⚔49)─2─徳川幕府の鎖国・開国と古代文明の通商都市を繋ぐ世界交通網。~No.212 

   ・   ・   ・   
 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本民族が歴史的に信用されているのは、有言実行もしくは不言実行である。
 つまり、明治から昭和前期までに行った数々の歴史的な人道貢献や平和貢献であって、国際連盟設置会議で人種差別撤廃条項を提案した事だけではない。
   ・   ・   ・   
 2021年9月号 Voise「『次』の歴史と人類の新軌道
 エルサレムと日本の深い歴史の縁
 なぜ世界3大宗教の聖地が一ヵ所に集まったのか、なぜ鎖国に成功した日本は突如開国に迫られたのか。その理由は『世界交通網』にあった
 長沼伸一郎
 エルサレムになぜ聖地が集中した?
 今回は、少し目先を変えた番外編を送りました。テーマは『エルサレムと日本』である。具体的には、『エルサレムでなぜ宗教紛争が絶えないのか』、そして『日本がなぜ鎖国ができたか』という2点が、じつは大きなメカニズムを背景にもっていて、お互いに関連し合っていた、という興味深い話題について述べてみたい。
 さてエルサレムは、ユダヤ教キリスト教イスラム教の3つの宗教の聖地となっており、その聖地の帰属を巡って争いがたえないことは、現在でも頭が痛い問題となっている。そのため、せめて3つもの宗教の聖地がここに集中していなければもっと政治的に安定するだろうに、とは誰もが思うである。せのせいか、エルサレムという狭い地域から世界的宗教が集中的に3つも生まれていることは、しばしばオカルト的に解釈されて、何か地球の精神的な気のエネルギーのようなものがここに集中しているからそういう不思議なことが起こるのだ、などという怪しげな説が唱えられることも稀(まれ)ではない。
 しかし、ここから3つも宗教が生まれたことは、オカルト的な仮定がまったくなくても、地政学的な要因だけで半ば一種の合理的・必然的なこととして説明ができるのである。それには何よりも地図をみるのが手っ取り早く、大陸規模な地図(図1)で眺めると、エルサレムはちょうどユーラシア大陸、アフリカ大陸、アラビア半島の3つの結節点に当たっていることがわかる。それはイメージ的には、ちょうど図2のように3枚の紙の隅だけを重ねてピンで留めたようなものである。
 図1・図2 
メソポタミア :ユーラシア大陸
 │      /
エルサレム周辺▶── アラビア半島
 │      \
エジプト   :アフリカ大陸
 要するにエルサレムは世界地図レベルでの『交通の要衝』に当たっており、世界の通商路の中心部となる宿命を最初から背負っていたのである。これは大陸の地形の面のみならず、歴史的にもこの地域は、いわゆる『世界4大文明』のうちのメソポタミアとエジプトの2つを結ぶ通商路に当たっており、そのためもし人類の歴史で『世界交通網』が一番初めにどこで生まれたかを探すとすれば、このエルサレム周辺がその中心地であったことははぼ間違いないのである。
 歴史的な交通網というと、むしろ中国と西洋を結ぶシルクロードが連想されるが、中国がもっていた『貿易』の概念は、いわゆる『朝貢(ちょうぐ)貿易』で、つまり中国が周辺諸国にお土産として文物をくださる、というもので、商業と貨幣にもとづく貿易は必ずしも公的なものではなかった。そのせいもあってシルクロードには、東西の希少な文物が長い距離のあいだを細々と行き来していた、というイメージが強い。それに比べるとエルサレム周辺から拡大していったこの世界交通網は、遥かに本格的な商業のためのルートで、むしろ無国籍な商業文明そのもののヨリシロだったといる。
 ただし、この地域は砂漠地帯にあるというデメリットを抱えており、それゆえ飲料水となる水を確保するという課題をクリアせねばならなかった。そしてその課題をクリアできる、いくつかのオアシス都市が通商の拠点となったが、エルサレムもその1つであった。エルサレムは高台にあって飲料水を比較的潤沢に得られるという数少ない好条件に恵まれており、それが先述した地図上の位置のメリットと一緒になることで、通商路の中心地として栄えることになったわけである。
 ではエルサレムの地理的条件と宗教がどう結びつくのかということだが、そもそもわれわれはこれらの宗教がどんな環境で発達していったのかに関して、イメージ的に大きく誤解していることが多い。つまりここが砂漠地帯であったことの連想で、砂漠の遊牧民大自然のなかで生活するように宗教が育(はぐく)まれたのだ、と思われがちなのだが、むしり世界3大宗教は、高度に発達した都会のなかから生まれたのである。
 たとえばイスラム教の場合も、しばしば『砂漠に生きるベドウィン(アラブ系遊牧民)が、砂漠の日没の雄大な光景に畏敬の念を覚えて、祈りを捧げることから始まったのだ』というイメージで語られることがある。しかしこれほど大きな誤りはない。イスラム教が生まれたときのメッカの町はむしろ、現在の米国の西海岸に似て、金さえあれば世界のどんなものでも手に入れられる拝金主義の町だったのである。そしてイスラム教は都市のなかで、高度に発展した商業がもたらす退廃に対して、その一種の〝ワクチン〟として発達したのであり、さきほどのベドウィンのイメージとはむしろ真逆なのである。
 そしてこのような見方に立ってあらためてイスラム教などを眺めると、現代的な関心事からも非常に興味深い事実が浮かび上がってくる。それは、この時代の砂漠の通商都市では、現代のグローバル経済で発生しはじめた問題が、遥か昔に先取りされていたということである。
 軍事力の代わりを務めた宗教
 その問題とは、現代世界でいえば『資本の移動』が国家のパワーや栄枯盛衰に直結してしまっており、コントロールすることも難しいという話である。そして、じつは砂漠の隊商都市というものも、その特殊環境ゆえに2000年ほど前から同様の問題を経験していたのである。
 たとえば現代世界では、多国籍企業への課税が難しいことはしばしば悩みの種になっている。つまり多国籍企業が、ある国の国内で儲けているとき、その国の政府がこうした企業への課税を強化して税収入を増やそうとすると、企業はほかのもっと税金の安い、いわゆる『タックスヘブン』の国に逃げてしまい、結局税収そのものが消えてしまう、ということが起こりがちだが、砂漠の隊商都市というものは、それと似た問題を抱えていた。
 つまりこれらのような通商都市の場合もやはり、税金をあまり重くしてしまうと、通商路の側がそういう都市を嫌って、もっと税金の安い場所を通るかたちにルート全体を変更してそこをそこを迂回してしまう、ということが起こってしまう。そうなると、この都市の経済が通商に依存していて税金もそこから得られていた以上、通商ルートに見捨てられてしまうと、この都市では税収そのものがまったく得られなくなってしまう。それはさらに大きな問題に繋がっていた。
 それは、徴税が難しいことが軍事力の問題に直結しているということであり、こういった場合では君主が強大な軍事力を養うということが基本的に難しいのである。もともと商業で成り立つ通商都市は、人口の大多数が農業に従事する地域に比べると、徴兵で手っ取り早く大人数の軍隊をつくり上げることが難しいが、そこにさらにこの、軍事費の調達の困難という障害が加わることになる。逆にこうして眺めてみると農業社会との大きな違いがよくわかる。農民たちは土地に縛り付けられて動けないため、領主から重い税金を課せられても逃げることができず、一方君主や政府の側は租税を重くすることで強大な軍隊を養うことが可能なのである。
 農業社会の場合、それは封建社会のマイナス面であるが、文明レベルから眺めると必ずしもすべてがマイナスだったわけではない。なぜなら軍事力を基盤とする権力の存在は、秩序や風紀の維持を可能にする大きな要因だったからである。もともと農村社会は自然の暦(こよみ)とペースを合わせて生活するので、商業的退廃が紛れ込む余地は最初から少ないが、軍事貴族的の存在は、社会秩序の維持に関して適度の強制力をもっているため、商業のパワーがもたらす短期的願望の肥大と社会の退廃を食い止めるための力として、有効にそれを補完する。
 ところが砂漠の通商都市にはそうした社会的な力が生まれにくく、その状態で都市に通商路と一緒に外から金が流れ込んできて人びとの短期的願望を解放してしまうと、もうその願望を食い止める力が存在しない。こういった社会の退廃を食い止めるには、その商業の力を上回るだけの軍事力が必要となるが、その軍事力を養うために税金に頼ろうとすると通商路に逃げられて、都市自体が経済的に破綻してしまうのである。これはまさしく現代世界が悩んでいる問題と酷似しており、意外なことに砂漠という特殊環境のもとでは、2000年も前にそれと同じ問題が発生してしまっていたのである。
 そして軍事力という手段に頼れなくなったこの種の通商都市では、それにかわる最後の手段として、宗教というものの力に頼らざるを得なかったのである。そのためこの地域では宗教やその関係者は、法律や法律家の機能をも代行して果たすことが求められた。たとえばイスラム世界におけるイスラム法学者がそうであり、ユダヤ教におけるラビ=律法学者もそうである。
 つまりこれこそが、この狭い地域に世界的な宗教が複数発生し、それらの聖地が重なってしまうことの原因だったのである。いい換えれば砂漠という特異な条件を抱えていた場所が、地図的な要因で世界の通商路が集まる中心地となったため、どうしてもそうならざるを得なかったのである。ほかの文明のように社会秩序を国家や軍事貴族に依存している場合だと、国家や政権が倒れてしまえばその都度、歴史や紛争関係をリセットすることもできるだろうが、永続的な宗教に社会秩序を依存している場合、その種のリセットも行われにくい。つまりこれらを巡るジレンマが、もっともまずいかたちで現れてきてしまったのがエルサレムだったというわけである。
 エルサレムと日本の意外な関係
 さてこのようなかたちでエルサレム周辺から誕生した『世界交通網』は、時代とともに拡大していく。当初はヨーロッパや英国諸島などはまだ世界交通網の外縁にすぎなかったが、15~16世紀にかけて、ポルトガルの探検家であるバスコ・ダ・ガマによる喜望峰回りのルート開拓や、コロンブスが新大陸への航路を開いたことなどによって、地中海より大西洋が主要交通路となり、それに伴って、世界交通網の中心地は、エルサレム周辺からむしろ英国周辺にシフトしていった。
 そしてここで図3のように、エルサレム周辺を中心に世界地図を描いていく、世界交通網がそのように歴史とともに同心円に拡大していった様子が示されることになる。ところがこれを眺めると、われわれは1つの意外な事実に気づいて驚くことになるのである。それは『当時都市をもっていた文明のなかで、この世界交通網の中心からもっとも遠い位置にあった文明は何か』という問いを発したとき、世界の文明のなかでそれに該当するのは、ほかならぬ日本だったということである。
 図3
エルサレム
商業文明の浸透 )→ヨーロッパ
 ‿
 │
多神教文明の生存領域 )→日本(最も東方にある都市文明)
 ‿
 ↓
インカ(最も西方にある都市文明)
 日本の場合は鉄炮伝来に象徴される16世紀の安土桃山時代に、こうして拡大していく世界交通網の最前線と接触したことになるが、一方世界の反対側の西の方角に目を向けると、そこで都市をもっていた文明としてもっとも遠い位置にあったのがインカ帝国である。そして両文明は共に同時期に世界交通網の圏内に入ったが、インカ帝国の側はスペインに滅ぼされてしまったのである。
 ……つまり日本は世界の歴史のうえで、都市をもっていた文明として、この『世界交通網』と一番最後に接触した国として、客観的にみてもほかにないユニークな立場にあったわけけである。
 そしてこの世界地図をみると、もう1つ、興味深いことに気づく。それは多神教の文明が存在していた領域というものが、いずれもこの円の外縁部分にあって、それらはこの同心円上で同期をとるようにして、世界文明全体のなかから消えていったということである。
 一方、エルサレム周辺から生まれた宗教はどれも一神教であるという共通点をもっている。それは、『社会秩序の維持』という法的な役割を背負わされた宗教には不可欠なことで、商業文明による退廃(それは前回の第8回の言葉を使えば、『文明の縮退{しゅくたい}とコラプサー化』といい換えてもよいだろう)を防ぐためには、一神教という形態をとる以外なかったのである。
 なぜかというと、多神教というものはとくに金の力と結びつくと厄介で、極端な話、ある金持ちが自分に都合のよい神様をスター発掘の要領でフィーチャーし、金の力で巨大な神像などをつくって庶民をその壮麗(そうれい)な演出に誘い込んで虜(とりこ)にしていけば、法律以上に強力な力を自分のほうに引き寄せてしまうことが可能になる。そうしたことが起きるのを防ぐには、最初からその余地を断つために一神教のかたちにしておくことが必要であり、逆にいえば多神教というものは、大規模な商業文明による縮退の恐れを心配する必要のない農業社会でのみ、無害なものとして存在を許されるのである。
 日本の場合も、いわゆる『八百万の神』は一応その多神教のカテゴリーに入ることになるが、社会の商業化、とくに明治期に資本主義が導入された時期を眺めると、経済社会の中心部には一種プロテスタント的な文化が率先して導入されていった。従来この話題は、純粋に文化論の立場から語られることが多かったが、この問題を本当に捉えるためには、じつは世界交通網を巡る世界交通網を巡るエルサレム周辺からの距離と、『商業文明の縮退』ということについて理解していることが不可欠だったのである。
 日本が鎖国できた理由 
 ただ日本の場合は、先述したように、鉄炮伝来の時期の16世紀に一度この世界交通網と接触したものの、それは短期間に留まり、周知のようにその後間もなく日本は鎖国体制に移行して、この世界交通網との接触を断つことになる。そしてなぜそれが可能だったのかも、この地図をみるとあらためてよくわかるのである。
 鎖国が可能となった理由は当然、距離的にもっとも遠かったということにあり、さらに日本がこの世界交通網と最初に接触した16世紀前後には、先ほども述べたように、この世界交通網の中心地は次第にエルサレム周辺から英国周辺に移行しつつあって、交通網全体がやや西方にシフトしたため、距離的には日本の位置は以前にも増して遠くなっていた。しかしもっとも大きな理由は、日本がこの同心円の一番外側にあったため、それより遠い文明や目的地というものが当時は存在しなかったことで、それが鎖国を可能とした大きな理由の1つなのである。
 これは交通網というものの性格を考えるとよくわかる。一般的に、世界交通網(およびそれに関わる勢力)が、ある国への接触を望む際には2つの場合がある。1つはその国や文明自体が接触する価値や魅力をもっている場合、もう1つは、その国や文明自体には魅力はないのだが、中継地としての価値をもつ場合である。
 たとえばインド本土に魅力がなかったとしても、中継地として不可欠であるため、世界交通網やそれに関わる英国などは、どんなコストを払ってでも、そこに拠点をもとうとしたはずである。
 しかし日本の場合、この同心円の一番外側に位置していて、その先には何か接触すべき他の文明はない。それは線路でいえば、ちょうど一番先の末端にある終点の駅に相当していて、先にはもう駅はないようなものである。これがもし、もっと先に何か重要な地域があって、そこまで鉄道を伸ばさなければならないという場合、たとえ『日本駅』には乗降客がたいしておらず、コスト的にペイしなかったとしても、鉄道会社は中継点としてそこに駅をつくる必要性を感じたはずである。
 日本で鎖国が可能だった大きな理由の1つがここにある。つまり日本は路線上の終点の末端にあるため、世界交通網にとって中継点としての価値をもたなかったのである。
 その一方、日本自体に何か資源や文物などの大きな魅力があったかというと、たしかに日本の場合、ジパングの黄金伝説など、それなりに文明や国としての魅力はあったが、必ずしも絶対に欲しいものがあったわけではない。一方において、当時の日本はキリスト教宣教師を極めて危険な存在として認識し、武力に訴えてでもそれを排除しようとした。そして日本の軍事力は、鎖国直前の段階ですでに鉄砲を自前で量産する能力さえもち、到底侮(あなど)れるようなものではなかったので、ほかの文明のように制圧して土地を収奪することも難しい。
 そうなると、日本の『国としての魅力』のプラス分と『軍事的リスク』のマイナス分を秤(はかり)にかけるとどうなるかという話になり、少なくとも前者は後者を上回るほどではなかったのである。そのため世界交通網としては、そんなリスクを抱えてまでそことつながる魅力がなく、放棄したとしても大(たい)して痛痒(つうよう)を感じない。そのため代わりにたとえば一つ手前のバタビアインドネシア)やマカオあたりが終点となって、路線の長さが少し短くなったとしても、さほど差し支えなかったのである。
 『世界交通網』の繋りが日本を開国させた
 そのような特殊な条件に恵まれたことで、日本は鎖国が可能だったわけだが、日本が徳川時代鎖国を続けているあいだも世界交通網は勢力を広げていった。とくにそのあいだの米国の発展は、世界交通網の中心地をさらに西方にシフトさせることになったが、ここで世界交通網上には1つ、画期的なことが起こる。それは交通網の東の末端と西の末端が、地球の反対側で手を繫ぎ、地球全体を一周するものへと変貌(へんぼう)を遂げられる可能性が出てきたことである。
 そしてそれによって日本の立場は根本的に変わることになり、世界交通網の中継点としての価値が生まれてしまった。つまりそれこそが開国の圧力だったのであり、それを念頭に置いて眺めると、日本に開国を実現させた力が英仏よりも、むしろいままでとは反対側の米国から来たことの理由もよくわかる。つまりこの場合、世界交通網が英仏から東へ伸びようとする力よりも、米国から西に伸びようとする力の方が遥かに切実で、だからこそ日本の開国は米国によって行われたのである。……じつはこれは世界交通網がエルサレム周辺から拡大していったという、壮大な背景に基いて理解されるべき話だったのである。
 ともあれ日本は、世界交通網との2度目の接触をした19世紀の後半に、一応は商業文明とも接触して農業文明から脱却し、軍事貴族たる武士の時代は終わった。しかしこのときも商業文明というのは、じつは金融で物事をやりとりするよりも工業で大量の品物を量産することがメインの『産業文明』であり、商業民族よりもむしろ大勢の兵士を工場に動員する軍事民族のほうが適していたのである。
 つまり当時の日本は商業文明よりむしろ産業文明に対応すればよかったのであり、本格的な産業文明が世界に台頭しはじめて、それにともなう問題が表面化しはじめるのは、じつはコンピューターと金融が結びつきはじめた1990年代ごろであったといえる。
 そして現在、世界交通網はコンピューターのレベルで無形化したかたちでさらに拡大を続けるとともに、エルサレム周辺地域が抱えていた問題を、抽象化したかたちで世界に拡大させつつある。それは、むき出しの商業文明がもたらす退廃と縮退、そして前回までの言葉を使えば、その行き着く果てとしての『コラプサー化』を、従来の軍事力に基礎を置く国家の秩序では十分に阻止できず、対応自体が難しくなっているという問題である。
 その意味で、エルサレムと日本の武家社会は、一見まったく無縁の対極にあるものにみえるが、じつは世界の歴史のなかで世界交通網の『最初の出発点』と『最後の接触点』として、ともにほかの場所がもたない特殊な位置を占めており、そしてそこに発生する現代的な課題にこそ、日本のもつ『理数系武士団』の力が期待されるのである。」
   ・   ・   ・   
 人類の常識として、欧米の西洋は、日本に利用価値があれば日本を助ける為に中国に圧力をかけるが、中国の方が利益になるとすれば日本を切り捨てる。
 日本の利用価値とは、自由と民主主義の理念や国際法のルールを維持する事ではなく、経済発展と軍事転用可能な最先端技術開発で世界に貢献する事である。
   ・   ・   ・   
 人は、自分に利益をもたらす・金になると判断して行動するが、得にならないと判断したら動かない。
 他人・他国に助けて貰いたければ、「自分を助ければ得になる」事を相手に信じ込ませなければならない。
   ・   ・   ・   
 欧米諸国は、国益の為に、たえず日本と中国を「利益・金・得」という天秤棒で損得を測ったうえで行動している。つまり、いつ何時、突然、日本は世界から見切られ捨てられるか可能性がある、という事である。
 それが、歴史の鉄則である。
   ・   ・   ・   
 日本は世界で信用されている、日本人は世界で愛されている、はウソである。
   ・   ・   ・   
 欧米の西洋が、中国の話より日本の話を聞くのは、日本がいまだに中国が持っていない重要技術を持った経済大国・先進国だからである。
 それ故に、経済発展不要論や軍事転用可能な最先端技術破棄論は世界からの支援・救援を日本人自ら拒絶する日本亡国論である。
 つまり、左翼・左派・ネットサハ、リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者の言う事を信じて行動すれば、日本は確実に滅んで消え去る。
   ・   ・   ・   
 インカ帝国ムガル帝国は、外敵に味方して自国を滅ぼして自分だけの利益を得ようとした内通者・協力者によって自国民が虐殺されて滅亡した。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人は、民族的な歴史力・文化力・伝統力・宗教力がなく、歴史が分からない、明治維新や国家の近代化などの近代史が理解できない。
 それは、日本の歴史でも世界の歴史でも同じである。
 それが、高学歴の知的エリートや進歩的インテリの歴史能力である。
 その典型的日本人が、親中派媚中派、親韓国派・親北朝鮮派、マルクス主義者・共産主義者である。
   ・   ・   ・   
 日本が世界から一等国・一流国・先進国と求められているのは、明治から昭和前期まで日本人を犠牲にしながら自慢せず傲慢にならずならず、謙虚に、誠実に、真面目に取り組んできた人道貢献と平和貢献という実績である。
 それは、戦後の日本とは正反対の生き方であった。
 その象徴的事件が、湾岸戦争時の多国籍軍に対して「金を出すが人を出さない」という決定であった。
   ・   ・   ・