🏞114)─1・C─インドを教訓とした孝明天皇の「時局御軫念の御述懐」。文久2年5月11日。~No.448No.449No.450 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 万延元(1860)年3月 桜田門外の変
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 文久元(1861)年 対馬事件。ロシア軍艦は、日本海をロシアの内海として支配するべく対馬に不法停泊し、水兵を上陸させ、対馬藩に軍事力で恫喝して対馬の一部を租借地(実質はロシア領)として割譲する事を要求した。
 ロシアが日本に侵略という牙を剝き、領土強奪の手始めとして対馬に爪を立てた瞬間であった。
 孝明天皇の攘夷は正しかった。
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 文久2年 坂下門外の変
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 江戸時代末期の日本が教訓とするべきは、イギリスとのアヘン戦争で敗れた清国(中国)ではなく、イギリスの植民地となったインドのムガル帝国であった。
 中国がアヘン戦争で敗北した事が鎖国で眠っていた日本を揺り動かして目覚めさしてくれた一因であるとして、中国に感謝する日本人がいる間は日本人は歴史の本当の姿が見えない。
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 水戸学が皇国史観愛国心で、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略から神国日本と現人神天皇を守ろうとした「攘夷」運動と軍国主義政策は間違いではなかった。
 吉田松陰ら尊皇派・勤皇の志士らは、ロシアの軍事侵略に武力で対抗しようとした。 
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 孝明天皇。時局御軫念(しんねん)の御述懐。
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 孝明天皇 時局を御軫念御述懐の勅書
 2020-07-01 09:00:00
 テーマ:詔勅
 以下、現代語訳
 「国を治める者が聖人でもなければ、国内が平安なときには、必ず外から災いが襲うと言われる。わが国は二百年もの間、天下泰平に慣れて、国内には遊惰の気分が満ち、外敵に対する備えを忘れ、甲冑は壊れ、刀は錆びて使い物にならない。そんなところに嘉永六年アメリカのペリー艦隊が軍艦四隻で浦賀に現れた。
 しかし、それに対して幕府はどう対応してよいかわからず右往左往するばかり。
 翌安政元年に、日米和親条約を締結すると、米国は次々に要求を強め、次には日本が開国して、条約(日米修好通商条約)を定めることを要求してきたが、幕府はそれを拒否できず、身分の低い役人を朝廷の意向を聞くために遣わしてきた。
 私はその説明に誣罔(ふもう:いつわり)があることを知って、幕府の要求を退けた。
 安政五年(1858年)2月、幕府は今度は老中の堀田正睦まさよし)を遣わし、日米通商修好条約を締結せざるを得ない事情を説明して「ぜひ勅許をいただきたい」と懇願してきた。
 私はよくよく考えて、一旦これを許可すると、わが国は外国人により穢され、国家の存亡が危うくなる。もしそのようなことになれば歴代天皇に対して申し訳が立たないと思う。
 群臣に相談しても皆反対する。しかも幕府方でも、ひそかに反対であることを言ってくる藩もある。そこで幕府に大小名に時宜が適切か意見を聞くように言ってみても無視する始末。
 どうしたらよいか考えていたら、朝廷では八十八名の延臣が「江戸幕府の方針に反対し、天皇の御意見に賛成する」との意見書を提出してきた。このまま幕府と対立すると、かつての後鳥羽上皇鎌倉幕府の承久の変や、後醍醐天皇鎌倉幕府の元弘の変のように朝幕間の争いが生じるかもしれないが、私は何もわが身のために反対するのではない。国の安泰を思うからである。
 私は先と同様、勅許を与えずに、堀田正陸を江戸に返した。
 私は勅使を伊勢・賀茂・八幡の三社に派遣して幣帛を奉り、外国人により国体が汚されないように、また国の民が平安であるように祈願した。どうか、かつて元寇を打ち破った弘安の役のように、外敵を討ち滅ぼすようにと。
 ところが大老井伊直弼が就くと、幕府は私の命令に反して、無勅許のまま米国との条約を強行締結した。そして文書をもって、「米国の要求が厳しく、回答の期日が迫り、やむをえないことでした」と言うだけ。私はその無礼な態度に腹が立ったが、厳しく責めることなく、三家や家門といった徳川家の人々や、大老を朝廷に召し出し、詳しく考えを聞こうと思ったのだが、井伊直弼は、尾張徳川慶勝)、水戸(徳川斉昭・慶恕)、越前(松平慶永)などの実力者やその他優れた藩臣を蟄居・謹慎に処し、私の命令を聞こうとしなかった。
 この後、第十三代徳川家定が亡くなった。次の称軍候補として名が挙がっていたのが、紀州藩主の徳川慶福であった。しかしまだ十二歳で幼かったため、将軍に任ぜず、しばらく様子を見たらどうかという意見があった。結果は慶福を強く推した大老井伊直弼の考えが通り、第一四代将軍家茂となった。
 しかし、この将軍は幼弱のため全権は井伊直弼が握り、攘夷には熱心ではなく、そればかりか私が「正義之士」と思う前水戸藩主の徳川斉昭、藩主慶篤、尾張藩主徳川慶恕(後に慶勝)、越前藩主松平慶永(春嶽)、一橋慶喜らを謹慎あるいは登城禁止にする始末。
 私はこのように幕府が混乱している隙に、外敵が何をするかわからないことを心配し、特命を幕府と水戸に下し、「大小名が協力一致して幕府を補佐し悪臣を除き、諸藩勤皇の志をもって外敵が隙を狙うことを防いでもらいたい」と伝えた。特に外敵に対し尊攘派が過激な行動に出て、朝廷と幕府が不和になることを強く心配した。
 しかし、相変わらず幕府は弱腰で、外国勢力は要求を強める一方なので、このままでは「神州の正気」が失われ、恢復できなくなるかもしれない。
 この局面を打開するのには、英雄が必要だ。三家三卿の中では、一橋慶喜がそれにふさわしい。慶喜を将軍にすれば、この難局を打開できるだろうと私は考えた。この私の考えを受けて行動した「草莽有志の士」がいたが、幕府はそのような反幕行動に対し監視を厳しくし、私の考えは思うように進まなかった。
 時をおかず幕府から老中間部下総守詮勝が京に上り、幕府の命令で、天下の政に口出しする者はすべて捕縛して江戸に送り、幕府の方針に反した四大臣を仏門に入れ、政から遠ざけるといった強硬手段に出た。これによって正議の士はいなくなってしまった。
 下総守はこのような行動に対して、次のような説明をした。「条約調印の事は先役堀田備中守のしたことなので自分の知るところではない。しかし、今条約を破棄するようなことをすれば、外国はわが国に不信感を抱き、彼らは怒りにまかせて何をするかわからない。またわが国はまだ敵を迎え撃つだけの軍備が整っていない。もし敵が攻めてきたら、それに伴い国内でも反乱が生じるかもしれず、そうなったらわが国は崩壊してしまいます。どうかここは幕府の考えに従い、しばらく世の中の動きをご覧ください。必ず年を経ずして外敵を打ち払い、神州の正気を恢復します。」と。
 私は、やむを得ず、本心を抑えて、しばらく世の中の動きを見ることにした。
 しかし、このような幕府の強硬策は、尊皇攘夷の志士たちを怒らせ、万延元年(1860年)三月三日、水戸藩の脱藩浪士らが井伊直弼を襲撃し殺害、いわゆる桜田門外の変が生じた。
 私は、彼らの行動は乱暴ではあるが、懐中にあった書状を読むと、その考えは、外国の跋扈(ばっこ)に怒り、幕府の失政を命がけで換言するというものであり、私は以前からこのようなことが起こるのではないかと心配していた。
 その後アメリカ人通訳のヒュースケンが殺害されたり、東漸寺にあったイギリス公使館が襲撃されたりしたことを耳にしているが、それらの原因は皆、幕府の攘夷派に対する強硬策にあると私は思う。そのほか外国の勝手な行動は、対馬をロシア艦隊が一時占拠したこと、条約締結国を二カ国(プロシアポルトガル)増やしたこと、英国人(公使オールコック)が兵庫から江戸まで陸路旅したこと、海岸の測量や品川御殿山に外国公館を建設するなどいろいろあったが、私はその一つ一つについて、それらがわが国にとって相応しくないものであると幕府に伝えた。
 しかし幕府は「これらは大阪開市を延期するための一時の方便である」と言って、聞く耳をもたなかった。それどころか、さらに外敵を一掃するためには国が一つにならなければいけないと、私の妹和宮を将軍のもとに嫁がせるよう要求してきたのだ。妹を遠い江戸に嫁がせること、しかも先例のない武家に嫁入りさせることはまことに忍びがたいことであったが、幕府は内外の事情をしきりに謝罪し、「必ず十年以内には外国を一掃し、大名小名にもよく天皇のお考えを伝え、軍備も充実させますからお聞き届けください」と言うので、結局、和宮を降嫁させることに決めたのである。
 この春一月十五日、和宮降嫁を画策した老中安藤対馬守信正は、尊皇攘夷の志士により襲撃された(坂下門の変)。幸い一命を取り留めたが、襲撃した浪士は皆殺されてしまった。
 実行した浪士たちの思いは、井伊直弼を襲った浪士たちと同じであり、私は彼らを「勇豪の士」であると思う。これらの勇気ある人々が、その怒りをしばらく抑え得て、その勇気を蓄え、非常のときに使ってくれれば、どんな困難も打ち破ることができただろうに、「誠に愛(おし)むべき士」である。しかし、幕府はこのようには考えず、襲撃した残党を探索している。このようなことをしていたら国にとってよいことはなく、捕縛すれば、また攘夷派からの反撃を引き起こし、その争いが、いずれ大きな騒動を引き起こすのではないかと憂慮している。
 また聞くところによると、このような事件があったにもかかわらず、将軍はその翌日、徳川家の祖先の霊廟に参拝したとのこと。側近の家臣は前日騒動があったばかりだから延期するように言ったが、将軍は予定通り実施したという。私はこの襲撃の危険のある中、祖廟参拝を実施したという将軍の度量の大きい決断は立派だと思い、次のように思った。
 井伊直弼尊攘派に殺害された庚申(かのえさる)三月以降、御所の警備が厳重になり、幕府は関白の邸にも警備の武士を配置し、御所に参内する時も武士が大勢護衛して非常時に備えているという。武士によりこのように御所が守られているということは(将軍の大胆さに比べ)私の憂い恥じることである。また思うに、先の三社奉幣以来、わが神州が異国に汚されたことを祓い清めようと朝晩祈祷し、また祈祷の後に和歌の奉納もいまなお行っている。どうかこの願いを神仏が御嘉納せられ、国内が平安になりますように。
 そこで私は去年万延から文久元号を改め、和宮を降嫁させ、公武一和を実現させた。
 したがって幕府もこのような国難に際しては、以前の罪は許し、密勅に関わった近衛、鷹司、一條の三大臣の幽閉を許し、列藩の藩士の禁固を解き、勤皇の士で連座している者も放免するようにと、私は幕府にすぐに実行するようにと迫った。
 幕府が約束したように、これからは公武力を合わせて、十年以内に軍備を充実させて、諸外国に国外に去るように、利害をもって決然と諭し、立ち去らないのであれば、すぐにでも軍を出して、国が一丸となって外敵の侵入から守り、敵を制圧すれば、どうして神州の元気を恢復するに難しいことがあろうか。
 幕府が、相変わらず以前のように優柔不断の態度を続けるならば、わが国の疲弊は極り、戦わずして外敵に屈服することとなる。その例は、身近なところにあるではないか。インドを見よ。インドのように国を奪われたら、私は祖先に対してどう謝罪したらよいか、謝りようがないではないか。
 もし幕府が私の命令に従わず、十年以内に外国打ち払いの兵を挙げなかったら、私は断然神武天皇神功皇后の先例に習って、公卿百官、諸大名を率いて、親(みずか)ら外敵を征伐する。あなた方は、私のこの思いをしっかり受け止めて、私に従いなさい。
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 なおインドは17世紀に植民地化され、それは第二次世界大戦終了後の独立まで続きました。そのインドが植民地化された際にインド内の諸国の争いを利用されたことが知られています。
 孝明天皇の思し召しが正しかったかどうかを、現在いうことはたやすいことだと思いますが、当時の先が分からない状態の中で孝明天皇が迫りくる外敵を前に国内の統一とわが国の平安と国民の安寧のために全身全霊をかけて祈られ戦われておられたことは確かです。」
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 細石歩録
 2017年9月25日月曜日
 時局を御軫念御述懐の勅書
文久二年五月十一日)
 夫(それ)聖人に非(あらざ)るより、内(うち)安ければ必(かならず)外(そと)の患(わざはひ)有りと。方今(はうこん)天下二百有餘年、至平(しへい)に慣れ、内遊惰(いうだ)に流れ、外武備を忘れ、甲冑朽廃(きうはい)し、干戈腐鏽(ふしよう)す。卒然として夷狄之患(わずらひ)起て、不能応之(これにおうずるあたはず)。終に癸丑(みづのとうし)・甲寅(きのえとら)の年より、有司益(ますます)駕御(がぎよ)之術を失し、事模稜(もりよう)多し。是(これ)を以(もつて)、戎虜(じゆうりよ)不知所恐懼(きようくするところをしらず)、求徴(きうちよう)無饜(あくなく)、条約を定め、関市(くわんし)を通ぜん事を請ふ。幕府因循、不能拒其請(そのこひをこばむことあたはず)、以旗下小吏奏聴(そうちやうす)。朕、知其誣罔斥之(そのふまうをしつてこれをしりぞく)。翌巳年(午の御誤)(安政五年)二月、幕府以老吏堀田備中守及二三小吏登京、事情を陳(ちん)し、切請不止(しきりにこうてやまず)。朕熟案(つらつらあんずるに)、古今夷狄之憂(うれひ)雖不少(すくなからずといへども)、近年之如く甚(はなはだしき)は未有之也(いまだこれあらざるなり)。若(もし)一旦親狎之(これにしんかふし)、膻流(せんりう)穢漲(くわいちやう)、神州陸沈(りくちん)し、朕が世に至(いたつ)て、初(はじめ)て金甌(きんおう)を缺(かけ)ば、何以()なにをもつて)先皇(せんのう)在天之霊(ざいてんのれい)に謝(しや)せんと、深謀遠慮し、群臣に咨詢(しじゆん)するに、皆其(その)不可なる事を白(まを)す。又列藩内密上言之者不少(すくなからず)。乃(すなはち)幕府に命じ、天下の大小名に令し、務(つとめ)て時宜を陳せしむ。然るに幕府、命を抗(かう)し、肯(あへ)て之を天下に伝示(でんし)せず。朕、深(ふかく)憂慮し、未だ処置すること不有(あらず)。於是(ここにおいて)群臣八十八人、奮然として、奏状(そうじやう)を以て、朕が意を賛す。又或曰、朕、若(もし)幕府之請(こひ)に不従(したがはざれ)ば、必(かならず)承久元弘の事を為んと。然れども、朕何ぞ一身のことを以て、祖宗の天下に易(かへ)んやと、卒(つひ)に重(かさね)て命ずるに前令を以(もつて)し、次で幕吏を返らしむ。又使を発し、幣(へい)を三社に奉し、戎虜(じゆうりよ)國體を汚(けが)すことなく、人民其生(せい)を安(やすん)ぜんことを祈請(きせい)す。庶幾(こひねがはく)は弘安の先蹤(せんしよう)を継(つが)んと。豈(あに)図らんや、旬日之間、幕吏、朕(ちんが)命を不用(もちゐず)、遂に条約を定め、通商を許し、片紙(へんし)を以て奏曰(そうしていはく)、時勢切迫、不得止事(やむをえざること)也と。朕、殊に其侮慢(ぶまん)非礼を怒(いかる)と雖も、未(いまだ)遽(にはか)に是を譲責(じやうせき)せず。三家家門、或は大老を召し、其子細を尋糺(じんきう)せんとす。然るに尾水越、其餘二三の名藩臣を籠居せしめて、又嘗て命を奉ぜず。次で前将軍薨(かう)ぜり。又忠言するもの有り。曰、嗣子幼弱、将軍に任ずることなく、暫(しばらく)其為す所を見て、而後(しかるのち)任之(これににんぜ)よと。然ども直に其職に任じ、其を以て、其職を尽(つく)さしめんとす。然るに将軍幼若、有司柔惰(じうだ)、朕が意に称(かな)ふ事を不知(しらず)。嘗て攘夷の念なく、却て之を親昵(しんじつ)し、剰(あまつさ)へ正議(義、下同じ)之士を排斥す。朕、其三家三卿等を召せども、不来(きたらず)。剰(あまつさ)へ正議之名藩臣を退隠或は禁錮せしめ、其積鬱(せきうつ)之餘、激して変を生じ、外夷其虚(きよ)に乗ぜんことを過慮(くわりよ)し、特命を幕府水府に下し、天下の大小名、同心合力、幕府を輔佐し、内(うち)奸吏を除き、諸藩勤王の志を慰(ゐ)し、外黠虜(きつりよ)を攘(はら)ひ、各国窺覦(きゆ)の念を絶せしめんとす。然るに皆、朕が意を体し、其命を海内に示伝(しでん)し、天下一心戮力(りくりよく)、徳川を輔佐し、外夷征殄(せいてん)の議を不興(おこさず)、却て公武不和の難を醸し、朕、深く之を憂ふ。其間事事紛紛(じじふんぷん)、尽(ことごと)く言ふべき事難し、然れども其一二を言(いは)んに、人人以為(おもへ)らく、幕府如此(かくのごとく)衰弱不振(ふるはず)、戎狄如此(かくのごとく)猖獗不懲(ちようせず)。然(しからば)則(すなはち)外患何時止(や)まん。神州正気何時回復せん。人民何時生を安(やすん)せん。是豪傑英雄の将にあらずんば、治むること不能(あたはず)と。三家三卿の中、一橋刑部卿(ぎやうぶきやう)は、其英雄なるを以て、之をして其職に当らしめば、寧(むしろ)よく大事を成就せんと。是以(これをもつて)草莽有志の士、其事に周旋(しうせん)奔馳(ほんち)するものあり。又其間、奸猾(かんくわつ)其意を快くせんとするものありて、事多く朕が意の如くならず。不日にして、間部下総守登京()とうきやう)、幕命を以て、凡て天下の事を論ずる者、一切に縛収(ばくしう)して、之を江戸に下し、次で四大臣落飾幽居し、正議の士、是に於て尽く。下総守幕議を白(まを)して曰、条約押印のことは、先役(せんやく)備中守の所為(しよゐ)にして、当役(たうやく)の知る所に非ず、即今(そくこん)条約を返し、通市(つうし)を止むる時は、外国に不信を伝へ、彼が怒(いかり)を激し、異変不測に生ぜん、環海武備未だ充実せず、且大奸内に在り、若(もし)外患起らば、内憂之に乗ぜん、然らば忽ち天下土崩瓦解、如何とも為(なす)べからざるに至るべし、希(ねがはく)は幕府の申す所に従ひ、姑(しばら)く天下の時勢を覧(らん)ぜんことを、必不経年(としをへず)して、戎虜を掃絶(さうぜつ)し、神州の正気を回復せんと。是以、朕、不得止事(やむことをえず)、枉(まげ)て其請(こひ)に任(まか)せ、以て天下の時勢を見る。其後庚申(かのえさる)(万延元年)三月三日、水府浪士、井伊掃部頭を刺(さす)の事あり。其所為は乱暴に似たりと雖も、其所懐中の状書を視て、其意を察すれば、深く外夷の跋扈を憤怒し、幕府の失職を死を以て諫むるにあり。是朕が嘗てより所憂(うれふところ)也。又其後年墨使(ぼくし)を刺し、又東漸寺(とうぜんじ)の件件、皆其意斯(ここ)に基づけり。其餘外夷の陸梁(りくりやう)なる、対州の事、二个国相増事(あひますこと)、兵庫より陸行、江府に至の事、海岸測量、殿山を借与の事等、朕、一一幕府に、其然らざる事を責(せむ)れども、幕吏奏曰(そうしていはく)、是皆一時の権宜(けんぎ)にして、浪華(なには)開商延期の術策なりと。又奏請曰(そうせいしていはく)、外夷を掃殄(さうてん)するに、天下一心戮力(りくりよく)にあらずんば、為し難し、故に和宮(かずのみや)を以て将軍に尚(しやう)し、公武一和を天下に表し、而後戎虜剿絶(さうぜつ)に可及(およぶべき)也、不然(しからずん)ば、公武の間を隔絶せんとするの奸賊ありて、外夷拒絶に及び難しと。朕念ふに、先帝遺腹(ゐふく)の妹を以て、百有餘里の外に嫁(か)し、而も古来未曾有之武臣に尚せんこと、朕が意実に忍びざる所也。然るに幕吏切(しきり)に内外の事情を陳謝し、朕が憐(あはれみ)を請て不止(やまず)。朕も意に不忍(しのばず)と雖も、祖宗の天下の事には代へ難しと、意を決して其請(こひ)を許し、十年を不出(いでず)、必然外夷掃除(さうぢよ)の事を命じ、且海内大小名に朕意(ちんがい)を伝示(でんし)し、武備充実せしめんとす。幕吏連署奏状(そうじやう)し、皆朕が命を聴く。故に去冬、和宮入城の事に及べり。然るに今春に至り、幕吏安藤対馬守、浪士の為に刺さる。是等皆、掃部頭を刺せし者と同意の者にして、如此(かくのごとき)輩は、死を視ること帰するが如く、実に勇豪(ゆうがう)の士也。嗚呼、此輩をして、少く其憤鬱(ふんうつ)する所を押へしめて、諭すに丁寧誠実の言を以てして、暫く其勇気を儲(たくは)へしめ、他日非常の変に用ひ、其をして先鋒たらしめば、堅(けん)を衝き鋭(えい)を挫くに於て、何の難きことかあらんや。誠に愛(をし)むべきの士也。然るを幕府、意を斯(ここ)に不著(つけず)、日夜猶其餘党を索(さぐ)る。是惟(おもふ)に、怨(うらみ)を天下に構へて、事に於て益なく、其本に反(かへ)らずして、只に威力を以て制せんとす。是を捕(とらふ)れば、殃(わざはひ)又斯(ここ)に生じ、天下之変止む時なく、終に大変を激生(げきせい)するに至らん。是朕が深く憂慮する所也。聞(きく)、翌十六日、将軍拝廟(はいべう)の事あり。有司前日の変を以て、拝廟の事を延引せんと謂へり。然るに将軍、嘗て拝廟のことを不廃(はいせず)して、之を行へりと。朕、其寛量(くわんりやう)を愛し、因て思ふ。庚申三月以来、九門外に守兵を置き、又関白邸亭(ていてい)にも兵士を置、或は参朝に密密武士を具(ぐ)して、非常に備ふと。是等、朕、深く慙憂(ざんいう)する所也。因て又思ふに、往年三社に奉幣せし以来、神州の汚穢(をくわい)を洒掃(さいさう)せんことを朝夕禱請(たうせい)して、又法楽(はふらく)をも、至今(いまにいたるも)猶之を行ふ。庶幾(こひねがは)くは、以て前の志願を全うして、之を終(をへ)んと。去年元(げん)を改め、天下と与(とも)に更始(かうし)す。公主既に尚し、公武実に一和(いちわ)す。此時に迨(およ)んで、既往の咎めざるの教に由り、天下に大赦し、三大臣の幽閉を免じ、列藩臣の禁錮を赦し、有志の士の連座せる者を放(はなた)んことを速(すみやかに)告幕府(ばくふにつげ)、以て此挙を行(おこなは)しめよ。是朕所深欲(ふかくほつするところ)也。爾後天下心を合せ、力を一にし、十年内を限り、武備充実せしめ、断然として、夷虜(いりよ)に諭すに利害を以てし、一切に之を謝絶し、若不聴(きかざれば)、速に膺懲之師を挙(あげ)、海内の全力を以て、入ては守り、出ては制せば、豈(あに)神州の元気を恢復せんに難きこと有(あら)んや。若不然(しからず)して、惟(ただ)に因循姑息、旧套に従て不改(あらためず)、海内疲弊の極、卒(つひ)には戎虜の術中に陥り、座しながら膝を犬羊(けんやう)に屈し、殷鑑(いんかん)不遠(とほからず)、印度の覆轍(ふくてつ)を踏(ふま)ば、朕、実に何以(なにをもつて)か先皇在天の神霊に謝せんや。若幕府、十年内を限りて、朕が命に従ひ、膺懲の師を作(おこ)さずんば、朕、実に断然として、神武天皇神功皇后の遺蹤(ゐしよう)に則とり、公卿百官と、天下の牧伯(ぼくはく)を師(ひき)ゐて親征せんとす。卿等(けいら)、其斯意(このい)を体して、以て朕に報ぜんことを計れ。」
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 西洋キリスト教文明国からすれば、日本人はアフリカ人同様に奴隷もしくは人間以下の家畜、自由に殺してかまわない獣であった。
 バチカンローマ教皇は、改宗した日本人キリシタンを奴隷にする事は禁止したが、改宗を拒む異教徒日本人を奴隷とする事は認めた。
 宣教師達は、日本人を救う為に布教活動を行い、多くの日本人をキリシタンに改宗させた。
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 歴史的事実として、天皇・皇族・皇室を戦争をして命を捨てても護ろうとした勤皇派・尊皇派・天皇主義者・攘夷論者とは、日本民族であり、学識と知識などの教養を持たない小人的な、身分・地位・家柄・階級・階層が低い、下級武士、身分低く貧しい庶民(百姓や町人)、差別された賤民(非人・穢多)、部落民(山の民{マタギ}・川の民・海の民)、異形の民(障害者、その他)、異能の民(修験者、山法師、祈祷師、巫女、その他)、芸能の民(歌舞伎役者、旅芸人、瞽女、相撲取り、その他)、その他である。
 日本民族には、天皇への忠誠心を持つた帰化人は含まれるが、天皇への忠誠心を拒否する渡来人は含まれない。
 儒教の学識と知識などの教養を持つ、身分・地位・家柄の高い上級武士・中流武士や豪商・豪農などの富裕層・上流階級には、勤皇派・尊皇派・天皇主義者は極めて少なく、明治維新によって地位を剥奪され領地を没収された彼らは反天皇反政府活動に身を投じ自由民権運動に参加し、中には過激な無政府主義マルクス主義に染まっていった。
 江戸時代、庶民は周期的に伊勢神宮への御陰参りや都の御所巡りを行っていた。
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 現代の部落解放運動・同和解放運動が対象とする被差別部落民は、明治後期以降の人々で、それ以前の人々ではない。
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 戦後のマルクス主義者・共産主義者は、反宗教無神論・反天皇反民族反日本で日本人を洗脳すべくメデイア・学教教育・部落解放(同和解放)運動などへの支配を強めていった。
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 日本の戦争とは、天皇・皇室と日本国と日本民族を、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、マルクス・レーニン主義共産主義イデオロギー侵略から守る母国防衛戦争であり、敵に味方する反日・敵日の中国や朝鮮など周辺諸国を攻撃殲滅し各国に親日傀儡政権をつくり攻守同盟を結ぶ積極的自衛戦争であった。
 明治新政府が、近代的天皇制度中央集権国家を選択し、軍国主義政策を採用して、富国強兵・殖産興業・近代教育で軍国日本へと暴走したのはこの為であった。
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 日本がアメリカに恐怖したのは、アメリカによるハワイ王国侵略とハワイ王家滅亡、そして自由・民主主義の大義キリスト教の正義によってと民族の宗教・言語・文化・風習・その他がハワイ諸島から根刮ぎ消滅させられた事である。
 アメリカの太平洋侵略を最も警戒したのが、1894(明治27)年にハワイ王国滅亡を目の当たりにした東郷平八郎であった。
 ハワイ王国は、アメリカからの侵略から母国を守る為に日本の軍事支援を期待して、明治天皇天皇家との姻戚関係を申し込んだ。
 日本は対ロシア戦に備えて軍備強化を急いでおり、そこに新たに対アメリカ戦を加える余裕はなく、苦渋の選択として天皇家とハワイ王家との結婚は断り、1898(明治31)年にハワイ王国の滅亡を涙を流しながら傍観するしかなかった。
 日本海軍内のワシントン海軍軍縮会議に猛反対した艦隊派は、ハワイ王国滅亡を教訓としていた。
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 近代日本の主敵は、白人キリスト教のロシアとロシア人であった。
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 徳川幕府は、アイヌ人が住む蝦夷地、北方領土を日本の固有領土として統治し守っていた。
 ロシアは、千島列島を南下していたが樺太には進出していなかった。
 1785年 老中・田沼意次は、ロシアの侵略を警戒して蝦夷地探索隊を派遣した。
 1789(寛政元)年 徳川幕府は、アイヌの蜂起クナシリ・メナシの戦いの背後にロシアが策謀していると疑い警戒した。
 1792年 老中・松平定信の寛政日露交渉。水戸学による攘夷運動の始まり。
 1806年 文化露寇。
 1807年 徳川幕府は、東北諸藩に対して蝦夷地防衛の派兵を命じた。
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 日本の近代化の目的は、対外戦争を戦う為の軍国主義化であった。
 日本の開国・幕末・明治維新戊辰戦争・近代化・軍国主義化の発端は、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略で、その歴史的事実が、中世キリスト教会の日本人奴隷交易、寛政日露交渉(1792年)と攘夷運動、文化露寇事件(1807年)と蝦夷地・北方領土派兵(約4,000人)、攘夷派が激怒した対馬事件(1854年)の弱腰交渉、などであった。
 日本をロシアから救ったのは、戦争も辞さずのイギリスの軍事力・海軍力であった。
 軍事を否定し信用しない国家・国民・民族には、現実世界で生きる資格はなかった。
 熱狂的天皇主義者(現代の右翼・右派・ネットウハ、一部の保守派とは無関係)である尊皇派・勤皇派による攘夷運動は、間違った愛国主義民族主義ではなく、正しい軍国主義国粋主義・好戦主義、正義の戦争・聖戦であった。
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 神国日本を守る為の攘夷対象は、軍事侵略を企むロシアと宗教侵略を繰り返すキリスト教であった。
 徳川幕府の経教分離の原則を受け入れて交易を行っていたオランダは、排除すべき攘夷の対象ではなかった。
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 ロシアの日本侵略は、ヨーロッパ戦争と連動していた。
 1729年~1796年 ロシア女帝エカテリーナ2世(ドイツ人将軍の娘)。
 ロシアの海外戦略は、1,ウクライナ黒海バルカン半島への領土拡大、2,西進。アラスカ・北米大陸の開拓、3,南進、日本との交易であった。
 1796年~1815年 ナポレオン戦争
 1812年 ナポレオンのモスクワ遠征。
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 1689年 ネルチンスク条約ロシア帝国清王朝は、国境線を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)とアルグン川(アムール川上流)を結ぶ線に定めます。
 1858年アイグン条約。ロシアは、アムール川(中国名は黒竜江)以北のシベリアの地を強引に割譲させロシア領とした。
 1860年 北京条約。ロシアは、アロー戦争に介入し英仏連合軍が北京を占領した所で講和を斡旋し、その見返りとしてウスリー川以東の沿海州を獲得し沿海州の南端の地にウラジオストクを建設した。
 ロシアは、不当な手段で手に入れた領土は戦争に負けて奪われない限り返還する事はなかった。
 ウラジオストクは冬でも凍らない不凍港で、日本海を南下して中国、朝鮮、日本への侵出を手に入れたが、目障りなのはウラジオストクにある樺太が日本の勢力圏にある事であった。
 ロシアは、樺太を自国領にする為にロシア人の軍人や囚人を上陸させて、反日的先住民を味方につけ日本人や親日派アイヌ人に対する暴力事件を頻発させた。
 明治8(1875)年 樺太・千島交換条約明治新政府は、ロシアとの戦争を避ける為に樺太問題を解決すべくロシア領千島との交換条約を結んだ。
 日本側の戦略的利点は、ロシア海軍ウラジオストク樺太日本海内に封じ込め、宗谷海峡津軽海峡対馬海峡を抑えてしまえば太平洋への航路を遮断する事ができた。
 ロシアのアジア戦略を、太平洋に進出する西進から満州・天津・朝鮮・日本への南進に切り替えた。
 1891(明治24)年 ロシアは陸軍国家として、奪った領地を守り、さらなに領地を拡大する為に大軍を迅速に輸送できるようにするべくシベリア鉄道敷設工事を始めた。
 日本は、ロシアとの戦争に備えて軍国主義政策を採用し、強権を持って国民生活を犠牲にして軍拡を進めた。
 イギリスは、上海・香港の中国利権をロシアから守る為に日本に接近した。
 日露戦争は不可避となり、開戦のその時が刻々と迫っていた。
 日本の戦争は、領土拡大の帝国主義侵略戦争ではなく祖国防衛の民族主義自衛戦争であった。
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 徳川幕府は、ロシアの軍事侵略から戦争をしてでも蝦夷地・北方領土南樺太を防衛する為に東北諸藩に出兵を命じた。
 東北諸藩は、戦争を覚悟して約4,000人を蝦夷地・北方領土南樺太に送って防衛任務に当たった。
 尊王攘夷派は、神国日本と蝦夷地や北方領土をロシアの軍事侵略から守る為に北に向かっていた。
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 徳川幕府内の開国・国防派は、ロシアの軍事侵略から日本を守る為に清国(中国)や朝鮮との三国軍事同盟を模索していた。
 戦争を嫌う現代の日本人には考えられない事を、江戸時代の日本人は戦争をする為に考えていた。
 古代から朝鮮や中国の侵略で苦しめられた長州などの北九州・中国地方の日本人達は、敵である朝鮮や中国を攻め取ってロシアに対抗すべきだと主張していた。
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 明治日本にとって国家存亡の危機とは、ロシアの軍事侵略とキリスト教の宗教侵略であり、ロシアが侵略してきた時に隣国の清国(中国)と朝鮮が日本に味方してくれるのかロシアに協力して敵になるかであった。
 が、清国(中国)と朝鮮は日本の淡い期待を裏切ってロシアに味方したのである。
 日本の大陸侵略政策とは安全保障が最優先課題で、北のら侵略してくるロシア・ソ連共産主義勢力に対抗する為に、敵対する中国と朝鮮から反日・敵日・侮日勢力を武力で追放して友好に変え親日・知日の政権を樹立して攻守軍事同盟を結ぶ事であった。
 その意味に於いて、日本の対外戦争は全て積極的自衛戦争であった。
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 江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大約2万6,800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。
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 日本とロシアの真ん中に住んでいるアイヌ人は、日本に味方するか、ロシアに味方するか、第三者として傍観者になるかを強制された。
 千島アイヌ人は、ロシア人によって地上から消された。
 樺太アイヌ人は、ロシアに残留組・多数派と日本への移住組・少数派に分かれた。
 蝦夷アイヌ人は、日本・和人に味方して侵略者ロシアと戦って多くの犠牲者を出していた。
 反天皇反日本人(和人)を主張する一部の現代アイヌ人の祖先が、どこのアイヌ人なのかいまいち分からない。
 歴史的事実として、日本民族アイヌ人は同じ縄文人の子孫である。
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 明治維新とは、ロシアの軍事侵略から如何にして神国日本を守るかという体制選択であった。
 伝統的な徳川将軍家を中心とした諸国・諸藩連合の地方分権体制か、革新的な天皇を中心として一国中央集権体制かである。
 佐幕派は前者であり倒幕派は後者であった。
 つまり、日本の生き残りを賭けた、佐幕派の継続的変革か倒幕派の破壊的イノベーションかの選択戦争であった。
 何れにせよ、世界が大きく激変する時代において、戦争を避ける話し合いによる外交での継続的変革には未来はなく滅亡し、戦争を覚悟した外交での破壊的イノベーションのみが未来で生き残る正解の選択であった。。
 それは、現代でも変わる事のない普遍的大原則である。
 日本の近代的軍国主義政策は、ロシアの軍事侵略、キリスト教の宗教侵略、そして最も恐ろしいマルクス主義共産主義イデオロギー侵略が原因であった。
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 弱小国日本、財政赤字で破綻していた明治新政府の国際的信用の根拠は、天皇の存在であった。
 天皇の存在で、近代日本は普通の国家として世界に受け入れられた。
 それが、天皇国家元首としての統治権であった。
 欧米列強は、殺しのプロである武士集団ではなく、日本民族の主権者であり祭祀王の天皇の存在ゆえに日本を侵略しなかった。
 そこが、日本国とムガル帝国の違いである。
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