⚔37)─4・C─江戸時代の武士は真面目に働き、平安時代の貴族は働かずサボっていた。~No.162 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 勤勉実直を美徳とする儒教的社会規範は江戸時代以降に浸透した。
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 2021年4月30日号 週刊朝日「週刊図書館
 ベスト・レコメンド
 『古代日本の官僚』 虎尾達哉 中公新書
 惰性な面々
 公文書偽造、倫理規定違反、コロナ禍宴会、国会提出法案の誤記・・・数年前から現在もつづく官僚の不祥事にはほとほと閉口している最中に、『古代日本の官僚』なる新刊本が現れた。副題には〈天皇に仕えた怠惰な面々〉とあり、思わず手に取った。
 この本が取り上げる『古代』とは、飛鳥時代後半から平安時代前半のこと。中国(唐)から輸入した律令に基づく『専制君主』体制をとり、強力な執政を支える官僚機構が不可欠となった時期だ。特に、クーデター(壬申の乱)によって覇者となった天武天皇は新たな官僚たちを必要とし、登用制度を導入してまで大量の『律令官人』を生み出した。
 しかしながら、彼らは勤勉でも、規律正しくもなかった。中でも下級官僚は、日々の職務をしばしば放棄するだけでなく、天皇が臨席する重要な儀式すら無断欠席した。著者の虎尾達哉は『続日本紀』などの資料にあたり、その実態を次々と紹介。専制君主国家の本家である唐であれば死罪になるような事例も多いのだが、政府の対応は一貫して寛容だった。
 なぜか?虎尾は、天武朝から急増した下級官僚が〈粗製濫造〉だった点を認めつつ、〈中国の礼のような儒教的な社会規範が欠如していた〉ことを根本的な理由とした。そして、国の方も、彼らの怠業・怠慢をある程度は見込んでいたことに言及し、古代日本が〈現実的でしたたか〉国家だったと総括する。
 勤勉実直を美徳とする儒教的社会規範は、江戸時代以降に浸透したらしい。こうして古代日本の内実を知ると、現在の官僚たちに同情する虎尾の気持ちも理解できるが、それとこれとは、やはり別問題だろう。」
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 5月6日 MicrosoftNews 文春オンライン「行事に出ない、職務は放棄…息を吸うようにサボる「天皇に仕えた官僚」の日常
 人事院は、2021年度の国家公務員採用総合職試験の申込者数について、2020年度と比べ2420人(14.5%)減となる1万4310人だったと4月16日に発表した。5年連続の減少で、総合職試験を導入した12年度以降で最大の減少幅。背景にはいわゆる “キャリア官僚”たちの長時間労働問題があると指摘されている。
 一方で、その昔はどうだったのか。最新の研究によれば、その実態は必ずしも「勤勉」とはいえないものだったという。『 古代日本の官僚――天皇に仕えた怠惰な面々 』から、かつての日本における「官僚」たちの知られざる日常について、一部を抜粋して引用する。
 ©iStock.com© 文春オンライン
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 サボる官僚と「ひたすら待つ」政府
 古代史研究者はよく、専制君主国家の儀式は「君臣関係を確認する場」などと言う。何を隠そう、筆者もそう書いたことがある。なんとなくわかったような気になるから不思議だ。イメージとしては、専制君主の威容を仰望しながら、その忠良なる臣下たちが自分の立ち位置を確認させられるといったところか。おそらく機能主義的な説明としては間違ってはいない。
 しかし、現実には君臣関係を確認するどころではない。当の官人たちが出てこないのだ。出席は臣下としての職務だから、これは立派なサボタージュ(職務放棄)である。ところが、政府の方も、首に縄をつけてでも引っ張ってこようという気はさらさらない。ひたすら待つのみだ。とても君臣関係を確認させようと本気で考えていたとは思えない。
 現代に置き換えてみよう。たとえば、正月の一般参賀。多くの人々が日の丸の小旗を手に皇居に参集する。誰に強要されたわけでもない。天皇陛下や皇族がたの姿を一目仰いで晴れがましく新年を祝賀したい。多くはそんな崇敬の念からだ。
 一方、元日朝賀儀(天皇への賀正の儀式)をサボタージュした官人たちはどうか。現代日本の多くの人々が抱く素朴な崇敬の念すらない。かといって、サボっても罰せられるわけではないから、天皇への畏怖もない。天皇を崇敬も畏怖もせず、儀式を平然とサボる官人たち。その官人たちを甲斐なくひたすら待ち続けるだけの、まことに寛容な政府。現実の朝賀儀は「君臣関係確認の場」などといえるような代物ではなかったのである。
 大量のサボタージュに耐える天皇たち
 それにしても、拝礼を受ける側の天皇の気持ちは、いかばかりであったか。早朝より大極殿に出御するも、参集しているのは五位以上の貴族だけだ。六位以下の官人たちは数えるほど。本来は五位以上の何倍もの数で、朝庭後方を埋め尽くすほどいるはずなのに。
 元旦、夜が明けるとともに、いやでも目に飛び込んでくるその白々とした空虚な風景。古代日本の「専制君主」たちは、こんな大量のサボタージュに耐えねばならなかった。そう思うと、私は心底同情する。だが、実は歴代天皇にとって、それは程度の差こそあれ、いつに変わらぬ見慣れた風景だったのではないか。
 給与カットでしぶしぶ出席
 それはさておき、弘仁7年(816)、政府は重い腰を上げ、六位以下の無断欠席にも制裁を科すことにした。儀式そのものが危ぶまれる深刻な事態に立ち至ったのだろう。さすがに、そのまま放置というわけにはいくまい。無断欠席には季禄(春夏分)の没収で報いる。六位以下官人(長上官)にとって季禄は唯一の給与。だから、半年分とはいえ、没収はたしかに痛い。
 これで五位以上は三節の出席禁止(節禄不受給)、六位以下は季禄の没収と無断欠席者には残らず経済的制裁を科すことになった。どうやら、一応の効果もあったようだ。これまで普通にもらえたものがもらえなくなる。背に腹は代えられぬということか。
 しかし、今度は別の困った問題が浮上してくるのである。どうも当時の官人たちは、晴れがましくも厳粛な朝賀儀を支え、天皇の忠良なる臣下として粛々と務めを果たそうとなどという殊勝な人々ではなかったようだ。
 朝賀儀に出席を求められたのは、中央にいる五位以上官人と同じく六位以下の長上官である。律令官人のまさに中核部分だ。その彼らが堂々と無断欠席し、経済的制裁を科されてしぶしぶ儀式に出るようになる。しかも、出てからも政府を困らせる。にわかに信じられないという読者もいるだろう。だが、これが現実なのだ。
 組織の経年劣化? それとも…
 しかし、読者の中にはこう考える人もいるだろう。それは平安時代に入り、律令体制が弛緩することによって初めて生じてきた問題だろう。当初はきちんとやっていたのではないか――。何事も経年劣化ということはある。この朝賀儀も無断欠席の状況が年々悪化してきたという面はむろんあるだろう。
 だが、それでは、律令国家の草創期には、官人たちがみな一人残らずきちんと出席し、儀式が滞りなく行われていたのだろうか。研究者も含めて、私たちは漠然とそう考えがちだ。しかし、一歩踏み込んで考えてみると、これは根拠に欠けた希望的観測である。最初はうまくいっていたはずだ、という思い込みにすぎない。官人たちがみな怠けることなくこぞって出席し、整然と一糸乱れぬ拝礼と拝舞を行う。そのようにさせる文化や社会規範は、七世紀末から八世紀初めの律令国家草創期にはまだ存在していない。そんな時代に完璧な朝賀儀が行われたと期待する方が無理であろう。
 サボタージュは歴代天皇の「見慣れた光景」
 朝賀儀は平安時代に入っていきなり官人たちの無断欠席が始まったのではない。鍵を握るのは六位以下官人だ。延暦21年(802)、政府は五位以上の無断欠席だけに制裁を科すことにして、六位以下についてはまったく咎めなかった。不可思議な措置である。しかし、これは六位以下については、すでに無断欠席が常態となっていて、政府もこの儀式への全員出席までは求めていなかった。そう考えれば合点がいく。
 朝賀儀が挙行される朝庭は本来、五位以上のための空間だった。だから、朝賀儀は五位以上が全員出席し、六位以下は儀式の威儀が損なわれない程度に出席していればよい。それが慣例ではなかったか。
 ところが、六位以下だけではなく、肝心の五位以上の無断欠席も目立つようになった。そこで彼らに制裁を科して出席を強要しはじめる。ただし、六位以下の方はまだ咎めるには及ばなかったので、そのまま放置を続けた。しかし、その後、六位以下の無断欠席が無視できないほどに増加。儀式の威儀を損なうどころか、儀式そのものが危うい状況となった。そこで、ようやく六位以下への制裁に踏み切ったのである。
 この間の経緯は以上のように読み解くべきだ。だから、歴代天皇にとって、儀式の場での官人たちのサボタージュは、程度の差こそあれ、実は見慣れた風景だったのではないか。筆者はそう想像するのである。(虎尾 達哉)」
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古代日本の官僚-天皇に仕えた怠惰な面々 (中公新書 2636)
天皇と官僚―古代王権をめぐる権力の相克 (PHP新書)
古代の女性官僚: 女官の出世・結婚・引退 (歴史文化ライブラリー)
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 日本の歴史は、世界史・西洋史・中華史・大陸史とは違い、繰り返す事がない歴史であり、1本の太い本流の他に複数の傍流が同時に存在し、そして教訓にも手本にも鑑にもならない冷たい歴史である。
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 日本民族の歴史を学ぶとすれば、日本国は都・中央・中枢・上層部・机上ではなく田舎・地方・抹消・下層部・現場が駄目になると全てが駄目になるという事である。
 日本軍が世界的に強かったのは、無能な指揮官にたいして兵士が優秀だったからである。
 つまり、日本の伝統文化組織とは、世界常識の「一頭のオオカミと多数のヒツジ」ではなく「一頭のヒツジに多数のオオカミ」である。
 それ故に、日本では強力なリーダーシップをもった独裁者・指導者は生まれなかったし、生まれたとしても何らかの役目を終えれば短期間で消えた。
 その代表例が、織田信長武田勝頼であった。
 日本の理想的指導者は衆議調整型で、決定後の行動には部下の前に出るタイプと部下に任せて後方に控えるタイプがある。
 その代表例が、武田信玄上杉謙信であった。
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 日本に、異宗教を滅ぼすキリスト教や反宗教無神論マルクス主義そして神殺し・仏殺しの中華儒教が根付かなかった事には、明らかなハッキリした分けがある。
 インドの仏教、中東のゾロアスター教、中国の異端儒教道教など数多くの海外由来の宗教・哲学・思想は、天皇の神聖と結びついて日本に根付いた。
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 日本民族の清貧・勤勉・実直・正直・素直・真面目の美徳は、江戸時代後期から身についた美徳である。
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 日本民族の歴史において時代が変革する時は、実力を付けた地方の貧しい下級身分が中央の豊かな上級身分を支配的地位から追放して新たな支配階層を形成した。
 つまり、日本民族の歴史とは天皇制度下の下剋上である。
 その代表例が、継体天皇の即位、聖徳太子の政治改革、天武天皇の親政、鎌倉幕府室町幕府江戸幕府の武士団、明治新政府の元勲・重臣集団などである。
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 日本の歴史は、親の遺産・家督・家業を相続した長男・総領ではなく、相続できなかった次男や三男そして妾・愛人の私生児、捨て子が動かしていた。
 但し、歌舞伎・能楽、茶道・華道など血筋・血縁・血統で世襲してきた伝統文化継承の家元・本家は違う。
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 日本人が自慢する武士道は、大正時代頃に生まれ、昭和前期に普及し、昭和後期に定着し、現代では神話になった、日本の歴史になかった作り話の幻である。
 現代日本人は、武士道神話の信奉者である。
 武士道神話とは、儒教である。
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 保守派や右翼・右派・ネットウヨクが自慢するような日本人は、明治時代以降の日本人で或る。
 リベラル派・革新派そして一部の保守派やメディア関係者、左翼・左派・ネットサハが理想とする日本人は、日本民族の歴史の中には存在しない。
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 現代日本人には民族的な歴史・文化・伝統・宗教は無縁で、戦国時代はおろか幕末・明治時代の日本人に通じるところは何もない。
 現代日本人は、縄文時代から続く日本民族の如何なる時代の日本人にも似ているところが少ない、日本の歴史で異常と言っても良いほどの特異・特殊な非民族的人間である。
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 歴史的事実として、日本の変革やイノベーションは遺産相続権がなかった次男や三男が才能と努力で起こし、古く硬直した既存を破壊し新しい思想・哲学で新たな時代を切り開き、日本国と日本民族に文化や経済・製造など多方面で計り知れない豊かさをもたらしていた。
 古くは聖徳太子の時代から、足利尊氏織田信長徳川家康、そして明治維新、大正初期まで、日本は相続権のない次男や三男が故郷・家を離れて日本を動かしていた。
 明治・大正の軍隊に入隊したのは次男や三男で、家や財産・家業を守る責任があった跡取りの長男は兵役が免除されていた。
 その意味で、日本を駄目にしたのは「相続権の平等」であった。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
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 荻原井泉水(明治17{1884}年~昭和51{1976}年)「天を楽しむとはさ、天より自分に与えられたことを凡(すべ)て楽しとして享受することである。……雨がふるならば、その雨もまた楽しとする気持ちである。禅の言葉に『日々(にちにち)これ好日』という。この心境である。考えてみるまでもなく、今日、ここに私というものが生きて息をしていること、このことだけがすでに大きな天の恵みではないか。……人間はたえず成長していなければならない……70になっても、80になっても、成長しているべきものだ。長寿ということは、即ち生長ということなのだ。生長なき長寿はナンセンスである」『益軒養生訓新説』
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 日本の凶暴な自然災害に比べたら、如何なる戦争も子供の火遊びに過ぎない。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは冒してはならない神々の領域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。
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 2021年4月4日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 津波てんでこ  ──三陸地方の伝承
 『自己責任』の重さとつらさ
 10年を過ぎても東日本震災の記憶は消えない。天災か人災か、今後も長く議論されることだろう。
 『津波てんでこ』
 という言葉が、深い悔恨(かいこん)とともにふたたび語られた。三陸地方に言い伝えられてきたという、古人の戒めである。
 激烈な災害時に、家族、知人、近隣の人びとの安否を気づかうのは、人情というものである。相互扶助の心なくしては人間社会は成りたたない。しかし、おのれの脱出よりも他者の安全を気づかうあまりに、もろ共に犠牲になった人びとの数も少なくなかった。
 『てんでんこ』とは、『それぞれに』『各自の判断で』行動せよ、という深い体験からの言い伝えである。
 それは無闇とお上の指示にしたがうだけでなく、自己判断で行動せよ、という庶民・大衆の覚悟ではないかと思う。
 私の郷里である九州でも、同じような表現があるのが不思議だ。『てんでん勝手にやればよか』などと言う。その『てんでん』には、自由気ままに、ではなく『自己責任において』というニュアンスがある。
 東北と九州で同じ方言が残っているのは、不思議なことだ。
 仏教でいう『自利利他』の教えが残っているのだろうか。いや、重い体験からの民衆の智慧かもしれない。痛みを乗りこえての名言であると思う。」
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 江戸時代。徳川幕府は、約10万人が犠牲になった振袖火事(明暦の大火)の跡始末として、思いつく限り、考えられる限りの手だてで町の防災と復興、被災民の救済と救護に全力を尽くした。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
 日本は、異種異文の朝鮮や中国を差別して排除し、同種同文に近い琉球人とアイヌ人を同化させた。但し、特権を有していた高級知識階級の久米三十六姓は区別し差別した。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 日本民族集団主義は、中華や西洋とは違い、共感と共有のる運命共同体である。
 日本には、西洋的ボランティアがいない。
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