✨6)─1─水平社は軍隊内の差別解消を目指すべく戦争を肯定し協力した。〜No.19No.20 ③ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 水平社と琉球民族アイヌ民族は、日本人による偏見・差別を解消する為に軍隊に入隊して戦争に協力した。
 が、日本人は戦友として共に戦い、たぶん戦場で助けられたてくれたかもしれない水平社、琉球民族アイヌ民族を人と認めず偏見・差別を止めようとはしなかった。
 それが。偽らざる日本人の本性であった。
 日本人とは、根っからの差別主義者で、平等・公平そして博愛・慈愛・慈悲など無縁であった。
 それは、親鸞が「悪人正機説」で救おうとした日本人そのものであった。
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 2022年10月18日 YAHOO!JAPANニュース 47NEWS「水平社、軍隊内の差別解消を目指しながら戦争を肯定 重い教訓「負の歴史」
 被差別部落出身の人々が創立した全国水平社。1922年の結成から100年が経過した。抑圧されてきた当事者の立場から、平等で尊厳ある社会を求めて粘り強く活動をしてきたが、忘れてはならない「負の歴史」がある。戦争に協力したことだ。
 日本は第二次大戦まで徴兵制。集団生活で蔑視が顕在化しやすかった。旧日本軍の軍隊内での差別問題への対応は、水平社設立当初からの主要課題の一つとなっていた。出身者は「なぜ仲間に差別されねばならないのか」と憤り、嘆いた。差別のひどさは「原爆の被害より鮮明に思い出す」と吐露する被爆者もいたほどだ。
 水平社は日中戦争開戦後、戦争に協力することによって差別解消を目指す道へ進んだ。人権や平等を求めつつ、国家総動員体制の下、他国への侵略を肯定した形だ。しかし、軍隊内や銃後の生活での偏見・差別はなくならず、重い教訓として残った。(共同通信=安祐輔、角南圭祐、小島佳祐)
 ▽「一番の人権侵害に協力」
 「挙国一致」と「差別撤廃」が並ぶ1938年の全国水平社大会のポスター(水平社博物館提供)
 「差別撤廃」と「挙国一致」のスローガンが隣り合う全国水平社大会のポスター、「銃後厚生運動による部落経済の革新的再編成」と書かれた大会報告書…。水平社博物館(奈良県御所市)の「アジア・太平洋戦争と水平社運動」のコーナーで展示されている1930年代の資料だ。
 案内してくれた駒井忠之館長(50)は力を込めた。「人権を求めて立ち上がった団体が、戦争という一番の人権侵害に協力した負の歴史から、目をそらしてはいけない」
 明治政府は富国強兵を目指し,、徴兵制を始めた。水平社運動の歴史に詳しい大阪人権博物館大阪市)の朝治武館長(67)によると、徴兵制下では被差別部落出身者への差別が頻発した。原因の一つは、地域ごとに入る部隊が決まっていたため。関係性や差別意識が、兵営での集団生活にそのまま持ち込まれた
 差別の内容は日常的な発言だけにとどまらない。被差別部落出身者の進級を意図的に遅らせた事例もあった。朝治さんは「地域社会では下に見られている部落の人間に、命令させたらあかん」といった意識があったと解説する。
 1922年に水平社ができると、学校や地域社会での差別に並び、こうした軍隊内での差別が主要な課題に位置づけられた。福岡県などで大規模な糾弾闘争をしたほか、1927年にはメンバーの一人が過酷な実態を昭和天皇に直訴する事件を起こし、社会問題化させて解決を迫った。
 ▽「反ファシズム」から「挙国一致支持」へ
 1931年に満州事変が起き、社会に排外主義が広まる中でも、水平社は「反ファシズム」を掲げた。だが、国家による激しい弾圧を受け、反対姿勢はだんだん弱まっていく。1937年に日中戦争が始まると「挙国一致」を支持せざるを得なくなり、1938年の水平社全国大会報告書には「東亜共同体建設による部落問題の一挙解決」と戦争に協力する方針が明記された。
 水平社メンバーは大政翼賛的な政府系組織で活動するようになった。ただ、1941年12月に太平洋戦争が始まり、政府は政治結社などの存続を許可制にした。水平社はこれに応じなかったため、翌42年1月、消滅した。
 被差別部落出身者の軍隊内差別や、水平社の戦争協力について語る大阪人権博物館の朝治武館長=6月14日、大阪市港区
 朝治さんは、当時の水平社の姿勢をこうみている。「全面的に賛成したわけではなかったが、弾圧もあり、差別をなくすためやむなく戦争に協力した」。その一方で、政府の対応に「幻想を抱いた面もある」と指摘する。どういうことか。
 政府は開戦を機に、社会保険や年金制度を整えるなど、戦争遂行への支持を得るため「国民に優しい施策」に取り組むようになった。部落問題についての教育にも力を入れ始めた。軍隊内での差別が戦争遂行に悪影響を及ぼすとして、行政が積極的に解消に動くようにもなった。こうした「国民統合」のための社会政策は、一見すると差別解消に寄与するようにも思える。
 「しかし、今日的に捉えれば、差別解消のため戦争を支持するということは、論理として転倒している。日本に侵略された側に思いをはせると、水平社の戦争支持は明確に間違いだったと言い切らねばならないと私は考える。今を生きる人たちは、歴史を直視し、背負い、平和について考えていかなければならない」
 ▽「仲間なのに」「どこまで行っても差別」
 当事者たちにとって、戦時下や戦後はどういう状況だったのか。戦争を経験した被差別部落出身の女性2人が語ってくれた。
 兵庫県の奥田良江さん(93)=仮名=は日中戦争中、一時帰郷して家を訪ねてきた同じ被差別部落出身の知人が戦地で体験した悔しさを吐露する様子が忘れられない。「明日死ぬかもしれん仲間やのに、何で差別されなあかんのや」「どこまで行っても差別あるんかな」と語っていたという。
 奥田さんは、大半が小作農の小規模部落に、6人きょうだいの4番目として生まれた。「ムラ(部落)は山を背に、三方を川に囲まれた土地。雨が降ったらはだしで飛び石を渡って小学校に通った。きつかったな」と振り返る。
 7歳だった1937年7月に日中戦争が始まると、出征した「ムラのお兄ちゃん」たちが、部隊の中で虐げられる話をよく耳にした。「行きたくないのに行かされ、同じ立場のはずなのに」と口々に嘆いていた。
 一方で奥田さん自身は、学校で活発に生活していたという。小学校の休み時間、ムラの子が差別を恐れて校庭の隅に集まる中、奥田さんは臆せずムラの外の子の輪に入っていったことで、多くの友人ができた。父のおかげという。「何を言われても後へ引くことはない」といつも励ましてくれた。
 林悦子さんが被爆や差別の手記を寄せた文集
 父は奥田さんをムラで初めて女学校へ進学させてくれた。入学後間もなく、同級生から親指以外の指を立てるしぐさをされる。4本足の動物を指し「人間以下」を意味するなど諸説ある被差別部落出身者への侮辱だ。奥田さんが怒ろうとすると、周囲の同級生たちがその子を厳しくいさめた。「友人に恵まれた。しっかり学んできた人は、差別しないんだとうれしかった」と柔らかな表情で当時を振り返った。
 ▽戦闘機から掃射、極限状態で感じた友情
 しかし、そんな友人と机を並べる日常は長く続かない。太平洋戦争の後半になると、女学校も学徒動員の対象になった。奥田さんは寮に住み込み、戦地に送る食料を詰めるドンゴロス(麻袋)の工場で働いた。
 工場は米軍の標的の一つ。庭で休んでいた際、戦闘機から機銃掃射を受け、命からがら避難場所に飛び込んだこともあった。極限状態で、友人との間には出自の違いなど関係なく「一緒に生き延びようという一体感」があったと奥田さん。1945年8月、工場の廊下で正座し玉音放送で敗戦を知ると、抱き合って涙した。
 終戦から今年で77年。戦時下での排除も絆も見てきた奥田さんは「人は追い込まれると弱い。また戦争が起こったら、立場が弱い人間への差別があるだろう。でも、自信を持って気持ちを伝え合えば、助けてくれる人はきっといる」と話した。
 ▽被爆より鮮明な記憶
 広島市に住む林悦子さん(94)=仮名=が今も繰り返し思い出すのは、原爆で家族を亡くし、多くの遺体を目にした壮絶な被爆体験よりも、戦時中に女学校で受けた差別だった。
 中国地方最大と言われる広島市被差別部落に生まれ育った林さん。地域には食肉処理場があり、肉や皮革を扱う職人が多かった。父も腕のいい靴職人で、米国製の工業用ミシンを使って母と2人で仲良く靴を作っていたという。
 林さんは小学校を卒業し、1941年に双子の姉と市内の西高等女学校に入学した。地域の外に出るに当たり、母からは、住んでいる町や父の職業を言うなと諭された。「子供心にも差別の大変さは分かった。町を一歩出たらひどかった」と語る。
 一橋大の佐藤文香教授(本人提供)
 成績が良く、女学校で級長も務めた。しかし出身が知られると、いじめを受けるようになった。クラスで物がなくなり、犯人扱いされたこともある。「何でこんな差別があるんか。どれだけ泣いたか」
 大泣きした学校の帰り、姉と2人で、川向こうの地域に帰る橋の上に立った。赤く腫れた目を冷まそうと、しばらく川風に当たった。部落差別に遭ったと分かれば、親が悲しむからだ。「もう治ったね」「大丈夫じゃね」と確かめ合い、帰宅した。
 ▽「あなたには二つの差別がある」
 太平洋戦争は、入学した1941年の12月に始まった。激化すると授業はなくなり、学徒動員で近くの工場へ通うことになった。日の丸の鉢巻きを締め、飛行機の燃料タンクのびょうを打つ。少女たちにとっては重労働だ。1945年3月に女学校を卒業しても動員は延長され、通い続けた。
 その年の8月6日の朝、米軍が原爆を投下。林さんは自宅の修理のため工場を休み、お使いで近所の米屋に入った時だった。爆心地から約1・8キロ。店にいた朝鮮人のおばあさんの上に倒れ込んだことを覚えている。
 何とか無事だったが、一帯は跡形もなく焼け、その日の夜、妹が死亡した。元気だった父も体調を崩し、2年後に亡くなった。
 「あの人は被爆者じゃ」とこそこそ言われた戦後の日々。一方で「部落差別はひどかった。えっと(たくさん)泣きました」とも語る。どちらがつらかったかは比較のしようもない。
 戦後は商売をしながら、広島の女性らが被爆体験などを語り合う母親サークルが発行する文集に被爆や差別の体験を書いた。娘を思いやり「あなたは被爆2世の差別と、部落差別と、二つの差別があるのよ…。たくましく生きてほしい」とつづっている。
 原爆で地域も壊滅的な被害を受けたが、それでも部落差別は残った。林さんは振り返る。「戦後に部落解放のいろいろな活動があって、差別はなくなっていった。でも、芯からなくなったかどうかは分からない。自分だけ良けりゃええという人がおるからねえ」
 ▽世界各国の軍隊、多様性掲げ人材確保
 日本以外でも、不利な立場に置かれた人々が戦争に協力的になる事例は少なくない。軍隊・戦争のジェンダー研究を専門とする佐藤文香一橋大教授は「世界各地の軍隊は『平等』と『多様性』を掲げることで、自らを魅力的に見せ、地位向上を求めるマイノリティーを引きつけてきた」と話す。
 背景には、世界大戦を経て西側諸国を中心に徴兵制から志願制へと移行したため、人材確保が課題になり、これまで排除していた立場の人たちも採用の対象とする必要に迫られたことがあるという。典型例の米軍では、黒人、女性、LGBT(性的少数者)と受け入れを広げてきた。
 一方、マイノリティーの側も、英雄の象徴とされる軍隊で平等に扱われることが「一流の市民」としてマジョリティーと対等な地位の獲得につながると考え、参加できるよう求めてきた。労働市場で不利な状況に置かれていたり、経済的な事情で大学進学が難しかったりといった環境も入隊を目指す動機となった。
 佐藤教授は、「日中戦争時の日本は徴兵制だが、全国水平社が戦争に協力するようになっていった一因にも、地位向上を目指す思惑があったのではないか」と言う。
 ▽「差別があるから『平等』の勧誘が効果を発揮」
 一方で、軍への参加が差別の解消につながるかと言えば、必ずしもそうではない。入隊者は安定した収入や福利厚生を得られるかもしれないが、こうした恩恵は同じ属性の全ての人に波及するわけではないためだ。軍事費の増額がマイノリティー社会保障費の削減によってなされるなど、かえって不利益になることもある。
 佐藤教授は「軍隊側が平等な組織であるとアピールしたとしても、実際は地元での就職先が限られているような地域の生まれや、高卒の人が多数で、社会の縮図になっていないことが多い」と強調する。現在、米国の戦争を支える民間軍事会社で働くのも、スリランカバングラデシュなどグローバル経済の中で厳しい状況にある国の出身者だ。
 こうした現状に対しては、なぜマイノリティーや弱い立場の人が軍に吸収され続けているのかを考えることが重要だと佐藤教授は説く。「差別の構造が残っているからこそ平等や多様性を掲げる勧誘が効果を発揮することに、社会は向き合う必要があります」」
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 同じ儒教価値観で卑賤視され差別される部落民や賤民(非人・穢多・散所{さんじょ}・河原乞食・他)とでは、何故・どういう理由で偏見をもって差別されるかが違う。
 マルクス主義共産主義階級闘争史観やキリスト教最後の審判価値観では、日本の部落民や賤民を解釈できないし説明できない。
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 徳川幕府は、目の見えない視力障害者・検校が行う高利貸しを保護していた。
 検校の中には、御家人株を買って子供を武士にし、上司や同輩に賄賂を贈っていた幕臣にしていた。
 百姓や町人も、金を使って武士の身分を手に入れ、才覚で町奉行勘定奉行などの役職について出世した。
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 数千年前の弥生時代古墳時代から、日本国・日本民族を1つにまとめている3つの力が存在している。
 1つ目が武力の政治権力、2つ目が経済力の宗教権威、3つ目が文化力=畏れの天皇の御威光・権威・御稜威・大御心であった。
 日本の歴史において、政治権力と宗教権威は人間の強欲・私欲・個人欲で栄枯盛衰を繰り返し目まぐるしく入れ替わっていたが、その中で文化力の天皇の御威光だけは変わらなかった。
 そんな文化力の天皇の御威光を滅ぼうと忍び寄ってきたのが、キリスト教の宗教とマルクス主義共産主義イデオロギーであった。
 そして、現代日本人は日本のグローバル化の為にローカルな日本の文化力をゴミのように捨てようとしている。
 反天皇反民族反文化的行動を行っている日本人の多くが高学歴な知的インテリや進歩的インテリ達である。
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 世界の王侯貴族は他国からの軍人征服者であったが、日本の天皇は民族の伝統・文化・宗教の権威者であり保護者であった。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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