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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本人は、歴史、文化、伝統、宗教・神話が嫌いで、大事にしないどころか破壊し、高く売れると分かれば如何に由緒ある貴重な文化財であっても高値で外国に売り飛ばした。
つまり、日本人の関心事は金・金儲けだけである。
それが、日本人の本性で、その傾向は現代日本人に強い。
歴史的証拠が、明治の仏殺しの廃仏毀釈と神殺しの神社合祀令、そして天守閣・御殿破壊の廃城令であった。
強欲な日本人は、国宝級の文化財を売って金にかえた。
現代日本でも、神殺し・仏殺しはイデオロギーで静かに見えないところで進められている。
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マルクス主義系マイノリティ・ファシズムとは、反宗教無神論と反天皇反民族反日本で日本文明・日本文化の破壊者である。
日本文明とは、数万年前の旧石器時代・縄文時代を源としている。
日本文化とは、数千年前の弥生時代・古墳時代を源としている。
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1847(弘化4)年 マルクスとエンゲルスは、プロレタリア革命を広める為に共産主義者同盟の綱領を起草して、共産党宣言を行った。
マルクス主義、社会主義、共産主義は歴史の浅い、反宗教無神論の新しいイデオロギーである。
極左組織フランクフルト学派の哲学者達は、1930年代後半にアメリカに亡命した。
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日本人は、賢くもなく、優れてもいないし、秀でているところもない、唯の低欲・俗欲に塗れた愚な凡人でしかない。
日本は世界で信用され、日本人は世界で愛されている、はウソである。
その傾向は、現代日本と現代日本人に顕著である。
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明治6年、廃城令。
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刀剣ワールド 城日本の城用語集廃城令
廃城令 はいじょうれい
廃城令とは、1873年(明治6年)には明治政府から発せられた「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)の通称である。廃城令の他に、城郭取壊令や存城廃城令などと呼ばれることもある。当時存在していた各地の城について、政府の陸軍が兵営地などとして使う軍事用施設にするか、あるいは政府が売却用の財産として処分するか、どちらかに分けられた。前者は存城処分、後者は廃城処分と言う。いずれも、区分後に取り壊された城がある一方で、存城処分に指定されていた兵庫県の姫路城や、廃城処分となっていた愛知県の犬山城などのように、それぞれの事情から現存する物もある。
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廃城
ウィキペディア
日本における廃城
廃城(はいじょう)とは、城が城として使われなくなること。また、その城のこと。
廃墟となった城という意味では荒城ということもある。
日本における廃城
日本では中世に各地に居館や城郭が築城され、特に戦国時代には数多くの中世城郭が築城された。戦国時代は戦国大名や国衆など地域勢力が領国支配の本拠を定めるが、戦国大名は地域統一の過程で本拠を移すことが多く、移転前の本拠は継続して存置されることもあるが、廃されることも多かった。また、合戦を経た後に領主が変遷すると支配拠点の移動により廃城となるケースも多い。
近世には豊臣政権や江戸幕府などの統一権力が地方大名の転封を行い領主が変遷し、支配拠点の移動や近世城郭の新たな築城が行われ、この過程で廃城となった城郭も多い。また、1615年(元和元年)には一国一城令が発せられ、多くの城郭が廃城となった。
山城など築城年代の未詳や小規模な城郭については築城・廃城の歴史的背景が不明のものも多く、廃城後も村落の生業拠点や信仰の場、あるいは史跡として利用される城郭も存在する。
近世城下町の多くは近代にも地方の県庁所在地となり、1873年(明治6年)の全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)により近世城郭の多くが廃城となり、城郭の郭内や武家地などは収公され官公庁用地として開発された。ただし、引き続き軍事施設として利用するか、廃城とするかの処分によって廃城となった城もある。
当時の建物が現存しないことが廃城の状態ということではなく、存城となっても建物の多くまたは全てが売却によって破却や移築するなどして撤去されることがあった。第二次世界大戦まで、熊本城や若松城は存城であり、現存する建物がある松本城や高知城は廃城とされていた。
現在では、全ての城は事実上の廃城であり、一般的に遺跡・文化財として扱われている。建物が現存する城などでは観光地として利用されており、現存建物のない一部の城においては、地元の有志によって観光等の目的で天守などが復元されていたりする。
詳細は「天守の一覧」を参照
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城びと
2021/06/14
超入門! お城セミナー
第114回【歴史】明治時代にお城がたくさん破壊されてしまったって本当?
お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは廃城令。かつて全国には3000にも及ぶ城が築かれ、数百基の天守が建っていました。しかし、現在まで残った天守はわずかに12基。なぜ、無数に築かれた城は激減してしまったのか。その大きな原因となった「廃城令」について解説します。
井伊家の居城・彦根城は廃城令で存城となり、老朽化した天守は破却されることになってしまう。しかし、彦根を行幸した明治天皇が名城を惜しみ保存が決まったという(保存を提案したのは、随行していた大隈重信だったとも)
破却か保存か…、城の命運を分けた「廃城令」
関ヶ原の戦い後、天下人となった徳川家康によって江戸幕府が開かれ、日本は戦国乱世から合戦のない平和な世へ向かっていくわけですが、先の天下人の一族である豊臣家を壊滅させるための決戦が、近い将来必ずあると見ていた大名たち。これに備えて地方に国替えになった豊臣恩顧の大名を中心に全国で多くの城が築かれ、そしてこれらの大名を抑えるため、幕府主導の天下普請の城も築かれました。これがいわゆる「慶長の築城ラッシュ」。この築城ブームによって、建ちも建ったり全国に約3000もの城が林立していたとか。もちろんすべてに天守があったわけではありませんが、それでも江戸時代までに数百基もの天守が建てられたといいます。
松本城
国宝天守の一つである松本城。松本藩の政庁として幕末まで存続するが、近代に入ると売却や倒壊に危機に直面する
でも、現在残っている天守は、全国にたったの12基だけ。これは一体なぜなのでしょうか? 城激減の大きな理由の一つは、豊臣家の滅亡後に出された「元和の一国一城令(本城以外の城が廃城となる)」と「武家諸法度(城の新築禁止。修理も許可制となる)」です。このお達しで、この時なんと95%もの城が消滅したといいます。その後長い江戸時代を経て明治維新を迎えると、城激減のもう一つの波がきます。これが「廃城令」(または「城郭取壊令」「存城廃城令」)です。実際にはもっともっと長〜いお達し名なのですが、略してこう呼ばれています。
「明治に城がたくさん壊されたらしい」ということは、ちょっとでも城の歴史をかじった人なら知っていると思いますが、今回はその背景や詳細をみていきましょう。
まだ廃城令が出される前、明治維新の時点で日本に存在していた城は193、城持ちではない大名の本拠地・陣屋は127、これ以外の重要拠点である要害が20で、合計340城あったといいます。しかし、幕末維新の動乱による財政悪化で、多くの城が荒廃し始めていました。版籍奉還によって大名所有の土地と人民、そして城も明治政府のものとなりましたが、管理を委託されたのは旧藩主の知藩事。城は巨大建築であるがゆえに老朽化が激しく、屋根は波打って瓦がずれ落ち、壁の漆喰は剥落、板戸や窓枠は外れ、草がぼうぼうに生い茂るといった有り様。また、新政府への反抗運動の拠り所となるのを防ぐために取り壊された城もありました。そして、明治4年(1871)の「廃藩置県」で知藩事という職がなくなり、彼らが東京移住を命じられると、主がいなくなった城はさらに荒廃していきました。
備中松山城
廃城後の備中松山城天守。壁が一部崩落し、屋根に植物が絡まるなどかなり荒廃した様子だ(『観光の岡山』 国会図書館デジタルライブラリーより引用)
そして明治6年(1873)、廃城令が発せられます。簡単にいうと、「城の土地建物は陸軍省の財産だったが、今後陸軍が軍事に使用するものは存城処分。それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡し、売却用の普通財産とする」ということでした。存城処分となったのは、東京城(江戸城/東京都)、仙台城(宮城県)、名古屋城(愛知県)、大阪城(大阪府)、広島城(広島県)、熊本城(熊本県)などをはじめとする43城1要害のみ(諸説あり)。残りはほとんどが廃城処分となりました。
存城=保存ではない! 城郭保存へいたる長い道のり
存城・廃城と運命が分かれた城たちですが、ここで大切なのは、存城=保存ではないということです。あくまでも軍用地としての存続なので、存城となっても、広い場所を確保するために堀を埋めたり、石垣を破壊したり、建造物を取り壊したりという例が少なくありませんでした。逆に、本丸や二の丸など主要部以外の広い曲輪を軍用地としたため、天守などの建造物は残されたという例も。会津若松城(福島県)は前者の例で、存城となったものの、すべての城郭建造物が取り壊されました。姫路城(兵庫県)は、典型的な後者の例です。現在三の丸を囲む堀の外側に建つ市立美術館は、元は明治時代に建てられた軍の倉庫でした。存城となっても、遺構の残り方は一様ではなかったということですね。
会津若松城
存城となった会津若松城。天守は先の戊辰戦争で大きな被害を受けたため、破却処分となる(『会津戊辰戦争』国会図書館デジタルライブラリーより引用)
そして廃城処分になった城の中でも、紆余曲折を経て残された例も。上で古写真を紹介した備中松山城(岡山県)天守は、廃城令後に商家に売却されたものの、その後放置されて荒廃。しかし昭和に入って地元の人たちの努力で修復され、今や山城にある唯一の現存天守として多くの観光客が訪れています。
さて、明治10年前後には、存城処分となり軍用地として存続していても、老朽化によって取り壊しの危機を迎える城が続出しました。この時軍内部や庶民に、初めて城を文化財として残そうと考えた人たちが現れ、これによって姫路城、名古屋城、彦根城(滋賀県)、松本城(長野県)、松江城(島根県)などが取り壊しを免れています。
ところが、昭和4年(1929)の「国宝保存法」公布当初、国宝に指定される城は一つもありませんでした。まだ文化財として真っ先に保存すべきものとしては認識されていなかったようです。しかし翌5年、ついに名古屋城が、そして翌6年に姫路城、岡山城(岡山県)、広島城、福山城(広島県)、仙台城大手門が国宝(旧国宝)に指定されました。一国一城令と武家諸法度、そして廃城令を乗り越えて残った城たちは、やっとどうにか文化財として認められるようになったのです。
しかしこの後、城激減の3つ目の波・第二次世界大戦の空襲によって、広島城・和歌山城(和歌山県)・名古屋城・水戸城(茨城県)など7城もの城の天守、名古屋城本丸御殿、宇和島城(愛媛県)・大阪城・府内城(大分県)などの櫓や城門が焼失してしまったのです。
広島城
旧国宝だった広島城は昭和20年(1945)8月6日の原爆投下で被爆した。天守は爆風に耐えたものの、下層が衝撃でもろくなったために自重に耐えきれず倒壊してしまった
こうしてみると、現在残っている各地の城は、全国に城が林立していた時代からすれば、ほんの一部。でもそのすべてが、奇跡的にたくさんの危機を乗り越えた「超強運」の城なのです。ということで、改めて……もっともっとたくさんの人が、日本の城の魅力に気づいてくれますように……!
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。戦国時代の出来事を地方別に紹介・解説する『地域別×武将だからおもしろい 戦国史』(朝日新聞出版)や、全国各地に存在する模擬天守・天守風建物を紹介する『あやしい天守閣 ベスト100城+α』(イカロス出版)が好評発売中!
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庶民にとって、領主・大名・主君が誰であったも関係ない。
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戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
昔の日本は現代日本とは違って、誰も助けてくれない恐怖が支配するブラック社会であった。
現代流行の小説やドラマとは全然違う、仏も神もいない強欲な人間社会であった。
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日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、日本人を奴隷として買って世界中に輸出して金儲けしていた。
日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上。
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現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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日本人は、悪人、悪党、罪人である。
故に、親鸞はそうした救われない哀れな日本人は阿弥陀仏(阿弥陀様)が救ってくださると、「悪人正機説」で他力本願を説いた。
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日本とくに日本民族では、マルクス主義・共産主義・無政府主義による人民革命は起きない。
もし人民革命が起きるとすれば、日本人から日本民族が消滅もしくは少数派となり外国移民の日本国民に入れ替わるもしくは多数派になったときである。
何故なら、マルクス主義・共産主義・無政府主義とは反天皇反民族反日本だからである。
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明治から昭和初期までに起こした戦争は、領土拡大の侵略戦争ではなく、現人神天皇、神国日本、神仏の子孫である日本民族を、外敵である夷狄(ロシア・中国・朝鮮)の軍事力と邪教(キリスト教)の信仰力から守る為の積極的自衛戦争であった。
が、現代日本はおろか、中国、韓国・朝鮮、ロシアを含む全ての国々、国際世論は、日本を血に飢えた邪悪・凶悪・残忍な戦争犯罪者と認定・断定している。
それが、東京裁判史観=自虐史観=日本人凶悪・残虐・極悪・非道の重犯罪人史観である。
日本民族が最も恐れたのは、石器時代・縄文時代から数万年かけて先祖が護ってきた日本らしさ・日本の国柄・日本の有り様を根底から消滅させる意図を見せていた信仰宗教のキリスト教とマルクス主義・共産主義のイデオロギーであった。
が、現代日本の歴史教育に深刻な影響をもたらしているのが、そのキリスト教とマルクス主義・共産主義である。
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現代の日本人は歴史が嫌いで、昔の日本人とは違って民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、現実に起きていた歴史的事実を認めない。
高学歴のマルクス主義者の中に、残忍な殺人者であるレーニンを信奉する日本人が多数存在する。
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レーニンは、搾取されている貧しき人民を解放する為には世界の共産主義化しかないとの信念から、日中戦争と日米英蘭戦争(太平洋戦争)をプロデュースし、中国共産党・日本共産党にディレクションした。
スターリンは、屈辱的日露戦争敗北の復讐としてレーニンの対日陰謀を実行し、ピョートル1世(大帝)の日本征服の夢を叶えるべく北海道と北方領土4島を武力で強奪しようとした。
中国共産党は、レーニンとスターリンの指示に従って軍国日本を対米戦争に追い込むべく、中国在住の日本人を虐殺していた。
当時の日本人は、戦争を嫌い争う事を避ける現代の日本人とは違い、中国人の非人道的残虐行為に激怒し、惨殺された日本人の復讐・報復を政府や軍部に求めた。
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中国人による日本人虐殺事件は、第1回南京事件、満州ピクニック惨殺事件、済南事件、通州事件、その他など中国各地で数多き発生していた。
日本人は激怒して「暴支膺懲」に暴走した。
日本国内では、中国人に対する偏見・差別・嫌がらせの事例はあっても、暴行・殺害、強姦、強奪といった刑事事件はなかった。
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日本人の共産主義者や無政府主義者は、キリスト教系朝鮮人テロリスト同様に人道貢献と平和貢献をおこなった昭和天皇を惨殺するべく付け狙っていた。
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軍国日本は、戦場で人を殺す戦争犯罪をおこなったが、同時に、戦場で自己犠牲で人を助けるという人道貢献や平和貢献をおこなっていた。
東京裁判は、国際法の正義で、戦争犯罪者と同時に人道貢献や平和貢献をおこなったA級戦犯の陸軍軍人・政治家・官僚を見せしめ的縛り首で殺し、遺灰は遺族に引き渡さずゴミのように尊厳を否定して海に捨てた。
それが、靖国神社問題である。
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戦後の日本共産党を再建したのは、少数の日本人幹部ではなく、朝鮮人共産主義者達で、暴力革命の資金や武器はソ連や中国共産党から提供されていた。
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日本には、大航海時代の中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人による日本人奴隷交易(被害者として)と日本軍部・陸軍・A級戦犯によるポーランド・ユダヤ人難民(数万人)をホロコーストから守ったという人道貢献(実行者として)を世界記憶遺産に申請する資格・権利がある。
これは、日本国家ではなく、生きている日本民族日本人としての責務である。
日本人奴隷交易とA級戦犯の人道貢献には、その事実を証明する・裏付ける公文書・古文書・キリスト教会報告書など歴史的証拠が国内外に数多く残っている。
もし、日本の申請が認められないというのならば、ユネスコとイコモスによる世界遺産・世界文化遺産・世界記憶遺産には存在意義はない、無意味・無価値という事である。
日本人奴隷交易の責任の一端は、乱取りで捕らえた日本人を奴隷として外国人に売った日本人にもある。
A級戦犯が有罪となって見せしめ的リンチ縛り首で処刑にされた罪状は、政治家・官僚・軍人として戦争を始めた平和に対する罪であって、拷問・虐待・惨殺・虐殺を行った人道に対する罪ではなかった。
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西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
バチカン、ローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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良い日本人は2割、悪い日本人は3割、良くも悪くもなく信念を持たず同調圧力で付和雷同的に流される日本人は5割。
右翼・右派・ネットウハと左翼・左派・ネットサハは、悪い日本人である。
戦後民主主義教育で、そうした日本人が急増した。
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日本人は、惻隠の情を持ち心優しく親切である、はウソである。
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日本人は、いい事もしたが悪い事もした。
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日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
日本は世界で信用されていない、日本人は世界で嫌われている、は本当である。
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日本人は賢く優れいている、はウソである。
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自慢して自惚れる日本人は、醜悪なほどに愚かである。
日本人は、しょせん、猿マネである。
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日本人は、過度に褒めるとバカになり、おだて持ち上げると調子に乗って図々しくなる。
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日本人の本性は、論より証拠、百聞は一見にしかず、現代日本人を見ていればわかる。
その代表的な現代日本人とは、高学歴な知的エリートや進歩的インテリ、親中国派・媚中派である。
現代の日本人と昔の日本人とは別人のような日本人である。
現代の日本人は、武士や庶民でもなければ、武士や庶民の子孫でもない。
現代日本には、民族的な武士や庶民は存在しない。
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