
 その後、地域住民らが出席した交流会にも参加し、24日の夕食は三宮で焼きそばを食べたと明かした。「とてもおいしかったが、82年前と同じ味だったかどうかは分からない」と話し、会場を笑いに包んだ。
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 2021年9月3日14:45 YAHOO!JAPANニュース  神戸新聞NEXT「ナチスから逃れたユダヤ難民、父は住居を与えた 「命のビザ」で来日の夫婦に #あちこちのすずさん
 父の村井禄楼さんからの手紙を読み返す清木美和子さん=神戸市灘区
 神戸市垂水区の宇津原(うつはら)宏枝さん(52)から今夏、神戸新聞にこんな内容のメールが届きました。〈母はかなり弱ってきておりますが、ポーランド人夫婦にまつわる戦争の話など、後世に伝えたいことがたくさんあります。母がまだ話せるうちに聞いていただければ〉…。神戸市内の高齢者介護施設で暮らす清木(せいき)美和子さん(91)に会いに行きました。(有冨晴貴)
 職員に車いすを押され、施設の応接室に姿を見せた清木さん。机には、娘の宇津原さんが持参してくれた黄ばんだ紙が置いてあった。太平洋戦争の開戦前、ロサンゼルスで働いていた父と家族が交わした手紙だ。
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 「父はとても変わった人でした。でも、今から思えば先進的だったのかもしれません」。清木さんは懐かしそうに語り始めた。
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 父の村井禄楼(ろくろう)さんは、現在の神戸市中央区に事務所を構える弁護士だった。専門は海事。米国勤務の経験があり、英語も堪能だった。
 太平洋戦争末期、日本が優勢かのように報じるラジオに向かって「何を抜かすか!」と怒鳴りつけ、日本の降伏を知っても「これでやっと終戦や」と、こっそり喜んでいた姿を覚えている。
 戦時中、父の事務所や書庫は常時、書生や生活に困った人に貸していた。
 清木さんが10代の頃、ポーランドからやって来たユダヤ人夫妻が、そこで暮らし始めた。事務所のドアに掛けられていた「attorney at law(弁護士)」の看板を見たのがきっかけという。清木さんは「今度は外国の人か」と驚くこともなかった。
 英語で交わされる父と夫婦の会話はさっぱり分からなかったが、「書庫に運び込んだ布団に戸惑いながら、2人は異文化になじもうとしていた。とても礼儀正しい人だと思った」と振り返る。
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 その夫婦が、外交官杉原千畝(ちうね)(1900~86年)が40年に発行した「命のビザ」でナチスの迫害から日本に逃れてきたユダヤ難民だと知ったのは、ずっと後のことだ。
 命のビザで日本を経由したユダヤ人は数千人とされ、一時、神戸に身を寄せた人も多かったという。
 清木さんによると、本国の方針に反していた杉原の行為をよく思わない世論が当時、神戸にもあったという。一方で「港町だった神戸は外国人が多く、差別意識はほとんどなかったと思う。困っている人には、分け隔てなく手を差し伸べる空気があった」と語る。
 滞在は1カ月ほどだっただろうか。ユダヤ人夫妻は神戸から新天地へと旅立った。
 父親と夫妻を撮った写真が残された。その裏には、夫婦の名前とともに「最高の感謝の気持ちを表します」と英語でつづられていた。
 戦後、夫婦の名前と「命のビザ」のリストに載っていた名前が一致した。
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 「父は常々、2人の無事を祈っていたが、どこに行ったかは知らなかったようです。父は当たり前のことをしただけだと思っていたから、わざわざ聞かなかったんでしょうね」
 遠い記憶を淡々と語っていた清木さんの頬が一瞬、緩んだ。
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 サンボ(人種)(読み)さんぼ
 世界大百科事典内のサンボ(人種)の言及
 【アフロ・アメリカ文化】より
…それは,主として北東ブラジル,ギアナ地域,カリブ海地域にみられるアフロ・アメリカ社会が〈混血社会〉であることの反映である。つまりここでは人種間の混血現象が北アメリカと異なって日常茶飯事であり,たとえば白人と黒人との混血によってムラート,マメルコ,またインディオと黒人との混血によってサンボ,マルーンなどの混血人種が生まれている。そして文化面でも,スペインやポルトガルの文化とアフリカの文化との交流,接触,混合によって,西欧的でもなくアフリカ的でもない,新しい異質の文化が形成されることになったのである。…
 【混血】より
…優秀白人人種と劣等人種とされた人々(先住民インディオ)の間に生まれた混血は,ムラートメスティソなどと呼ばれた。また黒人と先住民との混血はサンボなどと呼ばれ,いずれも社会的には両者の中間に置かれ,多かれ少なかれ差別されている。 しかし,第2次世界大戦後,人種主義が否定され,ユネスコなどにより純粋種概念の無意味さが論じられると,むしろ混血は人種間あるいは民族間の同化の度合いを測る指標として利用されはじめ,国際結婚,異文化間婚姻なども推奨もされはじめた。…
 【メスティソ】より
…しかし,時代が下るにつれ人口も増え,社会的地位も安定し,植民地時代における平均的地位は,次のように各種の人種の中間に位置した。高いほうから列挙すると,(1)ペニンスラール(イベリア半島人=スペイン人),(2)クリオーリョ(新大陸生れの白人,クレオール),(3)メスティソ,(4)ムラート,サンボ(インディオと黒人の混血),自由身分の黒人,(5)奴隷(黒人,ユダヤ人,イスラム教徒),(6)インディオ,の順であった。時代が進むにつれ,ペニンスラールはクリオーリョに凌駕(りようが)され,19世紀初頭に諸国で起こった対スペイン独立運動は,クリオーリョを主力として推進された。…
 【ラテン・アメリカ】より
…[旧イギリス領アメリカとの違い]
 ラテン・アメリカの名が示すように,基本的にはスペイン,ポルトガルによって代表されるラテン系ヨーロッパ文化がこの地域の文化的骨格をかたちづくっているが,コロンブス到着以前に長い歴史的展開を示した先住民文化や,16世紀以後奴隷として連れて来られたアフリカ人の文化も,それぞれの地域の文化に強烈な特色を与えている。同じくヨーロッパ人,先住民,アフリカ人によって人口構成の基礎がつくられたアメリカ合衆国の場合は,各民族集団間の隔離が特色であったのに対し,ラテン・アメリカでは,3者間に非常な血の混合が起こり,メスティソ(白人と先住民の混血),ムラート(白人と黒人の混血),サンボ(先住民と黒人の混血)などの集団が多数発生して,社会的に重要な意味をもっている点が注目される。先住民についていえば,アメリカ合衆国やカナダの狩猟民や小規模な農民社会と違い,アステカ,マヤ,インカなどの文明地帯には,安定した農村社会と密集した人口があり,また金銀などの鉱物資源が早くから発見されたため,スペイン人の征服後,彼らの労働力徴発による生産体系が急速に成立した。…
 ※「サンボ(人種)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
 出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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