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日本人は自然を愛し大事にした、はウソである。
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第48号(2013.10 発行)
特集:日本人が森に学ぶこと。
森あふれる日本
─国土と環境の未来像─
東京大学名誉教授 太田 猛彦(談)
1.過去 400 年間で最も豊かな現代の森。
2.かつて、日本人は森を使い尽くした。
3.森林の荒廃から生まれた「治山治水」。
4.木を植える「意識」と、自然破壊という「知識」。
5.増えた森林は、海岸をも変える。
6.量の充実から質の充実へ。
7.海岸林の可能性、再び。
8.地球の進化と持続可能なエネルギー。
9.木と歩んできた日本人の環境貢献。
私たちが知らないうちに日本の森林は飽和していた──。量的な森林の変化は、国土そのものや環境にも様々な影響を与えはじめています。日本の森林の現状を正確に認識することを出発点に、
新しい時代にふさわしい森林管理のあり方、そして、日本人が見つめなおすべき森林の価値につ
いて考えます。
■1.過去 400 年間で最も豊かな現代の森。
日本の森林は年々増えている──こう言うと、驚く人も多いかもしれません。けれどその様子は、毎年まとめられる森林・林業白書のデータにもはっきりと表れています。日本の森林蓄積は、天然林・人工林を合わせると約 44.3 億 m3。半世紀前とくらべて約 3 倍になっているのです。
もっと以前の時代と比較すると、今の森林の豊かさはより明確にわかります。江戸から明治にかけての長い間、近郊の山の多くは、はげ山か、灌木しか生えていない荒廃山地だったからです。
■2.かつて、日本人は森を使い尽くした。
歌川広重の「東海道五十三次」など江戸時代の浮世絵には、しばしばその背景にむき出しの山肌や数本のマツが生えるだけの山腹などが描かれています。また、江戸末期に平尾魯仙が描いた「暗門山水観」では、白神山地に接する地域で大量の木材が伐り出されている様子がわかります。
古来、私たちは、この資源に乏しい日本で土と石と木を利用して生活してきました。中でも木は、建築物から身近な道具まであらゆるものの材料となり、生活や産業のエネルギー源であり続けました。年代とともに人口が増加すると、森林を切り開いて農地を増やす一方で、燃料や肥料の調達も増加します。室町時代以降は、製塩業や製鉄業、窯業などの産業も発達し、それによっても燃料の消費が激増しました。
日本の人口は、15 世紀中ごろから 18 世紀の初頭(室町時代から江戸時代中期)までの間に、約 3倍に増加したと言われています。その人口と産業を支えるために、身近にある山の木は大量に伐採されていきました。現在、私たちが眺めているような豊かな森林は、国土の半分以下にまで減少してしまったのです。
■3.森林の荒廃から生まれた「治山治水」。
山に木がないことは、様々な自然災害をもたらしました。里山やその周辺では少し強い雨が降れば山崩れや土石流などの土砂災害が起こり、下流ではその土砂で河床が上昇して洪水氾濫などの水害が頻発しました。さらにその影響は海岸にもおよび、流出する土砂が砂浜に到達することで激しい飛砂害を多発させました。各地の海岸林はそれを防ぐために造成されたのです。
こうした状況に対し、岡山藩の陽明学派の儒者であった熊沢蕃山は、「下流河川での災害は上流山地での森林の荒廃によるものであり、治水の根本は上流での森林保護である」とした「治山治水」を説きました。17 世紀後半のことです。江戸幕府や各藩も、伐採の制限や植栽といった「森林の保全」と、堤防の建設や浚渫、川の付け替えといった「治水事業」を二本柱にして災害対策に取り組みました。
■4.木を植える「意識」と、自然破壊という「知識」。
この治山治水の考え方は、その後も脈々と受け継がれました。明治から昭和にかけての度重なる戦争や、戦後復興期、高度経済成長にともなう木材需要の増大期など、何度かの木材消費の拡大期があり、天然林を大量に伐り出してスギの一斉林にするといった変遷もありました。けれど、現在でも毎年開催されている「全国植樹祭」に見られるように、「木は植えるもの、木を植えることはよいこと」という考え方は、私たちの心の中にしっかりと根を下ろしています。
その一方で、「山に木がなかったから」という前提の部分が知識として受け継がれることはありませんでした。文書などの記録としてもほとんど残されていません。なぜなら、山に木がない状態は、当時の人々にとってはあまりにも当たり前の話だったからです。そして、そのために、現代に生きる私たちの多くは「かつての山には木がなかった」という事実を知りません。
私たちが昨今受け取る情報にもいささか偏りがあります。日本人の多くは平地に暮らしており、そこで目にするのは、近郊の山を切り開いての宅地化や商工業地化の進行です。海外からは森林破壊のニュースがもたらされ、地球規模で絶滅危惧種が拡大していることもよく知られるところとなっています。日本の森林は私たちの生活圏から遠くにあり、その現状に触れる機会は日々のニュースに接する機会よりはるかに少ないのです。
昔の状況を知らないこと。そして、にもかかわらず「木を植えよう」というスローガンをしっかりと教育されたこと。そして、日々入ってくる自然破壊のニュース。これらが相まって、日本人は、森林は今も損なわれ続けているという印象を抱いたまま、木を植え続けているのです。
■5.増えた森林は、海岸をも変える。
かつて薪炭などを取るために常に人の手が入っていた里山は、その多くにササや灌木が生い茂り、とても人が入れる場所ではなくなっています。人工林でも、林業の低迷とともに間伐遅れの森林が増加。樹冠が閉鎖するために下草が生えず、地表が裸地化して表面侵食が起こるなどの問題もあります。奥山でも、拡大造林期の大面積皆伐や道路整備など、人間の活動が拡大した影響を受けて生物多様性が脅かされています。つまり、質の面では、いずれの森林も問題を抱えているのが現状です。
しかし、そのような状態であっても、量的に豊かになったことで、森林は周辺の環境に様々な変化をもたらしています。顕著なのは、山を森林が覆い尽くしたためにそれまで頻繁に起こっていた土砂崩れ(表層崩壊)が極端に減ったことです。それによって、山から河川を通って海へ運ばれる土砂の量も減りました。
直接的な土砂災害が減ったことはもちろん喜ばしいことですし、ダムの堆砂量が減って貯水量に余裕が生まれたり、海岸での飛砂害が減少することはメリットだと言えます。一方で、河川では河床が低下し、橋げたが不安定になる事例が起こっています。海岸では砂浜が縮小している場所が全国にありますし、台風の高波で海沿いにつくられたバイパスが崩壊する例も起きました。
1978 年から 92 年までの 15 年間の海岸侵食量は、平均で年間 160ha。これは、それ以前の 70 年間の年間平均値の 2 倍以上です。たしかに、貯水ダムや砂防ダムの整備、河川での砂利採取などの影響もあるでしょう。けれど、かつてのはげ山の時代と飛砂害の多発、現代の森林蓄積の増加と海岸侵食の増加がともに時期的に重なることには注目すべきです。森林の変化は、山のみならず、河川や海岸に至る国土や環境にも変化をもたらしているのです。
■6.量の充実から質の充実へ。
では、こうした状況をふまえた上で、私たちは日本の森林とどのように向き合っていくべきなでしょうか。
研究者の中でも、森林が豊かになったのならそのまま保全していけばいいのではないか、という意見があります。けれど、本当の奥山──環境を保全するための森林──を除けば、人が手を入れて木を使うほうが森林の質を高めることは、現在の森林の荒廃を見ても明らかです。里山にせよ人工林にせよ、長い歴史の中で使いながら育てる前提の森林づくりをしてきたからです。
前述したように、森林の変化は河川や海岸の変化ともつながっていますから、これからの森林管理を考えるときには、山から海岸まで、国土から環境までを包括的にとらえ、林業の技術と治山の技術が連携することが重要でしょう。その上で、場所によって、林業を中心にして環境までを考える「使う森」と、環境保全を中心にしてできれば木材生産も行う「護る森」とに分けて管理することが必要です。また、海岸線を維持するために、被害を出さない範囲で適度に土砂を下流に流す手法の開発や、森林の増加に伴って増える流木被害の対策にも取り組む必要があるでしょう。そして、日本のおかれている状況──火山国であり地震国であることや、急峻な地形、台風や梅雨などによる多雨、日本海側の多雪、高い人口密度、人口減少社会など──に即した新しい森林管理の方法を創りあげていくべきだと思います。
■7.海岸林の可能性、再び。
そうした新しい森林管理の必要性は、海岸林においても同じです。
2011 年の東日本大震災の津波で被害を受けた海岸林の様子には、多くの人が胸を痛めたと思います。現地を調査すると、壮齢のマツであるにもかかわらず、根返り(樹木が押し倒されて根の大部分が地上に浮き上がった状態)を起こし、樹木全体が流出してしまったものが多くみられました。
倒れたマツが流木化したこともあって、「マツは根が浅いために流されやすい」というような論調を生んだようですが、それは事実と異なります。調査の結果、流出した海岸林では地下水位が高く、乾燥した土壌を好むマツは垂直の根を十分深く下ろすことができない環境であったことがわかりました。
マツ、特に海岸林に多く植えられたクロマツは、海岸の過酷な環境でも力強く成長する樹種として見出されました。砂や潮、風から住まいや田畑を守るだけでなく、その落ち葉や枝は燃料としても利用され、地域の人々の手によって守られてきたのです。
前述のように飛砂害そのものが減り、海岸林の利用の仕方も変化してきてはいます。けれど、津波で海岸林を失った地域では、海が直接見えて不安だという声があがり、また内陸部まで直接吹き込む潮風に、海岸林の役割を改めて感じている人も多いのです。
流出してしまった海岸林の再生事業も徐々に進行していますが、必要な盛り土をした上に、できるだけ広い幅の林帯を設け、適切な樹種を選ぶことで、健全な新しい海岸林をつくる方法はあると考えています。健全な海岸林は、暮らしと海との間の自然の緩衝材として強い海風や潮をやわらげてくれるでしょうし、津波や高潮の力を弱め、減災につなげる力を十分に発揮できると思います。
■8.地球の進化と持続可能なエネルギー。
そうした取り組みと同時に考えなければならないのは、どうすれば日本の森林の木をもっと使うようになるか、という問題です。まさに、この数十年の間、日本の森林と林業が抱えてきた課題です。私はこれを、地球の進化の過程に照らし、環境問題と対応させて考えたいと思っています。
私たちの暮らす地球は、約 46 億年前に誕生しました。その歴史の最初のうち、地表を覆う気体の9 割以上を占めていたのは CO2 でしたが、やがて生まれた植物などの光合成によって固定され、徐々に地上から地下へと移動していきました。それが石炭や石油といった化石燃料です。つまり化石燃料は、地球の進化の過程で地下に「捨てた」ものであり、そのおかげで(CO2 に替わって酸素が増えたことで)、地上には多様な生物が生まれることができたのです。
私たち人類も、長い間、地上で手に入れられるものをエネルギー源として暮らしてきました。中でも木は、太陽エネルギーによって(CO2 を固定しながら)成長し、利用しても新たな木が成長するという、再生可能なエネルギーでした。
ただ、木は一度伐ったら次に成長するまで時間がかかりますから、その時間を待ちきれずに過剰に伐採し、はげ山にしてしまうというアンバランスも起こりました(室町時代から江戸時代にかけての日本の人口増加や産業の発達は、資源としての木が支えられる範囲にとどまったという見方もできると思います)。
ところが、かつて地下に捨てた化石燃料を取り出せるようになると、人類はこぞってこれを利用しました。いわゆるエネルギー革命です。今度は成長を待つ必要もありません。それが現在に至る急速な人口増加と産業の発展を支えてきたわけですが、すでに地球の環境容量の壁に直面していることは議論を待つまでもないでしょう。
地球の歴史という観点で見る限り、化石燃料を大量に使うことは地球の進化に逆行しています。地球温暖化をはじめ様々な環境問題が深刻化していることは、その証左なのではないでしょうか。そして、そうした環境問題のひとつの解決策が、私たちの暮らす地上で持続可能な炭素循環を生み出せる木の利用だとは考えられないでしょうか。
■9.木と歩んできた日本人の環境貢献。
地球環境への認識が高まってきた現代なら、こうした考え方を浸透させることもできる、日本の木材を利用することの根拠にできると、私は考えています。
ただ、日本の木材には競争相手がいます。外材と代替材です。
木を使う人にとっては、それが国産材であっても外材であってもあまり違いは感じられないでしょう。さらには、私たちの生活はプラスチックなどの便利な代替材であふれていますから、本当は木がなくてもそう困りはしないというのが現実です。しかし、だからこそ、環境の論理で説明することが必要です。
外材に対しては、はるばる何千キロ、何万キロの距離を運んでくる間に、どれだけの化石燃料を使っているかということを考えてほしい、ということです。輸送の部分も含めて、本当に環境負荷の少ない木材を選ぶ消費者の意識を育てていくことも重要です。プラスチックなどの代替材も、すべては石油などの化石燃料が原料ですから、同じく環境負荷を意識することで、木製のものを選ぶ動機にしていけるのではないでしょうか。
新しい時代の適切な森林管理のもとで木材が生産され、多くの人がこうした共通認識を持って日本の木を使っていくことができれば、量的に豊かになった森林は質的にも豊かなものになっていくでしょう。
資源の乏しい日本という国で、私たちは、木を、森林を使う知恵を磨いてきました。森林を育てる技術も、余すところなく利用する技術も、しっかりと蓄積されているはずです。それを、いま直面している環境問題を解決する手段として発揮すること。それこそが、日本と日本人ができる、持続可能な社会への貢献です。そして、日本の森林は、それだけの豊かな可能性を持っているのだと思っています。
[ 太田 猛彦 ]
1941 年東京生まれ。東京大学大学院農学系研究科修了。東京農工大学助教授、東京大学教授、東京農業大学教授を経て現職。農学博士。砂防学会、日本森林学会などで会長を歴任。日本学術会議会員、林政審議会委員を務め、現在 FSC ジャパン議長。専門は森林水文学、砂防工学、森林環境学。
主な著書に『森林飽和』(NHK 出版)『森と水と土の本』(ポプラ社)『水と土をはぐくむ森』(文研出版)、編著に『渓流生態砂防学』(東京大学出版会)など
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農山漁村文化協会
農文協の主張
農文協トップ>主張> 1990年12月
手本のない時代には過去を読む
江戸時代をふりかえることのすすめ
目次
◆まっくら闇の江戸時代?
◆江戸時代の人と自然を知る
◆あっと驚く発見のかずかず◎農家お母さん5人づれが30泊31日の大観光旅行をした話(神奈川)◎杉の生えない山を2段林仕立てで見事な山林にした話(千葉)◎木曽の森林には留山という資源保護の制度があった(長野)
農文協ではいま、『江戸時代 人づくり風土記』という全集を出版している。全五〇巻で都道府県ごとに一巻をあてている。『江戸時代 人づくり風土記・秋田』『江戸時代 人づくり風土記・岩手』『江戸時代 人づくり風土記・福島』といった具合である。現在、上記三県のほか、茨城、栃木、千葉、神奈川、新潟、福井、長野、静岡、京都、岡山、高知、福岡、長崎、熊本の一七府県分が発行されている。
まっくら闇の江戸時代?
この全集の編集をしていて、つくづく感じることがある。
江戸時代は封建的な時代だときめつけたとたんに、この時代は暗黒の時代のようにみえてきて、「百姓は生かさぬように殺さぬように」という政策のもとで、人々は「真綿で首を締め」られながらひっそりと、かろうじて生き延びてきたように思ってしまう。ところが事実はまるで正反対で、人々は活気にあふれて生き、創意工夫にみち、ときによく遊び、総じていえば、日本という国のことを考えるよりも、自分の住む郷をこよなく愛して暮らしていたのである。
「日本国中を回って、花の都京都、花の江戸、大阪、名古屋をみても、生まれ故郷の津軽よりよいところはない。また、津軽のなかを回って、御城下弘前や鯵ケ沢港の賑いをみても、自分の生まれた在所がいちばんよい」。
これは青森県津軽の農家、中村喜時という人が、江戸時代半ば(一七七六年)に書いた『耕作噺』という農書の書き出しである。「生まれ在所がいちばんよい」というのだが、すぐつづけて、
「我等が在所も人の見ば、かくやあらんと産宮の、講を催し御酒捧げ、所繁昌安全の、願いの外は他念なく、講会ごとに田や畑の、耕作咄しの外はなく、思い思いを噺すなり」
とある。生まれたところがいちばんよいと誰もが思っているのだから、他所の人からみれば、私の好きなこの生地も、劣ったところにみえるだろう。それで一向かまわない。私たちは産土《うぶすな》神に在所の繁昌と安全を祈り、あとはみんなで集まって、田畑の作りや暮らしのことを、思い思いに語り合い、助け合って生きている。どこの人たちもそうして暮らしているから、争うこともなくそれぞれの地が栄えていく。――ということになる。
これは、いまのことばでいえば村おこしであり、地域主義であり、草の根民主主義ということになる。
(『耕作噺』は農文協の『日本農書全集』第一巻に所収。前半の引用は現代語訳、後半の引用は原文)
いったい誰が江戸時代を封建社会だと定義して、暗黒時代というブラックボックスにとじこめてしまったのだろうか。それは明治維新という革命を担った人たち、そして日本の近代化を推し進めようとした人たちだ。革命をやろうという人たちは、まず、過去の歴史を否定しなければならない。こうした歴史の見方は、やがて皇国史観というものにまとまっていき、日本が海外に戦争をしかける上での思想的な武器になっていく。
戦争に敗けて、日本は民主主義の国として再建されることになる。このときももちろん、過去を否定する積極的な勢力があった。ところが、この勢力は、これから育て上げるべき日本の民主主義の手本を、日本の内部に求めずにアメリカという外部に求めたのである。封建時代といわれる江戸時代に、日本的な民主主義があった――などといったらたちまち嘲笑されたのが戦後民主主義の時代であった。江戸時代はあいかわらずブラックボックスの中にある。
だが、敗戦から半世紀近くを経た現在はどうだろう。ある学者はこういっている。
「江戸時代は封建社会である、という一言ほど、歴史を読む者を誤らせる言葉はない」(注1)
そしてもう一人の学者はこういっている。
「日本の近世(江戸時代)は近代であった」「織田信長の亡くなったぐらいから日本の近代化は着々と進んでいた」(注2)
さらに、もう一人の学者はいう。
「明治以降の日本は、いわゆる西洋先進国をお手本にして、それにできるだけ追いつくというかたちで政治、経済、文化を運営してきたわけです」「つまり、前にひとつのお手本があった」。ところが現在の日本には「お手本がなくなった。日本より先に進んでいる、というようなところがなくなったわけで、これを追っかければ安全だと思っていたものが追っかけられない、そういう時代になってきているわけです」「ではどうするかというと、やはり人間というのは、いろんなものから学ぶ以外に手はないわけ、われわれの先に進んでいる人のお手本がお手本にならんということでしたら、どこか人間社会の過去のなかからひとつの海図を見出す以外に手がないということになる」。「そういう観点からいきますと、私は江戸時代がいちばんおもしろい――といったら少し変わった表現ですが――役に立つんだと考えております」(注3)
江戸時代の人と自然を知る
というわけで、農文協は『江戸時代 人づくり風土記』全五〇巻の刊行にふみきったのだが、編集する上でいちばん心がけているのは、これを単なる歴史書にはしないということである。年代を追って、社会の変遷を記述し、その変遷の必然を理由づけた歴史書(通史)はたくさんある。そういう本を出そうというのではない。先ほど引用した学者のことばを借りれば「人間社会の過去のなかからひとつの海図を見出す」ような本にしたいということである。だから書名は「江戸時代 人づくりの歴史」ではなくて「風土記」なのである。
では、なぜ「人づくり」なのか。それは、何に役立つ海図を求めるかということなので、いわば海図の書き方にかかわるわけである。私たちは、現代の日本での“人づくり”に役立つような海図として、この全集を編集している。
いま、人と自然の関係、そして人と人の関係がたいへん乱れている。では、江戸時代に人と自然、人と人の関係はどんなふうだったのだろうか。それを知ることで、現代の人材の育成に役立てたいというわけだ。
江戸時代の前半は開田の時代で、生産基盤が急速に整備され、以後日本の自然利用の原型ができあがった時代である(この時代を昭和三十五年以来の高度経済成長期になぞらえる学者もある)。そして後半の時代(元禄以後)は地方物産の発掘、技術の開発、それにともなう商業・工業の発達の時代で、先ほどの学者の言を引用すれば「日本の近代化が着々と進んだ」時代である。
こうした成長とらん熟のなかで、人は自然とどういう関係をきり結びながら暮らし、育っていたのかを知ろうというわけである。
そういうねらいなのでこの『江戸時代 人づくり風土記』は、つぎのように構成されている。
(1)地域の自然を生かして生き、ときには政治の圧力と闘った「自治と助け合い」の章。
(2)地域経済の安定・発展を願う先人の努力を描く「生業の振興と継承」の章。
(3)世界的にみてトップレベルだと評価される教育や、それと表裏一体の関係にあった娯楽のあり方を見る「地域社会の教育システム」の章。
(4)家族と家業の安定・永続をはかることがとりもなおさず子育てであった時代の「子育てと家庭経営の知恵」の章。
(5)全国の社会・文化の情勢をいち早くとらえ、地域の交流、学芸・産業の発展や、社会改革運動を担った「地域おこしに尽した先駆者」の章。
人物や産物、慣習や行事、事件や地域に即した四〇~五〇のテーマがこの五つの章にふりわけられて記述されている。歴史を勉強するのではなく、江戸時代の人々や自然に、さまざまな角度から触れ合ってみようというのである。そうすることで、明日の社会をどう生きるかのヒントを手にできたら、これは楽しい読書ということになる。
あっと驚く発見のかずかず
江戸時代が封建で、切棄て御免の世の中だったという教育を受けた編集者自身、執筆者から送られてくる原稿に目を通すたびに、あっと驚く発見があって、興味つきない。それにつけても、執筆をお願いしている各地の郷土史家の方々の詳細きわまるご研究には頭がさがる。これらの方々は皇国史観などまどわされずに、ただひたすら史実を求めて研究し、『耕作噺』の著者のように、在所「郷土」の人と自然をこよなく愛して暮らしておられるのであろう。
さて、あっと驚く発見のかずかずから、ほんの少しだが書き抜いてみよう。
農家のお母さん五人づれが三〇泊三一日の大観光旅行をした話(神奈川)
幕府が一六四九年に出した慶安の御触書という文書があって、これは農民の暮らしをことこまかに規制したものだ。その一項に「大茶を飲み、物まいり遊山好きする女房は離別すべし」とある。ところが、神奈川県淵野辺の養蚕農家の主婦五人が、一カ月もの長旅をした記録が残っている。寺社参詣を名目にした大観光旅行で、天保十四年(一八四三年)の春のことだ。在所の淵野辺を北上してまず秩父巡礼をはじめる。三十四番所を巡りつくしてこんどはなんと長野の善光寺に詣で、帰途にはまた足をのばして日光の東照宮に至る。
この話を紹介した相模原市立図書館の長田かな子さんは「その体力、精神力のたくましさもさることながら、農閑期とはいえ、かくも長き不在と、かなりの出費を許される彼女たちの、家庭内での重い存在をうかがい知ることができます」と結んでいる。
江戸時代の庶民は、働くことも働くが、大いに余暇もたのしんでいたわけで、同じ神奈川県の大山は信仰の山として名高いが、じつは江戸庶民の恰好の観光地でもあった。信仰の対象である阿夫利神社には御師《おし》という僧侶が一五〇人ほどもいて、江戸八百八丁のすみずみまで立入って大山講を組織していた。この御師について「江戸庶民の信仰と遊山」を執筆した神奈川県立博物館の鈴木良明さんはいう。「御師の積極的な講の組織活動は、客観的にみれば、現在、観光産業によってさかんに展開されている各種イベントやツアーの組織と共通する面が多くみられます。事実、江の島や大山の参詣客の大部分は信心半分、娯楽半分で、なかにはお参りはほんの口実で、名所見物と飲んで騒いでが楽しみという向きも多かったのです。寺社側もそのことは百も承知で、参詣客の誘致につとめることで財政を豊かにしただけでなく、門前町の発達、土産物産業の育成、地元産品の知名度の向上など、さまざまな波及効果によって地域の活性化に寄与しました」
杉の生えない山を二段林仕立てで見事な山林にした話(千葉)
千葉県の中央部には山武林業とよばれる林業地がある。杉と松の二段林という独特の林地つくりで知られるが、この山武林業の興りは江戸中期のことだった。もともと火山灰土で水はけが悪く、杉の生育に適さないこの地に杉が育つようになったのは、江戸で木材の需要が高まるなかで、農民たちが工夫に工夫を重ねた結果である。旺盛な研究心が産地をつくる。
工夫は二つあり、ひとつは挿し木苗、ひとつは杉と松の二段林である。林を育成するのに、まず黒松を植える。一、二回間伐して松林を育て、一五年から三〇年後、松の生育にあわせてはじめて杉苗を植える。松に守られて杉は順調に育つ。杉が一人立ちしたころ、松を伐り杉の純株とする。
杉は江戸の家屋の、とくに障子や雨戸の材として珍重され、山武は「上総戸《かずさど》」という建材の特産地となった。松も有効に使われた。炭に焼くのだ。
それにしても、松を植えてから杉を伐るまで、百年近くかかる。一代では無理。先祖の残した杉を伐り、子孫のために松を植えるのである。自然の大きな循環とともに世代を重ねる江戸時代の人々ののびやかでおおらかな姿をそこに見る。
木曽の森林には留山という資源保護の制度があった。(長野)
木曽は今につづく古くからの林業地で、江戸時代には年貢は米でなく木材で納められた。これを役木《やくぎ》という。ところで、この木曽には留木《とめぎ》、停止木《ちょうじぼく》とか、明山《あけやま》、留山《とめやま》、巣山《すやま》、尽山《つきやま》という聞きなれないことばがある。木曽の林地を管理する尾張藩がつくった制度である。明山は、伐採自由の山、留山と巣山はともに伐採禁止の山のことで、巣山はもと鷹を保護するため指定されたのだが、のちには鷹の巣の有無と関係なく、留山同様の意味になったという。一方、尽山とは皆伐した山のことで、江戸時代初期には多くみられたがのちには一切禁止された。森林の保護は一本一本の木にも定められていて、留木も停止木も、明山の中であっても伐ってはいけない木のことである。
この江戸時代の木曽の森林保護のルールは江戸時代初期の「高度経済成長」のもとで行なわれた尽山に対する反省から生まれたものだ。藩の指導のもととはいえ「直接、山を保護管理していたのは、村々の人たちです」と長野県史編纂室の小松芳郎さんは書いている。
*
頭からそうときめてしまっていた「真綿で首を締め」られているはずの江戸の町、村、山の人々が『江戸時代 人づくり風土記』のなかで活力にあふれ躍っている。
この全集は江戸庶民の風流や滑稽ばなしを集めたものではない。江戸時代三〇〇年を平和に生きた庶民の生き方を、自然と人の関係(村おこし)と人と人の関係(人づくり)に焦点を合わせて活写しようというものである。江戸人の生き方からどのような“海図”を得るか。いや、そういそぐことはない。まずは江戸庶民の群像と在所のリーダーたち、そして全国を歩いて各地の情報を交流させたパイオニアたちと、親しくつきあってみてほしい。誰でも寝ころんででも読めるように、文章は「です」口調で書かれ、絵もたくさん入っている。
(注1)速水融『徳川社会からの展望』(同文館、三五五頁)
(注2)谷沢永一「日本の近世は“忍び足”の近代化だった」(大石慎三郎編『江戸時代と近代化』筑摩書房、三七四頁)
(注3)大石慎三郎「いま、江戸時代がおもしろい」(『自然と人間を結ぶ』農文協、一九八八年二月号三頁)
(農文協論説委員会)
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株式会社ヨシカ
林業のこと
林業の歴史を振り返ろう、日本の森林整備を巡る歴史紹介
林業 | 2018年8月6日
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日本の歴史と「林業」とのかかわりは切っても切れないほど深いものです。
古来より日本人は木で家を作り、木で道具を作り、木を植えて森にし、そして木を信仰して歴史を紡いで来たと言っても過言ではありません。
現代まで日本の重要な産業として継続している林業には、どのような歴史的背景があるのでしょうか?日本の森林整備の歴史と共にご紹介します。
■日本の森林整備の歴史
豊かな国土をもたらす健全な山づくりの為には「森林整備」が必要です。
日本における森林整備は、江戸時代頃から本格的に推進されてきました。江戸や大阪などの大都市では人口の増加に伴い、木材の需要が増大しますが、その需要に応えるために森林伐採が行われるようになりました。同時に、そのような森林伐採による森林資源の枯渇や災害の問題も深刻化します。そこで、森林を保全するための「留山制度」や「諸国山川掟」が制定され、さらに渋江正光や熊沢藩山のような論者が森林整備・保全の必要性を説くようになりました。
また、単純に伐採を禁じるだけではなく、森林の回復を考慮して区画ごとに順々に伐採を行う「輪伐」や、成熟していない樹木は伐採せずに残す「択伐」などの制度も後々に制定されることになります。これらは持続的な森林整備・保全のための考えであり、現代の林業の源泉にもなっているものなのです。
■江戸時代までの林業
飛鳥時代や奈良時代の古代より、日本人は宮殿や寺院を建築する為に木材を利用し、薪材を燃料として火を起こし、山に生える芝草をたい肥として農業を営むという、山と共にある暮らしを当たり前としてきました。大きな寺社仏閣や周辺の都市部では、時として大量の木材を要する為、9世紀ぐらいから木材を確保するための植林の記録が残されています。特に何度も遷都を経験している近畿地方では、京都の北山で14世紀から、奈良の吉野で16世紀ぐらいからそれぞれ植林をして大量消費に備えてきました。
江戸時代になると森林はそれぞれの藩の所有となり、むやみやたらと大量伐採しないよう「留山」と呼ばれる保全対策で大量伐採を禁じ、公益的機能を回復させるための造林対策も併せて行われてきました。
幕府は寛文6年(1666年)に「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)」を発令しました。
これは「川の左右の山で木立のないところには苗木を植えて土砂の流出がおきないようにすること」という河川流域の造林を推奨するものでした。
また、林業を治山治水の観点でとらえ、土砂流出防止林や水源涵養林、防風林など作り、専門家を置いて意見を聞くなど国を挙げての森林整備が始まったことになります。
■明治維新から戦前までの林業
明治維新になった途端に西洋の文化が流れ込み、高層建築物の足場や杭、電柱、鉄道の枕木、貨物の梱包などで木材の需要は急増し、幕府の締め付けもなくなった全国の森林で大量伐採が横行し、日本の森林は再び荒廃の危機にさらされました。
明治政府は明治30年(1897年)に「森林法」を制定して森林の伐採を規制しました。さらに、無立木状態の荒廃地に関しては、明治32年(1899年)から大正10年(1921年)までの「国有林野特別経営事業」にて国有林野を払い下げた費用で、植栽を積極的に行って森林整備に努めました。また公有林においては、大正9年(1920年)年からの「公有林野官行造林事業」において、政府が市町村と分収林契約を結ぶ事によって森林整備を実施しました。
ちなみに森林法はドイツの森林整備を参考にしており、日本の文化が近代化するとともに「持続的な森林経営」も視野にいれて法整備しようとしていた事がうかがえます。その後、第一次世界大戦、日清戦争、日露戦争などの戦争などで木材の需要がさらに拡大しましたが、森林を整えていた事により需要に十分こたえられるべく林業は盛んだったと言われています。
■現代の林業の森林整備とは
日本の重要な一次産業として盛況だった林業も、第二次世界大戦後に激変してしまいます。
第二次世界大戦の戦後復興、その後の高度成長期の住宅ブームにおいて木材の需要は最盛期を迎えます。国内の人工林ではまかなえず、安い外国資材の輸入が始まると、国産材の価値は一気に下落し1970年代から木材の需要は落ち込んでしまいます。それと同時に、林業従事者の高齢化、若年層の林業離れが加速し90年代の木材価値は目も当てられない状態でした。
林業従事者の減少を食い止めるために国は2001年に「森林林業基本法」を制定し林業を産業としてとらえて森林を管理経営する目線で森林整備と維持を進めていく政策に舵を取りました。
また「緑の雇用」制度を採用してこれから林業に従事したい人を取り込み、即戦力をはぐくむためのカリキュラムで働き手を確保しています。
さらにドローンなどで撮影した山の地図をデータベース化して共有するIT林業で全国の森林組合が一つになれるようネットワークを強化して森林と林業を未来に残すための森林整備に取り組んでいます。
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江戸時代に全国で禿山が広がったのは、人口の増加・大火や自然災害などの被害・その他の理由での燃材料と建築材料、農地拡大に伴う森林開墾、などによる大量乱伐が行われていたのが原因であった。
徳川幕府や諸大名は、領地内で主要産業に欠かせない重要な木材資源がる山林・森林を保全する為に立ち入り禁止、女人禁制の地域を定め、許可なく立ち入った者、木材を持ち出す者は発見次第、女子供に関係なく問答無用で斬り殺した。
神道と仏教は、植林推奨と自然保護の為に多くの神話、物語、寓話、宗教説教を創作して鎮守の杜(もり)という神域を定め、庶民の間に自然崇拝宗教に広めた。
つまり、日本において植林と自然保護は科学ではなく宗教、それもアニミズムであった。
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明治新政府は、資金不足を補う為に、神道国教化政策・神仏分離政策で仏教寺院が持っていた広大な荘園を没取し、神社合祀令で神社の整理統合して広大な神域を没収して、山野・森林を民間に払い下げて乱伐を許し自然破壊が起こした。
つまり、「背に腹はかえられない」として、国富をもたらす科学を最優先して山野保護の宗教を否定して自然を犠牲にした。
自然破壊は、大正時代に南方熊楠等の努力で神社合祀令が廃止されて止まった。
自然保護の象徴が、明治天皇・昭憲皇太后を人神として祀る明治神宮(大正9年創建)の人工林=神宮の杜である。
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