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日本民族の性善説・罪を憎んで人を憎まず・惻隠の情によるお人好しは内輪の論理である。
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故事成語を知る辞典「罪を憎んで人を憎まず」の解説
罪を憎んで人を憎まず
罪は憎むべきだが、その罪を犯した人まで憎むべきではない、ということ。
[使用例] この思想――すなわち罪を憎んで人を憎まざる底ていの大岡さばきが、後世捕物小説の基本概念になったかも知れない[野村胡堂*江戸の昔を偲ぶ|1955]
[由来] 「孔叢子―刑論」に出て来る、孔子のことばから。昔の裁判官は、「其その意を悪にくみて、其の人を悪まず(悪いことをしようという気持ちは憎むが、その人そのものまでは憎まない)」という態度で裁判に臨み、どうしても避けられない場合だけ処刑していたのに対して、今の裁判官はその逆だ、と述べています。日本では、「意」が「罪」に変化した形で定着しています。
出典 故事成語を知る辞典故事成語を知る辞典について 情報
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›6 18, 2010
水に落ちた犬は棒で叩け
Category: 日々雑感 / 0 Comments: Post / View
有名な諺であり、中国、韓国、日本でたびたび使われるようだ。
中国では、「水に落ちた犬は打て」(打落水狗)というようだ。
この言葉は自然の原理や資本主義の原理をよく象徴していると感じる。
普通は溺れている犬がいたら助けるだろう。それが慈愛であり、人間の英知であると思う。
しかし社会や集団では違う。弱っている者は徹底的に叩かれる。
ある市場で争っている会社を考えてみよう。A社が何らかの事情(欠陥商品を出してしまったなど)で苦境に立たされたとしよう。他の会社はこれを好機と見なし徹底的に叩き、自社の優位になるようにする。市場規模が決まった世界では必ず行われるのではないだろうか。
自社はA社と違うという点をアピールはしても助けはしない。
株の格言でもこの諺はたびたび使われる。何らかの事情で株価が下落すると、空売りで徹底的に売り浴びせる。
それが資本主義社会であり、我々ビジネスマンの日々の競争なのだ。
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日本民族の性善説・罪を憎んで人を憎まず・惻隠の情は、平和な時代・平時における「内輪の論理」に過ぎず、戦争の時代・戦時・緊急事態では通用しないどころか有害である。
大正時代から今日まで、日本だけで通用する「内輪の論理」が、「情に於いて忍びない」という温情主義を生み出し、やむを得ないという諦めの境地や同調圧力・場の空気という内向きの抑圧が日本を戦争という破滅へ暴走させた。
それは、2020東京五輪で大失敗に終わった開会式と閉会式のイベントにも現れている。
5・15事件や2・26事件、ノモンハン事件、満州事変そして太平洋戦争など、全てが内輪の論理で勃発している。
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日本人の考え方や行動と中国人・韓国人・朝鮮人の考え方や行動は、水と油のように違い、何方が良いか悪いかではないく、おかしく正すべきものでもない。
両方とも、正しく、真面なのである。
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中国と朝鮮・韓国は、日本とは正反対の性悪説と「溺れる犬は叩け」である。
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民族特有の性善説・「罪を憎んで人を憎まず」・惻隠の情と言っても、現代の日本人と昔の日本人では意味が違う。
その違いを象徴するのが、東条英機や松岡洋右らA級戦犯が祀られている靖国神社への参拝・崇拝・崇敬である。
戦犯として処刑されたA級戦犯は、権力を持った政治家・軍人・官僚として国際法が認める国家決定の公式戦争を始めるという平和に対する犯罪を行ったか、同時に人として逃げてきた数万人のポーランド・ユダヤ人難民をヒトラーのホロコーストから救うという自己犠牲的人道貢献も行っていた。
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昔の日本人が賢く偉かったからと言って、現代の日本人も同様に賢く偉いわけではない。
「鳶が鷹を生む」事はあっても、「鷹が鷹を生む」とは限らず、むしろ「鷹が鳶を生む」事があり、現代の日本では賢い鷹が生んだ愚かな鳶が空を独占している。
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日本テーラワーダ仏教協会
法話と解説
あなたとの対話(Q&A)
HOME法話と解説あなたとの対話(Q&A)CURRENT:「罪を憎んで人を憎むな」は正しいか?
「罪を憎んで人を憎むな」は正しいか?
Q 完璧な人間はいない、他人を認めなければならないというお話があったのですが、たとえば歩きタバコをしている人がいれば、その人の行為を憎むべきであって、その人を憎んではならないと思ったのですが、その「歩きタバコ」という行為は正さなくてもいいのでしょうか?
A 「行為を憎んで、人を憎むな」というのは日本でよくうたわれている言葉ですが、やっている本人は自分のことしか考えてないですから、その立場で見なくてはいけないのです。本人は気分よくやっているものだと、そう見たほうがいいのです。そうするとどのように言葉をかければいいかがわかるはずです。行為を憎むと、結局それも怒りです。何一つ、憎んではいけないのです。つまり、「罪を憎んで人を憎まず」というのは成り立たない。人を憎まなければ、行為自体はどうということはないのですから。
たとえば歩きタバコで人に迷惑をかけて、火事になったりもするかもしれません。そこで、その行為を憎むとすると意味がないのです。もし山火事になったら誰を憎むのですか? そういう意味で、行為だけを憎むということにはならないのです。
ですから、歩きタバコで言うなら、本人が自分勝手に喜んで、楽しくてやっているのだから、「まー、よく喜んでやっていることだな」と思えば、もし何か言いたければ、何か言葉が出てくるものです。
なぜ行為を憎むのですか。人も行為も、どちらも憎んではならないのです。その代わりにやさしい心で見てみる。よく高校生がタバコを吸っていますね。私はそれを見ると、ある面ではかわいいなと思うのです。その連中は「何か悪いことをやるぞ」と思ってやっているのですから。彼らの世界から見ると、本人たちは一人前になってやっているつもりでしょう。でも吸えないものだから、涙は出るわ、鼻水が出るわ……。だから「あんたがたはまだ未成年なのにタバコなんか吸っているのか」と怒鳴るのではなくて、「おいおい、これは身体に悪いんだよ」とかね、「まだまだ成長する年でしょ? もうちょっと身体が大人になってからでいいんじゃないの」とかね。あるいは「君らはね、元気でいたくないの?」とかね。
タバコを憎んでどうするのですかね?
やっぱり憎むときは、生命を憎んでしまうものですよ。犯罪を憎んで犯罪者を憎むなといっても、犯罪者がいなければ犯罪はないのです。人の行為だから、行為だけでは存在しない。
犯罪だけどこかにありますか? 怒りだけがどこかにありますか?
ないでしょう。
人殺しや泥棒という行為が、あっちこっちにありますか?
そんなものはないのです。人がやっていることなのです。だからその人そのものなのです。
たとえばここに何か物があって、それを誰かが持っていったら盗んだことになりますが、ねずみが3匹遊んでいてそれを持っていっても盗んだことにはならないでしょう。すごい風が吹いてきて、それが飛ばされてしまってもうない。結果としてはこの部屋の、ある品物がなくなった。もう二度と戻らないことになった。結果は同じですが、それを人が持って行ったならば盗みであって、風で飛ばされてなくなったら別にどういうことはないのです。
もし物がなくなったという「行為」を憎むというなら、風に飛ばされたときも憎まなくてはいけないのです。
だから、行為だけを憎むというのはあまり意味のないことです。
罪を憎んで人を憎まずという言葉はあまり使わない方がいいのです。正しくないのです。
それよりは、仏教で言う以下のような理解をした方がよいのではないでしょうか。
みんな愚か者だから、みんな自分のことしか知らない。何かに夢中になってしまうと、周りのことには気がいかない。
たとえば小さな子供が遊ぶとすぐに夢中になるでしょう。危なくて危険で、ハラハラするでしょう。ボール遊びをしているときに、ボールが道路に飛んでいくと、平気で道路に走って行っちゃいますからね。その場合、子供を憎みますか?
憎めないでしょう。子供は元気に遊んでいるのですからね。ただ夢中になっているだけだからね。「気をつけなさい」とか「危ないぞ」と言うしかないでしょう。
大人がやっていることも、だいたいそんなものですよ。たとえものすごく計画を立てて悪いことをしても、バカはバカなのです。そんなに計画を立ててまで悪いことをするというのは、この人たちは幸福になる道を全然わかっていないのだ、というふうに慈しみで見るのです。
Q そうなると、具体的には、その人にどう接するべきなのでしょう?
Aどう話すべきか、話してもいいか、話してはいけないか、無視すべきか、その時点で分かるものですよ。決まりはないのです。
「歩きタバコをしている人を見たらすぐに注意しなさい」と言うと、世の中では、たびたび怒鳴られますよ。それなら「無視しなさい」と言うと、世の中、良くなるわけがないでしょう。だから、決めることはできないのです。
人が悪いことをしたとき、それを指摘すべきか言わずにいるべきかなんて、そんなことは慈しみがあれば、その場その場で答えが出てくるのです。そのように、我々の心は常に冴えた状態でいなくてはいけないのです。ある決まりに束縛されてはいけません。
「悪いことを見たらすぐに言ってやるぞ」と決めてみてください。これから生きていけなくなりますよ。
みんな「あの人はうるさい」と言うのです。友だちもなくなるかもしれません。それで不幸になるかもしれない。自分がせっかくいいことをしようと決めたのに、結果として不幸になるのです。
逆も同じです。どんなに悪いことを見ても黙っているぞと決めたらどうでしょう。それでまたみんな、自分に対して信頼しなくなってしまうのです。だからどちらにしても正しい道とはいえないのです。
人の悪いところを見たときにも、すぐに正してやるぞということでもないし、無視してやるぞということでもなくて、「人に対してすごくやさしい心で生活するのだ」とだけ思っていればいいのです。
その場合は何の悪い結果にもつながりません。
「これは言った方がいい」とわかったところで言う。そうするとみんなの役に立つ。あの人はずいぶん役に立つ人だ、立派な人だとみんなに認められるようにもなる。友だちがなくなるどころか、かえってたくさんできるようになります。
それから仏教が強調するのは、人の悪いところを正そうとしていろいろ言うのではなくて、自分が悪いことをするな、怒るな、憎むなということです。いかなる場合でもです。
たとえば自分の会社の従業員が会社のお金を黙って持っていってしまったとします。
その人は心に汚れがあって欲があるわけです。その人は勉強もしないで仕事もまじめにしないで、怠けてわがままに生きていて、お金がなくなったからといって会社のお金を盗む。結局は盗んだ人の行いが悪いのです。
しかし、その人が自分の会社のお金を盗んで行ったからといって「あいつのせいで自分の会社が損した」と強烈に憎しみを持つと、自分は何も悪いことをしていないのに、自分も罪を犯したことになるのです。
「私はずっとあの人の面倒を見てあげていたのに、私の会社のお金を盗んで逃げてしまった」と相手を憎むと、盗んで悪いことをしたのは相手で、自分は面倒まで見てあげていたのに、結局、自分が巨大な罪に汚染されてしまうのです。それはあまりにもバカバカしいことです。
ですからお釈迦さまは、人の悪い点を正そうとするのではなくて、自分が怒るな、憎むなと言われるのです。
論理的に、完璧に、矛盾が成り立たないように、教えたのです。
真理に従う人を真理が護る
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罪を憎んで人を憎まず
HOME ビジネスワード ことわざ 「罪を憎んで人を憎まず」の意味とは?孔子や聖書との関係も解説
2020.07.31
「罪を憎んで人を憎まず」の意味とは?孔子や聖書との関係も解説
「罪を憎んで人を憎まず」は誰もが耳にしたことがあるよく知られたことわざです。時代劇における情状酌量の裁きを行う際のセリフや、アニメのセリフなどとしても有名になりました。
この記事では「罪を憎んで人を憎まず」の意味や由来・語源を紹介します。あわせて使い方・例文と英語表現も紹介しています。
目次 [非表示]
1 「罪を憎んで人を憎まず」の意味とは?
1.1 「罪を犯したその人まで憎んではならない」という意味の教え
2 「罪を憎んで人を憎まず」の使い方と例文
2.1 座右の銘とする人も多い「罪を憎んで人を憎まず」
2.2 寛容的な考え方を伝える際のたとえとして使う
3 「罪を憎んで人を憎まず」の由来・語源とは?
3.1 「罪を憎んで人を憎まず」の由来は「孔子」の言葉
3.2 『聖書』にもある「罪を憎んで人を憎まず」の教え
4 「罪を憎んで人を憎まず」の英語表現は?
4.1 「罪を憎んで人を憎まず」は英語で「Condemn the crime, not the person.」
5 まとめ
「罪を憎んで人を憎まず」の意味とは?
「罪を犯したその人まで憎んではならない」という意味の教え
「罪を憎んで人を憎まず」とは、罪を犯した人がいたとき、その罪は憎んだとしても、その人が罪を犯すに至るまでの事情をかんがみて、罪を犯した人そのものまでは憎んではならないとする格言です。
罪を犯した人、あるいは倫理・道徳に背く行為をした人などに対して、行った行為は許されるものではないが、あなた自身を裁くことはしません、といった寛容な態度を表現する際に用いられます。
「罪を憎んで人を憎まず」の使い方と例文
座右の銘とする人も多い「罪を憎んで人を憎まず」
「罪を憎んで人を憎まず」は、座右の銘とする人も多いことわざです。自分のことを棚に上げて他人を批判してしまいがちなのが人間ですが、そのような行動を理性によって慎みたいと考える人も多いことがうかがえます。
座右の銘として掲げる際には、理想とすべき生き方や人生観というよりも、戒めの意味を持つ格言としての性格が強いといえます。
寛容的な考え方を伝える際のたとえとして使う
「私は罪を憎んで人を憎まずの精神だから、〇〇さんの過ちは許します」などのように、自分の考え方の寛容性を伝える際のたとえとして「私は罪を憎んで人を憎まず」の言葉が使われます。
世間一般の常識から逸脱した悪いとされる行為を行ったり、犯罪を犯したりした人に対して、悪い行為は許されるものではないが、その行為を行なった人に対しては寛容な態度で臨む、ということを表明します。
「罪を憎んで人を憎まず」の由来・語源とは?
「罪を憎んで人を憎まず」の由来は「孔子」の言葉
中国の思想家「孔子」の言葉として、『孔叢子』刑論に記された一文が「罪を憎んで人を憎まず」の由来・出典だとされています。原文と訳文は次の通りです。
{「古之聴訟者、悪其意、不悪其人」
(昔の裁判官は、罪人の心は憎んだが、その人そのものは憎まなかった)}
訴訟の取り裁きに関して昔の裁判官は、罪を犯したことについては悪いことと認めたが、その人物自体を悪とすることはしなかったということです。
『聖書』にもある「罪を憎んで人を憎まず」の教え
「罪を憎んで人を憎まず」のことわざの由来となった教えではありませんが、キリスト教の『聖書』にもイエスの逸話として「罪を憎んで人を憎まず」に相当する内容が記されています。
『聖書』におさめられた「ヨハネによる福音書」8章に該当の既述があり、イエスの考える罪と救いのポイントがよく現れています。
その内容とは、イエスに敵対していた律法学者たちが、姦淫の罪を犯した女をイエスのもとに連れてゆき、その罪をどう裁くのか迫ることから始まります。イエスはそこで次の有名な言葉を投げかけます。
{「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」}
女を裁けと迫っていた人々は、それを聞いて皆立ち去ったと書かれています。最後にイエスのもとに残った女に、イエスは「あなたに罪を定めない」「これからは、もう罪を犯してはならない」と言い、女を赦し、帰しました。
ここに書かれた教えとは、罪を犯したことのない人はいない、人間はだれもが罪人である、そしてイエスとともにある人は赦されるという内容です。
「罪を憎んで人を憎まず」の英語表現は?
「罪を憎んで人を憎まず」は英語で「Condemn the crime, not the person.」
「罪を憎んで人を憎まず」の英語表現はいくつかありますが、代表的なものに「Condemn the crime, not the person.」があります。「condemn」とは「非難する、責める」という意味で、「crime」は「罪、犯罪」、「person」は「人」という意味です。
他には「Condemn the offense, but not the offender.」「Condemn the sin, but not the sinner.」などとも表現されます。「offense」は「(法律・慣習上の)罪、違反」、「sin」は「(宗教・道徳上の)罪、罪悪」という意味です。そして、「offender」「sinner」とは、それぞれそれらの罪を犯した「人」という意味です。
まとめ
「罪を憎んで人を憎まず」とは、「罪を犯したその人まで憎んではならない」という意味を持つ格言的なことわざです。罪の定義ではなく、人への赦しの定義に着目した教えであることがポイントです。
近年は、SNSなどにおける個人への誹謗中傷が問題となっています。著名人などが一般的な規範から外れた行為や発言を行うと、匿名のバッシングが大量に起こる現象などが増えています。
このような、一度過ちを犯すと徹底的に糾弾されるといった、一部の世間風潮に違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。そのような時の考え方の指針として「罪を憎んで人を憎まず」の精神が今後大きく注目されるかもしれません。
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