🌈38)─1─時間にルーズだった日本人を時間に正確に変えたのは鉄道であった。~No.74No.75 

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 2022年10月17日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「世界一「時間に正確な鉄道」はなぜできた?実はルーズだった日本人を変えたのは…
 © ダイヤモンド・オンライン 提供 Photo:PIXTA
 10月14日、日本の鉄道は開業150周年を迎えた。世界一正確ともいわれる鉄道はなぜ可能となったのか。そして、鉄道の発展は都市をどう変えたのか。計3回で解説したい。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
 鉄道は開業時から
 独自に定時法を採用
 10月14日、日本の鉄道は開業150周年を迎えた。明治維新直後に鉄道計画が動き出してから開業するまでのエピソードは以前取り上げたので、今回は鉄道が日本人に及ぼした影響について考えてみたい。
 前回の記事で鉄道が仮開業したのは旧暦の「明治5年9月12日」だったと述べた。明治政府は明治5年を12月2日で切り上げて明治6(1873)年1月1日から新暦を採用したが、この時に切り替えられたのは暦だけではない。時間についても定時法を正式に採用したのである。
 それまで使われていた不定時法では日の出から日没までを昼、日没から日の出までを夜として、それぞれを6等分して「一刻(いっとき)」としていた。あわせて12の時刻には十二支を充て、真夜中の「子」から始まる。正午に訪れるのが「午」なので、その前が「午前」、それ以後が「午後」となるわけだ。
 だが昼と夜の時間がほぼ同じになるのは春分秋分だけで、夏は昼が長く、冬は夜が長くなる。つまり季節によって一刻の長さが変わるのが不定時法で、一年中、時間が変わらないのが定時法だ。
 さて思い出してほしい。鉄道が仮開業したのは明治5年5月7日、そう鉄道が動き出した時、日本は不定時法で時間が進んでいたのである。しかし、毎日時間が変わってしまっては緻密なダイヤグラムに従って運行する鉄道は成立しないので、鉄道は開業時から独自に定時法を採用していた。
 既に東京では陸軍が(定時法の)正午に大砲を鳴らしており(昼ドン)、鉄道だけが先駆けていたわけではないが、いずれにせよ鉄道は定時法によって動いていたのに対し、一般庶民は不定時法のもとで暮らしていたということになる。
 ところが仮開業時に発行された日本初の時刻表には「乗車する人は遅くともこの表示の時刻より15分前に駅に来て切符購入などの手続きを済ますこと(現代訳)」と書かれていた。江戸時代の日本人が日常的に用いていた時間の最小単位は「小半刻」つまり30分程度と言われているので、15分前行動は未知の要求であったろう(正式開業時「10分」に短縮された)。
 かつての日本人は
 時間にルーズだった?
 時間に厳格な日本人はすぐにこれに順応したのかと思いきや、この頃の日本人は非常に時間にルーズであったという。江戸時代の日本では寺院が一刻ごとに鐘を打つ世界にも稀な時報システムが構築されていたというが、幕末に来日したオランダの軍人の目から見れば、満潮にあわせて頼んだ品はいつまでも届かず、新年のあいさつに出た使用人は二日も戻って来ないなど、あきれるほど悠長な民族だった。
 明治になって鉄道が開業した後も、あるアメリカ人宣教師は「日本人は列車に乗りそこなったとしても感情を荒げるでもなく平然と、おだやかで辛抱強く、数時間ものあいだ次の列車を待っている」と記している。今の日本だったらあり得ない光景だ。
 そんな日本人が動かす鉄道も、全く時間に正確ではなかった。現代の日本の鉄道の正確さは世界的に有名で、それは日本人の几帳面さや勤勉さの反映とも思われがちだ。だが鉄道は自然と時間に正確になったわけではない。
 ではいつ頃から日本の鉄道は定時運行をするようになったのか。鉄道100周年を記念して編纂された『日本国有鉄道百年史』は「戦前の日本の鉄道は、運転時刻の正確さが世界的に評判であり、誇りであった。日本を旅行するには、鉄道が寸秒も違わず運転されるので車中では時計は不必要だと外人は日本の鉄道をほめた」と記しており、80年以上前には現代と同じような評価が確立されていたことが分かる。
 だが続いて「しかし、この大きな名誉の正確さも、明治5年からあったわけではなく、外人から教わったものでもなかった。明治30年代は列車は相当遅れていた」と記している。「明治30年代」から「戦前」まで、概ね30年で日本の鉄道はその姿を大きく変えたことになる。
 鉄道国有法の施行で
 全国の鉄道が統合
 日本の鉄道は急速に拡大していった。鉄道開業から30年が経過したころには、日本の鉄道は総延長約6000キロに達し、現在の幹線網が概ね出来上がった。しかしその結果、人材不足・教育不足が顕著になり、遅延が常態化し、事故が頻発するなど非常に混乱していた。
 当時の鉄道業界誌は「最近の私鉄は時間通りに発着することはまれで、駅員すらもそれが通常の事だと思っている。ある鉄道では一年中ほとんど定時に発着したことがない。しかも5分10分の遅れではなく、30分から1時間遅れることは珍しくないので、列車の乗り継ぎができず旅行の行程が狂うこともある。これは日本人に時間を厳守する意識が欠けているためだ(現代訳・要約)」と手厳しく批判している。
 時間意識の欠如を示すエピソードとして、日本最大の私鉄であった日本鉄道は1903年就業規則を改正し、それまで社員が出勤時刻に1時間以上遅れた場合に遅刻扱いしていたのを、少しでも遅れたら遅刻扱いすることに改めている。鉄道マンにとって遅刻は最も重い罪であるが、それが1時間まで許容されていたのだから、列車がまともに走るわけがない。
 ところが1906年鉄道国有法が施行され、一部を除く全国の鉄道が国有鉄道ネットワークに統合されると状況は少しずつ変わっていく。
 それまでの各地域に私鉄が分立する体制では、運行ダイヤや旅客サービス、運賃制度はそれぞれ異なり、会社ごとに最適化されていた。営業範囲が狭ければ、列車が遅れても影響は限定的だし、(極端に言えば)他の事業者が困ろうが知ったことではない。
 それが全国を一括して管轄する国有鉄道になると、列車遅延の影響は全国に波及し、旅客列車の乗り継ぎや、長距離貨物列車の運行などに支障をもたらすため、必然的に時間を意識しなくてはならなくなった。
 時間への意識は新たなサービスも生み出した。同じく1906年、官設鉄道の東海道本線に新橋~大阪間を12時間30分で走破する「最急行」(後の特別急行=特急)列車が登場するが、これは速達性の対価である急行料金を設定した初めての列車であった。
 最急行が遅れては意味がないし、それが常態化していては急行料金は成り立たない。全国的なネットワークの基幹となる最速達列車の登場は、日本の鉄道の時間に対する認識が次の段階に進んだことを示す象徴的な出来事だったと言えるだろう。
 明治末に芽生えた定時性への意識は、大正期を経て、昭和期の国際的な評価につながっていく。1900年代と1930年代の折り返しにあたる大正期に起きた、鉄道の性質を変えるほどの出来事とは何だったのか。それは次回に譲りたい。
 参考文献
 橋本毅彦・栗山茂久編『遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成』三元社,2001年
 西本郁子著『時間意識の近代「時は金なりの社会史」』法政大学出版局,2006年
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 明治時代の鉄道開業で、日本人は異常なほど時間に正確となった。
 日本民族の特性は、現代の日本人の気質とは正反対で「だらしない」「ずぼら」であった。
 日本の近代化とは、日本人の性格を短気、神経質、融通のなさ、潔癖性、不寛容に変えた。
 日本人のイライラやキレたりする原因をもたらしたのは、鉄道であった。
 それ故に、日本の鉄道時刻は世界一正確で遅れる事がない。
 鉄道が、日本人を劇的に改造した。
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 日本民族は時間にルーズで、時間に遅れたり、時間がずれりしても平気で気にしなかった。
 日本民族の時間は、時計を持っていなかった為に寺の鐘楼か藩の時の櫓でならす鐘が合図で、単位は1分1秒ではなく、丑三つ時という幅のある時間であった。
 1時間の間には0分0秒から60分60秒は存在せず、2時に会うとは0分0秒から60分60秒の間のどこかで会うという事で、自分は10分と思い相手が50分と思い込んでも間違いではなかった。
 約束して人と待ち合わせする時は、少なくとも1時間待つつもりでなければ出かけられない。
 日本人が「約束を守る」のは、当たり前である。
 つまり、時間の観念が、昔の日本民族と現代の日本人とでは全然違う。
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