🏯29)─2─江戸時代、百姓国持大名・田中吉政。洗礼名、パルトロメヨ。田中神社の祭神(土木の神様)。~No.55 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・     
 日本の身分制度は、中華(中国や朝鮮)や西洋などの大陸の階級制度とは違い、儒教価値観・キリスト教価値観・マルクス主義価値観(共産主義価値観)では理解できない。
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 戦国時代。百姓、町人、漁師、川人足、山師、能楽師など身分低い・身分卑しい出身でも、野心を抱いて戦場で暴れまわり武功をあげれば武士になり、侍大将に、そして国持大名にまで大出世できた。
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 徳川家康は、百姓出身の田中吉政関ヶ原の戦いの武功に報いる為に、筑後国柳川32万5千石を与え国持大名に取り立てた。
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 日本民族が最も忌避する「死と血」に塗れた職業は、武士である。
 武士とは、人を殺す事を生業とする殺人専門集団の事である。
 平安時代の役人制度において、武士は軽蔑される不浄な下級役人であった。
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 日本の武士は、貴族ではなく、騎士でもなく、紳士でもなく、偏見・差別の対象で嫌われていた。
 但し、人斬り包丁=刀を振り回して乱暴狼藉を働く為に人々から怖れられ、非暴力・無抵抗で従順な賤民や部落民のような扱いを受ける事がなかった。
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 2018年2月13日 西日本新聞朝刊「筑後国田中吉政しのぶ 柳川市で顕彰祭 真勝寺の記念碑除幕
 提寺の真勝寺に建立された記念碑と田中吉政公顕彰会のメンバー
 関ケ原の戦いの後、初代「筑後国主」として筑後地方一帯を治めた田中吉政(1548~1609)の顕彰祭が12日、吉政が眠る柳川市新町の真勝寺であった。埼玉や香川など県外からもゆかりの人が訪れ、約50人が遺徳をしのんだ。
 吉政は関ケ原の戦いで西軍の石田三成を捕らえ、32万5千石を得て1601年に柳川城に入った。有明海沿岸の潮止め堤防「慶長本土居」、柳川城と支城の久留米城を結ぶ街道「久留米柳川往還」、筑後川矢部川の治水など、後の筑後の発展につながる社会基盤を亡くなるまでの短い治世で整備。「土木の神様」と称される。
 顕彰祭は田中吉政公顕彰会(荻島清会長)が2月18日の命日に合わせて毎年開催。今年は真勝寺山門前に建立した記念碑も除幕した。荻島会長は「NHK大河ドラマ誘致活動で立花宗茂公が話題に上るが、宗茂公に劣らぬ柳川の名君の功績も多くの人に知ってもらいたい」と話した。」
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 ウィキペディア
 田中 吉政は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。筑後国主。転封の過程で居城とした近江国八幡(現滋賀県近江八幡市)、三河国岡崎(現愛知県岡崎市)、筑後国柳川(現福岡県柳川市)などに、現在につながる都市設計を行った。
 出自
 田中氏は、18世紀後半に編纂された『寛政重修諸家譜』によると近江国高島郡田中村(現在の滋賀県高島市安曇川町田中)の出身であったという。また先祖は近江源氏高島氏の一族で田中城の城主であったともいわれる。吉政が家紋に「一つ目結い」紋(釘抜き紋ともいう)を用いた。織田信長高島郡進攻により田中氏は当時は帰農していたとされる。
 また、吉政の出生地は浅井郡の三川村または宮部村(現在の長浜市三川町、宮部町)で、吉政自身はそこに住む農民であったという説もある。この根拠としては、浅井郡の住人に限られる竹生島の行事・蓮華会の頭人柳川藩主となっていた吉政が担ったという記録があることである。また三川村には田中吉政の出生伝承が残っている。彼自身が宮部村の国人領主である宮部継潤に仕えた記録がある。また吉政の母すなわち国友与左衛門(宮部継潤家臣)の姉は宮部村と三川村にほど近い坂田郡国友村(当時有数の鉄砲の生産地。現在の長浜市国友町)の出身などである。ただ、近江八幡時代以前の記録は少ない。
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 田中吉政公とその時代
 半 田 隆 夫
 田中吉政公の出生の謎
 キリスト教が日本に伝来した、その前年、つまり1548「天文(てんぶん)17」年、筑後国田中吉政公は、田中重政の長男として近江国に生まれました。母は、浅井(あざい)郡国友(滋賀県長浜市国友町)の地侍(じざむらい)国友与左衛門の姉です。田中氏の出自(しゅつじ)については、江戸幕府が編纂(へんさん)した系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』に、「先祖 は近江国高島郡田中村「滋賀県高島郡安曇川町(あどがわちょう)田中」に住し、伯耆守(ほうきのかみ)崇弘のとき田中を称号する』としています。「田中」という姓を基準 に、先祖のルーツを、近江守護の佐々木氏の庶流の高島田中氏としています。
 一方、田中吉政の出身地を浅井郡三川(みかわ)「滋賀県東浅井郡虎姫町三川」とする説もあります。たとえば、慶長9(1604)年正月に、吉政自身が寄進した三潴(みずま)郡大善寺の玉垂宮の鐘の銘には、「生国江州浅井郡宮部縣子也(しょうごくこうしゅうあざいぐんみやべあがたのこなり)」とあったようです。そして、田中家は、吉政の 正嫡(せいちゃく)忠政「吉政の四男」に跡継(あとつ)ぎがなかったため廃絶(はいぜつ)しますが、本家を継(つ)がなかった吉政の長男吉次(よしつぐ)の系統や三男吉興(よしおき)の系統は旗本として家が残ります。このうち、三男吉興の家に係わる系図(柳川古文書館蔵)の、吉政の父重政の項(こう)に、「江州浅井郡三河(川)村に蟄居(ちっきょ)、病死」したと記述されています。蟄居は本貫(ほんがん)ですることが多い ことから、吉政の出身地を三川とする説も有力です。
 このように、田中氏の出自と吉政の出身地は不確(ふたし)かですが、当時の戦国大名には一般的なことであって、その出自や生い立ちが明確(めいかく)な大名は限られており、田中吉政に限ったことではないのです。湖西(こせい)の高島郡田中村か、湖北の浅井郡三川村か、その出身地は、ひとまず謎とし、地元の人々が「海」と呼んで親しんでいる琵琶湖の湖辺(こへん)に生まれた、としておきましょう。
 侍への野望
 吉政が生まれた16世紀半ばの北近江は、守護の京極(きょうこく)氏の支配力 が弱まり、代わって、その家臣であった浅井氏が多くの京極家臣団 や宮部・国友・石田などの地侍層を束(たば)ね、その支配力を強めていた のです。
 吉政は、幼名を長政といい、まもなく竹、そして久次と改め、百 姓をしていました。ある日、畑の畔(あぜ)で、ひと休みしていると、そこ に侍が5、6人の若党(わかとう)を連れて、鎗(やり)を持たせて通りかかりました。 それをしみじみと眺(なが)めていた吉政は、自分も侍になりたいと思い、 百姓をやめて、浅井郡宮部(滋賀県東浅井郡虎姫町宮部)の地侍宮 部継潤(けいじゅん)に若党分「給分3石(ごく)」として仕えました(「続武家閑談」)。
 ちなみに、石田三成は、浅井郡三川から南へ7キロメートルほど にある坂田郡石田村(長浜市石田町)の出身で、三川・宮部の地は、 姉川を挟んで国友・石田と隣りあった村々です。これら4ヵ村は、 浅井氏の本拠小谷(ほんきょおだに)城の南麓(なんろく)に位置し、宮部・国友・石田は、浅井氏 の家臣(地侍)でした。
 吉政が元服したころには、浅井氏も3代目の長政のころとなり、 彼は、当時の新興勢力であった織田信長の妹お市を妻に迎えて同盟 関係を築き、若くして北近江の国人領主として領国支配を完成しつ つあったのです。
 吉政の筑後入国
 西軍の大将格石田三成をつかまえた田中吉政に対し、家康は、豊 前国に豊後の一部を加えた領地か、筑後一国か、所望(しょもう)する方を30 万石与えることを約束しました。吉政は、家臣たちを集めて、家康 のことばを伝え、豊前筑後、それぞれの出身の者に、両国の長所 と短所を尋ねることにしました。家臣団の中に、直人は1人もいま せんでしたが、又内(またうち)に豊前の者2人、筑後の者1人がいました。そ の結果、吉政は、筑後国を所望します、と家康に返答しました。有 明海沿岸は、遠干潟(とおひがた)ですから、葭野(よしの)を開拓すれば、4、5万石の新 田開発が可能であり、その上、三潴と山門の二郡では、赤米が多く収穫されていたからです。 こうして、慶長6(1601)年3月、吉政は、西軍に組して除封(じょふう)となった 毛利秀包(ひでかね)・立花宗茂筑後国に、32万5000石の大名として柳 川城へ入部したのです。
 吉政は、城の要害に備えて規模を拡大し、城濠を掘り、石塁を高 め、五層の天守閣を建て、これを本城(居城)としました。そして、 前代以来の旧臣・土豪(どごう)、さらに毛利・立花両氏の遺臣が土着割拠(かっきょ)す る在地の情勢に対応して、立花氏と同じように支城駐屯(ちゅうとん)制度を布(し)き、 一門・功臣(こうしん)を城番として支城に配置しました。
 吉政は、次男吉信(よしのぶ)を久留米城に、三男吉興(よしおき)(康政)を福島城に、舎弟清政を赤司(あかじ)城に、元小早川重臣松野主馬を松延城に、家臣(譜 代)宮川才兵衛を鷹尾城に城番(城代)として入れ、さらに猫尾・ 城島・榎津・江浦の支城に重臣をそれぞれ配置しました。
 土木の神様
 吉政公を祀る祠(大木町土甲呂・住吉宮境内)
 吉宗公の柳川在任期間は、慶長6(1601)年より同14(1609)年までの、 わずか8年間ですが、城(本城と八支城)づくり、城下町づくり・新町(津福町・ 土甲呂町・大角町・横溝町・下田町など)づくり・道(田中道など)づくりのほかに、 矢部川の水を柳川の街に導き、「掘割に浮かぶ街」をつくりました。そして慶長本土 居の築堤、有明海沿岸の干拓筑後川矢部川の治水工事、山ノ井 川・花宗川その他の小川・溝・堀などの水利系路の整備をしました。 また、溝口の和紙、蒲池の陶器(蒲池焼)、上妻の茶、下妻の藺草(いぐさ)な ど、郷土の産業を盛んにしました。
 吉政がつくった「田中道」の道筋には、久留米市津福本町の津福 八幡宮境内の「田中神杜」、大木町土甲呂の住吉社境内の「吉政公を 祀る祠」、同町横溝町の「兵部(ひょうぶ)神社」など、吉政ゆかりの小社が点在 し、「土木の神様」として、地元の人たちに、ひっそりと祀られています。
 慶長14(1609)年2月18日、吉政は、江戸参府の途中、 伏見(京都市)の旅亭(りょてい)で遊仙(ゆうせん)しました。享年62歳。法号は、「崇厳 院道越円光院」、また、「大格院殿前筑州大守従四位下 釈桐厳道越 大居士」とおくられ、遺骸は金戒光明寺(京都市黒谷)と真勝寺(柳 川市)に葬られています。西翁院(京都市黒谷)と真勝寺を菩提寺 とし、真勝寺では田中氏一門の住職(草野氏)によって追善法要が 営まれています。
 田中家の断絶
 慶長14年4月3日、吉政亡き跡、四男忠政が襲封するや、これ に対する兄康政の反抗、藩主対家老、譜代家臣対国侍(くにさむらい)の対立という 形で、いわゆる「御家騒動」が起こり、そのため忠政は、元和元(1615)年 の大坂夏の陣に遅参し、7年間の江戸滞留を命じられました。
 しかし、二代目忠政は、父吉政の遺志を継ぎ、在任中、道海島・ 江島村などの開拓をしています。
 元和6(1620)年8月7日、忠政は、江戸滞留中、36歳で 病死しました。跡目(あとめ)の嫡子(ちゃくし)がなく、兄康政も近江国への所替(ところが)えを命 じられ、筑後における田中家は断絶しました。
 しかし、吉政・忠政父子が筑後、そして柳川に残した功績とその 遺徳は、現在も、心ある人たちによって密(ひそ)やかに、そして深く顕彰 され、語り継がれています。
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秀吉を支えた武将田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史
トップの資質 ―信長・秀吉・家康に仕えた武将、田中吉政から読み解くリーダーシップ論
秀吉の忠臣 田中吉政とその時代