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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
現代の日本とは違って、江戸時代後期から明治にかけれの日本は人材の宝庫であった。
当時の総人口は約3,000万人で、人生50年時代で若者が多く老人が少なく、40代以上は後進の為に隠居して社会的地位から身を引いた。
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2021年5月6日・13日号 週刊文春「渋沢栄一を生んだ江戸の人材登用術
取り立てなければ宝の持ち腐れ。
現代の渋沢を埋もれさせるな。
磯田道史
渋沢栄一はこの国を経済大国にした立役者の一人だ。明治維新では日本は抜群に伸びた。しかし平成・令和には衰えている。台湾のコロナ対策が輝き、豊かさでも台湾に購買力では抜かれ、韓国には追い付かれた。かつての『帝国と植民地』の関係は激変した。実は、明治維新期に、この国が成長した理由は『人才(人材)登用』の仕組みに秘密があった。
『芋づる式の人材登用』があって、これが国を救った。才能が才能を連れてくる連鎖だ。まず、大分県の日田代官所の小役人の子に『才』がみつかった。川路聖謨という。数時間しか寝ない。猛烈に読書・執筆と剣術をする。超人的な頭脳の持ち主。ところが、屁(おなら)の話が好きで、どこでも屁をするとの噂があった。……この変人川路がまた『変物』をみつけた(『徳川慶喜公伝』)。平岡円四郎である。高級旗本・岡本近江守の四男で家柄抜群、学問超絶。当時、全国成績トップの若者といえば、昌平坂学問所の寄宿(書生寮)頭取で、みな憧れた。平岡はこれを命じられたが『おれは武術を練習する』と辞退。易経や老子を読んで(『竜門雑記』444号)、世俗に交わらず、町奉行所の与力に弟子入りして刑事・の修行をはじめていた。ところが、父・近江守と親交のあった川路が変物の『円四郎』を発見し、水戸藩の大学者・藤田東湖にすすめた。丁度、水戸藩では、藩主徳川斉昭が子を一橋家に養子に入れ、『将軍慶喜』を誕生させるプロジェクトが進んでいた。それには非凡な側近がいる。藤田から話を聞き、斉昭はその変物を使えと命じ、円四郎は一橋家家老並み・平岡円四郎となった。
渋沢栄一を拾ったのは、この平岡である。平岡は面白い。一橋家の家老格になっても『行儀は習わぬ。ふるまいは粗野』で押し通した。行儀のよい貴族の慶喜はかえって彼を好んだ。平岡には奇癖があった。立派な武士なのに、身分を問わない。書生談義を好み、とくに若い人と会って話す。今風にいえば、役所外、社外の人、面白そうな学者や専門家などとフリー・トークをする。実は、これが大事で、そうしながら、人材を探していた。とりわけ『人材が探せる人材探し』を重視した。リクルーター人材に、まず目をつけるのだ。平岡は小仏関所(八王子市)の番人をしていた川村という武芸のできる男をまず抜擢した。この川村に一橋領内などから『浪人にても百姓にても、相当の人物』が居れば、召し抱えよと命じた。
栄一は出世の秘訣を知っていた
なにしろ、一橋・田安・清水家の御三卿は、尾張・紀伊・水戸の御三家と違い、藩ではない。御三卿は、8代将軍・吉宗が自系統で将軍をと無理に拵(こしら)えた『江戸城内の将軍家族』で、バーチャルな家だ。家老なども幕府が派遣する。時折、当主も空席になる。空席中の御三卿屋敷はカラで畳まれる。ところが、この時、一橋家は天皇の京都を外国から守る警備責任者になろうとしていた。突然、家臣団の強い軍事力が必要になった。渋沢栄一は染料(せんりょう)の藍玉(あいだま)の商売人で情報通だ。柏木総蔵という親切な幕府代官の手代から、川村についての耳寄りな情報を得て、柏木の紹介をもらい、イトコの渋沢喜作と一橋家のリクルーター川村を訪ねた。川村がひらいた住職就任祝いの席に、もぐり込んだのである。渋沢は親戚筋に大川という有名な剣の達人がいて川越藩の指南役をしていた。栄一は、自分は『川越大川派』剣術の使い手だと売り込んだ(川村惠十郎『襍{そう}日記』)。栄一は目ざとい。一橋家が軍事力編成に苦しんでいるとみて、『出入りを許されれば、事ある時には四五十人の壮士を率いて相当の軍務に従』うと、大見得を切った(『渋沢栄一伝稿本』)。当時、渋沢たちは外国人を追い払わない幕府にいらだち、群馬県の高崎城を乗っ取るテロ計画も進めていた。『博徒にて胆略有』る『人物3人』のあてがあり『大に用』いるつもりであった(尾高藍香宛渋沢喜作・栄一書状)。栄一のいう『壮士』とは、実はこういう堅気でない無頼の連中のことでもあった。名門の一橋家を相手に、はったりをかます度胸が栄一にはあった。
自分は相手がのどから手が出るほど欲しいものを持っている。相手にとって自分は必要な人物と思わせる。これが出世の秘訣だと、栄一は肌感覚で知っていた。渋沢を信じた川村は9日後、平岡円四郎に渋沢の話をした。時勢に万事に困ったと、ため息をつきながら、と川村の日記にはある。渋沢の存在をきいた平岡は『ことのほか感激の様子』に見え、はや2日後に渋沢に会うといった。会ってみれば、平岡は栄一の才能の非凡をすぐに見てとった。京都へ渋沢をぜひ連れていきたい、といった。栄一は『何かの名義を以て家来分となること』を請求した。しかし、簡単にはいかない。一橋領の農民なら問題なかったが、栄一は阿部という2万石の小大名の農民だ。しかも、阿部家の役人に好かれていない。阿部家への上納金の納入を一旦拒否して、にらまれていた。一橋家が栄一を召し抱えるには阿部家の許しがいる。そんなことをいいだす一橋家を栄一は『大因循(だいいんじゅん)』、前進しない保守野郎と思った(前掲書状)。結局、川村が栄一の領主・阿部家家来・淡島浪江方に乗り込み、談判してくれたが、不首尾に終わった。 当時の栄一は、武士の政治が腐敗し、もう天下が乱れる。農民だからといって傍観していられない。身分を転じて、武士のように国事に奔走する、という考えだった。ところが、父親は『農民に生まれたのだから、ドコまでも其本分を守れ』『身分・・・不相応な望み』『おれは麦を作って農民で世を送る』『政府が無理・・・役人が無法をしようとも・・・服従するつもり』といった。これが日本人がよくはまる『本分を守る』論である。『分際』の罠といってもいい。職域や管轄や専門を狭く限って、そのなかで仕事や行動をしようとする。専門外や仕事以外のことをすると、『余計な』『専門外なのに』『口出し』だといって、新活動を叩く。これはチャレンジを妨げる。新技術や新時代が来た場合、栄一のいう『時勢』が変わる時に、『本分を守る』などと昨日と同じやり方を守れば、衰退するのは当たり前だ。幕末日本のすごさは身分制にもかかわず、学問や技能で、『分際』をこえて活躍しようと動く若者が一定数いて、それを『人材』として愛でて登用し、支援する人もいた点である。
平岡は阿部家に渋られても渋沢の登用をあきらめなかった。『江戸でまごまごして居ては駄目だぞ。早く京都へ来たらよかろう』と渋沢栄一・喜作を誘った。渋沢は一計を案じ、一橋家の家臣でなく『貴方(平岡)の家来にしてくれますか』といった。平岡は許した。渋沢がいざ京都につくと、平岡は太っ腹で、幕府の嫌疑もうけていた渋沢を、あっさり一橋家の『御小人使之者(おこびとづかいのもの)・奧口番過人(おくぐちばんかにん)』に採用した。平岡はわざと間違った公文書を作成してくれたのだ。渋沢は『阿部摂津守様御領分』の『百姓』で、よくいっても『名主見習』の倅(せがれ)であったが、もらった辞令には『阿部摂津守家来渋沢栄一郎』を召し抱えるとあった。平岡は御三卿一橋家の権威に者を言わせ無法をやった。京都で江戸から遠いのをいいことに、平岡は阿部家を無視。渋沢を書類上、阿部家『家来』つまり武士ということにした。
この『ことにする』という『見立て』『みなし』が日本人は得意である。江戸時代は、『みなす』『見立て』で、法度・旧例のがんじがらめの脱出口を作っていた。ただ、このやり方は、下手に使うと、原発は事故が起きない『ことにする』、日本は負けない、神風が吹く『ことにする』で大失敗したように、誤って乱用すると困る場合もある。とにかく、こうして渋沢栄一は召し抱えられ、一橋家家臣として、とんとん拍子に出世していった。この京都時代に、栄一はただの放浪身分で、西郷隆盛に会ってもらい『豚鍋』をごちそうになっている。『当時、青年の間では有名な人達を訪問して時事を論じ、意見を聞くことが流行であっ』た。西郷は、その時分、珍しい『琉球豚』の肉を調達できた。この豚鍋が西郷にとってのコミュニケーション・ツールであった。西郷も『一介の書生相手に豚鍋などをつついて談論』するのが好きだった。西郷は栄一が若くして藍玉の商売で巨万の富を築いたのに興味を持ったらしい。西郷は『中々面白い男ぢゃ、喰詰めての放浪ではなく恒産(こうさん)あつて然も志を立てたのは感心ぢゃ、時々遊びに来るがよい』と、栄一にいったという(『竜門雑記』441号)。西郷も薩摩藩主・島津斉彬に登用され、西郷も多くの人材を登用した。
おならの川路→変人の平岡→渋沢栄一という人材登用の芋づるがあり、渋沢も浅野セメントの浅野総一郎など多くの才を見出し、この国の近代をつくった。まだ無名だが有為の若者と話し、その才を愛でて、出世の道をつける。幕末明治発展の秘密は結局これであった。」
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日本を支配していたのは、政治権力、宗教権威、天皇の御威光であった。
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尊皇派、勤皇派は、外国の侵略から天皇・日本国・日本民族・日本神道を武力で守ろうとした。
攘夷の敵とは、軍事侵略してくるロシアと宗教侵略してくるキリスト教であった。
古代から、日本は大陸や半島に侵略され虐殺・強奪・拉致されていた。
戦国時代、中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は日本人を奴隷として売り買いして金儲けしていた。
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現代の日本人には、鎖国から開国した当時の日本人に匹敵するほどの人材は存在しない。
それ故に、当時の日本人は現代の日本でも充分に通用するが、現代の日本人は当時の日本では役立にたたない愚物である。
それが、現代の高学歴な知的エリートや進歩的インテリの偽らざる実態、実力、能力である。
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明治維新は、地方の下級武士や身分低い庶民(百姓や町人)が外国の侵略から天皇・国・民族を軍事力で守る為に成し遂げた積極的自衛行為であった。
明治近代化とは、対外戦争をする為の軍国主義改革であった。
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鎖国から開国した日本には、血筋・家柄・身分・学閥に関係なく数多くの天才・秀才の人材が雨後の筍(たけのこ)のように日本全国から湧き出て、国内はおろか海外まで駆け巡り、天皇・国家・民族の為に各分野で活躍し、命を捨て犠牲者を出して日清戦争・日露戦争に勝利し、未開国並みに貧しかった日本を約40年で欧米列強に負けない近代国家にし、約50年で世界五大国に一国に押し上げ、アジアの盟主にした。
当時の人材とは、20代から40代と若く、30代が指導的地位に立ち意欲的に時代に合わせて社会を最新にすべく諸変革を行った。
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現代の日本には、世界で活躍できる優秀な人材が少ない為に国際的地位を落とし、国内でさえ優れた人材が乏しく政治・外交・経済・軍事・科学技術など多方面で日本を衰退させ発展国並みに落ちぶれさせても恥じない。
日本は、1980年代を境に勢いを失い、2010年代から加速を付けながら坂道を転げ落ちるように衰えを増している。
現代の人材とは、50代以上と老い、70代以上が指導的地位に居座り時代の変化を拒否し社会を旧態依然に留めるべく諸改革を潰している。
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現代教育は昔の教育とは違い、自立した優秀な人材を育てず金太郎飴的人間のみを量産している。
現代日本人は、事実・現実に基づいた確かな歴史が嫌いなだけに、自分を虚飾で誤魔化す為にまがい物の武士道神話を創作して信奉している。
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昔の日本人と現代の日本人の最大にの違いは、人を見る目、文武に優れた才能・能力はもちろん人格・品位をも見極める情に流されない確かな眼力である。
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昔の日本人と現代の日本人との違いとは、天皇と国の為に死を覚悟して戦争を厭わないかどうかである。
真の武士道とは、そういう事である。
昔の百姓や町人さえ、天皇と国の為ならば命を捨てて戦う決意があった。
それが日本民族の心意気・志・日本心であった。
命知らずの尊皇派、勤皇派は、下級武士、下層庶民(百姓や町人)、賤民(非人・穢多)、部落民、芸能の民、異能の民、異形の民、その他であった。
明治維新は、彼らがおこなった対外戦争を行う為の変革であった。
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成績優秀な愚物人材を量産しているのが、学校教育とメディア・報道機関である。
現代日本を貧しく凋落させ回復を阻む張本人が、反宗教無神論のマルクス主義史観・異教徒根絶やしのキリスト教史観・華夷秩序の正統儒教史観(論語儒教とは違う)に毒された学校教育とメディア・報道機関である。
現代の日本人は、学校教育とメディア・報道機関の情報で洗脳されている。
洗脳された日本人は、左翼・左派・ネットサハでも右翼・右派・ネットウヨクでも同様で、リベラル派・革新派そして一部の保守派に多く存在する。
彼らの特徴は、「自分は優れた才能を持ち、誰よりも正直で真面目」と信じ込んでいる事である。よく言う自称「正義の味方」である。
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