💄69)─1─女性神の神話を消滅させる女性上位、フェミニズム、ジェンダー・フリー、女権主義。〜No.139No.140 ⑮ 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・   
 日本は、現存する最古の単一民族神話(女性神の神話)を表柱とし、日本独自の祖先神・氏神の家・家族神話を裏柱とする、二本の大黒柱を持つ先進国家である。
 が、そこには見えない隠された三本目の形が分からない大黒柱があった。
 日本、日本国、日本民族は、この三本の大黒柱が有ったお陰で数万年前の縄文時代から現代まで受け継がれてきた。
 現代日本現代日本人は、数万年前からの三本の大黒柱は、時代遅れ、現代風ではない、グローバル時代に適さない、もう必要ない、古臭い、偏見と差別の源、として否定し、廃絶しようとしている。
 日本を否定し、毛嫌いし、破壊し、崩壊させ、消し去ろうとする日本人とは誰が?
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 2021年4月10日 MicrosoftNews 47NEWS 全国新聞ネット
 男女格差120位、日本が変わるヒントは? 「ジェンダーと政治」研究の三浦まり上智大教授に聞く
 スイスのシンクタンク世界経済フォーラム」が公表した今年の男女格差報告(ジェンダー・ギャップ指数)で、日本は156カ国中120位だった。政治と経済分野の遅れが目立ち、世界最低水準で低迷している。森喜朗元首相の女性蔑視発言をきっかけに世界に知れ渡った「男性優位」の日本を、平等な社会に近づけるにはどうすればいいのか。「ジェンダーと政治」を研究する上智大の三浦まり教授(政治学)にヒントを聞いた。(共同通信=清鮎子)
 © 全国新聞ネット 三浦まり上智大教授
 ▽停滞
 前回の153カ国中121位から、今回は総合評価で順位を一つ上げたが、経済、健康、教育、政治の4分野全てで順位を下げた。順位は相対的に変動するものなので一喜一憂しても仕方がなく、停滞していることが示されたことが重要だ。
 政治分野は「国会議員(日本は衆院)の割合」「閣僚の割合」「過去50年に女性が首脳に就いた年数」で評価される。日本は議員割合が9・9%、閣僚は10%、首相はゼロ。100点満点換算ではわずか6・1点、順位は147位と低調だ。
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 みうら・まり 上智大法学部教授。ジェンダー平等な政治を目指す団体「パリテ・アカデミー」の共同代表も務める。
 男女格差報告  世界経済フォーラムが2006年からほぼ毎年発表している報告書で、4分野での男女格差を数値化し、順位を付ける。日本の評価は100点満点で換算すると、経済は60・4点、教育は98・3点、健康は97・3点、政治は6・1点だった。総合順位の首位は12年連続でアイスランドフィンランドノルウェーと北欧諸国が続き、4位にはニュージーランドと、女性が指導者を務める国が上位を占めた。アジアではフィリピンが17位、韓国は102位、中国は107位で、いずれも日本より上位となった。」
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 2021年5月号 WiLL「丸川珠代イジメ 暴走するジェンダーフリー
 『男らしさ』と『女性らしさ』──ジェンダーフリーの目的は、日本国家と文化の破壊。リベラル差派は〝性差〟の現実を認識せよ。
 橋本琴絵
 違和感の正体
 丸川珠代男女共同参加担当大臣が選択的夫婦別姓に反対する書状に記名していた事実をめぐり、与野党の攻防が繰り広げられた(令和3年3月3日の参議院予算委員会)。しかし一般的な『政治的議論』とは異なり、同議論には強い違和感を覚えた。
 というのも、社民党福島瑞穂議員が『一般人は(旧姓の)通称使用も難しい』と述べて丸川大臣を非難したが、一方で夫婦同氏が合憲であると判断を下した最高裁の判決(最判平成27年12月16日)には、『夫婦同氏制は婚姻前の氏の通称使用を許さないものではなく婚姻前の氏を通称として使用することが社会的に広まっている』とあり、すでに通称使用が日本社会で認められているため、あえて夫婦別姓にする社会的利益がないことを合憲の理由に挙げている。つまり、判例も読まずに議員が質問するはずもなく、あえて虚偽を用いて国民を欺(あざむ)こうとする姿勢を野党は示したのである。
 にもかかわず、英BBCは丸川議員の役職に触れた上で夫婦同氏への賛成を『男女平等の実現にあるまじき行為』と非難お加え、本邦各メディアもこれに倣って痛烈に丸川議員を非難した。
 ……
 ジェンダーフリーの弊害
 ここで、冒頭で述べた選択的夫婦別姓ジェンダーフリー論に対する強い違和感の正体に気づく。それは、人間とは最も性差を持つ種族であるにもかかわず、その性差を否定する思想を叫ぶ矛盾があるからだ。これまでの人類の進化とは逆行する現象を政治的分野から解明することは難しいが、人類学の立場から見ると一つの答えがわかる。
 ……
 ……『性差を進化させて自然適応した人間』という進化の本道から外れた亜流、それがジェンダーフリーの正体ではないのか。
 では、こうした亜流に対して政治学はどのように対応していくべきであろうか。
 男性の崇高さと女性の美しさ
 ……
 同様の性差観はわが国にもある。賀茂真淵が『万葉考』で示した古代日本の万葉集にみる『益荒男(ますらお)振り』や、本居宣長が『源氏物語玉の小櫛』で示した平安文字のひらがな使いから見出した『手弱女(たおやめ)振り』にも、その近似性が読み取れるのである。
 こうした保守的観点に共通することは、現実の科学から超越することなく、経験則と矛盾しない範囲で観念を形成している点にある。言い換えれば、私たち人間は現実世界と合致しない超越した概念に違和感を強く覚える。もちろん中には、女らしい男や男らしい女も一定数いるだろう。しかし、そうした存在が人類の発展に影響した経験を帰納的に抽出した概念に安心感を覚え、男らしさと女らしさの強調に共感するのである。私たち人間は、男は外で働き、女は家を守ることに特化した身体を現実として授けられている。人間である以上、人種や民族を問わず、男女には身長差と筋肉量の違いが性差としてあるのだ。まずは、こうした現実を再認識した上で議論を始めなければならない。
 わが国の女性観
 私がイギリスに留学していたとき、さまざまな国の人たちから『日本人の女性観』について聞かされ、話すと驚かれたことがある。
 たとえば私が『日本では法律で生理休暇が認められている』と言うと、イギリス人やフランス人もイスラエル人も日本の先進的女性保護政策に驚愕したのである。中には疑う者もいたので、『労働基準法第68条で生理日の就労が著しく困難な女性に対する措置が認められ、違犯すれば罰金刑となり(同法第120条)、医師の診断書は不要(昭和23年5月5日基発第682号)である』と説明すると、諸外国の女性たちは目を丸くした。
 ほか、日本には女性しか入学が認められない医大があり、未成年者の少女が経済的に購買力を持つことを前提にした少女漫画という市場まであること。また女性が成人すると1万ドル以上の価格の女性専用民族衣装が庶民であっても買い与えられ、出産するとたとえ死産であっても一律4,000ドル以上が国籍・人種・民族・宗教を問わず必ず支給され、おまけに毎週水曜日は映画館で女性は入場料の割引がされる、といった日本の女性諸事情を述べると、世界中の人々がさらに驚愕したのである。
 冒頭で問題となった選択的夫婦別姓が世界各国で採用された事情も、女性が結婚後も生家の氏を名乗る『入婿』という制度がそもそも存在しないための措置であり、わが国では婚姻時に夫婦どちらの氏を名乗ってもいいとする『選択的夫婦同姓』であることを紹介すると、これもまた驚愕されたのである。国際的な視点でみれば、わが国は明らかに女性を大切に扱っている。それは、近代に始まった話ではない。封建体制化においても、同様であったのだ。
 たとえば、喜田川守貞が江戸時代の1837年からわが国の文化風俗を詳らかに記録した『守貞謾稿(まんこう)』(朝倉治彦・柏川修一校訂編集)の第1巻には『幕臣ハ奥様ト稱(しょう)シ(中略)中民以下は御カミ様ト稱ス』という記録がある。武家であれば戦闘行為が本分であるため女性の義務は出産のみとなる。
 したがって、寝室がある家の奧にいるとの意味であり、一方で庶民であれば妻は出産育児に加えて家事や農業商業といった家業を行うため、男性よりも果たすべき義務が多い。現代でも、多くの女性はパートタイムなどで働き、夫の収入不足を助けた上で家事育児の義務を果たしている。そのため、家の中で一番偉い『カミ』の称号を得たのである。
 カミとは、大和言葉で至上を意味する。当時の行政区分は四等官制度といい、長官と書いて『カミ』と読むし、地方行政庁の長であれば『守』と書いてカミと読む。天皇陛下が世の中で一番偉い人であるとの意味が現人神(あらひとがみ)である。女性は、家庭内におけるカミとして扱い、その呼称が現代でも一般に使われているのが日本の実像である。では、こうした女性優遇国において、西欧発祥の女権主義を主張する動機の本質とは果たして何か。
 反日主義としての女権主義
 前述したように、生物学的要因で性差を喪失しているケースもあるほか、単なる西欧に対する憧憬(しょうけい)で『かぶれている』ことから女権主義を叫ぶ場合もあるだろう。しかし、女権主義を掲げてわが国の諸体制に非難を加える動機の本質は、日本人という存在に対する憎悪がその根底にあると本論は分析する。女権主義とは、もともとアルコール依存症の夫や父親から日常的な暴力を振るわれ続けた女性たちの互助から出発した自己防衛の思想である。
 ゆえに、そのような過酷な歴史的背景を社会全体として持たないわが国に女権主義を持ち込むことは、専制君主による過酷な圧政から自分たちの身を守るために発展した革命思想をわが国に持ち込むが如く、そもそも前提を欠く。
 にもかかわず、声高らかに日本の伝統的制度を攻撃する手段として採用されている理由は、結局のところ日本人への憎悪を煽動できれば、それが共産主義であろうとフェミニズムであろうと手段は問わないとする『反日主義』がその根底にあるとの評価を免れないと思料される。単純な話であるが、フェミニストらは女子が現行制度上だと天皇に即位できないこと力強く批判する一方、女性がロ-マ教皇になれないことは決して批判しないのだ。こうした非対称性からも、女性の権利保護の外観作出とは裏腹に、その実態は単なる反日の人種思想であることがわかる。その思想の本性に気づけない浅はかな層が、いま家族解体政策である夫婦別姓(女性は家族ではないと定める女性差別の制度化)を叫んでいるのである。
 そそ悪意は苛烈だ。たとえば、学者は『氏』の概念がまだ存在しなかった古代の戸籍を持ち出して『古代は夫婦別姓だった』と悪質なプロパガンダを発信し、法務省の官僚は明治9年3月17日に発令された太政官指令が『(妻が)夫の家を相続した場合は夫家の氏を称すること』(法令全書明治9年1453頁)と、法律婚で結ばれた夫婦は同氏であることを定めた法令を改ざんした文書を公式ホームページに掲載し、夫婦がお互いに相続権を持たない内縁関係の規定を持ち出して『明治初期は夫婦別氏だった』と国民を欺罔(ぎもう)する反日活動をしている有様だ。これは過去の話ではない。『現在』の話なのである。
 わが国の歩むべき道
 冒頭で述べた丸川珠代議員への個人攻撃につき、夫婦の氏の在り方について丸川議員は次のように答弁した。
 『家族の一体感について議論があって、これは家族の根幹にかかわる議論だなという認識を持った』
 これは、的確な分析である。そもそも氏とは、不動産登記制度がなかった時代、物権を証明する目的で名乗られた。たとえば、源義重上野国新田荘(現在の群馬県大田市桐生市周辺)を開墾して田畑にすると、以後は新田義重を名乗り新田氏の祖となったのである。古来、日本は公地公民制といってすべての土地人民は天皇の所有とされていたが、743年に墾田永年(こんでんえいねん)私財法が施行されると、物権が法的に認められるようになり、以後、開発した土地を名田(みょうでん)と呼び、名田を多く実効支配した者を大名(だいみょう)田堵(たと)と呼び、後世の紛争に勝ち、より多くの名田を得た者を守護大名と呼び、この中から島津氏のような戦国大名、そして江戸時代の大名に成長した氏が出現したのである。
 名田の開発は、浮浪者などを大量に集めて開墾した例もあるが、夫婦が共同作業で荒地を開墾し、子供たちに相続させた。血縁集団から分離して新しく結成された『家族』の最小単位が夫婦であり、その生活基盤を必要としたため、夫婦が共同して開墾した名田の名称を自らの『名字』すなわち氏とし、また自らの名を土地の名称としたのである。したがって、757年に施行された養老律令の戸令第23条の応分条では、法律婚で結ばれた嫡妻(ちゃくさい)の法定相続分を定め、任意の男女関係である妾との区別を法制化している。夫婦同氏とは、まさに男女共同参画の歴史を持つ我が国の誇らしい歴史と家族観をあらわしている。念のため、ここで『姓』と『氏』の使い分けについて解説しておく。筆者は橘朝臣(たちばなのあそみ)橋本琴絵という。『橘』を本姓(ほんしょう)、『朝臣』を八色(やくさ)の姓(かばね)といい、血族を表し生涯変更されない。橋本が『氏』であり、家族を表す婚姻や養子縁組で変わる。そして琴絵が『個人名』。これが日本の伝統である。
 仮に夫婦別氏が施行されれば、中世のように『女性の身分が低い』などといって、女性とその女性が産んだ子に同じ氏を名乗らせることなどが容易に想像つく。こうした非民主的な残滓(ざんし)を否定するため、明治以降は同氏を徹底したのだ。女性の権利を守るためにも、夫婦同氏は絶対に守らなければならないのいである。ここで重要であるから繰り返し強調するが、反日主義者の目的とは、我が国の家族制度の解体であり、究極的には皇室の解体を視野に入れていることは一目瞭然だ。そもそも、夫婦別姓とは中韓の伝統である。これを日本人に適用される狙いは人種差別的動機があるからに他ならないと本論は指摘する。
 反日とは、もはやそれ自体が宗教である。過去から現在まで多くの宗教が科学と対立する教義を信仰し続けてきたことと同様に、科学文明に属する我が国へ挑戦をしているのだ。宗教とはその人の行動原理を決定づける信仰であるから、必ずしも神の存在や精霊の類を必要としない。『性差の否定』とは科学を否定する宗教である。その宗教の究極的目的は、『人間性』を取り入れたわが国の法体系と文化の破壊にある。
 現代における戦争・紛争とは必ずしも可視化されるものではない。わが国は形而下の物理的な侵略に対抗するための防衛組織を現状持たない。だからこそ、丸川議員に対する執拗な個人攻撃とした『端緒』を決して見過ごすことなく、国民が一丸となって、わが国の伝統と存立を守り抜く強い意志がいま求められるのである。」
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 西洋と東洋は違い、東アジアと南アジア・東南アジアは違い、日本と中華は違い、日本人と中国人・朝鮮人は違う。
 日本民族は、縄文人と弥生系渡来人など漂着した雑多な人々と乱婚を繰り返して生まれた血が汚れた混血の雑種であり、近代的民族として誕生したのは明治以降でそれ以前には存在しなかった。
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 日本人と言っても、江戸時代と、明治・大正・昭和初期(1945年)と、昭和中期・後期と、1980年代後半以降の昭和最晩年・平成時代とでは別人のように違う。
 特に、リベラル派戦後民主主義世代は違う。
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 敗戦後の戦後民主主義は、女性神の神話を、非現実的非科学的と断罪し、人を毒すと認定し、天皇主権・皇国史観愛国心に正統性を与え民族主義を生みだすとして否定し、日本に戦争をもたらす諸悪の根源として社会から抹消した。
 そして、日本人から民族的な歴史・伝統・文化・宗教を「悪」として奪った。
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 縄文土器土偶の大半が妊娠した女性であった。
 新たな命を生みだす出産は、命を奪う産後死と隣り合わせであった。
 ウィキペディア
 伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉冉伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)は、日本神話の女神。伊邪那岐神伊邪那岐命伊耶那岐命・いざなぎ)の妻。別名 黄泉津大神道敷大神。皇室の先祖である。
 火の神軻遇突智迦具土神カグツチ)を産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。そして、カグツチイザナギに殺された。

 名前の由来
 「イザナ」は「誘う」の語幹、「ミ」は女性を表す語とする説、また名前の「ナ」は助詞とする説がある。
 別名の黄泉津大神(よもつおおかみ)は黄泉国の主宰神の意、道敷大神(ちしきのおおかみ)は(黄泉比良坂でイザナギに)追いついた神という意味である。このようにイザナミの神名からは多様な性格が読み取れる。また、比較神話学の見地から見るとイザナギイザナミ神話は各地の様々な神話を組み合わせて形成されたと考えられている。
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 火の神・軻遇突智
 信仰
 771年(宝亀2年)に創祀されたとされる火男火売神社(大分県別府市)は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されている。
 秋葉山本宮秋葉神社静岡県浜松市)を始めとする全国の秋葉神社愛宕神社、野々宮神社(京都市右京区、東京都港区、大阪府堺市ほか全国)などで祀られている。また島根県安来市の意多伎神社(おだきじんじゃ)もこの神との関連の指摘がある。 
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 日本人女性は、縄文時代では神・太陽であり、弥生時代では神に仕える巫女・呪術を操るシャーマンであった。
 古代の日本人女性は、神・太陽であって悪魔崇拝の魔女・闇の住人ではない。
 霊力・霊感が強い女性を粗略に扱う・虐待する・強姦する・殺害すると、呪われ、祟られ、悲惨な死に方をして地獄に落ちると怖れられた。
 日本人女性とは、世にも怖ろしい怨霊・亡霊・幽霊・夜叉・毒母・鬼女・荒魂・荒神・死であり、世にも有り難い御霊・慈母・菩薩・和魂・和神・生であった。
 つまり、生死を司っていたのが日本人女性であった。
 それ故に、日本民族最高神は女性神であった。
 その女性神を民族中心神話・血の神話で具現化したのが、天皇家・皇室の祖先である天照大神伊勢神宮内宮の祭神)で、日本各地に数多くの王国があってもヤマト王朝のみが現代に至るも万世一系として不変なのはその為である。
 高天原神話とは、最高神は女性神という、女性上位、女尊男卑、女性優遇の神々による物語である。
 日本民族国家とは、太陽の女性神に忠良な下僕として傅く神話の国であった。
 縄文人弥生人は、太陽の女性神と同時に山野の大地母神を崇め、そして「蛇」を神聖な生物(龍王の化身)として怖れた。
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 女性神が統べる神話の国(神の国)を流血で滅ぼそうとしたのが、中華皇帝以外を認めない中華儒教、唯一絶対神の信仰以外は認めないキリスト教、人民正義と反宗教無神論マルクス主義共産主義社会主義、左翼・左派)であった。
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力そして民族力・民俗力が乏しいか、まったく「ない」かである。
 その傾向は、グローバル教育を受けた高学歴の知的エリートと進歩的インテリに強い。
 彼らは、有言不実行の口先だけの人間であって、有言実行もしくは不言実行の行動する人ではない。
 民族の伝統・文化・宗教のない現代日本人には歌心もなく、西行法師の「何事の おはしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」(伊勢神宮参拝)という和歌に込められた心情は理解できない。 
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 現代の日本人と昔の日本人は別人の日本人であり、日本民族と日本人は同一ではない。
 昔の日本人は「神を尊び、仏を敬う」崇拝宗教(信仰宗教とは違う)の徒であったが、現代の日本人は「神殺し・仏殺し」のキリスト教儒教マルクス主義的反宗教無神論者、反天皇反日的日本人である。
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 日本民族らしい日本人(右翼・右派・ネットウヨクとは限らない民族主義者)が2割、日本民族かどうだか分からない日本人(個がなくアイデンティティーがハッキリしない)が5割、日本民族でない日本人が3割(左翼・左派・ネットサハと彼らに同調・共感・共鳴するリベラル・保守の一部)。
 現代の日本人と昔の日本人とでは別人のような日本人である。
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 人は、人種や民族ではなく、生まれ育った住環境(自然、国家、社会、地域共同体、隣近所、家族)に合わせて生長する。
 日本民族は、良い悪いに関係なくその傾向が特に強い。
 郷に入れば郷に従うとして朱に染まり易い、つまり煽動されると単細胞的に無判断で洗脳され易い。
 それが、陰険にしておぞましい同調圧力・場の空気・空気圧である。
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 日本国とは、日本書紀古事記、民族中心神話、血の神話、天皇神話に基づく八百万の神々の御座す神話の国・神の国である。
 日本国・日本民族最高神は、伊勢神宮の主神で太陽の化身と具現化・顕在化された女性神天照大神である。
 太陽光が日本列島を明るく照らしているように、女性神天照大神の神徳が日本国と日本民族を温かく包んでいる。
 天皇の陰徳とは、女性神天照大神の神徳と歴代天皇の皇徳の事である。
 随神(かんながら)の道とは、女性神天照大神に面を上げ浄く正しく美しく向かう道であり、女性神天照大神が発する神の光を受け神の道を邪な心を抱かず挫けず踏ん張って歩む事である。
 何故か、それは日本列島が自然災害や疫病・飢餓・戦乱が絶える事がない生きるには過酷すぎる住環境だからである。
 日本民族は、地獄のような無慈悲で容赦のない残酷な日本であるがゆえに、生きる為に闇の中で一条の光・一縷(いちる)の望みを求めた、そして生まれたのが冬から春に代わる季節、嵐から晴天に代わる天気を象徴する太陽であった。
 日本民族は、太陽を御天道様と拝み、太陽を御上として尊んだ。
 日本国・日本民族を救い癒し励ます事ができるのは、最高神・女性神を崇拝する思想や哲学であって否定する信仰宗教やイデオロギー・主義主張ではない。
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 日本民族の思考とは、現実主義的経験と理想主義的観念そして理系論理・合理と文系事実・事象の均衡である。
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 日本の歴史・伝統・文化・宗教は、全て、例外なく、民族中心神話・血の神話に繋がっている。
 民族中心神話・血の神話とは、最高神である女性神天照大神を源とする血筋・血統を唯一・神聖不可侵の正統とする万世一系の男系父系物語である。
 全ての男神は、女性神天照大神を主神として仕え、神格として未熟で感情に流される短慮・浅はか・愚かな若い天照大神が随神(かんながら)の道を逸脱すれば叱り諭し改心させ正しい神の道に復(えら)かせる事を重責としていた。
 それが、天の岩戸神話であり、光(生)から闇(死)そして光(生)への生き変わり・生まれ変わり・蘇りの生命流転物語=霊魂再生物語=永遠の命物語である。
 女性神天照大神は太陽の化身で、日本民族は太陽神(御天道様)崇拝者であった。
 それ故に、日本民族は女性神天照大神の血を正統に受け継ぐ天皇を「御上」と尊称し、御上の詔を有り難く拝聴し、詔に従って身を慎み行動する。
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 日本国は、唯一正統な女性神が統べる国であり、正統性男系父系天皇は主宰者・女性神は血筋を根拠に日本統治を委託された。
 大家族主義である八紘一宇で覆う威徳とは、女性神天照大神の神徳であって、人である天皇の権威ではない。
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 正当性女系母系天皇擁立とは、血筋・血統を正統とする民族中心神話・血の神話における女性神天照大神の主権を否定し消滅する事である。
 国民世論の70%以上が、神聖・無欲・無私な血筋・血統の正統性男系父系天皇から俗世・俗欲・私欲な役職・皇統の正当性女系母系天皇への変更を望んでいる。
 つまり、マルクス主義価値観・儒教価値観による「神殺し=女性神殺し」である。
 現代の日本人は、必ずしも日本民族と同一とは限らない。
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 女性神が統べる神話の国(神の国)日本国は、誤解され理解されず、味方をしてくれる国もなく、助けてくれる相手もなく、擁護してくれる人もなく、日本民族は一人孤独に命を犠牲にしながら守ってきた。
 国體護持とは、天皇・皇室の先に御座(おわ)す女性神天照大神を守る事であった。
 日本民族は、自然と伊勢神宮明治神宮を参拝する。
 が、本当の敵は日本国内に巣くっていた。
 その敵は、あいちトリエンナーレ2019で姿を見せ、多くの日本国民は非難・批判せず追認した。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、子供や女性らの日本人を奴隷として売り買いしていた。
 日本人を奴隷として売って金を稼いだのは、同じ日本人である。
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 日本文化とは、明るく穏やかな光に包まれた命の讃歌と暗い沈黙の闇に覆われた死の鎮魂であった。
 キリシタンが肌感覚で感じ怖れた「日本の湿気濃厚な底なし沼感覚」とは、そういう事である。
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 日本の文化として生まれたのが、想い・観察・詩作を極める和歌・短歌、俳句・川柳、狂歌・戯歌、今様歌などである。
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 日本の建て前。日本列島には、花鳥風月プラス虫の音、苔と良い菌による1/f揺らぎとマイナス・イオンが満ち満ちて、虫の音、獣の鳴き声、風の音、海や川などの水の音、草木の音などの微細な音が絶える事がなかった。
 そこには、生もあれば死もあり、古い世代の死は新たな世代への生として甦る。
 自然における死は、再生であり、新生であり、蘇り、生き変わりで、永遠の命の源であった。
 日本列島の自然には、花が咲き、葉が茂り、実を結び、枯れて散る、そして新たな芽を付ける、という永遠に続く四季があった。
 幸いをもたらす、和魂、御霊、善き神、福の神などが至る所に満ちあふれていた。
 日本民族の日本文明・日本文化、日本国語、日本宗教(崇拝宗教)は、この中から生まれた。
 日本は、極楽・天国であり、神の国であり、仏の国であった。
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 日本の自然、山河・平野を覆う四季折々の美の移ろいは、言葉以上に心を癒や力がある。
 日本民族の心に染み込むのは、悪い言霊に毒された百万言の美辞麗句・長編系詩よりもよき言霊の短詩系一句と花弁一枚である。
 日本民族とは、花弁に涙を流す人の事である。
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 荻原井泉水(明治17{1884}年~昭和51{1976}年)「天を楽しむとはさ、天より自分に与えられたことを凡(すべ)て楽しとして享受することである。……雨がふるならば、その雨もまた楽しとする気持ちである。禅の言葉に『日々(にちにち)これ好日』という。この心境である。考えてみるまでもなく、今日、ここに私というものが生きて息をしていること、このことだけがすでに大きな天の恵みではないか。……人間はたえず成長していなければならない……70になっても、80になっても、成長しているべきものだ。長寿ということは、即ち生長ということなのだ。生長なき長寿はナンセンスである」『益軒養生訓新説』
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 日本の凶暴な自然災害に比べたら、如何なる戦争も子供の火遊びに過ぎない。
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 日本の本音。日本列島の裏の顔は、雑多な自然災害、疫病蔓延、飢餓・餓死、大火などが同時多発的に頻発する複合災害多発地帯であった。
 日本民族は、弥生の大乱から現代に至るまで、数多の原因による、いさかい、小競り合い、合戦、戦争から争乱、内乱、内戦、暴動、騒乱、殺人事件まで数え切れないほどの殺し合いを繰り返してきた。
 日本は、煉獄もしくは地獄で、不幸に死んだ日本人は数百万人あるいは千数百万人にのぼる。
 災いをもたらす、荒魂、怨霊、悪い神、疫病神、死神が日本を支配していた。
 地獄の様な日本の災害において、哲学、思想、主義主張そして信仰宗教(普遍宗教)は無力であった。
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 日本の自然は、人智を越えた不条理が支配し、それは神々の領域・神域であり、冒せば神罰があたる怖ろしい神聖な神域った。あった。
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 2021年4月4日号 サンデー毎日五木寛之のボケない名言
 津波てんでこ  ──三陸地方の伝承
 『自己責任』の重さとつらさ
 10年を過ぎても東日本震災の記憶は消えない。天災か人災か、今後も長く議論されることだろう。
 『津波てんでこ』
 という言葉が、深い悔恨(かいこん)とともにふたたび語られた。三陸地方に言い伝えられてきたという、古人の戒めである。
 激烈な災害時に、家族、知人、近隣の人びとの安否を気づかうのは、人情というものである。相互扶助の心なくしては人間社会は成りたたない。しかし、おのれの脱出よりも他者の安全を気づかうあまりに、もろ共に犠牲になった人びとの数も少なくなかった。
 『てんでんこ』とは、『それぞれに』『各自の判断で』行動せよ、という深い体験からの言い伝えである。
 それは無闇とお上の指示にしたがうだけでなく、自己判断で行動せよ、という庶民・大衆の覚悟ではないかと思う。
 私の郷里である九州でも、同じような表現があるのが不思議だ。『てんでん勝手にやればよか』などと言う。その『てんでん』には、自由気ままに、ではなく『自己責任において』というニュアンスがある。
 東北と九州で同じ方言が残っているのは、不思議なことだ。
 仏教でいう『自利利他』の教えが残っているのだろうか。いや、重い体験からの民衆の智慧かもしれない。痛みを乗りこえての名言であると思う。」
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 現代の日本人は、歴史力・伝統力・文化力・宗教力がなく、古い歴史を教訓として学ぶ事がない。
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 江戸時代。徳川幕府は、約10万人が犠牲になった振袖火事(明暦の大火)の跡始末として、思いつく限り、考えられる限りの手だてで町の防災と復興、被災民の救済と救護に全力を尽くした。
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 日本を襲う高さ15メートル以上の巨大津波に、哲学、思想、主義主張(イデオロギー)そして信仰宗教は無力で役に立たない。
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 助かった日本人は、家族や知人が死んだのに自分だけ助かった事に罪悪感を抱き生きる事に自責の念で悶え苦しむ、そして、他人を助ける為に一緒に死んだ家族を思う時、生き残る為に他人を捨てても逃げてくれていればと想う。
 自分は自分、他人は他人、自分は他人の為ではなく自分の為の生きるべき、と日本人は考えている。
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 日本で中国や朝鮮など世界の様に災害後に暴動や強奪が起きないのか、移民などによって敵意を持った多様性が濃い多民族国家ではなく、日本民族としての同一性・単一性が強いからである。
 日本人は災害が起きれば、敵味方関係なく、貧富に関係なく、身分・家柄、階級・階層に関係なく、助け合い、水や食べ物などを争って奪い合わず平等・公平に分け合った。
 日本の災害は、異質・異種ではなく同質・同種でしか乗り越えられず、必然として異化ではなく同化に向かう。
 日本において、朝鮮と中国は同化しづらい異質・異種であった。
 日本は、異種異文の朝鮮や中国を差別して排除し、同種同文に近い琉球人とアイヌ人を同化させた。但し、特権を有していた高級知識階級の久米三十六姓は区別し差別した。
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 日本民族の感情は、韓国人・朝鮮人の情緒や中国人の感情とは違い、大災厄を共に生きる仲間意識による相手への思いやりと「持ちつ持たれつのお互いさま・相身互(あいみたが)い」に根差している。
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 日本民族集団主義は、中華や西洋とは違い、共感と共有のる運命共同体である。
 日本には、西洋的ボランティアがいない。
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