✨38)─4─天皇制度廃絶・皇室消滅陰謀論第4弾。GHQによる皇室財産没収。~No.166 ㉝ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 昭和天皇は、人道貢献や平和貢献を行ったが国内外はその事を認めず、むしろ戦争を始めた戦争犯罪者として嫌われている。
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 天皇制度廃絶・皇室消滅陰謀論
 第一弾 人間宣言
 第二弾 戦後版皇室典範日本国憲法
 刑法改正、大逆罪・不敬罪の廃止。死刑反対。
 天皇・皇族・皇室を護る特別法はなく、あるのは一般的な名誉毀損罪のみで、被害者として加害者に対して告訴する事ができるが、原則的にできない。
 メディアによる皇室報道は、本当は少なく、嘘や捏造・歪曲が多い。
 第三弾 皇籍剥奪=皇籍離脱=皇族追放。
 第四弾 皇室私有資産没収。
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 日本人共産主義テロリスト・反天皇反日的日本人、キリスト教朝鮮人テロリストは、昭和天皇や皇族を惨殺する為につけ狙っていた。 
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 Business Journal > ジャーナリズム > 戦前の天皇は「大富豪」だった?
 2017.07.25 00:00
 戦前の天皇は「大富豪」だった?皇室財産は3千億円超相当との資料も
文=井戸恵午/ライター
 【この記事のキーワード】財産, 天皇陛下, GHQ, 天皇家
 戦前、皇室は莫大な資産を保有していたという話がある。
 昭和20年(1945年)に連合国軍最高司令官総司令部GHQ)が発表したところによれば、当時の金額で実に15億9000万円。単純換算は難しいが、企業物価指数にしたがって計算すると、現在の約3052億8000万円にあたる。
 ただし、これは土地・建物・林材・現金・有価証券のみであり、美術品や貴金属・宝石類は含まれていない。昭和21年(1946年)に衆議院および貴族院において政府より配布された「御陵財産概況」も15億5000万円としており、有価証券の価値の変動による増減はあるものの、おおむね同様の概算をなしている。
 一方で、財産税納付のための財産調査においては37億1563万円、さらに会計検査院の取りまとめた「終戦時における旧皇室財産現在高及びその後の第一次異動調書」においては31億7300万円とされており、2倍以上の数値となっている。
 この差異は、何を「皇室財産」とするのか、どこまで含めるのか、という点において、大きく変動した結果である。いずれにせよ、戦前期において皇室財産とされたものは現在の金額で数千億円をくだらないということになり、これが個人あるいは一族の所有する資産と考えるのであれば、莫大なものと評して差し支えないだろう。
 天皇の直接管理ではなかった皇室財産
 そもそも、戦前の「皇室財産」とはどのようなものだったのだろうか。
 明治期、版籍奉還によって土地は天皇に返されたとはいえ、それは国有に帰したということであり、天皇の私有となったわけではなかった。また、帝室費は計上されてはいたが、大蔵卿の管掌とされ、天皇の恣意の下に自由に支出することはできなかった。
 そこで、皇族の品位保持のためにも「皇室財産の設定が必要である」という声が、木戸孝允らを中心に上がった。また、自由民権運動において国会開設の機運が高まったことも大きい。
 国家予算は国会の承認を得なければならないため、帝室費の予算もこれに含まれるのは、はなはだ不都合とされた。そこで、ヨーロッパの君主制国家同様に国費と宮中の予算を分離し、一般会計法の外に置かれることになったのである。
 さらに、岩倉具視らによって、この特例的な会計の中に既存の国家財産を含ませ、それによって国会の干渉を受けない財源をつくりだそうとされた。官有林や日本銀行横浜正金銀行日本郵船などの政府保有株式が加えられていったのである。
 かくして「皇室財産」は形成され、膨れ上がっていく。そして、それは当初より天皇の「私有財産」と呼べるようなものではなかった。実際、当初は陸海軍の予算を、この「皇室財産」から賄おうという提案さえなされている。
 明治43年(1910年)には、皇室令として「皇室財産令」が布告される。これにより、財政における「宮中府中の別」が明確となる。ここで、重要な事項のひとつに総則第五条がある。
 それは「御料ハ宮内大臣之ヲ管理ス」というものであり、すなわち「皇室財産」に関する管理運用についての当事者は、天皇ではなく宮内大臣であるとされているわけだ。これは、天皇が「皇室財産」を直接的に管理運用することで権威が失われる恐れがあるとされたための措置であった。
 辞書を買うのも自由ではなかった戦前の天皇
 戦前の天皇と皇室財産に関して、このような逸話がある。
 昭和天皇の侍従次長であった木下道雄が戦後に語ったところによると、あるとき、地方に大水害があったので「御内帑金(ごないどきん)」の中から数百万円を被災者の救恤(きゅうじゅつ)のために下賜するということがあった。
 そのための必要書類が(宮内)大臣官房から侍従職を経て送られて来ており、昭和天皇はすぐにそれを裁可する印を押したという。この「内帑金」とは君主の手元金のことだが、そこから支出することすら天皇の自由になっていないことがわかる。
 その書類を手に退出しようした木下が、ふと天皇の机の上を見ると、仏和辞典が置いてあった。使い込まれてボロボロになったそれは大層使いにくそうだったため、「新しいものにお替えしましょうか」と聞いたところ、昭和天皇は木下に「金はあるか」と聞き返した。木下は「ございますとも」と答え、翌日20円を支払って新しい辞書を買い求めた。
 もちろん、これは証言であるため、ただちに事実とすることはできないが、天皇と「皇室財産」の関係のあり方の一端を垣間見ることのできる逸話といえよう。戦後、GHQはこの「皇室財産」を文字通りの私有財産とみなした。また、一部の人々は「皇室財産」を事実上の財閥と目して、「天皇制」排撃のための論拠としたのである。
 なお、木下は「終戦後、皇室財産のほとんど全部が政府の所管に移ったが、陛下としてみれば、国民が金が入用で自分たちの貯金を引き出したとしか思っておいでにならないだろう。もともと御自身のものとは考えておいでにならなかったのだから」と述べている。あるいは、このあたりが偽らざるところではなかったか。(文=井戸恵午/ライター)
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 明治時代の日本国の国際的信用は、明治政府ではないし日本国民・日本人でもなく、2000年続いてきた天皇家・皇室である。
 日本円貨の貨幣としての国際的信用も、天皇家・皇室である。
 それは、現代でも変わらない。
 が、一部の現代日本人はその事実を天皇による支配として嫌い破壊しようとしている。
 その証拠が、あいちトリエンナーレ2019における「昭和天皇肖像画を燃やし踏みつける」映像であり、それを「表現の自由」として認めた国民世論であ。
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 日本人が中国人や朝鮮人・韓国人と違うアジア人と認識されるのも、天皇家・皇室である。
 そして、天皇家・皇室の正統性は日本中心神話に基ずく神聖不可侵の血の神話・Y遺伝子神話である。
 血の神話とは、最高神である女性神天照大神の血・心・志・気概を正しく受け継ぐ男系父系天皇(直系長子相続)のみである。
 よって、女系母系継承には可変の正当性はあっても不変の正統性はない。
 国民世論の80%近くが、血の神話を否定した正当性・女系母系天皇即位を求め、正統性・男系父系天皇に関心も興味もない。
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 最もえげつない手段で公金資産を増やしたのは、ソ連中国共産党などの共産主義諸国である。
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 時折、天皇・皇族・皇室の資産・家計費を、根掘り葉掘り、悪意を持って調べ、邪推を以て書き立てる本が出版される。
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 イギリス王室の財産は、女王時代に築かれた。
 エリザベス一世は、海賊に公海上での強奪行為を容認し、海賊をイギリス海軍として保護し、強奪した金品の一部を公認料として徴収した。
 ヴィクトリア女王はインド皇帝に即位し、アジア各地の植民地から富を強奪した。
 インド皇帝とは、ムガル皇帝の後継皇帝で、ムガル皇帝はモンゴル皇帝の正統な後継者であると自認していた。
 欧米の諸王家の資産も中華世界の帝国や王国の財産も、例外なく国民から搾取し、他国から暴力をもって強奪して増やしてきた。
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 アジア世界を支配する正統性は、モンゴル族モンゴル皇帝の後継者である事であった。 正統な後継者とは、家系による血筋・血統ではなく、武力・軍事力による皇統であった。
 よって、日本天皇にはアジア世界を支配する皇帝に即位する資格はなかった。
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 NEWSポストセブン
 2017.06.09 11:00  週刊ポスト
 天皇家の財産 GHQにより大半が消えバブル時は20億円に増加
 眞子内親王の婚約報道に際し、ご結婚時に1億円を超える一時金が払われることが話題になった。そんな中、政府や有識者が意見を戦わせてきた「生前退位」をめぐる議論においても、皇室の財産をめぐる議題が浮上したというのだ。それは「相続税」である。これはもうひとつの「皇位継承問題」である。
 ここで天皇家の財産の歴史について振り返ってみる。戦前、皇室財政は国家財政と分離しており、全国規模の林業経営などで莫大な収益を上げた。三井、三菱などの大財閥を優に超える資産を形成していた。
 終戦直後の1945年11月、GHQ連合国軍総司令部)は「天皇は世界有数の財閥であり、ただちに財産税賦課によって適切に処理されるべき」として、皇室財産の解体に着手した。GHQによる評価の結果、弾き出された昭和天皇の財産は37億1563万円だった。
 主な内訳は、皇居や赤坂御用地といった土地(7憶7263万円)、宮内庁舎などの建物(2億3414万円)、皇室所有の御料林の木材である立木竹(16億3976万円)、美術品(4億4949万円)、有価証券(2億2012万円)、現金預金(5500万円)などとなっている。
 GHQによって評価された天皇家の財産はいきなり大半が消えることとなる。
 資産1500万円超の財産所持者には90%もの「財産税」が課されることになり、昭和天皇は33億4268万円を納めることになったのだ。
 さらに新しく制定された憲法では、〈すべて皇室財産は、国に属する〉ことが定められ、皇室による不動産保有は禁じられた。皇居など天皇家が使い続けるものは国有財産へと移管された。その結果、昭和天皇私有財産は、「何か大きな出費に備えるため」という名目で金融資産1500万円が残されたほか、由緒物の美術品と宝石、身の回りの品だけになってしまったのである。
 ◆バブルで20億円に
 それから40数年後、昭和天皇崩御した1989年、驚きの事実が明らかになる。その遺産は約20億円まで増えていたのだ。皇室経済に詳しい成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科教授の森暢平氏が解説する。
 「主な要因は株式投資など資産の積極運用です。昭和天皇が自ら運用していたわけではなく、天皇家には『経済顧問』という私的なアドバイザーがいます。特に高度経済成長期には大いに資産を増やしたことでしょう。その背景には、昭和天皇の代替わりの儀式の費用面の懸念がありました。当時は公費で賄えるかどうか不確定な面があり、天皇宮内庁幹部が私有財産から支出しなければならない事態に備えたのです」
 結果的に、総額42億円ともいわれる代替わり儀式は国費で行なわれたため、昭和天皇の懸念は杞憂だったといえる。
 約20億円の昭和天皇の遺産のうち、葬儀費用の一部と日本赤十字社への寄付5000万円を差し引いた上で債務を整理し、課税遺産額は18億6911万4000円となった。皇室ジャーナリストの山下晋司氏が言う。
 「今上天皇以外のお子さま方は相続を辞退されたため、二分割した9億3455万7000円ずつを、香淳皇后今上天皇が相続されました。さらに2500万円ずつを『長寿科学振興財団』に寄付されたため、実際の相続額は9億955万7000円。今上天皇は約4億2800万円の相続税を納め、差し引いた5億円弱を相続されました」
 配偶者控除により相続税が非課税となった香淳皇后は2000年に逝去。遺産は今上天皇が相続したが、その額は、公示対象(一人あたり2億円以上)を下回ったとして、公示されなかった。
 「約9億円もあった香淳皇后の遺産が激減したのは、バブル崩壊によって所有株が軒並み下落したことが要因だと見られています」(前出・森氏)
 今上天皇香淳皇后から引き継いだ遺産は、相続税を差し引けば多くても1億円以下と見られる。昭和天皇の遺産5億円と合わせて、多く見積もって計6億円に満たないと考えられる。
 ※週刊ポスト2017年6月16日号
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 2019.03.22 07:00  SAPIO
 戦前は日本一の地主だった天皇家 現在の皇居は“借家”
 退位に伴い、三種の神器をはじめ、宮中祭祀に使われる太刀や屏風などの品々が、現陛下から新天皇陛下に引き継がれる。昭和天皇崩御の時には約20億円の遺産があったが、退位の場合、財産はどのように継承されるのか。そもそも皇室にはどのくらいの財産があるのか。皇室ジャーナリストの神田秀一氏が解説する。
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 戦前の天皇家は日本一の地主とも言われ、皇居、赤坂御用地、鴨場、陵墓、御料牧場などを合計した保有土地面積は長野県に匹敵するとも言われた。
 現在、皇室関連の土地は、天皇皇后両陛下がお住まいの皇居(約115万平方メートル)、東宮御所秋篠宮邸がある赤坂御用地(約51万平方メートル)、京都御所や3つの御用邸(葉山・須崎・那須)などがあるが、すべて国有財産だ。終戦後、憲法88条によりすべての不動産は国に移管され、皇室に供される「皇室財産」となった。天皇をはじめ皇族方のお住まいは、国から借りている“借家”ということになる。
 そのほか皇居や御用邸に関連する皇室財産に、「船舶」と「地上権」がある。「船舶」は皇居の内堀で作業に使用する船だ。「地上権」は、例えば一般車両が通行できるようになっている那須御用邸の一部の道路である。見た目は地方公共団体の道路だが、土地は宮内庁所管で賃料はとっていない。
 【PROFILE】神田秀一●1935年東京生まれ。テレビ朝日にて1978年から宮内庁担当記者。1995年に退社後、フリーの皇室ジャーナリストとして活動。著書に『心に響く皇室の所作』(辰巳出版)がある。
 取材・構成■祓川学(フリーライター
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 皇室財産は、天皇の家産である。三種の神器など皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに皇嗣が受けることが皇室経済法第7条に定められている。
 現在(日本国憲法
 日本国憲法では、憲法上の明文により、皇室財産は国に属するものとされ、皇室の費用は予算に計上して国会の議決を経ることとなった(88条)。御料地は国有林に戻され、他の皇室財産も大規模に国の財産に転換された。現在の法律では、国有財産の管理について規定する国有財産法第3条が、国有財産を目的が定まった行政財産とそれ以外の普通財産に分け、行政財産の一種に「皇室用財産」をおく。この法律がいう国有財産は、不動産とその従物、船舶・航空機、株券・債券などに限られ、一般の動産は入らない。
 憲法第8条は、皇室に財産を譲り渡し、皇室が財産を譲られたり与えたりする際には、国会の議決を経なければならないとした。実際には個々の財産変動に個別に議決が行われるわけではなく、皇室経済法第2条が、売買などの通常の私的経済行為、外国交際の贈答、遺贈・遺産の賜与には国会の個別の議決を必要としないと定めているほか、1年度の総額が皇室経済法施行法に基づく限度額内に収まる場合は、個別の議決を行っていない。なお、皇室経済法の例外に入るものでも、一度の額か一年度の総額が国有財産法第13条2項に定められたそれぞれの限度額を越えると、国会の議決が必要になる。限度額は国有財産法が定めるものの方が大きい。
 歴史
 古代
 古代における皇室財産の実態は不明な部分も多いが、屯倉・御厨などの所有の形で保持されてきた。『日本書紀』の記述を信じるならば、垂仁天皇27年(紀元前3年)に最初の屯倉が設置されたとされている。これらは律令制以後は大炊寮・内膳司の管理下に置かれて皇室の直接支配からは離れた。平安時代に入ると、これらに替わるものとして勅旨田・勅旨牧などの設定が行われた他、上皇の生活保持のために後院による私領が形成された。院政成立後は上皇(院)の元に大量の荘園が集中したこと、院宮分国の確立によって、治天の君が一大荘園領主となるとともに国衙領女院領・御願寺領などを含めた膨大な皇室財産を運営するようになった。
 中世
 その後、承久の乱に伴う鎌倉幕府による皇室領の大量接収(後に後高倉院に対して返還される)や皇統分裂に伴う皇室領の分裂などを経て、明徳の和約による南北朝の統一によってその大半が持明院統嫡流とされた伏見宮家の元に集中された。だが、同家と嫡流の地位を争っていた後小松天皇伏見宮家から所領をことごとく奪い、室町幕府を巻き込んだ内紛となるが、後小松系統の断絶と伏見宮家への皇位継承後花園天皇)によって漸く安定した。また、これによって院政が中断したために仙洞領が天皇の下に統合された。この時期になると、室町幕府の公方御料と区別する意味で・禁裏御料・皇室御領などと呼ばれるようになる。また、南北朝時代から室町時代にかけて諸司領や、率分関・供御人制度が設けられてそこから上納される金銭収入で不足を補うようになっていった。だが、戦国時代に入ると山国荘などのように禁裏御料であった各地の荘園が地元の戦国大名国人領主侵奪され、収入の滞った皇室では後土御門天皇の葬儀が1か月以上も開けずに遺体が放置されるなどの深刻な状況となった。
 近世
 織田信長豊臣秀吉は皇室に所領の一部を献上して漸く7千石分の禁裏御料を確保した。1601年に徳川家康は改めて1万石を禁裏御料として確定させ、以後江戸幕府は1623年と1705年にそれぞれ1万石ずつ所領を献上して以後3万石の禁裏御料が確定する。その他に豊臣政権時代に定められてそのまま継承された京都の銀地子や宇治・田原の茶に対する賦課(茶役)などによる収入があった。この他に朝廷に奉仕する公家にも公家領が与えられ、それが約10万石あったとされている。大政奉還直前の1867年、徳川慶喜は山城一国23万石を禁裏御料として献上する事で朝廷との関係をつなぎ止めようとするが、失敗に終わっている。戊辰戦争によって朝廷は幕府及び佐幕派諸藩より計150万石を没収して禁裏御料に編入している。これが明治政府の国有財産としてその財政基盤となる。
 近代(大日本帝国憲法
 大日本帝国憲法下では、天皇の個人的財産は御料(ごりょう)あるいは御料地(ごりょうち)と呼ばれ、帝国議会の統制外にあった。御料そのものは憲法制定以前から存在し、明治維新後に木戸孝允徳大寺実則元田永孚らによってその充実を求める意見書が出されていたが、大部分の御料の形成は憲法制定に深いかかわりがあった。日本における国会開設と憲法制定は、自由民権運動への譲歩という側面を持ち、そこでは国家予算が国会の承認を要することになった。これを嫌った岩倉具視は、国会開設前に国有財産の相当部分を皇室財産に移し、国会から遮断することを考えた。そこで、1898年(明治22年)頃にそれまでの官有林(国有林)は大部分が御料林にされ、他の形でも国の財産が皇室財産に大規模に転換された。また、1884年に大蔵卿松方正義の建議によって日本銀行横浜正金銀行、続いて1887年には日本郵船の政府保有株式が次々と皇室に献上されている。
 御料および皇族財産の管理については法律ではなく皇室令という法形式をとる皇室財産令により規定された。御料は世伝御料と普通御料に分かれ、世伝御料はその名の通り代々受け継がれるべきもので、(旧)皇室典範第45条により分割譲与を禁じられた。
 忘れられた御料地
 北海道弟子屈町にあった旧御料地1万8800ヘクタール(町の面積の24%)は「宮内大臣」の名義で登記されたままであった。宮内庁管理部が「弟子屈町に所管財産は存在しない」として北海道財務局などによる処理を求め、2001年(平成13年)12月、財務局・北海道庁弟子屈町などによる協議会により、摩周湖を含め大半が所有者のない不動産となった。
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 皇室経済法(昭和22年1月16日法律第4号)は、日本の法律である。皇室の財政・財務に関する事項について定めている。
 皇室経済の概要
 日本国憲法第8条は「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。」と定める。これは、莫大な財産を保有した大日本帝国憲法下の皇室から、日本国憲法の定める象徴天皇制とそれを支える皇室・皇族への転換に伴い、皇室に再び巨大な経済力が集中することを防ぎ、また、特定の者と皇室が経済的に強く結びつくことを防ぐため設けられた規定である。
 同第88条が「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。」と定めるのも同様の趣旨を含み、さらに、皇室としての品位を保つために必要な費用を、国が負担すべきことも定める。
 そして、憲法のこれら二つの規定を受けて定められた法律が、皇室経済法である。なお、金額の詳細に関する規定は皇室経済法施行法(こうしつけいざいほうしこうほう、昭和22年法律第113号)という別の法律で定められている。
 詳細は「皇室経済法施行法」を参照
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 皇室経済法施行法(昭和22年10月2日法律第113号)は内廷費及び皇族費に関する定額その他皇室経済法の施行に必要な事項を定めることを目的とする日本の法律である(法施行法第1条)。2020年8月現在の最終改正は平成8年(1996年)3月31日法律第8号。
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