💖23)─3─米戦略家らによる樋口 季一郎陸軍中将顕彰銅像建立委員会設立。〜No.96 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 オトポール事件。親ユダヤ派反ヒトラー派の昭和天皇関東軍参謀長・東条英機、満鉄総裁・松岡洋右らによるユダヤ人難民救護。
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 軍国日本の真の敵は、ソ連中国共産党共産主義勢力であった。
 ソ連軍の侵略を食い止めた占守島で攻防。
 ロシア人共産主義者による北方領土4島の不法強奪と日本人(主に女性と子供)虐殺。
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 日本陸軍には、人道貢献や平和貢献を行ったいい軍人もいたが、戦争犯罪を行った悪い軍人もいた。
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 軍隊旗である旭日旗は、人道貢献と平和貢献の象徴であった。
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 2021年4月12日 産経新聞ナチス迫害から逃れたユダヤ人救った樋口中将 顕彰する銅像 米戦略家らが建立委員会設立
 ハルビン特務機関長時代の樋口季一郎(樋口隆一氏提供)
 第2次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人を救った陸軍中将、樋口季一郎(明治21年~昭和45年)の功績を顕彰する銅像を樋口の出身地、兵庫県南あわじ市などに建立する計画が進んでいる。12日までに孫の明治学院大学名誉教授の隆一氏を代表とする銅像建立委員会が設立された。
 設立委員には、南あわじ市の守本憲弘市長や戦略論研究で世界的権威の米歴史学者であるエドワード・ルトワック氏らが名を連ね、来年秋、南あわじ市の伊(い)弉(ざ)諾(なぎ)神宮などに銅像建立を目指し、5月に一般社団法人を設立し、約2000万円の寄付を募る。
 樋口中将はハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年、ナチスの迫害を逃れソ連を通過してソ連満州国境に逃れながら立ち往生していたユダヤ難民を満州国に受け入れ、脱出ルートを開き、救出人数は2万人とされている。
 この2年後の40年、リトアニアカウナス杉原千畝領事代理が命のビザを発効しユダヤ人を救った。
 また45年の終戦時、樋口中将は北の守りを固める第5方面軍司令官として、千島列島のシュムシュ島(占守島)や樺太での旧ソ連軍との自衛戦闘を指揮し、「ソ連の北海道への侵攻を阻止した」との再評価が進み、昨年9月、北海道の石狩に記念館が開設された。
 ドイツと防共協定を結び、反対が根強い中、樋口中将は捨て身でユダヤ人難民を救出し、上司だった関東軍東条英機参謀長もこれを不問に付した。樋口中将は、ユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」に掲載されたが、軍人という理由から、杉原のようにホロコースト(大虐殺)の犠牲者を追悼するためのイスラエルの国立記念館「ヤド・ヴァシェム」から『諸国民の中の正義の人』(英雄)に列せられなかった。
 同委員会は、銅像建立を通じて人道行為の功績を発信したいとしている。
 ルトワック氏は、「樋口は混乱して予測不能の困難な時代に率先して勇気ある大胆な行動を取った。彼に助けられ、戦後、大使や科学者になった者も少なくない。しかし、ヤド・ヴァシェムから英雄に処されていない。いつ、どこにも良い軍人はいた。樋口は広く顕彰されるべきだ」と話している。(岡部伸)」
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 産経新聞iRONNA「関連テーマ 戦後75年、追憶の「大東亜戦争
 戦後75年の節目は、コロナ禍の中で迎えることとなった。コロナ禍も戦後最大の国難とされるものの、やはり先の大戦とは比較にならない。そして戦争そのものは過ちだが、個々人の思いは別だ。75回目の終戦の日。改めて、計り知れない犠牲や苦悩を経て今の日本があることをかみしめたい。
 樋口季一郎の埋もれた功績、ユダヤ人を救ったもう一つの「命のビザ」
 『早坂隆』 2020/08/15
 早坂隆(ノンフィクション作家)
 令和2年は戦後75年という一つの重要な節目である。私はこれまで約20年にわたって昭和史に関する取材を続けてきたが、「日本の軍人の中で今、最も語り継ぐべき人物は?」と聞かれたら、樋口季一郎の名前を挙げたい。
 旧陸軍中将、樋口季一郎の存在を知る人は近年、増加しつつある。樋口の功績を知れば、「こんな人がいたのか」と驚くのは当然のことだろう。令和2年が「没後50年」にあたることもあり、その再評価は着実に進んでいる。
 しかし、一般的に言えば、まだまだ知名度は決して高くない。樋口は戦後社会の中で「埋もれた存在」とされてきたのである。
 昨今、杉原千畝(ちうね)の名前は、かなり知られるようになった。1940(昭和15)年、リトアニア駐在の外交官だった杉原は、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に対して日本通過ビザを発給。約6千人もの命を救ったとされる。戦後、杉原の功績は「命のビザ」として知られるようになり、近年では映画化もされた。
 実は「日本人によるユダヤ人救出劇」はもう一つ存在した。その中心的な役割を果たしたのが、樋口である。
 樋口は1888(明治21)年、兵庫県の淡路島で生まれた。陸軍士官学校陸軍大学校を優秀な成績で卒業した樋口は、対ロシアを専門とする情報将校として、極東ロシアやポーランドに駐在。「インテリジェンス」の最前線で情報収集などに尽力した。
 1937(昭和12)年には満州ハルビン特務機関長に就任。「ソ満国境のオトポールという地に、多数のユダヤ難民が姿を現した」という知らせが樋口のもとに届けられたのは、38(同13)年3月のことであった。
 満州国ユダヤ難民へのビザの発給を拒否していた。当時の日本はドイツと親密な関係にあったが、満州国外交部は日独の友好に悪影響を及ぼすことを不安視したのである。その結果、ユダヤ難民たちは酷寒の地での立ち往生を余儀なくされていた。
 ポーランド在住経験のある樋口は、ユダヤ人問題の存在を深く理解していた。樋口は「人道的見地」から、直ちにビザを発給するよう満州国外交部に対して指示した。
 さらに樋口は、南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁の松岡洋右のもとを訪ね、難民を移送するための特別列車の手配を要請した。松岡はこの申し出を受諾した。
 日本側の多くの決断と努力により、ユダヤ難民へのビザの発給は実現した。その後、この「ヒグチ・ルート」を利用して、多くのユダヤ難民がナチスの弾圧から逃れることができた。杉原の「命のビザ」の2年も前の話である。
 この救出劇は舞台となった地名から「オトポール事件」と呼ばれる。このオトポール事件に対しては後日、ドイツ外務省から日本政府に対して正式に抗議が伝えられた。関東軍内でも、樋口に対する非難の声が上がった。
 樋口は新京の軍司令部に出頭。樋口は関東軍参謀長の東條英機に対して、次のように言い放ったという。
 「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」
 東條は「当然の人道上の配慮」として、樋口を不問に付した。
第五方面軍司令官として北海道防衛の策を練る樋口季一郎中将(樋口隆一氏提供)
 杉原の功績が広く語り継がれたのに対し、オトポール事件はなぜ埋もれた存在になってしまったのか。それは杉原が外交官であったのに対し、樋口が軍人だったことが最大の要因であろう。
 戦後日本に定着した「日本軍=悪」という偏向した前提の中で、樋口の功績は埋没した。しかし、歴史的評価というのは、あくまでも史実に基づきながら、是々非々で捉えていくべきであろう。
 樋口の功績はそれだけにとどまらない。むしろ以下に語る史実こそ、樋口が真に語り継がれるべき最大の要因とも言える。
 終戦後、旧ソ連軍が千島列島に侵攻。旧ソ連の最高指導者であるスターリンは、千島列島から一気に北海道まで軍を南下させ、釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する考えを持っていた。
 このとき、「北の備え」である第5方面軍司令官だったのが樋口その人であった。日本はすでに国家として降伏を受け入れていたが、樋口は旧ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定した。
 そして、千島列島北東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)の守備隊に「徹底抗戦」を命じた。一時は終戦の報を聞いて、「故郷に帰ったら何をしようか」などと笑みを見せながら話し合っていた兵士たちが、再び銃を取った。
 結果、占守島の守備隊は多くの犠牲者を出しながらも、旧ソ連軍の侵攻を見事に食い止めた。この戦いにおける日本側の死傷者は600~1千人。対する旧ソ連側の死傷者は1500~4千人に及んだ。占守島旧ソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐。スターリンの野望はこうしてくじかれた。
 この占守島の戦いがなければ、北海道は旧ソ連によって分断統治されていた。日本がドイツや朝鮮半島のような分断国家となる道から救ったのだ。小さな孤島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。
 にもかかわらず、現在の日本においてその存在は北海道民でさえも十分に認知しているとは言い難い状況にある。このような歴史教育で本当によいのだろうか。
占守島に打ち捨てられた残骸=2017年7月(第11戦車隊士魂協力会提供)
 占守島の戦いを指揮した樋口に対しては戦後、旧ソ連から「戦犯引き渡し要求」がなされた。これをロビー活動によって防いだのは、かつて「ヒグチ・ビザ」によって救われたユダヤ人たちであった。」
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 2017年9月26日 産経新聞「【正論】杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか 新潟県立大学教授・袴田茂樹
 9月初め、露ハバロフスクに近いユダヤ自治州ビロビジャンのユダヤ教会を訪問した。スターリン時代にユダヤ移住地に指定された自治州は、実際は辺鄙(へんぴ)な「幽閉地」で、移住したユダヤ人も殆(ほとん)ど逃げ、人口の2%以下だ。
 教会内展示室には、1940年に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救ったリトアニア領事代理の杉原千畝の写真もあった。
 パターン化された歴史認識
 教会の案内人に、では杉原以外にも、38年にソ連満州国境で、ナチスの弾圧を逃れソ連を通過した数千人のユダヤ難民を救った日本人がいるのをご存じかと尋ねたら、全く知らないと言う。
 樋口季一郎中将(1888~1970年)のオトポール事件のことで、彼の名はユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」にも載っている。わが国でも、樋口を知っている人は少ない。露でも日本でも政治により戦前の歴史には蓋がされて、国民にリアルな現実認識がないからだ。このような状況下で、今日また深刻化した戦争や平和の問題が論じられている。
 近年、冷戦期に二大陣営の枠組みに抑えられていた民族、宗教、国家などの諸問題が、国際政治の表舞台に躍り出て、混乱と激動の時代となり、世界の平和と安定の問題が喫緊の課題となっている。
 われわれ日本人がリアルな現実認識を欠き、パターン化した歴史認識のままで、複雑な戦争や平和問題を論じ安保政策を策定するのは危険である。一人の日本人による満州でのユダヤ難民救済事件を例に、歴史認識のパターン化について少し考えてみたい。
 樋口は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸大卒の超エリートだ。戦前の陸大は東京帝大より難関とされた。1938年のユダヤ難民事件のころ彼は諜報分野に長(た)けた陸軍少将で、事実上、日本の植民地だった満州ハルビン特務機関長であった。同機関は対ソ諜報の総元締で、樋口は日本陸軍きってのロシア通だった。
 捨て身でユダヤ難民を助けた
 38年3月10日、彼は満州ユダヤ組織代表、カウフマンから緊急依頼を受けた。ソ満国境のオトポールにたどり着いた多数のユダヤ人が、満州への国境通過許可がもらえず、酷寒の中で餓死者、凍死者も出る事態になっており、すぐにも彼らをハルビンに通してほしいとの必死の依頼だ。
 当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省満州関東軍にも反対論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。
 案の定、独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。
 樋口の捨て身の強い信念と人物を見込んだ東条は、彼の行動を不問に付すことに決めた。樋口は関東軍や東条の独断専行には批判的だったが、後に「東条は頑固者だが、筋さえ通せば話は分かる」とも述べている。
 リアルな理解が国際政治の基礎
 樋口がユダヤ人にここまで協力したのは、若い頃ポーランド駐在武官として赴任していたとき、ユダヤ人たちと親交を結び、また彼らに助けられたから、さらに37年に独に短期駐在して、ナチス反ユダヤ主義に強い疑念を抱いていたから、といわれる。
 戦後、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。その理由は、樋口がハルビン特務機関長だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島ソ連軍は苦戦した)の総司令官だったからだ。
 しかし、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否した。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省を動かしたのである。
 私たちは、同じように日独関係の政局に抗して数千人のユダヤ人を救い、映画にもなった外交官の杉原は知っていても軍人の樋口についてはあまり知らない。それは「将軍=軍国主義=反人道主義」「諜報機関=悪」といった戦後パターン化した認識があるからではないか。ビロビジャンのユダヤ教会も、遠いリトアニアの杉原は知っていても隣の満州の樋口は知らない。露でも「軍国主義の戦犯」は歴史から抹消されたからだ。
 私は、リアルな歴史認識こそが国際政治や安保政策の基礎だと思っているので、自身も長年知らなかった事実を紹介した。(新潟県立大学教授・袴田茂樹 はかまだ しげき)
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 ウィキペディア
 樋口 季一郎(Kiichiro Higuchi、1888年8月20日 - 1970年10月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路が有名。
 経歴
 1888年、淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町字戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。
 1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾に入学。1902年、大阪陸軍地方幼年学校を経て、18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。1909年、陸軍士官学校(第21期)に進む一方で東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校(第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満州、ロシア(ソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。1925年、公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。
 オトポール事件
 1937年(昭和12年)12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。
 そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。
 極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満州鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた。その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」と呼ばれたこの脱出路を頼る難民は増え続け、東亜旅行社(現在の日本交通公社)の記録によると、ドイツから満州里経由で満州へ入国した人の数は、1938年だけで245人だったものが、1939年には551人、1940年には3,574人まで増えている[3]。ただし、早坂隆によると1941年(昭和16年)の記録がなく、数字のうち少なくない割合でユダヤ人が含まれていると考えられるが、その割合が不明であり累計が2万に到達したかは不明としている。また、松井重松(当時、案内所主任)の回想には「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に忙殺された」と記されている。そのほかの証言として松岡総裁の秘書だった庄島辰登は、最初の18人(1938年3月8日)のあとに毎週、5あるいは10人のユダヤ難民が到着し3月-4月の累計で約50人を救ったという。しかし、ドイツへの外交的配慮からか、多数の難民が殺到した際の具体的な人数に関する公的文書は残されていない。[独自研究?]1941年に書かれたKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(KKL-JNF)本部に現存する6冊目の「栄誉の書」には「樋口将軍-東京、在ハルビン極東国家ユダヤ総領事-エイブラハム・カウフマンの銘入り」とその功績が記されている。
 「ヒグチ・ルート」で救われたユダヤ人の数は、総数は最大で2万-3万人であった可能性があるとされていたが、研究が進みほとんどの研究者・ジャーナリストが信じていない。1939年当時の有田八郎外務大臣の公式見解では「80人強」とされている。2万人のユダヤ系難民が救われたとも伝えられていた中で、あまりの数の多さに事件の存在自体を疑問視する歴史家も現れた。この2万人という数字は、樋口の回顧録を出版する際の誤植などから流布したものと考えられている[8]。樋口自身の原稿では「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトポールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記されていたものが、芙蓉書房版の『回想録』にある数字では「二万人」に変わっており、これが難民の実数検証に混乱をきたす原因になっていると指摘されている。早坂は上記東亜旅行社の記録の多くがユダヤ人ではないかと考え、数千人と推定している。松浦寛は、当時の浜洲線の車両編成や乗務員の証言から割り出された100-200人という推計 を追認している。満鉄会では、ビザを入手できなかった厳密な意味での人数は100人程度と推計しているという。
 樋口がユダヤ人救助に尽力したのは、彼がグルジアを旅した際の出来事がきっかけとされている。ポーランド駐在武官当時、コーカサス地方を旅行していた途中チフリス郊外のある貧しい集落に立ち寄ると、偶然呼び止められた一人の老人がユダヤ人であり、樋口が日本人だと知ると顔色を変えて家に招き入れたという。そして樋口に対し、ユダヤ人が世界中で迫害されている事実と、日本の天皇こそがユダヤ人が悲しい目にあった時に救ってくれる救世主に違いないと涙ながらに訴え祈りを捧げた。オトポールに辿り着いたユダヤ人難民の報告を受けたとき、樋口はその出来事が脳裏をよぎったと述懐している。
 この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった。そんな中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした。東条の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。
 孫の樋口隆一明治学院大名誉教授は2018年6月15日にイスラエルのテルアビブKeren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund本部において「ヒグチ・ルート」で逃れた生存者カール・フリードマン氏の息子から「季一郎氏のユダヤ人コミュニティーに対する前向きな姿勢がユダヤ人救出を可能にした」事により「ゴールデンブック」証書を授与している。
 ちなみに、樋口に関してよく言及される「ゴールデンブック」とは、パレスチナで土地購入、植林、イスラエル国家の境界線の設定などを主な業務とする組織Keren Kayemeth Lelsrael Jewish National Fund(ユダヤ民族基金)が管理する貢献者や献金者の名簿である。
 アッツ島玉砕、キスカ島撤退
 太平洋戦争開戦翌年の1942年(昭和17年)8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。1943年アッツ島玉砕、キスカ島撤退(いずれも対アメリカ)を指揮した。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要請に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した。
 帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視しており、撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという。
 終戦後、対ソ連占守島樺太防衛戦
 日本の降伏直前、ソ連対日参戦が発生。樋口は1945年8月18日以降、占守島南樺太におけるソ連侵攻軍への抗戦を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
 世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部GHQ)のダグラス・マッカーサーソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した。
 戦後
 極東国際軍事裁判で無罪となった樋口は1946年、北海道小樽市外朝里に隠遁。1947年に宮崎県小林市(その後、都城市)へ転居する。1970年に東京都文京区白山に転居し、その年に死去した。墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。
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