⛩19)─4・A─縄文時代から「脇役」だったソバが、存在感を増していった歴史上の理由とは?~No.39 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 和食・ソバと日本民族であって、和食・ソバと日本人ではない。
   ・   ・   ・   
 2022年8月26日 MicrosoftNews 現代ビジネス「縄文時代から「脇役」だったソバが、存在感を増していった歴史上の理由とは?
 俣野 敏子
 その歴史は古く(縄文時代から!?)、寿司、天ぷらと並ぶ代表的な日本料理、蕎麦(ソバ)。健康食としても大人気で、日本が誇る伝統食の1つだ。しかし、意外にもその文化的、歴史的側面はあまり知られていない。なんとソバ文化は日本だけのものではなかったのだ……。
 植物であり、作物でもあるソバの魅力を、世界各地の食文化、日本における歴史、そして健康食としてのパワーを通して語った1冊『そば学大全』より、ソバ研究に情熱を傾けた一人の研究者の想い、そしてソバの魅力に迫る!日本の歴史上「主役」だったイネに対し、ソバは「脇役」だった。
 しかし、ある理由により年貢の対象にもなり、その存在感を増していく。縄文、平安、戦国と、各時代の歴史的文献を引用しつつ、ソバの歩んできた歴史をここに考察する。(※本稿は俣野敏子『そば学大全』を一部再編集の上、紹介しています)
 縄文遺跡から発掘されたソバ
 日本各地の遺跡から発掘された炭化粒や花粉から、縄文時代にすでにソバが日本へ渡来していたのはたしかではあるが、どのように栽培されていたかはわからない。出土した植物遺体を顕微鏡でみて確実なソバの炭化種子といえるものの中で、年代の最も古いものは北海道の渡島のハマナス遺跡で、縄文時代の前期と推定されている。
 縄文遺跡から発掘されたソバの炭化種実の事例は割合少ないが、花粉のほうは亀ヶ岡遺跡、加曽利湿原、深泥ヶ池、板付遺跡など多くの縄文期の遺跡から検出されている。これらの出土した花粉は短花柱花の大きな花粉と長花柱花の小さな花粉がそろっていて、明らかにソバであることを示している。
 しかし、それらが栽培されていたかとなると、必ずしもはっきりとはいえない。遺跡から大量にかたまって発掘されるコムギのような例や、イネのように畦[あぜ]が残っていてそれが栽培の証拠とされる作物もあるが、ソバではそうした証拠はない。しかし、日本各地で発掘されることから、栽培されていたと推定してもまちがいないだろうとされている。
 photo by iStock© 現代ビジネス photo by iStock
 日本のソバの元祖は?
 では、縄文時代のソバがその後も栽培され続けて日本のソバの元祖になったのだろうか。弥生時代の遺跡からはオオムギ、コムギ、ヒエ、アワ、キビ、ジュズダマ、アズキ、ダイズ、ササゲ、エンドウ、ソラマメ、リョクトウなどとともにソバが出土している。
 これらの中には縄文末の遺跡から出土する作物もあるが、多くは弥生時代に新しく登場する作物で、水稲だけではなく畑の作物も多く日本へ渡来している。したがって、ソバについてもこの時代にまた新しく渡来したものの中に含まれていて、それが現代のソバの元祖になったのかもしれないとも考えられている。
 稲の不作に備えて
 文字に書かれたものにソバが最初に登場してくるのは、722年(養老六年)の元正天皇の詔である。これをわかりやすく要約すると、「朕は凡庸でおろかなまま皇位をうけ継いだので、自分にきびしくして、みずから勉めてきた。けれども誠意がまだ天に届いていない。このため今年の夏は雨が降らず、稲の苗は実らなかった。そこで全国の国司に命じて、人民に勧め割り当てて晩稲[おくて]・そば・大麦・小麦を植えさせ、その収穫を蓄えおさめて、凶年に備えさせよ」となる(『続日本紀』全現代語訳 宇治谷孟講談社学術文庫、1992)。
 次に詔に現れるのは839年(承和六年)仁明天皇の時で、畿内にソバを植えるようにと勧めている。当時の栽培状況はよくわからないが、この詔勅はソバが救荒作物として登場する最初であり、植物・作物として見た場合に興味を引かれるのは、このソバの栽培が干害に対する救荒作物として奨励されている点である。
 © 現代ビジネス photo by iStock
 ソバが年貢の対象に
 2回の詔勅の後、日本のソバに関する記録は途絶えるが、平安末期には少しずつ現れ、鎌倉末期になるとソバの記載が増え、年貢の対象にもなってくる。
 たとえば、平安末期には『新猿楽記[しんさるがくき]』(1052年=永承七年)に出ており、また『古今著聞集[ここんちょもんじゅう]』(1254年=建長六年)には山中で修行中の道明阿闍梨が山人から野生しているソバを食べさせてもらったとも解釈できるような話が出てくる。もちろんこれが野生ではないことはソバの植物としての性質から明らかなのだが。とにかく、900年頃からはほとんど栽培らしい栽培が見られなかったのは、ソバに頼らなくてもよい気象条件が続いたからではないだろうか。
 飢饉とソバとの深い関係
 『古今著聞集』にソバが出てくるのは、次のような飢饉の多発を背景としていると解釈できるだろう。すなわち、『方丈記』に記されている1181、82年(養和元、二年)の大飢饉(大干ばつ)、これは平家滅亡の要因になったと考えられる飢饉で、養和元年の大干ばつと、翌年の病気など、死者4万を数えた。続いて1190年の干ばつ、さらに、1230、31年には大冷害となり、これらが貴族や僧侶たちにもソバに目を向けさせたのだろう。
 飢饉とソバとの関係は深いのであるが、年貢のソバについて別の見方もできるのではないだろうか。寺方や公家でもソバを食べるようになって、生産する人のソバ料理と生産者ではない人のソバ料理との2つの流れの始まりと考えられないだろうか。
 戦国時代の公卿・山科言継[やましなときつぐ]の日記である『言継卿記』は当時の畿内の状況をうかがう最も重要な資料とされているが、その1463年の条に、もらったソバを御所に献上したとある。1460年から1461年へかけての大冷害と戦乱のための大飢饉でアワもほとんどないような状態になったことの影響だろう。
 また、16世紀中葉に京都相国[しょうこく]寺の塔頭[たっちゅう]鹿苑院の記録である「蔭涼軒日録」や「鹿苑日録」にも酒と蕎麦の漢詩が載っていたり、ソバの粉や餅を贈答にしたとか、斎膳にソバの葉の和えものを添えたとかの記録がある。
 縄文時代に日本に渡来したソバが現代まで栽培され続け、日常的に食されるようになった背景には「飢饉」が深く関係している。ヘルシーな印象があるソバだが、生きるために食されてきたという歴史を思うと感慨深い。その食べ方の歴史も気になるところである。」
   ・   ・   ・   
 日本の動植物は、東南アジア、中国大陸、朝鮮半島、シベリアなどから渡ってきたのでって、日本列島で生まれた生粋の日本在来種など存在しない。
   ・   ・   ・   
 そもそも、日本人自体が移り住んだ雑多の人々が乱婚を繰り返して生まれた混血の雑種、つまり血が汚れた人々である。
   ・   ・   ・