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2022年12月15日 YAHOO!JAPANニュース AERA dot.「女医会120周年式典で講演を務めた “重すぎる扉を開いた”歴史に圧倒、女性たちの闘いは今も続く〈dot.〉
公許女医50周年を記念したイベント(昭和11年)・日本女医会提供
作家・北原みのりさんの連載「おんなの話はありがたい」。今回は、日本女医会120年の歴史について。
【写真】北原みのりさんはこちら。
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日本女医会(女医会)が設立されて、今年で120年になった。そして……なぜか……先日行われた栄えある女医会創立120周年記念式典で、私が記念講演をする機会をいただいた。身に余る栄誉なことなのだが、当日の講演前の私の写真を見ると、あまりの緊張に顔がこわばり、指先がピンと伸びてしまっている。医師として頑張ってこられたたくさんの女性の前で話すことはもちろんだが、120年の歴史を思えば思うほど、その重みに圧倒されるような思いになったのだ。
日本で女性の公許医師が誕生したのは1885(明治18)年、産婦人科などの医師・荻野吟子だ。よく知られているように、医師を目指した理由は夫からうつされた淋病だった。たった10代で親の決めた男と結婚させられ、淋病に感染し、2年後に実家に戻される。結婚も離婚も自分の意思ではかなわない時代に、治療にあたるのは男の医師ばかり。医師となって自分と同じ境遇の女性たちを救いたい、という強い思いで医師免許取得を果たしたのだ。
その前年には、高橋瑞子という女性が、野口英世も後に通う済生学舎という医学学校(日本医科大の前身)に入学する。女子の入学を認めていなかった医学校の校門に三日三晩立ち続け、校長の長谷川泰に直談判し入学を認めさせた。
女医会の歴史は、そんなふうに“重すぎる扉を開いた”女性たちの人生そのものだ。女医会が残した資料の大半は、関東大震災で焼失してしまっているのだが、それでも定期的に出版されていた会誌では、女性たちが生き生きと語り、自分たちの記録を残し、後続の女性たちに向けての場を広げようとしていた医師たちの姿がよみがえる。特に、大日本帝国憲法が発布された明治20年代は、急速に天皇を長とした家父長制機運が高まり、女性たちは公の場からどんどん排除されていくバックラッシュの時代でもあった。明治10年代は新しい時代への希望とともに、女性の弁士などが活躍することもあったが、20年代になるとそういう機運も失われていく。そういうなか、国会傍聴を女性に禁じた法律に対し、荻野吟子もメンバーだった矯風会(日本で一番古い女性団体)が大暴れして女性の傍聴権を認めさせるなど、女性の締め出しが激しくなるほど、女性たちの連帯が強まる時期でもあった。
残された資料は雄弁だった。「昔を振り返る」座談会などでは、男子学生と学んだ女性たちがどれほど嫌な思いをしたかが残されていた。明治初期は、公娼制度が整えられ、年齢や身分を問わずに、男ならば女を買え、という「文化」が急速に広まった時代でもある。済生学舎の男子学生たちも授業が終わると塀を跳び越えて、吉原などに遊びに行ったというエピソードが残されており、そういうなかである日、このような演説が男子学生によって行われたことがあった。
「この神聖な済生会に女子の入学を許しているとは、我々男性としてまことに愾憤に堪えない。彼女たちはこの学校の組織に食い込み、学生を腐敗と堕落に導くことの特異性バクテリアである。済生会の風紀を維持するためにも、一日も早くこのバクテリアを駆逐しなければならない」
この済生学舎はその後、突如女子学生の入学を禁じ、在校生の女性も追い出してしまう。その受け皿をつくらなければ、と動いたのが、自身も済生学舎で学んだ吉岡彌生、東京女子医科大の前身である東京女医学校の創立者だ。自身も、景山英子や岸田俊子ら、民権運動で活躍したモノ言う女に憧れた女性であり、そして「女医の命脈を絶やしてはならぬ」という強い思いで女子が女子だけで医学に集中できる場所をつくったのだ。
そのような女性たちが立ちあげた女医会の歴史を、国会図書館で読みふけっていると、自然に自分の呼吸が荒くなっているのを感じる。今、どのくらい昔と変わったんだろう、私たちはどれだけ生きやすくなっているんだろう。女性を一律減点していた差別入試が発覚したのはたった4年前のことだ。そのときに「女性は妊娠し、出産するから」と差別を肯定するようなことを言う人は少なくなかったが、明治時代も、「妊娠して休む女は、人命を委される医術には不向きだ」とか「女が高等教育を受けると独身になり、子どもを産む女が減る。ひいては国家滅亡だ!」と騒いだ男性ジャーナリストたちの姿が、女医会の会誌には残されていた。他にも「月経中の女が手術室に入ると穢れる!」「手術して血を見ることが平気な女が増えると日本の美徳が壊れる。国家滅亡だ!」と騒がれた記録も残っている。しかも、こういうことをわざわざ、女子の医学校の卒業式に行ってヤジを飛ばすなど、嫌がらせをするのである。……え、今もそういう感じ、あるよ!?
最近のSNSなどで、フェミニストやモノ言う女たちへのバッシングが激しくなっているのを感じる。わざわざ女だけが集まる場にいって嫌がらせをするアンチフェミな機運は、明治時代からあまり変わっていないのではないか。荻野吟子をはじめ、社会的地位を自ら勝ち取った女性たちが、男たちに買われる若い女性たちのために尽力し、公娼制度を禁止するために激しく運動するような状況も、今もまだ継続している闘いなのではないか。デジタル化された古い資料を国会図書館のパソコンで見ながら、体が熱くなるのを感じる。男女平等の憲法はある、法的な権利はそれ相応に得ている、そもそも公娼制度は戦後アメリカによって強制終了させられている。でもなにか根本的なところで……明治とどのくらい違っているの?
女医会の歴史は戦後ももちろん続く。戦争中はナチス・ドイツの女性たちとの交流を持ち、長いあいだ女医会会長を務めた吉岡彌生は、八紘一宇への熱い思いを感極まったふうに記すような文章を残し、戦後は公職から追放される。一方で、女医会の再開には最後まで力をいれ、1955年に活動が再開されてからは女性医師たち、研究者の育成に女医会は一層の力を込めていく。4年前の女性差別事件発覚のとき、女医会会長の前田佳子先生が率先して声をあげてくださったことは本当にありがたかった。その前田会長は120周年記念式典で、日本のジェンダーギャップのあまりの酷さを語り、「異次元のスピードでジェンダー平等をなしとげよう」と宣言されていた。異次元のスピードで動かないかぎり、この遅れは取り戻しようがないところまでいってしまっている、ということだ。
同じ職業を持つ女性たちが励まし合い、後続の女性たちに道をひらき、そして前を歩いてきた女性たちを記憶し、社会貢献しようと努める。そのような女医会が120年前につくられた。その事実は、あまりにも尊い私たちの希望なのだと思う。女性だけで集まる時代なんて古い、という声も聞こえてくるが、まだまだ女性たちがその領域を守り、声をあげなければいけない現実はあるだろう。1930年代、“東京女子医科大”があったおかげで、日本はアメリカ、ドイツに次いで世界で女性医師の多い国だった。それが今、最底辺レベルをうろうろしている国になっている。だからこそ、である。
と、120年前と今、様々な思いを交差させながら女医会の講演を務めた。かなり緊張しましたが、その様子は女医会のHPで公開していますので、見てください――。
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166 日本医史学雑誌 第 64 巻第 2 号(2018)
江戸時代における大坂の女医
鈴木 則子
奈良女子大学
江戸後期,相撲番付になぞらえた様々な番付表の出版が流行した.たとえば料理屋番付や全国の温泉地番付などがある.料理屋や温泉地の名を東西に分けて大関から小結まで格付けして列挙する.そういった番付の一つに医師の番付表もあって,京・大坂・江戸と,都市ごとに出版されている.大坂の医師番付で注目されるのは,人数は少ないながらも女医の名が見えることだ。
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公益社団法人 日本女医会
since 1902
Japan Medical Women's Association
日本女医会は1902年に前田園子が創立して以来、医学に関する調査研究、医療の普及、女性医師相互の連携などを旨として活動を続けている女性医師の団体です。
日本女医会の歴史と役割
日本女医会は1902(明治35)年に、公許女医第12号の前田園子の尽力により、当時全国で医術開業試験に合格した約100名の女医たちが、女医の育成、地位確保と研鑽を目的として創設されました。
1969年には社団法人の認可を取得し、2012年4月1日より公益社団法人として新たな一歩を踏み出しました。
会員数は1597名(2012年3月現在)で、若い研究者のための学術研究助成、表彰(吉岡弥生賞、荻野吟子賞)、健康に関する啓発事業、若い女性医師や次の世代を担う医学生のキャリア継続支援、災害時救援活動、等の公益目的事業を通して社会に貢献しています。本会の会員になりますと同時に国際女医会の会員として認められます。
国際女医会は3年毎に加盟国において国際女医会議を開催し、各国の女医が一堂に会して一定のテーマを討議すると共に、親睦を深めております。日本女医会からは小野春生先生(昭和22年東京女子医大卒、小児科)、平敷淳子先生 (昭和39年東京女子医大卒、放射線科)の2人の国際女医会会長を輩出し、1976年、2004年に東京において国際女医会議を開催しました。わが国の医療情勢はますます厳しさを増して参ります。私たちはお互いに手を携えて助けあい、女性医師の精神的拠り所として、オピニオンリーダーとして、女性医師のキャリア継続のためのメンターとして活動し、社会に貢献したいと考えております。
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ウィキペディア
女医(じょい)は、女性の医師のことである。
日本の女医の歴史
平安時代に記された令義解には、「女医」の語が見え、女医が規定されていた。女医 (律令制)を参照のこと。
1875年に法制化された医術開業試験制度がなかった時代から、榎本住(1816年 - 1893年)ほか何人かの女性医師が開業していたが、同試験に基づいて国家資格を取得した日本人女性初の医師は、1885年に合格した荻野吟子である。荻野以後、1886年に生沢くの、1887年に高橋みつが合格して開業し、明治末年までに日本国内で医籍に登録された女性医師は、外国人を含めて約240名がいた。
1903年に医籍登録した福岡出身の井上トモは、クリーヴランド医大からミシガン大学医学部を卒業して日本で開業していた[4]が、1912年に極東旅行をしたミシガン大学理事のレヴィ・ルイス・バーバー (Levi Lewis Barbour) は中国で働く同大出身のアメリカ人女医や日本の井上のことを知り、帰国後は同大にアジア女性のための奨学金制度(バーバースカラシップ)を設立した。
女医の団体としては、1902年に日本女医会が設立され、今も活動を続けている。
2018年には医学部不正入試問題が発覚した。
著名な女医
野中婉 - 江戸時代の女医
榎本住 - 江戸時代の女医
楠本イネ - 江戸時代の女医。シーボルトの娘
高場乱 - 江戸時代の女医
荻野吟子 - 日本初の公許女医
生沢くの - 日本で2人目の公許女医
高橋みつ - 日本で3人目の公許女医
丸茂むね - 日本初の女性病院院長(日本で7人目の公許女医)
吉岡彌生 - 日本初の、女子を対象とする旧制医学専門学校(現:東京女子医科大学)の創立者(日本で27人目の公許女医)
右田アサ - 日本初の女性眼科医
宇良田唯 - ドイツの医学士号を取得した初の日本女性
宮川庚子(1900-1993) - 日本初の医学博士号取得者(1930年)
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