🏕36)─1─天皇・皇后両陛下が臨席される全国植樹祭は四大行幸啓の一つ。~No.68No.69 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 「日本人は自然を愛し大切にしてきた」は、ウソである。
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 天皇・皇后両陛下が出席される国家・国民的行事は、全国植樹祭国民体育大会・全国豊かな海づくり大会・国民文化祭の四つで、四大行幸啓と言われている。
 革新派や反天皇反民族反日本的日本人は、全国植樹祭に猛反対している。
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 世界で記録上に残る最古の植樹祭は、1594年にスペイン北西部の村モンドニェードにおいて村長主催で行われた。
 近代的な植樹祭が初めて行われたのは、1805年にスペインのヴィラヌエヴァ・デ・ラ・シエラで地元司祭によって行われた。
 {明治元年=1868年}
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 日本の植林・植樹の代表例が、明治天皇昭憲皇太后を神として祀っている明治神宮の杜、鎮守の杜である。
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 明治28(1895)年 コネチカット州出身の教育家バードセイ・ノースロップが日本に植樹祭を紹介した。
 日本政府は、明治天皇誕生日の11月3日を「学校植栽日」とし、全国の学校に学校林設置の訓令を出した。
 明治31(1898)年 林学博士・本多静六の提唱により神武天皇祭の4月3日が「植栽日」となった。
 昭和22(1947)年 昭和天皇は、富山県行幸の際にタテヤマスギの植樹を行い、これが契機となり全国植樹祭への出席され「お手植え」が始まった。
 昭和25(1950)年 日本政府は国土緑化運動の中核的な行事として全国植樹祭を、毎年春に開催する事に決した。
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 須佐之男命と植林。
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 ウィキペディア
 植樹祭(Arbor Day)とは、人々に木を植えることを推奨する行事、祝日であり、現在では多数の国で見られる。主に春に行われることが多いが、その地域の気候に適した時期に行われる。
 起源と歴史
 1805年に世界初の植樹祭が行われたことを示す記念碑と、その横に立つ環境活動家ミゲル・ヘレーロ・ウセダ(スペイン)
 植樹祭の起源
 記録上に残る最古の植樹祭は、1594年スペイン北西部の村モンドニェードにおいて村長主催で行われた。その場所は、アラメダ・デ・ロス・レメディオスとして残されており、ライムとセイヨウトチノキが植わっている。近代的な植樹祭が初めて行われたのはスペインのヴィラヌエヴァ・デ・ラ・シエラであり、1805年に地元司祭によって行われた。
 米国における最初の植樹祭
 バードセイ・ノースロップ
 アメリカ合衆国における最初の植樹祭は1872年4月10日。ネブラスカ州ネブラスカシティにおいて、J・スターリング・モートンによって開催された。当日にはおよそ100万本の木がネブラスカ州で植えられたと考えられている。
 セオドア・ルーズベルトによる公式声明
 1906年から、ペンシルベニア州ドュボイズのメイジャー・イズレエル・マックレイトは、大統領セオドア・ルーズベルト環境保護演説の対象が林業業者に限られていると主張し、より若い世代にも環境教育を施すべきであると進言した。さらに、マックレイトは学生・生徒・児童に対してアメリカの環境破壊が進んでいることを伝える公式声明を出すべきだと主張。当時の森林局長官であったギルフォード・ピンショーはその考えを受け入れ、大統領に対して公式声明を出すように要請した。そして、1907年4月15日、ルーズベルトは「合衆国にいる生徒に対する植樹祭宣言」を発表した。
 日本における植樹祭
 1895年、コネチカット州出身の教育家バードセイ・ノースロップが日本に植樹祭を紹介した。同年、日本政府が明治天皇誕生日の11月3日を「学校植栽日」とし、全国の学校に学校林設置の訓令を出した。1898年林学博士・本多静六の提唱により神武天皇祭の4月3日が「植栽日」となった。
 1933年、神武天皇祭を中心とする4月2日から4日までの3日間を「愛林日」として、全国一斉に愛林行事を催すことが提唱された。翌1934年(昭和9年)から、全国的な植樹運動の日として愛林日を実施することとなり、日本初の中央植樹行事が茨城県筑波山麓の「鬼が作国有林」で行われた。
 戦中の中断を挟み、1950年からは全国植樹祭に引き継がれた。
 世界における植樹祭
 オーストラリア
 1889年6月20日に第1回植樹祭が開催された。多くの州で植樹祭の日が設定され、ビクトリア州では植樹週が設定されている。
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 全国植樹祭は、日本で行われる植樹祭。国土緑化運動の中核的な行事として、1950年(昭和25年)以降、毎年春に開催されている。
 概要
 第55回会場・西都原古墳群の「お野立所」
 国土緑化推進機構と開催都道府県(全都道府県の持ち回り)が主催している。大会会長は衆議院議長
 大会式典では、天皇の「おことば」、天皇・皇后による「お手植え・お手まき」行事、県内外の参加者による記念植樹、国土緑化運動ポスターコンクール等の表彰行事、大会宣言が行われることが恒例となっており、国民体育大会・全国豊かな海づくり大会・国民文化祭と並び「四大行幸啓」の一つに位置付けられている。大会は後日NHKで編集版が放送される。
 大会の前身は、「愛林日植樹行事」に遡る。現在の植樹祭につながるものは、1950年(昭和25年)に山梨県で「植樹行事並びに国土緑化大会」として開催されたものである。開催日は、「緑の週間」に合わせて4月第1週(当時)に設定されていたが、1960年(昭和35年)の第11回開催以降は5月に設定されることが増えた。1970年(昭和45年)の第21回(福島県)から現在の名称になり、今日に至る。1977年(昭和52年)の第28回(和歌山県)からは、秋に過去の植樹祭での手植え・手まきにより成長した木の手入れ(枝払いなど)を行う全国育樹祭が行われており、歴代の皇太子が出席している。
 参加者数は、最盛期には1万人を超える規模になり、2002年(平成14年)に山形県金山町で開催された会場では12,000人を数えたが、2000年代に入ると地方自治体の資金難や広い植樹会場を設営することが困難などの理由で縮小傾向となり、2013年(平成25年)の鳥取県南部町の会場ではスタッフを含めて7,000人規模となっている。
 2009年(平成27年)の第60回(福井県)からは当時の天皇明仁(現・上皇)の公務負担軽減策の一環として植樹祭式典での「おことば」は取りやめになり、平成年間中はこのまま継続した。徳仁皇位継承後、2019年(令和元年)の第70回大会(愛知県)において、天皇の「おことば」が復活した。
 批判
 会場の造成や、道路工事など、植樹祭開催のために、わざわざ自然を破壊しているとの批判がしばしば聞かれる。また、国土強靱化対策の一環として、全国植樹祭全国育樹祭に統一し、放置林の間伐を実施して災害に強い森林づくりを推進すべきとする意見もある。
 その他
 行幸啓が中止された際の措置
 1968年(昭和43年)5月19日、秋田県で開催された第19回植樹祭では、3日前に十勝沖地震が発生し行幸啓が中止となった。秋田県側は、急遽、秋田スギ苗木と鉢を皇居へ持ち込み「お手植え」をしてもらい会場へ搬送、当日に植栽箇所へ改めて移植するという手段を採った。「お言葉」は徳川義寛侍従が代読している。
 なお、開催地が2巡目となり、再び秋田県に開催地がめぐってきた2008年(平成20年)には、開催前日に岩手・宮城内陸地震が発生。開催自体が危ぶまれたが、翌日、11,500人の出席者を得て開催。「お手植え」、「お手撒き」も実施された。
 2020年(令和2年)に予定していた第71回(島根大会)は新型コロナ感染拡大のため1年延期となり、翌2021年(令和3年)5月30日に開催されたが、感染状況を考慮して行幸啓は行わず、赤坂御所(赤坂御用地)と島根県内の会場を中継でつなぎ、「お手植え」「お手撒き」を東京で行った後、後日、会場まで運搬されて移し替えられた。翌年も同様。以降予定していた大会も1年ずつ後ろ倒しされた。
 全国緑化行事発祥の地
 1934年、第1回愛林日では茨城県筑波山麓の鬼ヶ作国有林(現:茨城県桜川市真壁町大字羽鳥)にて植樹行事が行われた。この場所は、長らく忘れ去られていたが後年になり特定、全国緑化行事発祥の地として2013年度に林業遺産(No.3)に認定。石碑が建立されている。
 昭和天皇のお手植え
 1947年11月、昭和天皇富山県へ戦後行幸を行った。その際、天皇林業に関心を示し、富山県細入村(現:富山市西笹津)の高山本線沿いの斜面でタテヤマスギの植樹を行った。それまで天皇による公式行事での植樹は、枯死した際に責任が関係者に及ぶことを危惧し忌避されていたが、「そんな時代でもないであろう」ということとなり、全国で初めて行われることとなった。これが契機となり全国植樹祭への出席、「お手植え」に結び付いている。その後、1958年10月に開催された富山国体、1969年5月に開催された全国植樹祭富山県に再び行幸した際には、高山本線で運行されたお召列車の車窓から自ら植えたスギを眺めている。この場所は、2019年現在も地域住民ら有志の手により管理が行われている。
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 人の立ち入りを許さない山野、森林、河川、海、湖・沼は、物の怪・魔物、妖怪・天狗、幽霊・亡霊、怨霊、他など、人ではない化物の棲み家で、血と死を生業として生きている部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、追放された異形の民(障害者、その他)、異界を好む異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)が住む場所であった。
 そうした人が寄りつかない所は、同時に神々の世界・神域でもあった。
 つまり、日本の自然は宗教そのもので、自然崇拝宗教=アニミズムであった。
 彼らを崇め奉り敬い祀り祈って鎮められるのは、最高神である女性神の正しい血を引く正統な天皇だけであった。
 日本列島には、人が立ち入る事ができない危険な遭難しやすい地形が数多く存在する。
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 日本の価値観には、白(イエス・生)と黒(ノー・死)とその間に灰色(中間)の多元論による三層構造であった。
 世界の価値観は、イエス(白・生・正・善)とノー(黒・死・邪・悪)の二元論による二層構造であった。
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 日本神道・日本神話とは、狭間・境を神聖視する自然崇拝宗教である。
 隙間・境とは、生と死、平地と山・森林・海、天と地、光と闇、明と暗、そして神と人、人と動植物である。
 人は、地上界、平地・平野で生き働き家族とともに生活している。
 八百万の神々は、天・天界(高天原)、山・森林・海におられる。
 神々の世界・天上界と人間界・地上界を繋ぐ狭間・境には、神社仏閣を建て穢してはならない祈りの場として掃き清めていた。
 狭間・境に立つ事ができる人が、男系の正統天皇御一人であり、女系の正当天皇ではないし皇族でもない自称天皇の紛い物でもなかった。
 狭間・境は、宗教的パワースポットであっても、カルト的神秘ではなく、科学でもなく、イデオロギーや哲学・思想でもなかった。
 にたような神霊スポットは、琉球の御嶽である。
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 世界文明・世界宗教キリスト教ユダヤ教イスラム教なども啓示宗教は「平野と森の対立文化」から発生した為、人は神に祝された命溢れる平野・平地に住み、山・森林・海は神と敵対する悪魔、魔物、獣、犯罪者などが巣くう魔窟であり、神の平野・平地を離れて魔窟がある山・森林・海に少し入った所は魔女・異端者・追放者が潜んでいると信じられていた。
 つまり、自然とは悪魔、魔物、獣、犯罪者が蠢いている魔窟であり、聖なる火で焼き滅ぼすべき汚れた土地であった。
 それ故に、普遍宗教である啓示宗教・都会宗教は自然宗教である田舎宗教・土着宗教を「神の御名」によって滅ぼし、人間文明は生活を邪魔する自然を破壊してきた。
 人類最古の神話とは、半神半人の英雄が森林の守護神(魔物)・大地母神(大蛇)を倒し、森を切り開き、開墾して農地を拡げ、城塞都市を造って王国を打ち立てる物語である。
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 日本民族は、高温多湿で病原菌(悪玉菌)・有益菌(善玉菌)・雑菌(日和見菌)などの細菌が多い自然環境・住環境で生きてきた為に衛生観念が高く片付け上手で綺麗好きであったが、現代日本人の様な神経質で異常な病的潔癖性ではなかった。
 それを言い当てた狂歌が「白河の 清きに魚も棲(す)みかねて もとの濁(にご)りの田沼恋しき」である。
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 日本の宗教的価値観から生まれた境・隙間、灰色、中庸とは、善・正であれ悪・邪であれ相手を逃げられない所まで追い詰めない為であり、曖昧な所・いい加減な所を残して言い訳可能な状況を残して助ける為であった。
 それが村八分である。
 昔の日本で、絶対価値観による不寛容な異端審問、魔女狩り、異教徒虐殺、人種差別・民族差別・人間差別が起きなかったのはこの為であった。
 善悪・白黒を付けないという多種多様な宗教性から、日本の物の怪・妖怪、幽霊・亡霊、怨霊は世界の悪魔、魔物、獣とは違う。
 つまり、日本には生き返って無差別に無関係な人々を虐殺するゾンビは無意味である。
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 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が 貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。 
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 天皇は、宮中祭祀として、最高神の女神・天照大神と第一代天皇神武天皇の皇祖と第二代天皇以降の歴代天皇の皇宗に対して、正統性の世襲で受け継いできた一子相伝の秘儀で我が身の事よりも「国安から民安から」と数千年前の弥生時代古墳時代から祈られて来られた。
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 紛れもなき日本民族日本人の切なる願いはただ一つ、数万年前・数千年前の祖先と数千年後・数万年後の子孫の為に、民族中心神話所縁の正統性世襲男系父系天皇制度と神の裔である現皇室の天皇・皇族を守り残す事のみであった。
 日本民族日本人が天皇に向ける畏敬・敬愛・親愛は、情緒、情愛よりも強く深く濃い「情念」である。
 ゆえに、日本民族日本人は天皇・皇族・皇室、国體=天皇制度を守る為ならば死を厭わず、武器を取って戦った。
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