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2022年9月23日 MicrosoftNews ダイヤモンド・オンライン「中国人が「そばを食べない」理由、蕎麦の原産国なのになぜ?
莫 邦富
© ダイヤモンド・オンライン 提供 写真はイメージです Photo:PIXTA
日本にはおいしいそばがある! その多くの原産国は中国
福島県いわき市――。団体責任者I氏と不動産会社の経営者S氏に伴われて、地元の不動産市場について丸1日かけて下見調査をした。昼食の時間になったとき、S氏から「おそばはいかがでしょうか」と提案された。地元の事情に疎い私たち一行は、素直に従った。
てっきり近くにある店だとばかり思いこんでいたが、なんとそれから車で約30分も田んぼの中を走っていた。対向車もなく、人影も見られず、田んぼにはさまれた狭い道をひたすら走って、ようやくたどり着いたのは、「峨廊庵」という手打ちそば屋さんだった。瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいと手間をかけて作った看板を見て、名店なのだろうと直感した。
「おすすめに従いますよ」と食事の内容をS氏に任せた。S氏は、せいろとかけそばを人数分頼んだ。「1人で2人分のそばですか?」と注文を聞きに来た店主の奥さんらしい女性が驚いて、「今日は遅いから、そこまでは提供できません」と断った。結局、何とか大盛りのかけそばを人数分、確保してもらえたが、入店早々、大手通信キャリアの電波も届かないこの店の人気ぶりを思い知らされた。
運ばれてきたかけそばを見ると、カイワレ大根の数本と申し訳程度の大根おろしがそばの上にのっているだけで、実にシンプルなものだった。しかし、お腹がすいていたこともあり、そのシンプルさが逆にそば本来のおいしさと香ばしさを引き立てた。カイワレ大根のちょっぴりとした辛さも脇役として心地よく効いてきて、胃袋と心をともに満してくれた。時間をかけて車で走ってきたかいがあった。
食後にそば湯を飲みながら、ふと不思議に思った。昔から、日本は中国山西省からそばを輸入してきたと聞いている。痩せた土地が多い山西省にはそばしか作れないところが多い。しかし、山西省ではおいしいそば麺の話はあまり聞かない。拙著『中国全省を読む地図』とその続編の『「中国全省を読む」事典』(ともに新潮文庫)でも、山西省を紹介するとき、そばにはまったく触れなかった。
一体、なぜ「そば」は中国では広まらなかったのだろうか。
「そば」が中国で広まらなかった理由は「配給」にあり
毛沢東時代の中国では、経済発展の遅れにより、長い間、中国国民は配給制を代表とする耐乏生活を強いられた。食糧や食品を買うにも「糧票」と呼ばれる食糧配給券を提出しなければならなかった。
当時、北京などの北方では、その食糧配給券はさらに「粗糧票」と「細糧票」に分かれていた。前者では主にトウモロコシ、アワ、ソバ、コーリャン、イモ、大豆などの穀類・豆類とその加工品しか買えない。後者は精米、小麦粉とその加工品を買うのに使われる。今でこそ、粗糧は健康に良いと持ち上げられているが、肉食の生活が少なく、食用油の供給も非常に厳しく制限されていた配給制経済年代には、粗糧は敬遠される存在だった。
1980年8月からの1年間、私は北京語言学院(現・北京語言大学)に開設された中国日本語教師研修センター(愛称「大平学校」)で勉強していた。食事はそこの食堂を利用していた。
しかし、当時、米を主食とする上海以南の地方から来た研修生たちは、北京の食事になじめなかった。それは配給制度の影響があった。食糧がすべて配給制による当時の中国では、地方によって、その配給方法が違っていたからだ。
例えば、上海では、配給枠以内なら、パン、マントウ、麺類、ご飯のどれでも自由に選んで買うことができる。しかし、北京では、米と小麦粉類を分けてそれぞれの配給額を制限していた。具体的な数字は忘れたが、例えば15キロの配給額のうち、米は6キロ、小麦粉類は9キロといった具合に内容と量を制限されていた。
主食が米の南方で生まれ育った同僚のなかには、生まれてはじめて北方に来た人もおり、小麦粉を主食とする生活に相当な戸惑いを覚えていたようだ。私は青春時代に黒龍江省で数年間生活していたから、むしろマントウのある生活にも慣れている。それを知った女性の同僚から、小麦粉類購入用食券を私の米購入用食券と交換しないかと相談を持ちかけられたこともある。このような配給制は1990年初期まで続いた。
だから、長い間、中国人にとってのそばは「粗糧」のそばでしかなかった。
中国では「一杯のかけそば」が教科書になるほどの人気なのに…
麺類として成り立っている日本の手打ちそばは、中国人の食文化にはなかったようだ。それを理解していただくには、次の文章が参考になると思う。
日本中国友好協会の会報「日本と中国」今年3月1日号に、『「かけそば」と“陽春麺”』というコラムが掲載されていた。話は「そば」と「麺」の違いから始まる。
「中国では南北の食生活に大きな違いがあり、南は米が主食、北は小麦がメインである。(中略)米が主食の南方では、小麦粉料理は、昔はより重宝されていた。母の話では、四川で生活していた際、北方出身の人にだけ小麦粉の配給があった。それも月に量が決まっており、小麦粉で作る饅頭や包子、そして麺はやはりご馳走だった。当地の人々は、普段はご飯だが、レストランでは“抄手”(ワンタン)などを楽しんだという」
それから、コラムでは「かけそば」を“陽春面(麵)”に誤訳されていたことを指摘した。
「ひと昔前、日本で『一杯のかけそば』が話題になり、映画化もされた。日本ではその後沈静化したが、中国では小学校の“語文”(国語)教科書に掲載されるほど、今でも人気だ。しかし、その『かけそば』は中国語版ができた時点では、“陽春面”(陽春麺)と訳されていた。かけそばは字面通り、そば(蕎麦)である。対して中国語の「陽春麺」の麺は、小麦粉でできている。そういう意味では、かけそばとは違うものであった」
作者の続三義(しょく・さんぎ)・東洋大学元教授は、「“蕎麦面”(そば麺)のように訳すと、中国人には想像ができない。それで“陽春面”が当てられたと思われる」と分析している。
しかし、文化交流が進むにつれ、日本料理も中国全土に広がりつつある。そば麺も知られるようになり、それに中国でも生活の向上に従って、健康に良い食品としてそば麺が食べられるようになった。
続氏は、「今、『一杯のかけそば』の新しい中国語訳は『一碗清湯蕎麦麺』とすべきだ」、と提案した。
麺の歴史は4000年前までさかのぼる
私たちが峨廊庵で食べたのは、まさしくその「清湯蕎麦麺」なのだ。麺の故郷と自慢する山西省では、そば麺は、「上海の陽春麺」を持ち出さないと国民に理解してもらえず、日本の「一杯のかけそば」が海を渡れない。
2002年、考古学者チームが中国の黄河上流に位置し「東洋のポンペイ」と呼ばれる喇家遺跡(らっかいせき)から、麺状の食べ物を発見した。この新石器時代の人類集落の遺跡は黄河の北岸側にあり、地震により、集落が一瞬にして水没したようだ。遺跡の現場で、伏せられた赤い陶器の碗が土に埋まっていたが、土を剥がすと、その中には麺状の食べ物が発見されたという。
分析の結果、約4000年前のものと確認され、麺の成分も考古学者によってアワと黄米の混合物と特定された。器の内部は半真空状態になっていたため、現在まで残っていたと考えられる。こうして世界でもっとも古い麺類が発見され、世界の麺食文化の構図もこれによって大きく書き換えられた。これまで後漢までしかさかのぼることができなかった中国人の麺食の歴史を、一気に4000年前にまで前進させたのだ。
麺食の歴史が長いというニュースはうれしいが、日中間の麺食に関する交流と研究には、まだ多くの課題と作業が残っている。日本のそば(麺)が歩んできた歴史と中国のそば栽培・食用文化との関係も、面白くて個性的な一つの課題ではないかと思う。
(作家・ジャーナリスト 莫 邦富)」
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