🏞93)─4─継体系天皇本家の血筋は欣子皇女で絶えた。1820年代の皇統危機。~No.342 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 万世一系天皇本家血筋は幾度も絶え、その都度傍系の血筋が男系女系両系相続で「接ぎ木」して繋いできた。
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 2022年7月10日号 サンデー毎日社会学的皇室ウォッチング!
 森暢平
 江戸後期の女性皇族の地位
 皇統に重要なのは男系か?
 今回は、江戸時代後期の女性皇族の地位を、光格天皇中宮(皇后にあたる)、欣子(よしこ)内親王(1779~1846年)から考えていきたい。当時の皇位継承を子細(しさい)に検討してみると、決して男系による継承だけでが重視されていなかったことが分かる。本稿執筆にあたって、大阪大学研究員、佐藤一希さんの新稿『文政~弘化期の朝廷における新清和院の地位──仁孝天皇との関係を中心に』(『史林』105巻2号)を参考にした。
 1816(文化13)年2月25日、中宮欣子に男子が生まれた。高貴宮({あてのみや}悦仁{としひと}親王)である。欣子は当時36歳(満年齢に換算、以下同じ)。彼女は20歳のとき、一度男子を産むが2カ月で亡くし、その後出産していなかった。当時の感覚で言えば『高齢出産』。それゆえにこの皇子誕生は驚きをもって迎えられた。
 欣子の夫は前述した光格天皇(1771~1840年)である。しかし、困ったことがあった。光格には側室(典侍{てんじ})勧修寺(かじゅうじ)婧子(ただこ)との間に男子(寛宮{ゆたのみや}、恵仁{あやひと}親王)があり、すでに15歳だった。彼は9歳のときに立太子の儀式を経て、皇嗣({こうし}次の天皇)の地位にあった。
 光格天皇は、閑院宮家出身である。曾祖父は東山天皇にあたるが、皇位継承が想定された人物ではなかった。町医者の娘であった女性(のちに大江磐代{いわしろ}とよばれる)を母に持ち、その大江の母は、鳥取・倉吉で『餅屋のおりん』と呼ばれ出自も身分もはっきりしない人物である。
 傍系の宮家出身、それも母方の身分に難があった光格が即位したのは、後桃園天皇の一人娘でる欣子と結婚することが担保になっていたためだ。2人の結婚は1794(寛政6)年、光格22歳、欣子は15歳であった。誤解を恐れずに言えば、光格は『婿養子』として天皇本家に入った。
 しかし、欣子は若くして得た男子を亡くした後、子供に恵まれない状態が続いた。そこで側室の子である寛宮を養子として、天皇の後継ぎとした。ところが自分が出産し、いわば正統の天皇家の子供ができたのだ。ただ、すでに立太子が行われたこともあり、寛宮が後継ぎであることに変更はなかった。1817年、光格は譲位し上皇となり、寛宮が仁孝天皇となった。
 1820(文政2)年夏の状況を考えてみる。光格上皇48歳。皇太后となった欣子41歳。高貴宮4歳。一方、仁孝天皇は20歳え、この年、初めての子鍠宮({おさのみや}安仁{しづひと}親王)が誕生した。
 現皇室典範の考え方から言えば、当時の天皇の男系長子なのだから、鍠宮が皇位継承者となるのが筋である。しかし、当時はそのようには考えられなかった。仁孝天皇はいわば中継ぎであり、本家正統の高貴宮こそ、次の天皇だと考えられたのである。
 1820年代の皇統危機
 つまり、天皇本家の流れを汲(く)む女性皇族の欣子の実子高貴宮と、現職の天皇である仁孝を父に持つ鍠宮を比較したとき、高貴宮のほうが貴種性が高いと考えられていたのだ。それを担保したのが本家の娘、皇太后欣子である。
 皇統が完全に閑院宮系に移ってしまう可能性はなるべく排除し、従来の天皇本家の血筋を継ぐ女性として、欣子は重要な存在となった。ところが、高貴宮は1821年に5歳で亡くなってしまう。42歳である欣子の年齢を考えると、天皇本家系で皇統を嗣ぐことが難しくなった。さらに、鍠宮も同じ年に亡くなってしまう。
 加えて、仁孝天皇の正妻89(女御{にょうご})であり、鍠宮の生母鷹司繋子(つなこ)も2年後、2回目の懐妊で女児を産む際、生まれた子とともに亡くなってしまう。25歳だった。
 天皇家に残されたのは、皇太后欣子(44歳)、欣子とは血がつながらない義理の息子である仁孝天皇(23歳)だけである。仁孝がまだ若いのが希望であったが、皇統は危機にあった。
 結局、仁孝天皇は、側室何人かとの間に男子に恵まれそのうちのひとり、煕宮({ひろのみや}統仁{おさひと}親王、1831〈天保2〉年生まれ)が、のちに孝明天皇として即位し(1846〈弘化3〉年)、皇統は保たれた。
 ただし、仁孝天皇孝明天皇には本来、天皇本家の血統ではないことに対するコンプレックスが強かった。
 これに対して、孝明天皇の即位の年、67歳まで生きた欣子は、いわば、天皇本家の実質的家長であり、広い影響力を持った。皇位継承や側室の序列など皇室内部のことについて、彼女の意向や考え方が決定に大きく反映されたのである。維新のあとの1870(明治3)年、彼女の陵墓石塔が、前例を覆すような七重塔の形式で作られた。天皇本家の最後の女性、欣子の存在感は、それほどまでに大きかったのである。
 愛子さまの正統性
 現在の皇統も19世紀前半と同様に綱渡りの状態にある。天皇の一人娘である愛子さまと、血筋から言えば傍系である秋篠宮悠仁さまとで、どちらが次の天皇になるべきかの具体的な議論が起こっている。
 何が何でも男系男子と考えれば、悠仁さまが継承ということになるが、これは近代の理論である。江戸時代的な継承規則に則(のっと)れば、愛子さまのほうが正統性は高いと考えることもできる。愛子さまが、天皇家と遠くでつながっている男性と結婚することはないであろうが、仮にそんなことがあれば、愛子さまの継承には正統性が増す。
 今回、強調したいのは、皇統に重要であるのは男系継承だけでなかったことである。前近代においても、女性皇族の地位が低かったわけではない。
 コロナ禍が落ち着いた様相を見せるここ1カ月、女性皇族の活動が目立つ。男女の関係が近代化している21世紀。男女共同参画社会のなかで、女性皇族の地位がより高まっていくことを期待したい。」
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 ロシア帝室は、日本皇室に比べて開かれていた。
 ロシア女帝エカテリーナ2世(在位1762年~1796年)は、ドイツ人でプロイセン軍少将の娘。
 ロシア皇帝ピョートル3世は、病弱、意志薄弱な為に貴族の信頼や軍人の忠誠が得られず、危機感を抱いたエカテリーナ皇后の側近や近衛兵によるクーデターで廃帝に追い込まれ、後に暗殺されたとも言われている。
 エカテリーナ皇后は、貴族や軍人に推戴されて皇帝に即位しエカテリーナ2世と称した。
 エカテリーナ女帝は、有力な貴族、有能な政治家、勇敢な軍人を愛人として利用してロシア帝国を世界的強大国に作り変え、周辺の国や地域に対して侵略戦争を繰り返して領土を拡大し、中国・アジアへも侵出するべく日本へ初めて使者団を派遣した。
 鎖国下の日本はロシアの軍事侵略と恐れ、尊皇派・勤皇派である水戸学の会沢正志斎や藤田東湖、諸藩の吉田松陰らは神国日本と現人神・天皇を夷狄の侵略から護るべく攘夷運動を始めた。
 ロシアによる軍事侵略という国難で、日本人は初めて日本民族を意識し、天皇主義・民族主義愛国心に目覚め、そして近代的天皇制度と軍国主義国家へと暴走し始めた。
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 欣子内親王(よしこないしんのう、1779年3月11日〈安永8年1月24日〉- 1846年8月11日〈弘化3年6月20日〉)は、日本の第119代天皇光格天皇の皇后(中宮)。幼称は女一宮(おんないちのみや)。女院号は新清和院(しんせいわいん)。
 系譜
 第118代後桃園天皇の第一皇女で唯一の子女。母は摂政太政大臣近衛内前の娘、女御近衛維子(盛化門院)。母維子の没後は父方の祖母にあたる一条富子(恭礼門院)を養母とし、その手元で養育された。光格天皇は夫であると同時に再従祖父(祖父・桃園天皇の再従弟)にもあたる。中御門天皇の唯一の玄孫であり、自身と温仁親王を含めたその子女の死により、中御門天皇皇統(中御門天皇の直系子孫)は途絶えた。
 経歴
 誕生した年の内に父後桃園天皇崩御するが、天皇には欣子内親王の他に子女がなかったため、皇位は傍系の閑院宮典仁親王の第六皇子、祐宮師仁(のちの光格天皇)を迎えて継承された。この際、皇統の連続性を示すため、中御門天皇直系の血を受け継ぐ唯一の皇女であった欣子内親王の新天皇への入内が計画されており、この観点から未婚の祐宮師仁が選定されたとも言われている。
 誕生の翌年、安永9年12月13日(1781年1月7日)に内親王宣下、寛政5年12月24日(1794年1月25日)に准三后宣下を経て、翌寛政6年3月1日(1794年3月31日)に入内。同3月7日(4月6日)、中宮に冊立される。因みに、内親王中宮立后は、後醍醐天皇中宮珣子内親王後伏見天皇の第一皇女、新室町院)以来実に460年振りのことであった。
 入内して6年後の寛政12年1月22日(1800年2月15日)、第三皇子温仁親王を出産。儲君に治定されるも、同年4月4日(4月27日)に親王は夭折してしまう。そのため、代わって文化4年7月18日(1807年8月21日)に典侍勧修寺婧子所生の第四皇子、寛宮恵仁(のちの仁孝天皇)が儲君となることとなったが、その際、寛宮を自身の実子として公称した。
 陵所の後月輪陵(京都府京都市東山区泉涌寺
 その後、文化13年1月28日(1816年2月25日)に第七皇子悦仁親王を出産するが、こちらも文政4年2月11日(1821年3月14日)に6歳で夭折し、これにより中御門天皇からの皇統は完全に途絶えてしまうこととなった。なお、心の病によって御所を彷徨い出て、後桜町院の怒りに触れたという記事が『思ひのままの記』に見える。
 文化14年3月22日(1817年5月7日)に夫光格天皇仁孝天皇に譲位し、3年後の文政3年3月14日(1820年4月26日)に皇太后となった。天保11年11月18日(1840年12月11日)に光格上皇崩御し、翌天保12年閏1月22日(1841年3月14日)には出家して女院号宣下を受け、新清和院と称される。
 弘化3年6月20日(1846年8月11日)、68歳で崩御し、7月23日(9月13日)に京都府京都市東山区泉涌寺の後月輪陵に葬られた。
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 天皇家・皇室は、日本列島にしかいない唯一のジャポニカ・ジャパンで、絶滅する危険性の高い高貴な血筋である。
 そして、五重の塔を地震などの自然災害から倒壊させないように護っている心柱であり、日本民族日本民族であると承認める・規定する寸分の狂いもない原器、つまり日本国と日本民族に国際的人類的、歴史的文化的宗教的な「信用」を与えているただ一つの核である。
 唯一の核には、永久不滅で不動な神聖不可侵の正統性が不可欠で、人為的恣意的に作られる不安定で数多くの正当性を生み出す確信とは意味が違う。
 永久不滅で不動な神聖不可侵の正統性とは、数万年前の自然崇拝(皇室祭祀)と数千年前の最高神・女性神を源泉とする民族中心神話(人神信仰)を絶対根拠としている。
 それが、天皇家・皇室が滅びなかった理由である。
 そして、唯一のジャポニカ・ジャパンである天皇家・皇室は、日本列島・日本国・日本民族の中でこそ神聖さを保ちながら輝く事ができるが、日本列島・日本国・日本民族の外・海の外に出てしまえばその神聖さも輝きも全てが消えてタダの普通の人になる。
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 仁徳天皇「私はすっかり富んだ。民が貧しければ私も貧しい。民が豊なら私も豊ななのだ」(かまどの逸話)
 天皇の意思は「大御心(おおみこころ)」で、民は「大御宝(おおみたから)」として、天皇日本民族は信頼という硬い絆で結ばれていた。
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 日本天皇日本民族=日本国=民族主義
 日本民族は、必ずしも日本人、日本国民、日本市民と同じ人間ではない。
 日本人や日本国民とは、日本列島・日本国に住む全ての人間の事を指す。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中にはより過激に無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 皇室の血族優先(ネポティズム)は、血縁・地縁による依怙ひいき、縁故、身びいきとは違う。
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 中国・朝鮮は、公・忠より私・孝を優先する一族・家族中心の宗族主義で、公然と賄賂による不正が蔓延る依怙ひいき、縁故、身びいきである。
 楊逸「王朝時代の中国は、『家国』意識が強かった。漢王朝は『劉家天下』、唐王朝は『李家天下』と、国土と人民も皇帝家の『私有物』という考え方でした。」
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 天皇位・皇位は、世界的な中世的神権神授説や近世的社会契約論そして近代的マルクス主義階級闘争論では説明できない。
 が、将来も受け継がれて存続するかは不明で、重要なカギを握っているのが日本民族天皇観・皇室論である。
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 現代の日本人は、日本における天皇位・皇室の民族的男系相続が理解できないのと同時に、世界における国王位・皇帝位の男系女系両系相続も理解できない。
 何故なら、現代の日本人は日本の歴史はおろか世界の歴史さえも知らないからである。
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 現代の日本人が、本気で天皇家・皇室の行く末を心配し、天皇皇位継承を深く考えているかどうか疑わしい。
 心配し深く考えているような発言を繰り返すが、その中身は空虚で、底が浅く、無味乾燥に近い。
 天皇制度を廃絶し、天皇家・皇室を消滅する事を夢見て活動している日本人は、確実にメディア業界や教育界に存在している。
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 天皇位・皇位は、日本の最高神である女性神天照大神(天の神)と初代の天皇である神武天皇(人の神)の血を正しく受け継ぐ直系子孫が継承という、古事記日本書紀・日本神話に基ずく正統論を信じた日本民族が数千年間、何人も冒してはならないという神聖不可侵の御位、絶やしてはならない血筋・血統・皇統として命を犠牲にしても護ってきた。
 つまり、天皇位・皇位の正統性は数万年前に遡るであろう民族の神話=民族の宗教=民族の自然崇拝であった。
 その証拠が、血筋を正統根拠とした一子相伝の秘儀である宮中祭祀である。
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 一子相伝の秘儀とは、自分の祖先神・氏神様を体内に流れる血、大御心、志、気概を持って祭り祈る宗教行事である。
 それ故に、祖先神・氏神を祀り祈るという、一子相伝の秘儀である天皇の宗教行事は血筋神話を正統根拠とする世襲制でしか意味を成さないし、血の繋がらない赤の他人は排除される。
 天皇位・皇位が今日まで、特定の一族だけで受け継がれ、特殊な存在として存続してきたのはこの為である。
 時の権力者達が現実の力(軍事・経済・宗教・他)を背景として禅譲放伐皇位を簒奪して、蘇我氏天皇藤原氏天皇伊勢平氏天皇、鎌倉源氏天皇、足利氏天皇織田氏天皇豊臣氏天皇、徳川氏天皇あるいは西洋キリスト教天皇、中華儒教天皇、有象無象新興宗教天皇さらにはGHQ天皇、外国人天皇マルクス主義天皇共産主義天皇日本国憲法天皇として取って代われなかったのは、数万年前・数千年前からの民族中心神話=自然崇拝神話を否定できず破棄できずそして超えられなかったからである。
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 歴史を好んで語る、歴史を自慢げに語る日本人の多くは、歴史を知らない。
 歴史が分かる日本人は2割、歴史が分からない日本人は3割、歴史が好きでもなければ嫌いでもない日本人は5割。
 歴史が嫌いな日本人とは、マルクス主義者や共産主義者で、左翼・左派・ネットサハそして右翼・右派・ネットウハで、リベラル派・革新派そして一部の保守派で、高学歴な知的エリートや進歩的インテリに多い。
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 国家と民族の成立は、日本とヨーロッパと中国・朝鮮とでは三者三様で全然違う。
 現代の日本人には、その歴史的事実が理解できない。
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 世界の開かれた王家とは、人種・民族、出自・出身、身分・家柄、血筋・血統に関係なく、個人の才能・能力・実力で即位できる事である。
 王位の正統性は、宗教による王権神授説・帝位神授説である。
 王位の正当性は、憲法・法律による社会契約説である。
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 世界の王国・帝国は、自国民でなくても他国民でも国王に即位させ、他国の女性でも自国の女王・女帝に即位させた。
 そこには、外国人に対する偏見や差別は存在しなかった。
 その意味において、日本の皇室は閉ざされた王家として世界の非常識で、人種差別・民族差別・宗教差別そして女性差別を含んでいる。
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 西洋諸王国の即位する正当必須条件とは、人種は白人、民族はゲルマン系、宗教は西欧キリスト教、職業が王族か軍人、人物・才能・能力優先で血筋・家柄・身分・階級は二の次、他国の女性でも有能であれば即位可能である。
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 イギリスの歴代国王の出身部族は、先住民ケルト人を征服したアングロ・サクソン系、ノルマン系、フランス系、スペイン系、ドイツ系であった。
 ヴィクトリア女王の共同統治者である夫アルバート公子は、ドイツ人でザクセンコーブルク=ザールフェルト公エルンスト(後のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世)の次男。
 イギリス人のヴィクトリア女王は、インド皇帝を兼ねてインドを統治した。
 女王エリザベス2世の夫フィリップ (エディンバラ公)は、ギリシャ人(古代ギリシャ人との血の繋がりはない)でギリシャ王家の王子。
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 イングランドエドワード3世は、フランス王家カペー家の直系男児が断絶したのを好機としてフランスに領土を拡大するべく、自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統(女系相続)を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。
 フランの貴族や領主は、フランス国王派とイギリス派に分かれて内戦を始めた。
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 百年戦争(英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans)は、フランス王国の王位継承およびイングランド王家がフランスに有する広大な領土をめぐり、フランス王国を治めるヴァロワ朝と、イングランド王国を治めるプランタジネット朝およびランカスター朝というフランス人王朝同士の争いに、フランスの領主たちが二派に分かれて戦った内戦である。国家という概念は薄い時代であり、封建諸侯の領地争いが重なったものであったが、戦争を経て次第に国家・国民としてのアイデンティティーが形成されるに至った。現在のフランスとイギリスの国境線が決定した戦争でもある。百年戦争は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
 伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の対立状態を指すが、歴史家によっては、実際にギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。だが戦争状態が続いていた。
 両国とも自国で戦費を賄うことができなかった。フランスはジェノヴァ共和国に、イングランドヴェネツィア共和国に、それぞれ外債を引き受けさせた。
 背景
 詳細は「百年戦争の背景」を参照
 百年戦争の原因は、14世紀ヨーロッパの人口、経済、そして政治の危機にある。遠因はイングランド王国プランタジネット家)とフランス王国(ヴァロワ家)とのギュイエンヌ、フランドル、スコットランドにおける対立によってもたらされた。戦争の正式な理由はカペー家の直系男児の断絶である。
 フランス王位継承問題
 百年戦争前のフランス王家の家系図
 987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランドエドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世のフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。
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 メキシコ皇帝マクシミリアンは、ドイツ人でオーストリアハンガリー皇帝フランツ=ヨゼフ1世の弟。
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 オーストリア皇帝は、スペイン国王を兼ねた。
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 スペイン国王は、ポルトガル国王を兼ねた。
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 フランス・平民階級出身のジャン=バティスト・ベルナドット将軍は、スウェーデンノルウェー連合王国国王に即位してカール14世ヨハンと名乗った。
 スウェーデンの政治家や国民は、フランス人国王を認め受け入れた。
 フランス・マルセイユの絹商人フランソワ・クラリーの末娘デジレ・クラリーは、ベルナドット将軍と結婚して王妃となる。
 カール14世ヨハンとクラリー王妃の王太子がオスカル1世として即位し、フランス系ベルナドッテ王朝第2代のスウェーデン国王およびノルウェー国王となった。
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 ギリシャは、15世紀以後イスラム教国オスマン帝国に支配されていたが、1829年に独立戦争に勝利し、1832年にキリスト教ギリシャ王国を建国して独立した。
 ギリシャ国会は、国王に南ドイツ・バイエルン王国を支配するヴィッテルスバッハ家出身のオソン1世を迎えた。
 ギリシャ軍は、1862年にクーデターを起こしてドイツ人オソン1世を退位させた。
 ギリシャ国会は、次の国王にデンマーク王(グリュックスブルク家)クリスチャン9世の息子ヴィルヘルムが迎えた。
 1863年 ヴィルヘルムは、ギリシャ正教に改宗してゲオルギオス1世として即位し、王妃にロシア大公女オリガ・コンスタンチノヴナを迎えた。
 男ドイツ系女ロシア系のグリュックスブルク朝ギリシャ王国は、1974年までギリシャを統治した。
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 グリュックスブルク家は、オルデンブルク家の流れを汲む由緒ある名家で、現在のデンマーク王国ノルウェー王国の王家で、一族からはギリシャ国王も出している。
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 オルデンブルク朝は、1448年から1863年まで続いた、デンマークを中心とした北欧の王朝で、祖先はドイツ・ニーダーザクセン州オルデンブルクの出身であった。
 オルデンブルク伯エギルマール1世(1108年没)はザクセン公家の家臣であったが、1180年に独立した。
 オルデンブルク家は、13世紀に同家はオルデンブルク伯系とデルメンホルスト伯系に分かれたが、15世紀前半のオルデンブルク伯ディートリヒがデルメンホルスト伯の女相続人アデルハイトと結婚し、デルメンホルスト伯領は本家に復帰した。
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 天皇の正統性とは、最高神の女性神を神聖不可侵にして絶対不変の根拠とする、民族宗教、神話物語、血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇制度である。 
 天皇の正当性とは、イデオロギーで作成された憲法・法律を根拠とする、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇制度である。
 現代日本の国民世論の90%以上が、正統性の男系父系天皇制から正当性の女系母系天皇制度への制度変更を要求している。
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 日本民族が崇拝してきた八百万の神々が正統な神である事を保証しているのは、最高神・女性神の血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇の神性である。
 つまり、民族宗教、神話物語でる天皇神話である。
 近代の憲法や法律の宗教法人法が認定する神仏には、合憲・合法に基づいた正当性がっても、神性・神聖の正統性はない、つまり金儲けの為に作られたウソの神仏である。
 当然、非民族神話、非崇拝宗教、非血筋・非血統の非家世襲万世一系を排除した女系母系天皇には神仏を認め保証する神力はない。
 日本の八百万の神々は天皇家の祖先神である伊邪那岐命イザナギノミコト)と伊邪那岐命イザナミノミコト)から生まれた、それが天皇神話である。
 八百万の神々の正統な神性は、天皇神話は保証している。
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 日本の天皇制度は、閉じた王家として、即位する正統必須条件は、日本民族であり、民族宗教、神話物語で語られる最高神・女性神からの血筋を神聖不可侵の絶対根拠とする血筋・血統の家世襲万世一系の男系父系天皇家・皇室の家族・一族のみである。
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 日本は建国物語として、世界のいずれの国とも違い、特殊・特別で、1,神の民族神話、2,人類の文明発展・進化・進歩、3,人間の英雄伝説の3つを持っている。
 神の宗教的民族神話とは、古事記日本書紀を正統根拠とする天皇神話、つまり天皇の祖先である女性神最高神として崇める高天原神話・天孫降臨神話・諸神話である。
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 神代の民族固有神話を持っている国家や国民は、古代の古層を受け継ぐ日本以外に存在しない。
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 日本民族は、数万年前の石器時代縄文時代から日本列島に住んでいた。
 天皇家・皇室は、数千年前の弥生時代古墳時代に、内戦や争いを避け平和と安定を取り戻し、幸せと豊かさを求めたムラ論理で、古代の有力豪族達による長老者会議において衆議の結果として「天皇下駄論」・「天皇人身御供説」・「天皇生け贄説」で作られた、責任を押し付けて逃げるという無責任な生存論理である。
 その神聖不可侵の裁可者・天皇という地位を護る為に考え出されたのが、「政治的無答責の君主」、つまり政治権力も宗教権威も持たない天皇の権威つまり「天皇の御威光」である。
 祖先と国と民族に対して重い責任を負うのは、益荒男・日本男児の責務であって、手弱女・大和撫子ではなかった。
 故に、日本天皇は、最高神の女性神による民族神話、神話宗教、血筋・血統の家世襲万世一系で受け継ぐ事で正統性を与えられていた。
 民族神話で正統と認められた宗教的万世一系の男系父系天皇制度とは、いつ終わるか分からない弥生の大乱に辟易とした古代日本民族が、争いを避け、起きた争いを短期間で終わらせ、偽りでもいいから平穏無事を維持する為の歴史的叡智である。
 つまり、白黒を、善悪を、正邪を、ハッキリ区別しない為の宗教的正統な万世一系の男系父系天皇制度であった。
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 天皇下駄論・天皇人身御供説・天皇生け贄説とは、日本民族にとって面倒な事や厄介な事を困った事を「否応もなく」天皇と皇族に引き取って貰う事である。
 つまり、押し付けられる損な役回り・貧乏くじを嫌だと言わず拒否せず無条件に「引き受けて貰っている」、「やって貰っていただいている」、という事である。
 それが、天皇の御威光、天皇の権威、天皇の御稜威・大御心である。
 日本民族天皇・皇族・皇室を護ったのは、「責任逃れをする為に犠牲を強要していた」からである。
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