💄75)76)─1─神話時代から戦国時代まで日本人女性は女武者として活躍していた。〜No.149No.148No.150 ⑱ 

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 2021年6月6日号 サンデー毎日「今週の新刊 読んでたどる歴史」
 『女武者の日本史』 長尾剛 朝日新書
 女性たちは、敵と戦い
 時代や社会と闘ってきた
 本郷和人
 最近、ネットではフェミニストの人々が活発に発言し、問題を提起している。男女には生まれながらの差異はある。それを理解した上で、尊重し合うのが理想なのだろうが。
 徴兵制度は性差を考える上で、重大な素材となるだろう。いま我が国を取り巻く軍事的脅威は、日に日に増大している。この状況に対応するために、万万が一、徴兵復活の意見が台頭してきたら、フェミニストはどう反応するだろうか。①男女平等ゆえ、女性も兵役に就くべし。②身体が頑健なのは男性だから、徴兵は男性のみに適応されるべし。③徴兵自体に断固反対。ぼくの予想だと③が大多数で②もあり得るが、①はほぼないと思うが、どうか。
 そんなことを考えているところに、本書に出会った。本書によると、我が国には古くより『女軍』、発音は『めいくさ』『めのいくさ』という言葉があった。これは、女性の戦士を意味するものであって、日本の女性は『ただ待つだけの存在』ではなく、勇猛果敢に戦う戦士だった、というのだ。卑弥呼神功皇后巴御前、板額御前、立花誾千代・井伊次郎法師など、神話時代から武士の時代、戦国時代の女武者が丁寧に紹介される。
 著者は徴兵を実施した近代日本こそが、伝統的な『女軍』を否定し、欧米から『男尊女卑』を輸入した元凶、と見る。それでも『女軍の魂』は力強く生き続け、女性の自立を目ざして戦う女性がさまざまな分野に現れた。福田英子・下田歌子吉岡弥生などがそれで、彼女たちの魂は現代にも受け継がれている。
 男女平等は当然、と言うならば、日本社会の女性への待遇が先進国中最低レベルにあるとのデータを無視してはなるまい。女性活躍が推進される今、心して読むべき一冊である。」
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 7月1日 YAHOO!JAPANニュース「古代の日本は男女格差の小さい社会だった!? 日本史を彩る「女武者」
 ダ・ヴィンチニュース
 『女武者の日本史』(長尾剛/朝日新聞出版)
 日本には「戦う女」がいた。
 武器を手に、戦場に立った女性もいれば、陰で男たちの戦いを支えた女性、信念のため困難な現実と戦う女性もいた。『女武者の日本史』(長尾剛/朝日新聞出版)は、古代から近代日本の歴史に燦然と現れた、戦う女――「女武者」「女軍(めいくさ)」について分かりやすく紹介している1冊である。
 本書によれば、古代において、日本では「戦士という立場」において男女の差はなかったという。将軍から末端にいたるまで、戦争の際は夫婦母子共に従軍し、女性は女軍として戦った。戦争の際だけではなく、女性でも部族の首長となったり、専業の役割、仕事があったりと、同時代の他国とは違い「男女格差の大きくなかった社会」と言えるそうだ。
 日本だけに、そういった社会が成立していた背景には、「食糧の調達が比較的困難でなかったため」ではないかと書かれている。世界の大陸のほとんどは狩猟が主な食糧調達の手法だったため、体力や腕力のある男性が女性よりも多く食糧を確保することができ、結果として優位に立つようになった。しかし、日本は植物や海産物が豊富で、それらの食糧は女性でも採取可能だったため、格差がそれほど生じなかったのではないか。そうした伝統が女軍登場の基幹だったのではないかと推察されるという。
 そんな経緯で存在した戦う女である「女武者」「女軍」のエピソードを、本書から少しご紹介しよう。
(1)薩末比売(さつまのひめ)
 『続日本紀』に登場する女性。
 九州の隼人の軍を率いていた首長であり、巫女(シャーマン)であった彼女は、隼人族の先頭に立ち、敵対していた朝廷と勇敢に戦ったと考えられる。一国(一族)を率いて戦う女性、カッコイイ。古代の壮大なロマンを感じるのは私だけだろうか。
(2)巴御前(ともえごぜん)
 平安時代末期、源平合戦で源氏方の将、源義仲(みなもとのよしなか)の愛人だったという巴は、美人であり、豪壮無双の女武者だったと伝えられている。
 こんな伝説が残っている。ある時ちょっとした諍いがあり、巴は無礼を働いた義仲を馬ごと投げ飛ばし、義仲は数十枚もの田圃を越えて飛んで行ったという。
 この時代は古代と違い、「戦争は男の仕事」という認識が強かったものの、彼女のように実際に戦場に立ち、伝説的な逸話が語り継がれるほど勇猛な女性がいたのは興味深い。
(3)寿桂尼(じゅけいに)
 本書では、「戦場以外で戦う強い女」=「女軍の魂」を持つ人物にも触れられている。
 寿桂尼は戦国時代、女ボスとして今川家を支え続けた。彼女は今川氏親正室であったが、病床にあった夫に代わり、今川家の政務を取り仕切っていた。夫の死後も、4代にわたり今川家のトップ・アドバイザーとして君臨し続けたという。
 その他、幕末には名スナイパーとして戦った山本八重(やまもと・やえ)や、明治期に入り、どの階級の女性にもしっかりとした教育を受けさせようと、世間の理解を得るために戦った教育者、下田歌子(しもだ・うたこ)など、実に幅広い時代から、30名以上の女武者が紹介されている。
 また、本書は所々小説風の読み物として彼女たちのエピソードが書かれており、より臨場感をもって女武者たちの生き様を感じられるようになっている。専門的過ぎる内容ではないので、あまり日本史に詳しくない方でも楽しく読めるはずだ。文=雨野裾」
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女武者の日本史 (朝日新書)
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 ウィキペディア
 日本における女性の合戦参加の年表では、日本の歴史における女性の戦争、合戦、戦闘への参加について時系列的に列挙する。
 ここでは、軍勢の指導的立場において参加した場合から、一兵卒として参加した場合まで幅広く扱うこととする。
 年表
 弥生時代
平戸島の根獅子遺跡において、弥生時代中期に、戦に参加したとみられる女性人骨が確認され、抜歯や頭骨に鏃があることから、戦闘において統率者的立場の女長とみられる。
・『三国志』魏書東夷伝魏志倭人伝)に、3世紀半ば、女王国である邪馬台国と男王が統治する狗奴国が交戦していたと記述される。
 記紀時代
・のちの神武天皇が神武東征の際、戊午の年9月5日において、女軍(めのいくさ)を女坂に置き、11月7日に女軍を進ませ、敵軍は大兵が来たと思って、尽力して、これと交戦(『日本書紀』戊午の年、9月5日条、11月7日条)。官軍が女性部隊を用いた記述だが、神代に当たる。
景行天皇肥前国巡幸時、嬢子山に土蜘蛛八十女人(大勢の女性首長)が住んでいたが、天皇に従わず抵抗したため、派兵して滅ぼした(『肥前国風土記』)。
仲哀天皇9年: 7月20日神功皇后は兵をあげ、荷持田村(のとりたのふれ)の翼人・羽白熊鷲(はしろくまわし)を層増岐野(そそきの)にて征伐する。同25日、山門県の土蜘蛛、田油津媛を征伐。同年10月3日、三韓征伐のため朝鮮半島へ出航、新羅は戦わずして降伏。
神功皇后1年: 2月、神功皇后、反乱を起こした忍熊皇子に対するため、紀伊国に上陸、小竹宮に移る。3月5日、武内宿禰と武振熊に命じて忍熊皇子を討たせる。
 飛鳥時代
舒明天皇9年(637年):上毛野形名の妻が蝦夷に砦を包囲された際、夫の剣を佩き、女達に弓を持たせ、一斉に弦を鳴らすことによって、大軍がいると誤認させる機知で、蝦夷を撤退させる(『日本書紀舒明天皇9年条)。
斉明天皇7年(661年):斉明天皇は、前年新羅に滅ぼされた百済の救援のため1月7日より西征を決行。朝倉宮に移るも、そこで7月24日に崩御
 平安時代
・治承4年(1180年) - 寿永3年(1184年):治承・寿永の乱の際、女武者巴御前宇治川の戦い源義仲に付き添って活躍したとされる。ただし、彼女の記述は『平家物語』など後世の創作物に限られており、実在性については疑問視されている。
 鎌倉時代
建仁元年(1201年):建仁の乱の勃発。越後にて城長茂の妹板額御前が城資盛らとともに反乱軍の将として蜂起。越後の鳥坂城に籠って弓矢で奮戦するも両足を射られ捕虜となる。
・文永11年(1274年)、 弘安4年(1281):二度に渡る元寇にて、大蔵氏の女頭領である本渡城主天草大夫大蔵太子が水軍を率いて出陣。後に神恩に感謝し、本渡諏訪神社を建立した。
 南北朝時代
・文和2年(1353年):洞院公賢の日記『園太暦』の6月3日の項に、「今日聞く山名勢猛からず、七八百騎か。そのうち女騎多し」との記述があるが、詳細は不明。
 戦国・安土桃山時代
・15世紀末:女首長サンアイイソバに率いられるドゥナン(与那国島)が琉球王国に従う宮古島の軍勢の侵攻を受ける。
・天文10年(1541年):大三島にて大祝鶴姫が大内氏の軍勢を二度にわたって撃破したとされる。しかし、彼女の存在が記されたという『大祝家記』は実在が確認されておらず、伝説上の人物ではないかとの指摘がある(当該項目参照)。
・天文12年(1543年): 大祝鶴姫、三たび大内軍を撃破するも、恋人の死に絶望し自殺したとされる。
・永禄11年(1568年):飯尾連竜の未亡人で曳山城主のお田鶴の方、徳川家康に攻められ落城、討死。ただし、その末路については資料によって相違がある(当該項目参照)。
・永禄6年前後:吉田重康が城を留守にしている間に安芸氏の軍勢が城を攻めてきたため、重康の妻が城内の女房・下女・はした、その他の男を呼び集め、下知をなして、兜を着せ、または手で持たせ、塀の上へ差し出し、また左右に槍薙刀を持たせ、前後に馬印を出し、大旗小旗を木の枝・塀・柱に結び付けて、大勢が籠っているように見せ、安芸の軍勢は留守と思っていたため、大勢いると誤認し、安芸へと撤退した(『土佐物語』巻第五「吉田伊賀介妻女の事」)。
・永禄12年(1569年):北条氏邦家臣諏訪部定勝の妻妙喜、居城日尾城に武田勢が来襲した際、泥酔した夫が目覚めるまで籠城戦を指揮。
永禄12年(1569年)10月:大内輝弘の乱。毛利元就重臣で周防高嶺城番の市川経好の妻である市川局が、夫の不在中、大内輝弘勢による攻撃に耐え城を守る。
・元亀3年(1572年):武田信玄の西上作戦。松平家家臣で井伊家の当主直虎、武田氏の侵攻を受け井伊谷城山県昌景に明け渡す。織田家岩村城の女城主おつやの方、武田方の秋山虎繁の侵攻を受け降伏。
天正2年(1574年):三村元親家臣上野隆徳の妻三村鶴姫、常山城が毛利勢に攻められた際、落城寸前の城から女軍を率いて出撃するも、その後城に戻り自害。
天正8年(1580年): 三木合戦。鷹尾山城主別所吉親の妻、波が別所軍に加わり奮戦するも落城前に自害。
天正10年(1582年):織田信長による甲州征伐で織田信忠軍が高遠城を攻めた際(5万対3千)、「諏訪勝右衛門(頼辰)の女房が刀を抜き打ち、切って回り、比類なき働き前代未聞の次第なり」と『信長公記』に記述・評価される。
天正11年(1583年):由良成繁の妻妙印尼、息子、国繁、顕長を人質に取った北条氏に対抗し金山城に籠城。のちに城を明け渡し和睦。
天正12年(1584年)に、越中国佐々成政に1万5千の兵で前田利家の家老・奥村永福の末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき、成政軍を撃退した(末森城の戦い)。なお、籠城戦の際には、永福の妻・加藤安は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って負傷者を介抱し、城兵を元気づけたといわれる。天正の昔加賀前田家の家老奥村が三百騎を以て能登末森城に立寄り、佐々成政三千の兵を支へし時、奥村が妻たすき掛にて薙刀をつき、兵糧を運び城兵を励まして遂に寄手を破りしは有名の物語なり。
天正12年(1584年)-天正14年(1586年):『大友文書』によると、「戸次伯耆守は大友宗麟重臣なれど、矢傷にて脚がくさり衰えたり。されど娘(誾千代)ありて勇壮。城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を奪う」という記述がある。
天正13年(1585年):人取橋の戦い二階堂盛義の未亡人で須賀川城主の阿南姫、伊達政宗に対抗する南奥諸大名連合軍として派兵。
天正14年(1586年):大友義鎮家臣で、鶴崎城の城主吉岡統増の母妙林尼、不在の息子に代わり島津勢に対する籠城戦を指揮。攻勢を防ぎ切り和睦、開城。
天正15年(1587年): 妙林尼、寺司浜の戦いにて島津軍を背後から奇襲し大勝。
天正16年(1588年):郡山合戦。阿南姫、伊達政宗に対抗する蘆名氏・相馬氏連合軍として派兵。
天正17年(1589年):阿南姫の守る須賀川城摺上原の戦いによる蘆名氏の滅亡に伴う伊達氏の侵攻を受け10月に落城。11月、天正天草合戦の本渡城の戦いにて木山正親の妻お京の方が戦闘に参加。地元の伝承では、男装したお京の方が加藤清正に一騎打ちを挑み討たれたという。
天正18年(1590年):小田原征伐。3月、妙印尼、豊臣方に与し、松井田城攻めに加わり、この功績により牛久に領地を与えられる。6月、妙印尼の孫で、忍城城主成田氏長の娘である甲斐姫、北条方として忍城籠城戦に参加。北条方の城の中では最後まで持ちこたえ開城。成田氏は蒲生氏郷の預かりとなり、会津福井城に移動。11月ごろ、福井城で反乱を起こした浜田将監・十左衛門兄弟の反乱を甲斐姫が鎮圧。
慶長年中(1596年 - 1615年ごろ):津軽の藤代館の女主人、藤代御前が、津軽為信に攻め込まれ戦死したと伝わる。
・慶長5年(1600年):関ヶ原の戦いに関連する一連の合戦が勃発。7月、田辺城の戦いにて城主細川幽斎の妻沼田麝香、夫と共に具足を付け奮戦。のちに開城。また、同じころ真田信之の妻小松姫が侍女らとともに武装して留守の沼田城の守備に当たる。8月、安濃津城の戦いにて富田信高の妻が夫の危機に騎馬武者として駆けつけ奮戦。和睦開城に持ち込む。10月、関ヶ原の戦い本戦後に立花宗茂に降伏を促すため柳川に進軍した加藤清正が、宗茂の妻誾千代の武勇を警戒し、彼女の住まう宮永を避けて迂回し進軍。伝承では、柳川の渡船口で鍋島水軍に向けて誾千代の鉄砲隊が発砲したという。
 江戸時代
・慶長19年(1614年):大坂冬の陣豊臣秀頼の母淀殿、武具を着て3、4人の武装した女房を従え番所の武士に声をかけ激励していた(『当代記』)。
・慶長20年(1615年):大坂夏の陣淀殿、秀頼の出陣を拒否。大阪城は落城し、淀殿自害。
1640年代ごろ?:女浪人佐々木累、江戸市中にて旗本奴の白柄組と交戦。
・慶応3年(1868年):薩摩藩邸焼討事件。新徴組隊士中澤琴、戦闘に参加し踵を負傷。
・慶応4年(1869年):戊辰戦争の勃発。6月、会津戦争中野竹子、母こう子や妹優子・神保雪子らとともに婦女隊を結成。会津城外で新政府軍と交戦し、竹子は戦死。城内では松平照の指揮により山川二葉ら婦女子が籠城戦に参加。新島八重は男装しスペンサー銃と刀で応戦。7月、秋田戦争に中沢琴が新徴組隊士として参加。
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 戦国時代までの、女性は男性以上に攻撃的戦闘的で、男性は優柔不断で気弱に戦いを避けようとしていた。
 つまり、日本人女性は勇猛果敢に戦場に出て殺し合いをし、後方で戦争を煽る存在であった。
 古代ギリシャの戦争を止めさせる「女性の反乱」は、日本では起きなかった。
 女性は子育ての為に戦争反対で平和志向であった、というのは昔の日本民族女性には当てはまらない。
 日本に住む女性といっても、現代の日本人女性と昔の日本人女性は別人のような女性であった。
 日本民族の女性とは、戦争を決断し、戦争をする女性の事である。
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 女性に対する偏見と差別、そして妻DVを行ったのは、60年安保・80年安保に敗北したリベラル派戦後民主主義教育世代と親の劣等感と挫折の捌け口として暴力的虐待で育てられた次世代である。
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 昔の日本で、地方・田舎・農村の家族制度において最も力を持っていたのは、翁ではなく老女であった。
 日本人男性は人間として亭主関白であったが、日本人女性は神、山ノ神としてカカア天下であった。
 昔の日本人女性は、弱者ではなかった。
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 公家や商家では、女性相続として親の遺産は娘が受け継いで男性には権利がなかった。
 農家では、女性の力がないと農作業ができなかった。
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 武家は、男性相続として跡取りの男子が親の遺産を相続し、娘は政略結婚の道具とした。
 武士道は、男性優位の性差別思想として、女性を一人前の人間とは認めていない。
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 現代の日本国民は、昔の日本民族とは違う日本人である。
 伝統文化としての宗教や神仏を、昔の日本民族は持っていたが、現代の日本国民は持っていない。
 日本民族が持っていた伝統、文化、宗教は、絶える事なく縄文時代縄文人に繋がり、その源流を遡れば揚子江流域にあった長江文明である。
 日本民族琉球民族アイヌ民族は、長江文明縄文人の直系の子孫であって、黄河文明・漢族中国人・朝鮮人との血の繋がりは薄い。
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 女性が一線で活躍する日本に、女性への偏見を持ち込んだのは仏教であり、女性は賤しく下等で差別されるのが当然であり男の所有物・家庭内奴隷であるという考え方を持ち込んだのは儒教であった。
 徳川幕府は、男尊女卑を定着させる為に儒学原理主義朱子学を官学として広めた。
 朱子学の毒が、日本を陰険・陰湿なブラック社会に変えた。
 女性への偏見・差別を常識として日本に定着させたのは、明治以降で、キリスト教の家父長主義と人種差別主義であった。
 そして、マルクス主義共産主義が偏見・差別を強化・悪化させた。
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 キリスト教において、女性の教皇枢機卿大司教は一人もいない。
 共産主義においても、女性の共産党党首・国家主席・党主席・総書記は一人もいない。
 一神教ユダヤ教イスラム教においても、女性の教祖、宗教指導者、律法学者は一人もいない。
 日本の歴史において、男系女性が天皇に即位し、女性が伊勢神宮の斎王を務めていた。
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 イギリス国王ヘンリー8世は、幾人も新しい妃を得る為にその都度王妃を離婚し処刑していた。
 日本では、天皇、公家、将軍、武士で妻を離婚して殺した試しはない。
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 人類の歴史において、女性を最高の存在と論理的に位置づける哲学、思想、主義主張(イデオロギー)は存在しなかった。
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 日本の民族中心神話・ヤマト神話・高天原神話・天孫降臨神話では、最高神は女性神天照大神、つまり現・正統男系父系天皇・皇室の祖先神である。
 天皇・皇室の正統性は、血の神話(Y染色体神話)を神聖不可侵の根源的根拠として、最高神天照大神の血を正しく受け継ぐ万世一系世襲制に与えられている。
 つまり、神話から切り離された人間的な非血筋非世襲の合理的正当女系母系天皇は排除されてきた。
 国民の70%以上が、血筋世襲の正統男系父系天皇から非血筋非世襲の正当女系母系天皇への変更を希望している。
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 戦国時代は、悲惨で、酷たらしい地獄であった。
 武士・サムライが、百姓を嫌い差別し「生かさず殺さず」の支配を続けたのには理由があり、戦国の気風が残っていた江戸時代初期に斬り捨て御免が横行していたには理由があった。
 日本は、誰も助けてくれないブラック社会であった。
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 日本の庶民(百姓や町人)は、中華や西洋など世界の民衆・大衆・人民・市民とは違って、油断も隙もない、あさましく、えげつなく、おぞましく人間であった。
 町人は、戦場を見渡せる安全な高台や川の反対岸などの陣取って、酒や弁当を持ち込み遊女らを侍(はべ)らせて宴会を開き、合戦を観戦して楽しんだ。
 町人にとって、合戦・戦争は刺激的な娯楽で、武士・サムライが意地を賭けた喧嘩・殺し合いは止める必要のない楽しみであった。
 百姓は、合戦が終われば戦場に群がり、死者を弔う名目で死者の身包みを剥ぎ裸にして大きな穴に放り込んで埋め、奪った武器・武具・衣服などを商人に売って現金化し、勝った側で負傷した武士は助けて送り届けて褒美を貰い、負けた側の負傷した武士は殺し或いは逃げた武士は落ち武者狩りで殺し大将首なら勝った側に届けて褒美を貰った。
 百姓にとって、合戦は田畑を荒らされ農作物を奪われる人災であったが、同時に戦場荒らしや落ち武者狩りでなどで大金を稼ぐ美味しい副業であった。
 合戦に狩り出された庶民は、足軽・雑兵以下の小者・人夫・下男として陣地造りの作事を強要されるが、合戦が始まれば主君を見捨てて我先に一目散に逃げ、勝ち戦となれば勝者の当然の権利として「乱取り」を行い、敵地で金目の品物を略奪し、逃げ遅れた女子供を捉えて人買い商人に奴隷として売った。
 百姓や町人らの合戦見物・戦場荒らしは死者への敬意や死体の尊厳を無視するだけに、古代ローマ時代の剣闘士が殺し合うコロセウムより酷かった。
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 武将は、足軽・雑兵、小者・人夫・下男による乱取りを黙認していた。
 乱取りで捕まった女子供は、各地の奴隷市で日本人商人に買われ、日本人商人は宣教師を通じて白人キリスト教徒の奴隷商人に売って金儲けをしていた。
 中世キリスト教会と白人キリスト教徒奴隷商人は、奴隷として買った日本人を世界中に輸出して金儲けしていた。
 日本人奴隷を生み出していたのは、乱取りを行った百姓達であった。
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 現代日本人は、潔くカッコイイ武士・サムライの子孫ではなく、乱取りをし日本人を奴隷として売って大金を稼いでいた庶民の子孫である。
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