🏯13)─1─現代の成人は18歳。武士は14歳で元服し家督を継ぎ責任を取って切腹した。~No.23No.24 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 武士は、現代の日本人とは違って「甘え」は許されなかった。
 武士道は、滅私奉公を美徳として、甘えや曖昧を排除していた。
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 日本民族の歴史は、10代、20代、30代が動かし、40代、50代、60代はその指示に従って生き残るか死んでいった。
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 2023年1月9日 YAHOO!JAPANニュース 歴史人「【成人の歴史】現在は18歳。戦国時代を生きた徳川家康は14歳で成人していた⁉
 現在では法律ですべての国民が同じ年齢にて成人となることが当たり前だが、かつてはどような決まりや催事があったのだろうか?
 2023年もいよいよ幕開け。新年を迎えてすぐの催事といえば「成人式」である。日本では2022年4月に成年年齢が20歳から18歳に変わり、様々な議論が起こったのは記憶に新しい。公職選挙法の選挙権や、憲法改正国民投票投票権の付与、また携帯電話等の各種契約の権利、といった事項が若年化された。これからも「成人」という概念は時代とともに変わっていくだろう。ここではこれからではなく「成人」についての歴史について語る。現代とは違う時代の「成人」とはどのようなものだったのだろうか?
■昔、年齢は規則化されているわけではなかった
 現代の成人式にて対象となる若者層、少し前までは20歳が成人と制定されたのは、明治9年(1876)のことである。その後、明治23年の旧民法、同29年の民法にも引き継がれ、現在の成人制度の土台となっている。
 式典としては、いわゆる「成人式」のはじまりは昭和に入ってからであり、埼玉県蕨市にて執り行われた「青年祭」が基となっている、というのが定説である。以来、成人たちを社会全体で祝おうという活動が広がり、全国に広まりつつ、制度化されていった。
 今でこそ当たり前となった、成人に関する各出来事であるが、それでは昔はどうであったのか。令和の世では、成年が2年ばかり短縮することとなったが、奈良時代には、さらに若い時に立派な大人として認識されていた。いわゆる「元服」である。
 起源的には、中国における成人儀礼の習わしが発端とされている。我が国においては、奈良時代以降、時代や地域によって形態の変化はあるもの、脈々と受け継がれてきた儀式であり、常態化され始めた頃は、各家で催されていた。
 当時、年齢は規則化されているわけではなかったが、下限でおよそ12~13歳、上限としては16歳頃が目安となっていたとされる。近代と比較すると、かなり若かりし頃に成人と認められていたようだが、その背景には、平均寿命が短かったことがあるやも知れない。
 元服儀礼は「公家」と「武家」において、その内容を異なるものとしていた。前者は、特に天皇家が最も盛大であり、冠を頭首に加え、理髪する、といった役は、上位の者から順番に与えられ、階級により各々の使役は厳密に定められていた。
 後者、武家においては、もっぱら冠の代わりに烏帽子(えぼし)が用いられた。帽子をいただく者と与える者は、親子、もしくはそれに準ずる主従関係であることが通例であった。戦国時代以降は、露頂の風潮が広まるにつれ、儀式自体も簡素化されていった。
 特に戦国の乱世では、元服の儀式は、一人前の武将と認められた証とされた。元服を終えたことにより、何千もの軍を率いて、初陣を迎えた武将は大勢いた。戦場で刀を振るい、隊を率いた若き将が、群雄割拠する姿が見られたところである。
 時を少し進める。江戸という一時代を築き上げた祖・徳川家康(とくがわいえやす)について、元服に関する以下のような史実がある。徳川氏創業の事績を記した資料の一つである『松平記』に見られるが、名の変更と共に、名実ともに誰の元に位置付けられるか、家という単位を考えるに、大変興味深い内容である。
 弘治元年(1555)年に14歳となった「竹千代」(のちの家康)は、人質として預けられていた駿河戦国大名今川義元(いまがわよしもと)の下で元服し、「松平次郎三郎元信(もとのぶ)」と名乗ることとなった。義元の一字「元」を与えられ、改めて義元と主従関係が明確化、今川氏配下になったことを意昧した。
 このように、各時代に合わせて、変容を見せてきた成人に関する儀であるが、元服の世であれ現世であれ、継承されてきた事実は、子の成長を祝う者たちの気持ちは変わらない、という証左であろう。ただ実際には、式典での不届きな参加者が報道される等、恥ずべき行為は厳然と存在している。
 成人式を迎えるにあたっては、元服という言葉の趣旨、また当時の目的や意図に思いを馳せ、大人としての責任を負うこと、次世代の若者の手本となることを、改めて心に念ずる機会としたいところである。もちろん成人後、時間が経過している「大の大人」も含めてだが。
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 1月15日 YAHOO!JAPANニュース 幻冬舎ゴールドオンライン「戦国時代の人質の半数は殺害!徳川家康はなぜ生き延びたのか?
 NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公の徳川家康は、幼いころから「ひたすら耐える生き方」を身につけ、堂々と意見を述べても命令には逆らわず、忠誠を尽くし、忍耐強く、裏切りません。今川義元は、家康のこうした性格を知り尽くしていたのです。作家の城島明彦氏が著書『家康の決断 天下取りに隠された7つの布石』(ウェッジ)で解説します。 
 初激突は信長27歳、秀吉24歳、家康19歳
■三英傑が初激突「桶狭間の戦い
 織田信長豊臣秀吉徳川家康が「戦国の三英傑」と呼ばれ、日本史上に燦然と輝くヒーローであることはよく知られているが、彼らが敵味方に分かれて初めて「合戦」という名の同じ土俵に上がったのは1560(永禄3)年5月、今川軍(今川義元)と織田軍(織田信長)が激突した「桶狭間の戦い」だったということは、案外、知られていないのではなかろうか。
 桶狭間の戦いは、駿河遠江三河の三国を領有する戦国大名今川義元の「上洛戦」だった。表現を変えると、「100万石の強大国主が、都へ進軍する通り道にある20万石の弱小国主を叩きつぶそうとした戦」ともいえたが、結果は読者諸兄がご存じのとおり、迎え撃った信長が義元の首を取って勝利し、戦国の勢力地図を一気に塗り替えることになる。
 ここで知っておきたいのは、戦史的な評価としては、信長・家康の同盟軍が新兵器の鉄砲を使って武田勝頼を破った「長篠の戦い」よりも、信長が今川義元を撃破した「桶狭間の戦い」の方が難しい合戦だったいうことである。
 当時の三英傑の年齢は、次のようだった。
 信長27歳、秀吉24歳、家康(元康)19歳。
 家康は当時松平元康という姓名で、「今川家の人質」となっていた関係で、今川義元の命によって参戦し、秀吉は「日吉」という名で、信長の「足軽組頭」として参戦した。
 今川軍……家康
 織田軍……信長、秀吉
 若き日の戦国の三英傑は、こういう形で敵味方に分かれて戦ったのである。
 3者の合戦体験年齢を比較すると、初陣が信長14歳、家康17歳なのに対し、秀吉はこの戦が初陣とかなり遅かったのは、武士の家系である信長や家康と違って、農民の倅という出自と関係があった。
 家康は、17歳の初陣以後、生涯で50数回(諸説あり)もの戦に出陣することになる。そのなかには、小さな合戦もあれば、大きな合戦もある。「六大合戦」と呼ばれるのは、29歳のときの「姉川の戦い」、31歳のときの「三方ヶ原の戦い」、34歳のときの「長篠の戦い」、43歳のときの「小牧・長久手の戦い」、そして59歳のときの「関ヶ原の戦い」、73歳から74歳にかけての「大坂の陣」で、勝敗は5勝1敗だった。唯一の敗戦は、死にかけた三方ヶ原の戦いである。
 一方、信長は、13歳のときに元服し、幼名の吉法師から三郎信長と名を変え、翌年14歳で初陣を飾った。そのとき6歳だった家康は、信長の父信秀の手にかかって織田家の人質に取られたから、その頃から信長と家康は互いの顔を見知っていたということになる。
 ところが、信長が16歳のとき、庶兄の信広が今川方に捕えられる事件が発生、「捕虜交換」という形で決着をみたことから、家康は今川義元の人質となって駿河へ連れていかれた。織田家での人質期間は家康が6歳から8歳までの約2年だったが、今川家では8歳から19歳まで足かけ12年にも及び、桶狭間の戦いを迎えることになったというわけだ。信長と家康の間には、そういう因縁浅からぬ関係があった。家康の人質に関しては、改めて詳しく後述する。
 織田家では、信長が18歳のときに父信秀が死去し、家督を継いだ。
 家康の松平家では、父広忠・祖父清康がともに家臣に殺され、凶行に関係した刀剣が伊勢国三重県)桑名の刀工「村正」の作だった。この事件が“妖刀村正伝説”の生まれる発端である。父は24歳、祖父は25歳という若さでともに不慮の死を遂げたことが、家康の性格の主要な部分をなす「用心深さ」につながり、健康面では自ら漢方薬を調合する晩年の〝健康おたく〟へと発展する。
 “大器の片鱗”を感じさせる元康の才能
 一方、秀吉は、尾張の国(愛知県西部)の愛智郡中村という村の農民木下弥右衛門の倅だったが、「戦国乱世の時代を逆手に取って、武士になって立身出世を遂げよう」との野心に燃え、しかも仕事ぶりがまじめで、頭もよく、といっても秀才のような賢さではなく、頓智が働き、機転がよく利く頭のよさで、おまけに剽軽で憎めないネアカな人柄ときたから、信長に気に入られて織田家に仕官する道を見つけた。
 そういう出自だったから、武士のような元服式もなく、織田家に仕官できたのは22歳と遅く、24歳での初陣となった次第である。
■大器の片鱗
 14歳で元服して「松平元信」と名乗った家康は、2年後には今川義元の姪(瀬名姫、のち築山殿)と結婚し、名を「元康」と改め、前述したように3年後には17歳で初陣を飾ることになるが、その仔細は次のようだった。
 「寺部城の城主鈴木重辰が、織田方に寝返った」との報を受けた今川義元は、ただちに城の奪還に立ち上がり、その役目を人質の松平元康に命じた。西暦では1558年のその年、改元が行われ、弘治4年が永禄元年となった2月初旬のことである。
 元康は、義元の許可を得て岡崎城(愛知県岡崎市)に里帰りすると、諸将を一堂に集め、「2月5日を期して寺部城(愛知県豊田市)へ討って出る。わが初陣ぞ」と宣言した。
 その日が来るのを一日千秋の思いで待ち焦がれていた老臣たちは、逞しい姿に成長した若殿を見て、一斉に大歓声を上げ、感涙にむせび、闘志をたぎらせたが、寺部城の攻略は赤子の手をひねるようにはいかない。寺部城主の鈴木重辰は、広瀬城主の三宅高清と手を結んでいるし、挙母城(豊田市)、梅坪城(同)、伊保城(同)といった諸城とも敵対している。そのあたりのことは、松平家の家臣たちもよくわかっていた。
 今川義元は、当初、家臣を前に「誰か、寺部城を攻略する者はおらぬか」といった。百戦錬磨の強者が何人もいたが、言を左右して誰も名乗りを上げなかった。その理由は、はっきりしていた。寺部城攻めは、誰もが二の足を踏む〝危険と背中合わせの任務〟だったからだ。
 家臣たちが引き受けようとしない命がけの厄介な任務を、なぜ義元が合戦経験が皆無の17歳の少年に命じたのかといえば、「元信が人質だったから」。このことにつきる。
 戦国時代の人質の半数は殺されている。神坂次郎『徳川家康』(成美堂出版)によれば、戦国期の人質50件は、以下のようだった。
 生きて返されたもの 22件
 奪回したもの 3件
 自力で脱走に成功したもの 2件
 虐殺されたもの 23件
 元康は、そういう情報を早くから知っていたのかもしれない。幼いころから「ひたすら耐える生き方」を身につけ、堂々と意見を述べても命令には逆らわず、忠誠を尽くし、忍耐強く、裏切らない。今川義元は、元康のこうした性格を知り尽くしていたのである。
 だが、その一方で義元は、“大器の片鱗”を感じさせる元康の才能に早くから着目して目をかけ、義元が軍師としてあがめていた叔父で臨済宗の僧雪斎から兵法などを学ばせていた。
 表面的にはそういうことだが、一筋縄ではいかない義元のこと、“したたかな計算”が働いていたと考えるべきだろう。嫡子の氏真は親の目から見ても“暗愚”としか思えず、行く末を案じて元康を補佐役候補として思い描いていた節もある。
 城島 明彦
 作家
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