🕯186)─1─遠藤周作の『イエスの生涯』。異端化する日本のキリスト教。〜No.389No.390 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族は、哲学や思想を取り入れても、宗教や主義主張のイデオロギーを嫌悪した。
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 日本人のイエス・キリスト像やキリスト教解釈は、世界とは違い、韓国とはもっと違う。
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 日本は沼である。
 如何なる宗教も哲学もイデオロギーも日本に上陸すると、例外なく日本の空気に汚染されて変質して異端に変わる。
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 2022年10月6日号 週刊新潮「読書万巻 
 梯久美子 名作コンパス
 宗教 徹底して無力な存在のイエスを描く
 マーティン・スコセッシ監督で映画化された遠藤周作の『沈黙』は、島原の乱が鎮圧された後のキリシタン禁制下、凄絶な拷問を受けて殺されていく信徒を見て苦悩し、神の存在に疑問を持つポルトガル人司祭を主人公とする物語である。
 代表作となった後、遠藤が取り組んだのが『イエスの生涯』だ。ここで遠藤が目指したのは〈日本人につかめるイエス像を具体的に書く〉(あとがき)ことだった。
 遠藤は10歳のときに両親が離婚し、母親と暮らした。カトリック信者だった伯母の影響で母親に連れられて教会に通うようになり、母親に続いて12歳で洗礼を受ける。彼は自分にとってのキリスト教の信仰を母から着せられた洋服に例えている。日本人である自分の体には合わないが、愛する母から与えられた服を脱ぐわけにはいかないのだと。それが、日本人にとってのキリスト教とは何かという、作家としてのテーマにつながってゆく。
 そんな遠藤が描くイエスは、徹底して無力な存在である。群衆の期待する奇蹟は起こせず、現実世界に何ももたらすことができない。では彼は何をしたのか。
 人々の悲しみをともに悲しみ、苦痛とみじめさを引き受けようとした。侮られ、さげすまれ、疲れ果てても、他者の苦しみのそばにとどまり、寄り添おうとした。
 遠藤が愛し、信じたのは『永遠の同伴者』としてのイエスである。栄光とは無縁のイエス像は衝撃的で、同時に比類なく美しい。」
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 キリスト教は理想的宗教であるが、問題はキリスト教を信仰する人間にある。
 それでも、マルクス主義共産主義イデオロギーに比べれば遥かに素晴らしい宗教である。
 心優しい人は、マルクスレーニンの著書よりもキリスト教会の新約聖書を愛読する。
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 何故、真っ当な日本民族日本人がキリスト教マルクス主義レーニン主義を弾圧して排除したのか。
 何時の時代においても、日本人におけるキリスト教徒もマルクス主義者・レーニン主義者も1%から数%でしかなく、それ以上に増える事はない。
 何故、増えないかと言えば、天皇神道・仏教などの民族宗教ではなく自然環境とキリスト教会やマルクス主義が歴史的に起こした非人道・人命無視の悪行非道の数々が日本民族の心・記憶・記録に刻まれているからである。
 現代日本で猛威を振るっているマイノリティ・ファシズムの正体は、ルサンチマン化した彼らである。
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 現代日本における一般的キリスト教は、世界の普遍的キリスト教とも韓国のシャーマン的キリスト教原理主義とも違う、ある意味、異端的日本流キリスト教である。
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 日本人には、良い日本人が2割いて、悪い日本人は3割と多く、さらに多い5割の日本人は無関心、同調圧力に流れる、勝ち馬に乗ろうとする日和見主義者、ダメ人間である。
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イエスの生涯 (新潮文庫)
遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子 (とんぼの本)
私にとって神とは (光文社文庫)