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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
「鬼は外、福は内」という節分における豆撒きは、季節のイベントではなく、民族の歴史・伝統・文化・宗教そして医学・治療が込められている。
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陽気は邪鬼を祓う。
雅楽は、陽気を集め、高め、活力(生きる力)を与える。
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平安時代の400年間で疫病大流行は100回以上、長期流行は最低でも7回。
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平安時代の雅な貴族文化、華やかな文芸・演芸、賑やかな遊戯の多くは、公家の疫病蔓延防止の巣ごもり=物忌(ものいみ)で生まれた。
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2022年2月17日号 週刊新潮「夏裘冬扇 片山杜秀
平安貴族はわれらの同時代人
もののけ。おなじみの古語である。『もののけ姫』というアニメ映画もあった。もののけの『もの』とは、当然だが、単なる普通の者や物ではない。尋常ならざるものだ。その気、つまりエネルギーが、もののけだろう。
いつから使われた言葉か。記紀万葉の昔にはまだあるまい。古い用例を探すと、たとえば『日本後記』に、平安京遷都から36年後の天長7(西暦830)年、朝廷が『物恠(もののけ)』を祓うべく都で僧たちに『金剛般若経』を読誦(どくしょう)せしめたとある。この頃は全国で疫病が流行し、病魔退散に効果ありと信じられた『金剛般若経』が人気を呼んでいたという。なら、天長7年の都のもののけとは、疫病をはやらす邪悪なエネルギーのことと考えられなくもない。天長の疫病流行期に、細菌やウイルスのことを言い表わそうとして生まれた新語が、もののけだったのではあるまいか。
もしももしも、そうだとすれば、平安貴族がしょっちゅうしていた物忌という習慣の意味も、見えているかもしない。物忌とは何か。『枕草子』の132段を読もう。正暦年間、西暦だと990年代初頭のある日、一条天皇の乳母、藤原繁子のところに、どこからの使者なのか、怪童がやって来て、手紙を差し出した。しかし繁子は物忌の最中。怪童を建物に入れず、格子戸越しに取次の女房が手紙を受けとりはしたが、繁子は物忌の間はよそものにさわってなるものか、聞きも読みもしなかった。
要するに物忌とは、外来との接触を一切断つ生活様式だ。平安期の400年のあいだに疫病は、どうやら100回以上、大流行している。新型インフルエンザか新型コロナか、しゃくりあげるような咳に苦しめられた挙句の果てに多くが死に至る病の長期流行だけで、最低7回もある。細菌やウイルスが発見されていなくても、邪気とは伝染するものだという観念は共有されていた。元気がなければ、もののけに負ける。そこで不調時には物忌する習慣も生まれる。しかし物忌は退屈だ。そこで詩歌づくりに楽器の稽古にと励み、碁や双六に耽る。平安期に文芸や雅楽やゲームが発達したのは、巣ごもり生活が多かったせいなのだろう。
そうした物忌とは、自己申告による自主警戒的な性格をかなり有いていたと思われるが、ことは疫病流行阻止に関わるので、ご勝手に物忌を、だけでは済まない。国家社会がルールを決め、専門家の判断に従いながら、人や空間を強制的に隔離することも行われた。人や動物の死骸、死んだ場所などが特に警戒された。人死にのあった家なら30日間、閉鎖され、その家の者は隔離されるという原則もあった。伝染の危険範囲についても甲乙丙丁で判定された。
天慶4(941)年の秋のこと。かつて醍醐天皇の女御だった源和子の家で流産した者があった。直後、皇族の佐時王(さすときおう)の建物のひとつ、陽成院に赴き、中納言の源清蔭に会い、清蔭はそのあと、御所に参内してしまった。この事例だと、源和子邸が甲処、陽成院が乙処、御所が丙処と判定される。平安期の常識では丙までがアウト。丁は助かる。ああ、御所も濃厚接触範囲に!〝専門家会議〟は御所の隔離期間を14日と定め、その間の公的行事はすべて中止された。
疫病に繰り返し襲われた平安京の暮らしとは、そういうものだった。迷信を多分に含んだ、遠い昔の物語と思っていたが、『源氏物語』の時代は、条件が揃えば、いとも簡単に蘇るのだな。嗚呼、平安貴族はわれらの同時代人!もっとも貴族でなければ、籠もり続けても居られませんが。」
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日本大百科全書(ニッポニカ)「物忌み」の解説
物忌み ものいみ
公事、神事などにあたって、一定期間飲食や行動を慎み、不浄を避けることをいう。潔斎、斎戒。平安時代には陰陽道(おんみょうどう)により物忌みが多く行われ、貴族などは物忌み中はだいじな用務があっても外出することを控えた。物忌み中の人は家門を閉ざして、訪客がきても会わず、行事にも出席しない。家にあっても冠や髪に「物忌」の札をつけていた。夢見なども陰陽師がよくないというと物忌みをした。当時における公家(くげ)などの物忌み日数は1年間に1か月ぐらいに及んだ。また物忌みのため自家に忌み籠(こも)りするだけでなく、他の特定の場所に出かけることもあった。
また、伊勢(いせ)神宮などの大社で、神事に参与する童男・童女を「物忌」とよんだ。鹿島(かしま)神宮では、7、8歳から12、3歳までの経水のない女子のうち、「物忌」役は亀甲(きっこう)を灼(や)いて亀卜(きぼく)により定めたという。伊勢神宮や出雲(いずも)大社はもちろん、山形県の鳥海(ちょうかい)山大物忌神社などは厳重な物忌みで知られている。富士山麓(さんろく)「吉田の火祭り」は北口本宮冨士浅間(せんげん)神社の祭礼であるが、忌中の氏子は自家を離れて一定の場所に外泊し、祭りの主要行事の済むのを待つという不文律がある。沖縄県宮古(みやこ)島に「ンナフカ」という豊作をもたらす神を迎える神事があるが、その物忌みは厳しく、かつては祭りの日には人も牛馬も外出せず、明りもつけず声もたてなかった。祭りを行う巫女(みこ)は以前は断食して神を迎えたといわれている。「ンナフカ」とは仮死の意で、人間の活力が一時停止した状態をいう。
[大藤時彦]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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中世ヨーロッパでは、14世紀にペストの大流行の際、人々はキリスト教会が説く神の信仰・神の奇跡・神の恩寵を信じたが効果はなく、総人口の3分の1がペストの犠牲となった為に神への不信が生まれ、その結果として神の権威は弱まった。
代わって、イスラム教世界に残っていた古代ギリシャや古代エジプトの知識・医学がペスト治療に役立った為に、ヨーロッパ人はオリエントを再認識してルネサンス運動(14~16世紀)を始めた。
中世西洋医学における治療は、体内の毒素を出す事を主目的として瀉血・嘔吐・下痢で、投薬はその補助手段とされた。
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日本民族の祖先は、アフリカで誕生した下等な猿である。
つまり、日本人を軽蔑して見下す偏見と差別の蔑称である「イエローモンキ」あるいは「ジャップ」は正し呼び名である。
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日本列島には、自然を基にした日本神話・民族中心神話・高天原神話・天孫降臨神話・天皇神話が滲み込み、その上に石器時代・縄文時代、弥生時代・古墳時代と日本民族が住んできた。
日本民族は、石器人・ヤポネシア人、、縄文人・日本土人、弥生人(渡来人)、古墳人(帰化人)が乱婚して混血して生まれた雑種である。
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日本民族の生き方は、仲間・友と一緒に小さな櫂(かい)を漕ぐ丸木舟生活である。
つまり、日本の集団主義とは海で生きる船乗りの集まりである。
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ヤポネシア人とは、東南アジアの南方系海洋民と長江文明の揚子江流域民が乱婚して生まれた混血した雑種である。
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ロバート・D・カプラン「揺るぎない事実を私たちに示してくれる地理は、世界情勢を知るうえで必要不可欠である。山脈や河川、天然資源といった地理的要素が、そこに住む人々や文化、ひいては国家の動向を左右するのだ。地理は、すべての知識の出発点である。政治経済から軍事まで、あらゆる事象を空間的に捉えることで、その本質に迫ることができる」(『地政学の逆襲』朝日新聞出版)
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日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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柏木由紀子「主人(坂本九)を亡くしてから切に感じたのは、『誰もが明日は何が起こるからわからない』というこよです。私もそうですが、私以外にも大切な人を突然亡くしてしまった人が大勢います。だからこそ、『今が大切』だと痛感します。それを教えてくれたのは主人です。一日一日を大切にいきたい、と思い、笑顔になれるようになりました」
神永昭夫「まずはしっかり受け止めろ。それから動け」
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日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
日本民族の伝統文化の特性は、換骨奪胎(かんこつだったい)ではなく接木変異(つぎきへんい)である。
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御立尚資「ある禅僧の方のところに伺(うかが)ったとき、座って心を無にするなどという難しいことではなく、まず周囲の音と匂いに意識を向け、自分もその一部だと感じたうえで、裸足で苔のうえを歩けばいいといわれました。私も黙って前後左右上下に意識を向けながら、しばらく足を動かしてみたんです。これがびっくりするほど心地よい。身体にも心にも、そして情報が溢(あふ)れている頭にも、です」
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日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌、水辺の藻による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
日本民族の「情緒的情感的な文系的現実思考」はここで洗練された。
死への恐怖。
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日本の本音。日本列島の裏の顔は、甚大な被害をもたらす雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、禍の神が日本を支配していた。
地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教(啓示宗教)は無力であった。
日本民族の「理論的合理的な理系論理思考」はここで鍛えられた。
生への渇望。
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仏とは、悟りを得て完全な真理を体得し正・善や邪・悪を超越し欲得を克服した聖者の事である。
神には、和魂、御霊、善き神、福の神と荒魂、怨霊、悪い神、禍の神の二面性を持っている。
神はコインの表裏のように変貌し、貧乏神は富裕神に、死神は生神に、疫病神は治療神・薬草神にそれぞれ変わるがゆえに、人々に害を為す貧乏神、死神、疫病神も神として祀られる。
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日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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日本の宗教とは、人智・人力では如何とも抗し難い不可思議に対して畏れ敬い、平伏して崇める崇拝宗教である。
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現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、科学、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして奇跡と恩寵を売る信仰宗教・啓示宗教は無力で役に立たない。
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助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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日本民族は、命を持って生きる為に生きてきた。
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日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
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日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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松井孝治「有史以来、多くの自然災害に貴重な人命や収穫(経済)を犠牲にしてきた我が国社会は、その苦難の歴史の中で、過ぎたる利己を排し、利他を重んずる価値観を育ててきた。
『稼ぎができて半人前、務めができて半人前、両方合わせて一人前』とは、稼ぎに厳しいことで知られる大坂商人の戒めである。阪神淡路大震災や東日本震災・大津波の悲劇にもかかわらず、助け合いと復興に一丸となって取り組んできた我々の精神を再認識し、今こそ、それを磨き上げるべき時である。
日本の伝統文化の奥行の深さのみならず、日本人の勤勉、規律の高さ、自然への畏敬の念と共生観念、他者へのおもいやりや『場』への敬意など、他者とともにある日本人の生き方を見つめなおす必要がある。……しかし、イノベーションを進め、勤勉な応用と創意工夫で、産業や経済を発展させ、人々の生活の利便の増進、そして多様な芸術文化の融合や発展に寄与し、利他と自利の精神で共存共栄を図る、そんな国柄を国内社会でも国際社会でも実現することを新たな国是として、国民一人ひとりが他者のために何ができるかを考え、行動する共同体を作るべきではないか。」
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昭和・平成・令和の皇室は、和歌を詠む最高位の文系であると同時に生物を研究する世界的な理系である。
武士は文武両道であったが、皇室は文系理系双系であった。
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徳川家康は、実理を優先し、読書を奨励し、経験を重視し、計算の数学と理・工・農・医・薬などの理系の実利で平和な江戸時代を築いた。
が、馬車や大型帆船は便利で富をもたらすが同時に戦争に繋がる恐れのあるとして禁止し、江戸を守る為に大井川での架橋と渡船を禁止した。
つまり、平和の為に利便性を捨てて不便を受け入れ、豊よりも慎ましい貧しさを甘受した。
それが、「金儲けは卑しい事」という修身道徳であったが、結果的に貧しさが悲惨や悲劇を生んだ。
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日本で成功し金持ちになり出世するには、才能・能力・実力が必要であった。
日本で生きるのは、運しだいであった。
日本の運や幸運とは、決定事項として与えられる運命や宿命ではなく、結果を予想して自分の努力・活力で切り開く事であった。
それは、自力というより、神か仏か分からない他者による後押しという他力に近い。
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左翼・左派・ネットサハ、右翼・右派・ネットウハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者には、日本民族ではない日本人が数多く含まれている。
彼らには、数万年前の石器時代・縄文時代と数千年前の弥生時代・古墳時代から受け継いできた日本民族固有の歴史・文化・伝統・宗教はない。
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