⚔14)─4─堕落したイエズス会とパスカルとの論争書簡。~No.51 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 現代日本人は、時代劇はすきだが歴史が嫌いで、歴史力・文化力・宗教力が乏しく、イデオロギー(主義主張)に憧れるが哲学や思想がない。
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 1637~38年 天草・島原の乱
 1656年 ブレーズ・パスカルは神の恩寵について弁護する『プロヴァンシアル』を執筆。
 1657年 明暦の大火。犠牲者約10万人。 
 第111代後西天皇徳川家綱保科正之
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 ジャンセニウス
 デジタル大辞泉の解説
 17~18世紀、フランスから興り、ヨーロッパのカトリック教会に論争を巻き起こした教派、およびその神学。オランダの神学者ヤンセン(1585~1638)の、アウグスティヌス研究に基づく恩恵論に由来する。イエズス会と対立。のち、ローマ教皇により禁圧された。
 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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 2021年3月号 WiLL「たたかうエピクロス 古田博司
 第20回 数理学者パスカルこそ社会科学の祖だった
 西洋人も生き生きと生活態で
 西洋思想史は、自分でキッチュな年表を作ってみると面白い。17××年に固まっているのは、ディドロ、エルヴェシウス、ヒューム、カントたち、遅れていたドイツでは、カントはヒュームの影響しか受けていない。英仏では一番、形而上的だったからだと思う。ものすごく意識していたので、『純粋理性批判』のなかに、ヒュームの名は18回も出てくる。
 100年前の16××年に固まっているのは、ホッブズ、ロック、そしてパスカルがいる。その100年前の15××年に固まっているのは、ルター、カルヴァンのような宗教改革者と、エセーのモンテーニュだ。カルヴァンはルターを読んでいた。恨みが深すぎて、スイスのジュネーヴを占拠するや、旧教徒の逮捕、火刑を始めた。教会の祭壇を探索すると、髑髏(どくろ)を引っ張るザリガニの仕掛けで、大衆を操る『奇跡の詐術(さじゅつ)』を行っていたことなどが分かったという(『渡辺一夫著作集』4巻、389頁)。モンテーニュはその頃、ボルドー市長に祭り上げられて、旧・新教徒の争いの調停役をやらされていた。書斎の人だから、さぞかし嫌だっただろう。
 無味乾燥な思想史も、こんな風に書いたら楽しいのだろうが。……
 パスカルは思弁の人ではない
 前回、時は18世紀、エルヴェシウス、ディドロが、中世キリスト教世界の既得権益層、聖職者・神学者・道徳家たち、具体的には教皇大司教・高等法院・大学の進学者たちに威嚇され、ソルボンヌ大学の犬たちに身辺を嗅ぎまわられ、告発・火刑の恐怖にいかに曝(さら)され、畢生(ひっせい)の大業を焼却されたかを描いてきた。エルヴェシウスは嘲弄(ちょうろう)した。ディドロは『人類の仇討ち』を叫ぶも、フランス革命の5年前に没した。
 キリスト教界の既得権益層がいつからこのように強硬になったのか、それは当初からというほかないだのが、ルターが現れて、エラスムスの著作が告発された1525年あたりからは、一層苛酷になったのではないかと、私は認識している。
 反宗教改革がどんどんやりすぎになっていく様は、ありがたいことに、実証主義の研究者たちが邦訳『パスカル全集』で、ちゃんと書いてくれている。いわく、プロテスタントの攻撃に対抗して、バスクの貴族、イグナチウス・デ・ロヨラが、1534年にイエズス会(ジェズイット)を立ち上げた
 ジェズイットは、法王と教会を守るべく、『清貧』『貞潔』『服従』の3つの契約のもとに集まり、大学へは教授として、宮廷には聴罪司祭として、インドやシナへは宣教師として入りこんでいった。日本に来たザビエルもバスク人のジェズイットだった。
 16××年のホッブズやロックの頃、イエズス会と主に闘っていたのがジャンセニストのパスカルらだった。『人間は考える葦だ』のパスカルだ。ジャンセニストは、カルヴァンのような予定説で、神の恩寵は定められた人のみ授かる、オランダのジャンセニウスの説をとる。ジェズイットは、スペインのモリスの説で、神の恩寵は誰にでも与えられるとした。
この『誰にでも恩寵』というのがまずかったのだろう。程度の低い、司祭や神学者、神学教師にも全能感を与えてしまったのである。『神の恩寵があるのだから、オレのやっていることは正しい、間違ったものを正してやる』になった。パスカルが、これを分かりやすい平易な文体で揶揄(やゆ)している。
 ジェズイットの教書に、『掏摸(すり)を働くとか、微行({びこう}=おしのび)で遊里に出掛けるとかいうがごとき恥ずべき理由で僧服を脱いだときには、ただちに身につけねばならぬ』(『イエズス会の学校の教える実践要領』)とあったので、驚いたパスカルが神父に尋ねたという。なぜこうした連中を破門にしないのか、帰りに脱いだ服をつけろとはどういうことか、と。すると神父は、いけしゃあしゃあと、『僧服のままで出入りしているのを見られたら悪い評判を立てられるからだ』と答えたというのである。……(『パスカル全集』Ⅱ、『プロヴァンシアル』『田舎(プロヴァンスの住人に、友達の一人が書き送った第六の手紙)』人文書院、1975年、144頁)。
 またイタリアのグラッツ大学のラミー神父は、『司祭や修道士は、悪口をたたいて名誉を傷つけようとするものも見破り、これを阻止するために相手を殺して構わない』と、教えた。また彼らは『ジェズイットはジャンセニストを殺しうるや否や』で、討論していると、同じく匿名の手紙形式で印刷し、パリの書店から告発した(同『第七の手紙』170頁)。こんな闘いの歴史があったのだ。もちろんこの書店は襲撃された。
 全能感にひたる人々
 パスカルの批判の筆はさらに高潮へと向かう。
 『神父様方、なにをお考えになっているのですか、あなた方は人々の信仰をはるかにも徳行をはかるにも、あなた方の会に対する意向だけでなされることがかくも公然と示されているのに。あなた方自身の証言から、ご自分が瞞着(まんちゃく)者にも誹謗者にも見なされることをなぜ恐れないのですか。なんですって、神父様方、同じ一人の人間が、その人として少しも変わらないのに、あなた方の会に敬意をはらうか、攻撃を加えるかによって、「敬虔」になったり「不敬虔」になったり、「非のうちどころがなく」なったり「破門」されたり、「教会の小教区主任司祭に価(あたい)」したり「火刑に価」したり、そして最後に「カトリック」になったり「異端」になったりするものでしょうか。とすれば、あなた方の用語では、あなた方の会を攻撃することと、異端であることは同じことなのでしょうか。神父様方、まことに滑稽な異端であります』(同『田舎の友への手紙の著者が、ジェズイットの神父方に宛てて書いた第十五の手紙』317頁)と、書いた。
 これ、なにか日本学術会議に似ていないか。2020年10月から、その存在が疑問視されている学者の組織だ。ちょっと語句を現代風に入れ替えてみよう。
 『先生方、なにをお考えになっているのですか、あなた方は人々の学問をはるかにも徳行をはかるにも、あなた方の会に対する意向だけでなされることがかくも公然と示されているのに。あなた方自身の発言から、ご自分が瞞着者にも誹謗者にも見なされることをなぜ恐れないのですか。なんですって、学術会議の先生方、同じ一人の人間が、その人として少しも変わらないのに、あなた方の会に敬意を払うか、攻撃を加えるかによって、「自由」になったり「侵害」になったり、「助成金に価」したりしなかったり、そして最後に「正統」になったり「異端」になったりするのもでしょうか。とすれば、あなた方の用語では、あなた方の会を攻撃することと、異端であることは同じことなのでしょうか。先生方、まことに滑稽な異端であります』。以上、ある宗派で全能感にひたると、人は大体同じようになるという諫(いさ)めである。批判の対象となる日本学術会議会員を具体的に一人挙げておこう。
 『国民からの負託がない、官僚による科学への統制と支配は国民の幸福を増進する道ではない。私は学問の自律的な成長と発展こそが、日本の文化と科学の発展をもたらすと信じている』(『政府に従順でない人々を切っておく事態』『東京新聞』2020年)
 ……私のゼミでも、破門したかつての弟子が東文研教授をしている。一体どういう人事か説明してもらいたいものだ。
 社会科学の祖パスカル
 さて、パスカルの家はフランス国のど真ん中オーヴェルニュの裕福な家で、徴税関係の法官だが名ばかりのエルヴェシウスとは違い、宰相リシュリューの恩寵を受けていたので、ずっと権力があったことだろう。父親エチエンヌは恩寵でノルマンディーの地方総監となるもフロンド(貴族)の乱に遭遇し、その苦しみから当時ルーアン市付近で活躍していたジャンセニストに入信した(1646年)。
 フロンドの乱後、その残党が次々と難を逃れて、パリ郊外のポール・ロワイヤル修道院に集まり、ジャンセニストと貴族の残党の結合体のようになっていった。敵のジェズイットは虎視眈々と修道院襲撃の機会を狙っていた。1653年、教皇インノケンティウス10世は、ジャンセニストの遺書に異端の宣告を下した。ソルボンヌでは、早速異端審問の特別委員会が設置された。この危機のとき、パスカルの『プロヴァンシアル』が次々と神の箙(えびら)から世に放たれたのだった。ルーアンの司祭はジェズイットの腐敗した道徳を非難する説経を行い、教皇もジェズイットの扱いを厳重にするようになったという。
 ……こうして、パスカルたちは、辛うじて『全能感にひたる者たち』の魔の手を逃れたのだった。
 パスカルの父、エチエンヌはエピクロスの『自然学をする者は神話を遠ざけるべきである』という部分に関心を抱いた可能性がある。父親はパスカルの数理実験の道具に財を惜しまなかった。パスカル自身には、エピクロスの快楽主義の影響は全くないように見える(前掲『第四の手紙』113頁)。
 今回、なぜパスカルを試みてみたのかというと、16××年に固まっている、ホッブズは『必死の快楽主義者』、ロックは『凡俗な快楽主義者』だったので、パスカルはいかにと思ってしみたのだ。そこで分かったことは、この人が後世の社会科学の源流だということである。ジェズイットの『十分なる恩寵』と、ジャンセニストの『有限の恩寵』を類型化し、それがどのような行動に結びつくかを次々と例示していく。つまり、事実を集め実証していくのである。そしてジェズイットの『全能感』がどのような瞞着な結果をもたらすかを、理路整然と帰納する。説得力がロックやホッブズよりも一段上であり、だから世論を動かし、ポール・ロワイヤルの危機を救い、遥か後世の異国日本の学者集団の欺瞞(ぎまん)と高慢の正体まで暴くことができたのだろう。これが社会科学というものである。人文科学よりずっと明晰(めいせき)感をともなうので、読者にもよく感得されるのではないだろうか。
 私はロシア語とか、シナ語とか、コリア語などの古代文化に固着した民族の言語しかしなかったので、フランス語とかはまったく読めない。でも、邦訳でも分かることがある。たぶん、パスカルの文体は、一時代前のモンテーニュたちの文体に比べて、相当品格の劣る『市場の文体』だったのではないだろうか。中世の知性から言えば、『冷酷で、殺伐として、えげつない』のだ。反感ものだったので、世論には説得力があったが、知識階層では埋もれてしまった。でも、それを受け継ぐのは、ゾラの自然主義文学ではないかと思う。ゾラの文体は『市場の文体』であり、驚くほどに社会科学的なのだ。」
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 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)は、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、実業家である。
 神童として数多くのエピソードを残した早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。ただし、短命であり、三十代で逝去している。死後『パンセ』として出版されることになる遺稿を自身の目標としていた書物にまとめることもかなわなかった。
 「人間は考える葦である」などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名である。その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られる。ポール・ロワヤル学派に属し、ジャンセニスムを代表する著作家の一人でもある。
 神学者キリスト教弁証家として活動
 1646年、パスカル一家はサン・シランの弟子らと出会い、信仰に目覚め、ジャンセニスムに近づいてゆく。
 1651年、父が死去。妹ジャクリーヌがポール・ロワヤル修道院に入る。
 パスカルは一時期、社交界に出入りするようになり、人間についての考察に興味を示す。オネットムhonnête homme(紳士,教養人)という表現を用いる。
 1654年、再度、信仰について意識を向け始め、ポール・ロワヤル修道院に近い立場からものを論ずるようになる。
 1656年 - 1657年、『プロヴァンシアル』の発表。神の「恩寵」について弁護する論を展開しつつ、イエズス会の(たるんでしまっていた)道徳観を非難したため、広く議論が巻き起こった。また、キリスト教を擁護する書物(護教書)の執筆に着手。そのために、書物の内容についてのノートや、様々な思索のメモ書きを多数記した。だが、そのころには、体調を崩しており、その書物を自力で完成させることができなかった。
 ノート、メモ類は、パスカルの死後整理され、『パンセ』として出版されることになり、そこに残された深い思索の痕跡が、後々まで人々の思想に大きな影響を与え続けることになった。神の存在について確率論を応用しながら論理学的に思考実験を行った「パスカルの賭け」など、現代においてもよく知られているパスカル思想の多くが記述されている。
 『パスカルの賭け』において、パスカルは、多くの哲学者や神学者が行ったような神の存在証明を行ったわけではない。パスカルは、そもそも異なる秩序に属するものであることから神の存在は哲学的に(論理学的に)証明できる次元のものではないと考え、同時代のルネ・デカルトが行った証明などを含め哲学的な神の存在証明の方法論を否定していた。パスカルは、確率論を応用した懸けの論理において、神の存在は証明できなくとも神を信仰することが神を信仰しないことより優位であるということを示したのである。
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 百科事典マイペディアの解説
 〈ヤンセン主義〉とも。オランダの神学者ヤンセンの恩寵論,およびその影響下に17,18世紀のフランスで展開された宗教運動。ポール・ロアイヤル修道院が中心となり,A.アルノー,P.ケネルが主導,パスカルも強力に支援した。イエズス会,フランス王権,ローマ教皇庁と激しく対立,1709年の修道院閉鎖,1713年のケネル断罪と弾圧が続くなか,政治化してガリカニスムに接近するなど,一般信徒にも支持者を得て大革命期まで存続した。
→関連項目アウグスティヌス|異端|ポール・ロアイヤル運動|ラシーヌ
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 世界大百科事典 第2版の解説
 17,18世紀フランスの宗教,政治,社会に大きな影響を及ぼした宗教運動。字義どおりには神学者ヤンセン(フランス名ジャンセニウス)が主張し,ローマ教皇によって断罪された恩寵に関する教義を指すが,ヤンセンの支持者たち(ジャンセニスト)はそのような意味におけるジャンセニスムは実体のない幻影であるとして,教会当局さらには国家権力に抵抗した。したがってジャンセニスムは,たんにヤンセンの教説の枠を越えて,いわゆるジャンセニストたちの信仰,思想,行動の総体を指す呼称である。
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 ジャンセニスム(Jansénisme)は17世紀以降流行し、カトリック教会によって異端的とされたキリスト教思想。ヤンセニズム、ヤンセン主義ともいわれる。人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調した。ネーデルラント出身の神学者コルネリウスヤンセン(1585年-1638年)の著作『アウグスティヌス』の影響によって、特にフランスの貴族階級の間で流行したが、その人間観をめぐって激しい論争をもたらした。
 沿革
 ジャンセニスムのルーツは16世紀のルーヴァンの神学者ミシェル・バイウス(Michael Baius,1513年 - 1589年)の唱えた教説にあるといわれる。バユスとも呼ばれたバイウスの説の特徴は神の恩寵の意味の絶対化と人間の非力さの強調であった。同地で活躍していたイエズス会員たちはそこにジャン・カルヴァンの影響を感じ取り、すぐに反論した。
 その後、同じくネーデルランド出身の神学者で、イプルの司教コルネリウスヤンセンが生涯の研究の成果として完成させた著作『アウグスティヌス-人間の本性の健全さについて』(Augustinus;humanae naturae sanitate)が、彼の死後の1640年に遺作として発表された。ヤンセンはバイウスの説に影響を受けており、同書ではアウグスティヌスの恩寵論をもとに、バイウスと同じように人間の自由意志の無力さ、罪深さが強調されていた。ここにいわゆる「ジャンセニスム」がはっきりと姿を現した。
 1646年にジャンセニスムに入信したブレーズ・パスカルは『パンセ』において「人間は考える葦である」と述べた。
 ヤンセンの盟友であったジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌ(Jean Duvergier de Hauranne)はフランス人のアントワーヌ・アルノーの知己を得て、同書を携えてパリへ赴き、そこで1641年に出版した。これがフランスの上流階級の間で反響を呼ぶ。デュヴェルジュは本名よりも「アベ・ド・サン・シラン」(サン・シラン修道院長、以下サン・シラン)という名前で知られるようになる。やがてサン・シランはアルノーの姉妹が暮らしていたパリ郊外の女子修道院ポール・ロワヤル修道院の霊的指導者となり、そこをジャンセニスムの拠点とするようになった。サン・シランはかねてよりイエズス会員の道徳教説が信徒の堕落を招いていると考えており、ジャンセニスムに名を借りたイエズス会攻撃を行った。これにイエズス会員たちが反論したため、以後、ジャンセニスムイエズス会という図式が出来上がっていく。
 当時のフランスでジャンセニスムに傾倒した著名人の中には哲学者ブレーズ・パスカルや戯曲作家ジャン・ラシーヌもいた。パスカルジャンセニスムに傾倒していたことは有名だが、彼はジャンセニスムへの批判に反論して1656年に『プロヴァンシアル』を執筆している。
 ジャンセニスムはその行き過ぎた悲観的人間観、特に自由意志の問題をめぐって激しい論議になった。ローマ教皇庁では神学者たちがこれを慎重に検討した結果、『アウグスティヌス』に含まれる五箇条の命題を異端的であると判断したため、インノケンティウス10世の回勅『クム・オッカジオーネ』(1653年)がジャンセニスムを禁止した。
 18世紀に入るとジャンセニスムが新しい展開を見せる。元オラトリオ会員だったパスキエ・ケネルによってジャンセニスムに新しい息吹が吹き込まれることになる。ケネルはジャンセニスムをフランス教会の教皇の権威からの自由(ガリカニスム)と結びつけて展開したのである。ケネルがイエズス会員を「教皇の走狗」であると非難したことから、再びジャンセニスムイエズス会という構図がつくられた。(最終的に他のヨーロッパ諸国と同じようにイエズス会は禁止・追放の憂き目にあうことになる。)
 当時のフランス国王ルイ14世は政治的見地からジャンセニスムを弾圧し、その中心地となったポール・ロワヤル修道院を1710年に閉鎖させたが、国内的にジャンセニスムを弾圧する一方で、対外的にはジャンセニスムローマ教皇との政争の具として利用もしている。
 果てのない論争が繰り返された後で最終的にクレメンス11世が回勅『ウニゲニトゥス』(1713年)でジャンセニスムを禁止し、論客パスキエ・ケネルの著作に含まれる命題を誤謬であるとした。ジャンセニスムの源流ともいうべきコルネリウスヤンセンに関しては、その著作『アウグスティヌス』こそ問題となったが、本人の死後に発行されたという事情も考慮され、ヤンセン自身が断罪されることはなかった。こうしてジャンセニスム論争そのものは18世紀には終焉したが、オランダではジャンセニスムの精神を引く一派がカトリック教会から離れ、やがて復古カトリック教会という分派が誕生することになる。
 ジャンセニスムの精神は20世紀初頭に至るまで、フランスのみならず全ヨーロッパのカトリック信徒に影響を及ぼした。その証左として、20世紀の初頭の教皇ピウス10世が回勅において、頻繁な聖体拝領と子供の早期初聖体を奨めていることが挙げられる。これは、ジャンセニスムの影響を受けて秘跡を敬遠するようになった多くの信徒が結果的に教会から離れてしまっていた当時の状況に対応しようとする試みであった。
 思想
 ジャンセニスムアウグスティヌスの人間理解が根底にあるが、人間の原罪の重大性と恩寵の必要性を過度に強調し、予定説からの強い影響を受けていた。 ジャンセニスム思想によれば、人間は生まれつき罪に汚れており、恩寵の導きなしには善へ向かい得ない。このため罪の状態でイエスの体である聖体を受けることは恐れ多いことである。だから、聖体拝領に際しての準備と祈りはどんなに行っても十分すぎることはないとした(結果的にジャンセニスムの影響を受けた信徒たちは聖体拝領の回数を著しく減らすことになった)。
 さらにジャンセニスムジャン・カルヴァン思想の影響を受けて、救われることが予定付けられている人間は本当に少ないと説いた。
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 日本には、哲学・思想はあっても宗教とイデオロギー(主義主張)はなかった。
 日本の宗教は、祀るローカルな崇拝宗教であって祈るグローバルな信仰宗教ではなかった。
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 中世キリスト教会と白人キリスト教徒商人は、日本人をアフリカ人同様に奴隷として売買する事で金儲けしていた。
 バチカンカトリック教皇は、日本人キリシタンを奴隷とする事禁止した。
 イエズス会などの宣教師達は、日本人を奴隷から救うべく布教活動を活発化させ、「隣人愛信仰」に目覚めた日本人は洗礼を受けてキリスト教に改宗し祖先の神や仏を破壊した。
 つまり、日本人キリシタンは奴隷にならない為であった。
 世界の宗教史は、非キリスト教徒非白人の日本人を奴隷として交易する事を非人道の犯罪行為と断罪せず、逆に日本人奴隷交易を禁止したキリスト教禁教とキリシタン弾圧を行った日本・徳川幕府を人類に対する極悪非道な犯罪者と認定している。
 徳川幕府鎖国令は、西洋を排除するのではなくキリスト教のみを邪教として追放する事が目的であった。
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 日本民族は、古代から神の裔・天皇を統治者とした主権国家・日本国を形成していただけに、奴隷とされた事に対して世界に復讐権・報復権を持っている。
 が、現代の日本国家・日本国民・日本人は国民主権天皇主権を否定している以上、日本天皇・日本国・日本民族の復讐権・報復権は継承されず「ない」。
 現代の歴史教育から、「日本人奴隷交易」という歴史的事実は抹消されている。
 そもそも、現代日本人如きは「乱取り」で捕らえた日本人を奴隷として売って金を稼いだ日本人の子孫である。
 それは、左翼・左派・ネットサハでも右翼・右派・ネットウヨクでも、リベラル派・革新派・保守派でも、人権派護憲派でも、同じである。
 昔の日本人と現代の日本人は別人というべき日本人である。
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