🏕45)─1─ゾロアスターによる一神教エコロジー。仏教における生命網の目エコロジー。~No.93No.94No.95  ⑪ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 ミトロジーとは、神話、神話学、民族的世界観。ギリシャではミュトス。
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 日本には数多くのエコロジー思想が存在する。
 現代日本人は、エコロジー思想を口に為ても、行動としてのエコロジーはない。
 現代日本人が口にするエコロジー思想とは、マルクス主義の科学エコロジー思想である。
 マルクス主義の科学エコロジー思想とは、反宗教無神論で命と人生から超自然的な不可解な神仏を排除し、命と人生を現代科学で論理的合理的そしてデータを総合的に分析して理解する事である。
 現代日本人は縄文人とは別人で、縄文人は特殊なローカル的エコロジー思想を持っていた。
 縄文人の子孫は、日本民族アイヌ民族琉球民族であって日本人ではない。
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 2021年9月25日号 週刊現代「今日のミトロジー  中沢新一
 エコロジーの神話 (1)
 現代エコロジー思想の背景に、一神教的ミトロジーの世界観が据えられていて、人間中心主義のそのミトロジーと科学が結合している。そこに何かが欠けている。
 創始者ゾロアスター 
 現代エコロジー思想の著そう礎を築いたのは、いまから数千年前のペルシャに現れた、ゾロアスターという宗教改革者である。ゾロアスターが出現した頃(*)、現在のイランから中近東にかけての地帯は、農業の発展による「新石器革命」の最盛期に、さしかかっていた。
 {*これには諸説がある。一般的に2千数百年前頃の人と言われているが、ゾロアスター革命の意味を掘り下げていくと、Settegastの主張するような8000年前頃の人という考えも可能だ}
 牛や豚の家畜化が進んで、そこでは動物を神々にささげる血なまぐさいサクリファイズの儀式が、盛んにおこなわれていた。農地を拡げるための土地開発も、すさまじい勢いで進行していて、森林はつぎつぎに失われていった。
 そういう世界で隆盛を極めていたのが、サクリファイズを中心とする多神教宗教である。ゾロアスターはこの宗教に深い疑いを抱いた。神々はたくさんいたが、絶対的な正義を確立して、善と悪を峻別することのできる原理を体現している神はいなかった。
 たくさんの牛たちが、神々へのお供え物として、毎日無造作に殺されている。こんなことに意味があるだろうか。ゾロアスターは考え抜いた末に、当時の世界のありかたを根底から覆す、宗教の大革命にとりかかった。
 ゾロアスター新宗教では、絶対的な正義を体現する神アフラ゠マズダが君臨し、悪の神と闘争することによって、世界の秩序がつくられた。自然神たちの整理がおこなわれて、アフラ゠マズダだけがこの世界の成り立ちを支えている、唯一の善の神とされた。
 農業革命から派生(はせい)した、さまざまな原始的な風習が禁止され、多数の動物を殺害するサクリファイズの儀式をやめさせ、植物食を重視するおだやかな生活を推奨した。森林伐採による自然の乱開発に歯止めをかけようとした。ゾロアスターの思想は、西洋文明の基礎を築いた。
 一神教エコロジー
 ゾロアスター一神教の考えの原型をつくった。ユダヤ教キリスト教イスラム教も、独創的な彼の宗教からじつに大きな影響を受けている。しかし、ミトロジーにとってそれ以上に興味深いのは、ゾロアスターが今日でいうエコロジーの思想を、力をこめて語っていることである。
 ゾロアスター教聖典『アヴェスタ』には、じっさいにゾロアスターが語ったと思われている、『牛の嘆き』という一節が残されている。そこでは、サクリファイズ儀礼で殺された牛の霊が、天国のアフラ゠マズダ神をつかまえて、痛烈に批判を浴びせかけている。牛は人間とその神をこう糾弾する。いったい人間は何匹の牛を、意味もなく殺せば気がすむというのか。あなたが人間たちに許しているこの愚行のために、私たち牛は塗炭の苦しみをなめている。これを放置しておくようなら、私たちはあなたを信じない、と。
 人間はあまたの種類の動植物といっしょに、神によって創造された。その被造物のなかで、人間の卓越した知力によって、生物界の頂点に立つ存在となって存在となった。しかしそれだからといって、人間は他の生命を、自分の好き勝手に利用していいというわけではない。ゾロアスターは、人間は神によって創造された環境世界の『牧人=シェパード』となって、そこに生きるすべての動植物を保護管理する役目を負っている、と考えた。環境世界の羊飼いとなって、自分より弱い立場の動植物を守るのである。
 この考えは、イエスの思想にも受け継がれている。世界の支配者ではなく『良い羊飼い』になることが、人間にあたえられた使命だと、イエスも語っている。これは現代エコロジーの考えと、基本的に一致している。農業が開いた新しい新石器的産業時代に、ゾロアスターが抱いた環境思想が、ほとんどそのままのかたちで、資本主義の現代に『エコロジー思想』として、蘇っているのである。西洋で発達したエコロジー思想の背後には、一つのミトロジーが横たわっている。私はそれを『一神教エコロジー』と呼ぶことにする。
 一神教エコロジーではごく自然に、環境世界にヒエラルキー(位階)ができあがる。創造主である神に包摂されるようにして、環境世界の頂点には人間が立ち、その下にもろもろの動物と植物が据えられる。この位階秩序のなかで、もっとも卓越した存在である人間は、動植物を自分のために搾取するのではなく、地球全体の環境バランスを考えながら、良い牧人として、動植物の生きる環境を守り管理すべきである、というのが、一神教エコロジーの考えである。
 ホモ・デウスぬきで
 この考えでいちばん問題になるのが、環境保護がすべて人間の視点から考えられていることである。人間が見ている世界だけが、唯一の実在世界で、動植物たちはその人間中心主義的な世界の、たんなる脇役の登場人物でしかない。良い牧人である人間は、その動植物たちを守り管理するのだが、すべての操作は人間の側からコントロールされる。
 その人間がAIの発達によって、いまや神をも凌駕(りょうが)する、『ホモ・デウス』の地位につこうとしていると言われる。人間中心主義が突き進んでいった末に、地球環境まで人間が決めてしまう『人新世』に、踏み込んでしまった。一神教エコロジーには、どこか重大な欠陥が抱え込まれている。エコロジー思想の別の可能性を開発しないかぎり、地球上の生命に未来はない。」
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 10月2日・9日号 週刊現代「今日のミトロジー  中沢新一
 エコロジーの神話 (2)
 仏教エコロジーは、人間を動植物の世界から特権的存在として分離する。そのために、動植物は人間にとって客観的な対象になる。人間の視点から自然を観察して、自然保護のための計画を立てて、実行に移す。そうやって人間は、環境世界の『牧人=シェパード』としての任務を果たさなければならない。一神教ミトロジーに裏打ちされたエコロジーの考えでは、あくまでも環境保護の主体は、人間である。
 こういう思想にたいして、仏教はまったく対極的な立場から、別のエコロジー思想を考えてきた。仏教では人間を特権化しない。人間がとらえている世界だけが、唯一のリアルな世界ではなく、あくまでも人間の脳と感覚器官と身体がつくりあげている、『さまざまな可能性のなかの一つ』としての世界にほかならない。
 ほかの動植物には、彼ら独自のそれぞれの世界がある。動物のことを取り上げてみても、進化の過程で彼らが発達させてきた、身体や神経組織の構造は、どれもがみんな違っていて、そのために彼らが見ている世界は、どれも同じではない。つまりこの世界は、もともと『多世界』としてできている、というのが、仏教の考え方である。
 だから、同じ場所でカエルとコオロギが出会ったとしても、それぞれが心のなかで思い描いている世界は違っているのである。それでも匂いや視覚などの回路をとおして、おたがいの間に連絡がつけられ、相手の動きにハッと気がついたカエルは、コオロギを捕食しようと身構える。カエルが伸ばしてきた長い舌から、あわてて身を逸らしたコオロギは、『カエルの世界』とは異なる『コオロギの世界』の構造のなかを、一目散に逃走する。
 人間は中心ではない
 仏教の考えでは、それじれの異種生物は、それぞれが夢のようなつくりをした『自分たちの世界』を生きているが、そうした多世界の間に、蜘蛛の巣のような緻密な網の目が張り巡らされることによって、環境世界がつくられている。
 この網の目のなかには、特権的な存在はいない。小さなものも大きいものも、すべての生命が平等で、この世界のどんな小さな部分を担っている存在も、それがいなくなるようなことになれば、全体に衝撃が走ることになる。人間ですら、特権的な存在ではない。人間が宇宙からいなくなることと、絶滅危惧種の小動物がいなくなることは、仏教では同じ重みをもっている。この緻密な網の目が、仏教エコロジーの考え方を象徴している。
 ここには、世界を創造する神はいない。仏教のミトロジーではそのかわり、宇宙を隅々まで満たしている知性的な力(仏性)があって、それぞれの生き物はその知性的な力の『表現』になっている、と考える。宇宙そのものであるこのこの知性的な力は、それぞれの生命をつうじて、自分の一部分を表現しているから、生命の種類が豊かであればあるほど、この表現は豊かで、多彩で、力に満ちたものになる。
 こんな風に考えてみると、仏教エコロジーは、一神教エコロジーよりも、ずっと現代科学との折り合いがよいように思えてくる。現代科学そのものが、仏教エコロジーの思想に近づきはじめているからである。いまの世界で影響力をもつエコロジー思想は、一神教的なエコロジーに裏打ちされて発展をとげてきたもので、人間中心主義への強いバイアスをひめている。そういう人間中心主義を、現代科学は乗り越えようとしている。
 未来のエコロジー
 シェパードは羊の群れを、外から眺めて観察して、保護や管理のやり方を考える。羊たちがまわりの世界をどうとらえ、どう思考しているかについては、あまり関心がない。あくまでも、特権的な生き物である人間の側から、観察や管理がおこなわれる。
 これにたいして、仏教的エコロジーでは、世界は生物の内側の視点からとらえる。それぞれの生物種が、各自の生物的条件をとおして見ている『多世界』が交錯しあう場所に、環境世界はつくられている。小さな路地一つとってみても、スズメのとらえている世界のマップと、犬のとらえている世界のマップが、互いに重なり合い、連結しあいながら、複雑なネットワークをなしている。そこに人間が歩いてやってくる。人間の頭のなかでは、さまざまな想像や感情や思考がたえまなく動き続けているが、そんなことに関係なく、スズメは警戒して逃げ去り、犬は人間に一瞥をあたえて、散歩の進路を少し変化させる。小さな路地も、響き合いの宇宙である。
 人間にはほかの生物にはない取り柄があるとしたら、脳のなかにDNAや環境の条件に左右されにくい、自由な領域が広く確保されていることによって、世界に充満している知性的な力に、近づいて行くことができるからである。その知性的な力には、ほかの存在を思いやる『慈悲』の力が内蔵されている。人間はその力をほかの生き物たちに注いでいくことができる。
 仏教ミトロジーによるエコロジーでは、環境世界の特権的なシェパードではなく、生命のネットワークそのもが、主人公なのである。人間はそこで宇宙の庭師として、ネットワークの保全につくすことになる。」
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