🎑22)─1─琉球舞踊は初期歌舞伎の所作(型)を継承し中国・朝鮮の舞踊とは縁が薄い。~No.42No.43 

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 琉球の宗教、文化、伝統、芸能、言語は、中国・朝鮮ではなく日本に近い。
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 2022年10月6日 読売新聞「文化
 『琉球舞踊 歌舞伎が源流』
 沖縄国際大・児玉絵里子さん考察本
 踊りの『型』に着目して、沖縄に伝わる琉球宮廷舞踊のルーツが、17世紀の初期歌舞伎にあるという論考を盛り込んだ『初期歌舞伎・琉球宮廷舞踊の系譜考』が、錦正社から刊行された。著者で、沖縄国際大南島文化研究所特別研究者の児玉絵里子さん(48)が、自らの舞踊体験を生かした考察として注目されている。
 舞踊と歌舞伎といった伝統芸能の『型』とは、足運びや舞う動作、構えなどが。パターン化され受け継がれてきた所作のこと。『これまでの研究では、初期歌舞伎は好色性に特化した芸と捉えられていて、型の存在が意識されていなかった』と児玉さんは話す。
 そこで児玉さんは、東北から沖縄まで足を運び、約30の民俗芸能の写真や映像を撮ったり、聞き取りをしたりして、初期歌舞伎の系譜とされる民俗芸能と琉球宮廷舞踊の『型』の共通点を確かめた。初期歌舞伎が描かれた屏風(びょうぶ)や蒔絵などで踊り手のポーズとの類似性も調べ、初期歌舞伎が琉球宮廷舞踊の源流と結論づけた。
 今回の著書では、あらに研究を進め、初代市川団十郎が生み出した『元禄見得(みえ)』に及ぶ。左足を踏み出し、左手で刀を握り、右手を後方へ上げるポーズは、不動明王の姿や梵字(ぼんじ)などが原型とされてきたが、17世紀前半の若衆歌舞伎で流行をみた『大小の舞』の重要な型とも関係すると指摘している。
 児玉さんは、東京都出身で、大学院修了後の2000年に沖縄県に移住し、沖縄の伝統的な染め物『琉球紅型(びんがた)』の研究で高く評価された気鋭の研究者だ。沖縄美ら島財団の学芸員などをしながら、沖縄芸能研究の泰斗、当間一郎さんに師事し、人間国宝の宮城幸子さんから琉球宮廷舞踊を習った。
 15年に新潟県柏崎市ドナルド・キーン・センター柏崎へ移ったの機に、同市の民俗芸能『綾子舞』を習った。その際、多くの所作(型)が、琉球宮廷舞踊と似ていることに気づいたのが。今回の研究の発端となった。
 『踊る人が描かれた絵を見ると、袖口を握る手や衣装の柄など、絵師が細部にこだわって描いている。舞踊を実体験したからこそ分かること』。
 児玉さんは今後、権力の規制を受けて変化していった初期歌舞伎と元禄歌舞伎の関係について、『型』の視点から考えてみたいという。(文化部 森田睦)
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 沖縄舞踊の歴史
 【内容紹介】●本書「『沖縄舞踊の歴史』を読む  外間守善」より
 初めて世に問われた沖縄の舞踊史である。今までに芸能史のような著論がなかったわけではないが、沖縄の踊りの歴史についてその源流を探りつつ、歴史的変遷を明らかにした研究書の出現はまったく初めてのことである。
 戦後の沖縄の舞踊が隆盛をきわめ、社会的な評価を高めている現状の中で、舞踊の歴史を明らかにした本書の上梓は、画期的なものであると同時に時宜を得たものといわざるを得ない。待ち望まれた書であるだけに、舞踊専門家の方々にも、研究者にとっても、また一般の舞踊愛好家にも必読の価値をもつ本といえよう。
沖縄舞踊の歴史
【内容紹介】●本書「はじめに」より
 本来三味線や舞踊などの芸能は、沖縄では書道や武道などとならんで士族の教養であった。残念なことに、音楽や舞踊が廃藩以降、演劇界と結びつき生計の手段とされてきたため、長く戦後にいたるまで芸能というものが卑しい業とされるにいたった。ようやく近年にいたって知識層の関心を集めるようになったが、時すでに遅く貴重な歴史と知識は発掘されることなく、その多くは永遠に埋もれてしまった。
 この間、沖縄の舞踊の隆盛は、数々の他府県公演や海外公演にも見られるように、内外の注目を集め、那覇市はじめ各地における舞踊研究所の数は日を追って増加の一途を辿り、舞踊人口は他府県に類を見ないと言われるほどである。しかし、舞踊の底辺の広がりは往々にして型の乱れや、家元制という新たな問題を生じた。
 昭和11年の東京公演を見た小寺融吉は、沖縄舞踊界について次のように警告している。
「師匠の資格と云う者が一定してゐないので、ほんの少しばかり数を覚えると、忽ち師匠として立つ、なにしろ師匠の需要が盛んなので、インチキ師匠でもやってゆける。然し此のために古い型がドンドン崩れますと某氏が云はれた。古い型が崩れると云ふことは、沖縄ばかりの話ではない。そして此の問題に関しては東京の舞踊家や舞踊評論家ですら、関心の度が足りない。古い型が崩れるのは、その事自身が惜しむべきである以上に、新しい型を生むために致命的損失になる。」
 この指摘は50年余も前になされたものであるが、その危惧は現実性を加えつつ今日の沖縄舞踊の前に大きく立ちはだかっている。加えて、復帰後の社会情勢の変化は、芸能の基盤そのものが崩壊し変貌しつつあり、この危機にさらに拍車をかけている感がある。それでは、その危機をどのようにして乗り切るべきであろうか。
 これらの事態に対処するためには、いろいろな方法があるとは思うが、その前提として沖縄舞踊を今一度学問として見直すことこそ学者・研究者の責任であると思う。それにより、その古層と他律的要素について再考し、本来の沖縄舞踊のあり方といったものを明確に把握していくことが必要であろう。いま沖縄舞踊は、あらためて学問的研究の段階に入ったように思われる。また実技のうえでは、雑踊りの本来の躍動的なリズム感や間の面白さなどが注目され、古典女踊りの内面的なリズム感の喪失が強く訴えられ、沖縄舞踊の本質再発見への取り組みが真剣に望まれている。
 とくに、これからの沖縄舞踊を考えるとき、創作の問題を素通りできないが、その方向づけを行うためにも、改めて古典を考え、歴史を振り返る必要があるといえよう。 琉球は、中華・中国より日本・倭国に近い。
 日本民俗芸能は琉球舞踊、アイヌ舞踊は根底で繋がっているが、朝鮮舞踊や中国舞踊とは根底でのつながりはない異質の芸能である。
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 【公式】味と踊りの竜宮城うらしま
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 うらしまとは
 琉球舞踊
 第一部 19:00〜19:30 (5曲)
 第二部 20:00〜20:30 (5曲)
 ※第一部と第二部の内容は異なります。 ※演目は毎日変わります。
 第二部終了後、お客様のカメラにて舞台の上で踊り子との写真撮影ができます。
 琉球舞踊とは
 現在の沖縄県内を中心に継承される舞踊の総称で、18世紀頃から琉球王朝時代に琉球王やその国賓の前で踊られた古典舞踊(宮廷舞踊)と、明治以降に庶民の風俗や習慣を題材にして生まれた雑踊ぞうおどりに大別されます。琉球舞踊は一定の歌詞に振付がなされ、衣装もほぼ決まっています。また、基本姿勢や動きの中には空手と通じるところも多く、優れた踊り手には空手の心得のある者が多かったようです。音楽が始まると踊り手は舞台の下手(左側)より登場(出羽)し、中央で踊り(中踊り)、終えると下手に戻り(入羽)ます。これは、琉球舞踊がお座敷で踊られていたことに由来するもので、宴の席でお食事やお酒を味わいながら踊りを愛でるというのが本来の楽しみ方でもあります。
 琉球舞踊はその格式の高さにより2009年に琉球舞踊は国の重要無形文化財に指定されました。
 古典舞踊は、中国皇帝の使いである冊封使さっぽうしをもてなした為御冠船踊うかんしんおどりとも言われ、踊り手は踊奉行おどりぶぎょうに任命された士族男性のみで、王府の庇護のもと発展しました。踊りの役柄や特色により「老人踊り」(おめでたい踊り、子孫繁栄や長寿を主題;「かぎやで風」など)・「女踊り」(愛情を主題;「四つ竹」など)・「二才にせい踊り」(青年の踊り、五穀豊穣を主題;「上り口説」など※二才踊りは薩摩の在藩奉行の前で踊られていました。)・「若衆踊り」(元服前の少年の踊り、予祝を主題;「若衆ゼイ」など)などに分かれます。紅型や赤足袋など華やかな衣装や荘厳な衣装を着用したものも多く、優雅で美しく舞います。
 一方の雑踊りは、1879年琉球処分により、琉球王朝の崩壊とともに禄を失った舞踊家たちが、街に出て民衆を相手に芝居小屋での興行を営むようになり発展しました。古典舞踊で用いられた繁栄や発展といった題材やきらびやかな衣装とは対照的に、男女の愛情や、豊作豊漁を願ったもの、故郷の情景を思い描いたものも多く、衣装も芭蕉布や絣といった、庶民の生活で使われたものを取り入れています。「老人踊り」「女踊り」などの区別なく何でも取り入れたところから「雑」踊りと呼ばれるようになったと言われています。生き生きとして自由でリズミカルな演目が数多く生まれ、また多くの人々を魅了し、踊り継がれていきました。戦後には多くの女性舞踊家も誕生しました。
 琉球舞踊の特徴として、コネリ(手をこねるようなしぐさ)やナヨリ(なよやかな体の動き)が琉球最古の歌謡集「おもろさうし」に記されています。また、腰を落とし、すり足で歩く足さばきには、日本の伝統文化である能の影響も受けたのではといわれております。
 うらしまの琉球舞踊
 うらしまでは、古典舞踊から雑踊りまで幅広い演目を毎日10曲お楽しみいただけます。沖縄の地方紙である琉球新報社琉球古典芸能コンクールにおいて、新人賞以上を獲得した優れた踊り手にのみステージに立っていただいています。現在のうらしまの踊り手のほとんどが最高賞までを受賞したプロの踊子です。洗練された指先や足先の所作、重心の運びや目線の動きなどにもご注目ください。
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 文化庁
文化庁月報
 平成23年12月号(No.519)
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 連載 「鑑 文化芸術へのいざない」
 琉球舞踊のすがた
 国立劇場おきなわ運営財団常務理事 宜保榮治郎
 目次
1 はじめに
2 冊封の歴史
3 琉球舞踊の歴史と分類
4 琉球舞踊の分類
5 琉球舞踊の特徴とテーマ
 はじめに
 琉球舞踊は琉球王国時代,国王の戴冠式の際に中国皇帝から国王に任命する辞令書を携えて来琉する冊封使さっぽうし(中国皇帝の名代)を歓待する為に創作された古典舞踊(御冠船踊うかんせんおどり)と,明治以降昭和まで新たに創作された雑踊りを含めたものです。内容の豊かさと格式の高さにより,平成22年9月に国の重要無形文化財に指定された日本を代表する芸能です。
 冊封の歴史
 琉球が歴史に登場するのは,明の大祖が1372年琉球の中山王察度ちゅうざんおうさっとに冊封を要請したことに始まります。元を滅ぼした明は韓国,琉球ベトナムインドネシアなど東アジア諸国にも同様なことを要請したようです。琉球では察度の子の武寧ぶねいから始まり,最後の尚泰しょうたいまで約500年間に22回の冊封が行われました。
 琉球舞踊の歴史と分類
 冊封使は中国(福建省)から北風にのって来琉し,南風にのって帰国しますのでおよそ半年間も滞在しました。その間,琉球では冊封使をねぎらうために7つの宴を行いましたが,その中でも特に中秋の宴,重陽の宴,拝辞の宴の3宴は首里城内に舞台を設置して芸能を行いました。この宴に出演するのは王府に仕える士族の子弟と決まっており,彼らはそのことを大変誇りにしました。琉球舞踊が宮廷舞踊とも呼ばれるのはそのことに由来します。現在舞踊家によって継承されている琉球舞踊はこの流れを汲む古典舞踊約23演目と明治,大正,昭和に創作された雑踊り約16演目があり,これを分類すると次のようになります。
 琉球舞踊の分類
 古典舞踊 1,老人踊(かぎやで風節) 2,若衆踊(特牛くてぃ節,四季口説) 3,二才踊(上り口説,下り口説,前めーの浜,湊くり節,江差えさ節,揚あげ作田ちくでん節,高平良たかでーら万才,八重瀬えーじ万才) 4,女踊(諸屯しゅどぅん,伊野波ぬ は節,綛掛かせかけ,作田ちくでん節,柳,天川,本貫花むとぬちばな,瓦屋からやー節,本嘉手久むとかでく節,踊りこはでさ節,女特牛くてい節,しよんだう)
雑踊り 花風はなふう,むんじゅる平笠ひらがさ節,浜千鳥ちじゅやー,加那かなよー,加那かなよー天川,貫花ぬちばな,取納奉行しゅぬぶじょう,汀間ていまとぅ,松竹梅,秋の踊り,黒島くるしま口説き,金細工かんぜーくー,川平かびら節,越来ぐいくよー,馬山川ばざんがー,戻もどり駕籠かご
 老人・老女
 伊野波節
 琉球舞踊の特徴とテーマ
 さて古典舞踊,雑踊りの分類は以上のようになりますが,芸能研究者の折口信夫は祭りや芸能を演ずる目的は「かまけ技(感染呪術)」にあると説いています。まさに琉球舞踊はその説のとおりで,沖縄ではそのことを「あやかる」と称します。
 観衆は老人・老女を見ることによって長命にあやかり,若衆踊りを見ることによって常に若々しくなると信じます。上り口説と下り口説は琉球と薩摩の往来を踊ったもので,その踊りには航海安全の祈りが込められており,七・五調の歌詞には薩摩芸能の影響がうかがえます。女踊りは八・八・八・六調の琉歌にのせて踊りますがその踊りのテーマは,男女の情愛です。特に踊り手は深い情念を極力表面に現わさずに胸の奥へ奥へと包み込むようにします。女踊りこそは琉球の風土の中から生まれた最高の芸術だと言えましょう。中でも打ち組踊りの「しよんだう」は珍しく琉球舞踊の中で唯一仮面を被る踊りで,コミカルな動きと仮面には韓国芸能の影響がうかがえます。
 雑踊りは廃藩置県によって琉球王国が士族の支配から解放されて市民社会になったことで,遊女や田舎娘,漁夫などが踊りの主人公となって舞台に登場します。当時の社会状況が如実に反映された踊りとなっています。
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 沖縄の歴史.jp
 沖縄の文化
 琉球舞踊
 琉球王国として栄えていた沖縄には、さまざまな琉球の文化が残っています。琉球の歴史と関わりの深いものもあり、琉球王国を知る上で重要なものもあります。
今では沖縄の伝統芸能である「琉球舞踊(りゅうきゅうぶよう)」もそのひとつです。当時は観劇のひとつというのではなく、琉球王国と関わりの深い文化でした。あまり関係のないように思えるこのふたつにどういった関係があったのか・・・。
そこで今回は、琉球王朝時代に確立され、沖縄独自の伝統芸能である「琉球舞踊」についてお話ししていきます。
 「琉球舞踊」は、冊封使(さっぽうし)を歓待する為に創作された古典舞踊(御冠船踊(うかんせんおどり))と、明治以降に新たに創作された雑踊りを含めたものです。
古典舞踊は、さらに老人踊り、女踊り、若衆踊り、二才踊り、打組踊りに分けられ、雑踊りは躍動感溢れる軽快な踊りが特徴的な庶民の生活や思いを主な題目とした踊りとなっていいます。
 内容の豊かさと格式の高さにより、2010年9月に国の重要無形文化財に指定された日本を代表する芸能です。
 王朝時代から変わらず受け継がれながらも、今でもなお毎年新作が発表されている伝統芸能で、「琉舞(りゅうぶ)」と略して呼ばれることもあります。
 本来は男性だけで踊られていましたが、明治時代以降、特に戦後は多くの女流舞踊家が誕生しました。最近では、沖縄県立芸術大学国立劇場おきなわの若手実演家育成により、以前のようにたくさんの男性舞踊家が誕生しています。
 そもそも琉球舞踊は、神女らが古くからのしきたりである神事や祭事の中で古謡を歌いながら舞われる祭祀舞踊であったといわれています。 それらの祭祀舞踊が、能楽や中華、東南アジアなど周辺地域の舞踊の影響をうけながら発展していき、首里城識名園御茶屋御殿などで披露される宮廷芸能となりました。
 1404年に琉球王国と当時の明が朝貢関係を結んだことにより派遣されるようになった冊封使(さっぽうし)をねぎらうために7つの宴を行いました。
 その中でも特に『中秋の宴』、『重陽の宴』、『拝辞の宴』の3宴は首里城内に舞台を設置して行い、この宴に出演するのは王府に仕える士族の子弟と決まっていたのです。こうした背景が、琉球舞踊が「宮廷舞踊」とも呼ばれるようになった由来でもあります。
 当時は、中秋の宴重陽の宴、拝辞の宴の3宴に出演できるのとても誇らしいことだったそうです。琉球舞踊と琉球王国との関わりの深さがうかがえますね。
琉球舞踊のような琉球王朝時代から伝わる伝統芸能からも当時のことを知ることもできます。琉球舞踊と琉球王国とのつながりもあわせて、いつまでも変わらず受け継がれていってほしいですね^^
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 江戸時代の歌舞伎は、貧しい庶民の娯楽で、御公儀・御上、幕府や大名、権力や権威を批判する内容を秘めていった為に、弾圧されることが幾たびかあった。
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初期歌舞伎・琉球宮廷舞踊の系譜考: 三葉葵紋、枝垂れ桜、藤の花
沖縄舞踊の歴史
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