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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
人間に過ぎない教祖・聖職者・宗教指導者を神として崇め信仰し金品や土地を強奪し殺人を神聖な行為として繰り返するのは、カルト宗教、宗教原理主義、宗教テロリスト、宗教ファシズム、宗教的反社会集団、宗教的詐欺集団、その他である。
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2023年1月19日 YAHOO!JAPANニュース 現代ビジネス「「人間は神様じゃない」立ち止まり、やり直しできる場所が社会には必要だ
街の牧師として、市井の人々の様々な相談に乗ってきた沼田和也牧師。かつて精神を病み、自身も苦しんだ経験を持つ沼田牧師の元には、救いを求めて老若男女問わず多くの人が訪れる。
【写真】「人間は神様じゃない」 立ち止まり、やり直しできる場所が社会には必要だ
最新の著書「街の牧師 祈りといのち」では、宿を求めて繁華街で男をラブホテルにさそう少女、完治が難しい疾病で苦しむ患者、深夜に自殺したいと電話を掛けてくる人――ひとり悩みを抱える人々との出会いや対話を重ねていく様子が描かれている。
後編では「やり直し」に厳しい社会に疑問を呈し、人間は神様ではないからこそ、そういった人たちが再起できる居場所が社会に必要だと語ってくれた。
自分自身の中に潜む差別心と闘う
わたしは高校3年生の春から不登校になり、そのままひきこもってしまいました。その後、かろうじて大学には進学したのですが、そこもまた中退してしまったんです。その後ようやく、牧師になる機会を得はしました。しかし牧師になったわたしが「人間、誰でも再起できる!」と言ったとして、これは成功者バイアスの一つといえると思うんですね。
そもそもひきこもり当事者にとって、ひきこもりのなにが苦しいかというと、挽回のチャンスがないと感じることじゃないでしょうか。以前に電話でひきこもりの方から相談を受けていたのですが、そのとき感じたのは、周りの同世代が就職や結婚・出産などの経験をしていくなかで、自分だけはなにもないと。その辛さなんですね。
わたしも無職のときに、置いてけぼりにされたような気持ちになりました。自分だけがまともじゃないって思ってしまうんです。
牧師として、日ごろどんなに「差別はいけない」と伝えていても、結局は過去の自分のことを「まともではなかった」と思っている。教会にはさまざまな方が来られますから、ときには内心、「この人まともじゃないのでは」と思ってしまうことがあります。
そのたびに、このような差別意識が自分自身にこびりついていることにショックを受けますね。これは牧師に復帰してから、ずっと葛藤していることです。
すぐに答えは出せない、悩む時間が必要なこともある
この仕事をしていると、とてももどかしい時があります。精神的に追い込まれている人なんかがですね、「もう待っていられないんです! 今日明日にでも変わりたい。いったいどうしたらいいんですか!」と。
でも、それには答えられないんです。これから少しずつ、時間をかけて、苦しみを分かちあっていきませんかと。それがわたしのスタンスです。でも、切羽詰まった人には、そんな悠長なことは言っていられない。教会に来る人の誰もがわたしの考え方に納得してくれるわけではありませんから、幻滅して去っていく人も多いですね。
会社でもなく学校でもない、第三のコミュニティみたいなことがよく言われますね。でもそんなコミュニティをつくるのは簡単なことではありません。自由気ままにというのが理想なのかもしれないけれど、ある程度の強制力を伴わないと続かないんですよね。
わたしの親友に、埼玉県川口市で教会を開いている進藤龍也という牧師がいます。雑誌やテレビなど、メディアにも頻繁に登場していますから、ご存知の方もおられるかもしれません。
彼はかつて覚醒剤の密売人であり、自身も依存者でした。そして逮捕され服役中の牢獄で、キリストと出遭ったのです。出所後、彼は牧師になる勉強をしながら、教会をゼロから始めました。現在の教会に至るまでに、じつに出所してから20年、教会を始めてからも17年かかっているわけです。一人の人間の人生のなかで、気が遠くなるような長い時間ですよ。
昨日今日で人生が変わるというのは、難しいことです。進藤龍也という人間でいえば、こんにちの彼になるまでに、それだけの葛藤の時間が必要だったんです。それはわたしにも言えることです。
人間は誰しも神様じゃない
じつは、わたしは今も精神科病院で、月1回のカウンセリングを受けています。あるとき、臨床心理士がこんなことを話してくれました。「わたしは臨床心理士として、沼田さんとこの病院という決まった場所、そして決まった時間内で、あくまで仕事の一環としてお話をしています。でも沼田さんは教会が自宅で、夜中でも相談の電話がかかってくることもある。わたしの仕事とは全然違うし、だから仕事のクオリティにばらつきが出るのは当たり前ですよ。」そんなふうに言ってもらえて、心の底からほっとしたことがあります。
教会に泊めたホームレスの方に重度の精神障害があって、わたしの声かけが不適切だったのでしょう、その人がパニックになってしまったので、やむをえず警察を呼んだこともあります。警察を呼んだのは、じつはわたしも怖かったからです。見知らぬ人を助けることは怖い。緊張する場面は今もなお何度も起こり続けています。
先ほどの進藤牧師は「九州3児遺体事件」の田中涼二被告の証人として法廷にも出ています。田中被告は元暴力団員で、事件を起こす前、進藤牧師の教会に通ったことがあるからです。彼が教会であまりにも問題ばかり起こすので、進藤牧師は彼との関係を一度断ちました。
けれども彼がこのような事件を起こしてしまったことを受け、改めて支え直しているんです。でも世間はそういう進藤牧師のことを「あの進藤というのは、やっぱり元ヤクザなんだな。同類相憐れむってやつか」と。そういう目で見る人も多いようです。親友として、とても悲しいことです。
少し話が逸れますが、虐待死が起こると児童相談所がよく非難されますよね。しかし児童相談所は慢性的な人手不足の上に、なかなか一筋縄ではいかない家庭問題を相手にしているわけです。さまざまな家庭と向きあうなかで、職員の方はつらい思いをすることもたくさんあると思います。
人間は神ではありません。神ではない人間が、人間を完璧に保護することは不可能です。しかも他者の家庭に介入しなければならないんです。こんなに困難な課題が増えているなかでよく頑張っておられると、ずっと思っています。
ハウスはあっても「ホームがない」現代人
親友の進藤龍也牧師とは別に、わたしが尊敬してやまない人に奥田知志という牧師がいます。福岡県北九州市で抱樸というNPO法人を運営しています。現在は暴力団の工藤会の跡地を買い取り、そこに複合型社会福祉施設を作ろうという「希望のまちプロジェクト」を立ち上げています。
ちょっと漢字が難しいのですが抱樸の‟樸”とは原木のことだそうです。「こんなやつとはつきあいたくない」っていう、社会の片隅にうち棄てられ、ささくれだった生木のような人。そんな人を抱きしめたらささくれがチクチク痛いのに、それでも抱きしめる、つまり関わろうとするという意味らしいんですね。困難にある人を助けようとするときに、メディアでは伝えられないような、苦しくネガティブなことはいっぱいあると思います。
この奥田先生が、以前にこんなことをおっしゃっていたんですね。いわゆる家がない人のことを指してホームレスというけれども、彼らはハウスレスなんだと。いっぽうで外面的なハウス(家)はあるけれども、心理的に安心できる「ホーム」はない、そんなホームレスがいっぱいいるのだと。
外で働いていたら、その社会的な役割を求められるし、家では家での役割を求められる。ハウスはあるかもしれないけれど、どこにもホームはない。これではどこかで限界が来ても全然おかしくないというのは、まったくその通りだと思います。
「やり直し」できる居場所が社会には必要
進藤龍也牧師の教会では、覚醒剤などで過去に逮捕歴のある元受刑者の人や、洗礼を受けたばかりのヤクザの人が、いわゆるカタギの人と一緒に礼拝しているんです。とくにお互い遠慮しすぎたりすることもなく、ごくふつうに、自然に。
元受刑者の人にはどういう過去があるのか、言える範囲で言ってもらうというのが進藤牧師の方針ですね。「自分はやり直し中です」というのを周りに受け入れてもらって、理解してもらわないといけないから。なにか困ったことが起こったときに独りで抱え込まないように、あらかじめ課題を共有しているんですね。
もちろん時々はトラブルもあるんですけど、彼の教会のありかたを見ていると、どんな人でもやり直すことはできるのではないかと、本気で感じるんです。
週刊現代(講談社)
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