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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
欧米の連合国・枢軸国、バチカンとキリスト教会、国際赤十字社とボランティア組織は、ユダヤ人の告発でナチス・ドイツが虐殺を行っているらしい事は知っていたが、それはユダヤ人のウソだとして相手にしなかった。
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ヒトラーは、自国内及び占領地に住む数百万人のユダヤ人を処分、つまり域外に追放したかったが、世界が受け入れを拒否した為に移住先を失ったユダヤ人を最終処分(虐殺)する事にした。
もし、アメリカやイギリスなどの連合国が、ヨーロッパ・ユダヤ人約1,000万人を自国もしくは植民地に無条件で受け入れいればホロコーストは起きなかった。
が、如何なる国の国民も、1,000万人のユダヤ人難民を入国させ定住させ、移民した文化・宗教・言語・風習・習慣が違うユダヤ系国民を隣人として増やす事に猛反対した。
世界は、親ユダヤは少数派で、反ユダヤは多数派であった。
各国には、反ユダヤという人種差別からユダヤ人に対する迫害が多発していた。
人類の無償による自己犠牲のボランティアは、架空の作り話である。
嫌いなのは、合理的説明なしに、理屈なしに、理解無用で嫌いなのである。
人は心を開いて相手を理解しようと思ってとことん話し合えば最後には分かり合える、はウソである。
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世界は、親日・知日は少数派で、反日・敵日は多数派であった。
ユダ人社会でも、親日派は少数で、反日派が多数であった。
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軍国日本は、カミカゼ特攻や玉砕など絶望的戦争を繰り返していた為に、地球の裏側でナチス・ドイツが何をしているか知る由もなかった。
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軍部・陸軍、靖国神社のA級戦犯達は、ヒトラーから逃げてきたユダヤ人難民を助け、ナチス・ドイツの外圧を撥ね付けて敗戦後まで保護し面倒を見た。
昭和天皇は、親ユダヤ派・親英米派で、反ヒトラー反スターリン派で、人種差別に反対で、平和主義者で、ユダヤ人難民の保護を求めた。
ユダヤ人難民を助けたのは、天皇主義者・民族主義者・軍国主義者であって、反ユダヤ派・人種差別主義者の右翼・右派ではない。
ユダヤ人難民を助けた日本人は、国際法によって戦争犯罪者として有罪判決を受け見せしめのリンチ的縛り首で処刑され、遺灰は海にゴミとして捨てられ供養が認められなかった。
事実が分かっている現代においても、国内外から怨嗟の声・呪いの声で人間性が否定さ尊厳が踏みにじられている。
ユダヤ人難民を助けても、悲惨な運命に追いやられ、報われるところは何もなかった。
それが、靖国神社問題であり、現代の歴史教育問題である。
現代の日本人は、隣国の中国共産党が行っている身の毛もよだつような非人道的ジェノサイドに無関心で、口先だけで「命は大事」や「人権尊重」と言いながら、現実に悲惨な境遇にあり拷問や虐殺されている人びとを助けもしないし、抗議する声一つあげない。
現代の日本人には、昔の日本、戦前の日本、を「正義の名」において裁断する資格はない。
特に、天皇・皇族・皇室を批判・非難し、万世一系・男系天皇制度廃絶を求める反天皇反日的日本人達、昭和天皇を犯罪者として戦争責任を告発し戦争責任を追及する日本人である。
現代の日本では、無報酬の自己犠牲的な人助けは「むなしい」。
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YAHOO!JAPANニュース「ホロコーストの悲劇、米国に入国拒否された「セントルイス号」乗客のユダヤ人の運命を辿ったツイート
佐藤仁 | 学術研究員
2017/1/29(日) 2:34
ナチスドイツによる600万人以上のユダヤ人やロマらを大量虐殺したホロコーストの象徴であるアウシュビッツ絶滅収容所が解放されたのが1945年1月27日。そして1月27日は「国際ホロコースト記念日」だ。
セントルイス号乗客の運命をツイート
2017年1月、アウシュビッツ解放72年を記念してユダヤ人の教育家Russel Neiss氏がセントルイス号の乗客らのためにTwitterのアカウントを作った。セントルイス号は、当時のドイツとアメリカを結ぶ船で、この船に乗って欧州から約900人のユダヤ人がアメリカに逃れようとしたが、入国を拒否されて、結局セントルイス号は欧州に戻らざるを得ず、多くのユダヤ人がナチスによって迫害され、そのほとんどが殺害された(詳細は下部参照)。
Twitterのアカウントも「St. Louis Manifest」で日本語に訳すと「セントルイス号の乗客名簿」だ。このアカウントではセントルイス号の乗客でナチスドイツの犠牲になったユダヤ人たちの運命をあたかも本人がツイートしているかのように辿っている。当時は当然Twitterもインターネットもなかった。セントルイス号の乗客でナチスの犠牲となったユダヤ人たちの運命が72年経って、Twitterで全世界に公開されている。犠牲者たちの写真も多く残っており、以下のような悲劇的なツイートが約250人分掲載されている。
「私の名前はヴェルナー・シュタイン。1939年にアメリカへの入国を拒否されました。そしてアウシュビッツで殺害されました。(My name is Werner Stein. The US turned me away at the border in 1939. I was murdered in Auschwitz)」というように、犠牲者の名前とその後の運命を辿るツイートが続いている。犠牲者の写真が残っている場合は写真もある。モノクロやセピアの写真は家族や友人らと一緒に平和な時期に撮影されたものばかりだ。犠牲者の中には小さな子供も多く、ナチスに迫害されていなかったら、まだ存命だった人も多いだろう。
セントルイス号乗客の運命
1939年5月に欧州からのユダヤ人で満員のセントルイス号を追い返したように、アメリカにはナチス支配地域からのユダヤ人難民を歓迎する空気はなかった。どこの国もユダヤ人を受け入れようとしなかったため、セントルイス号はヨーロッパに戻り、ユダヤ人たちはフランス、オランダ、ベルギー、英国に引き取られた。そして1940年以降に大量虐殺を免れることができたのは英国に引き取られたユダヤ人だけだった。下記に『ホロコースト全史』(マイケル・ベーレンバウム著、芝健介監修)にその様子が描写されているので、長文だが抜粋し引用しておく。
……」
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ユダヤ難民に冷淡だった欧米諸国
原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb300.html
第1章 はじめに
第二次世界大戦中、ドイツで公然と行なわれたユダヤ人迫害に関して、ヨーロッパの国々もアメリカも長い間沈黙を続けた。 人道主義という立場で 「ナチス・ドイツに対して厳重に抗議すべし」 と主張した人たちも確かにいた。 しかし、この人たちは多勢に無勢で、まとまった力にならず、ナチス・ドイツを正面きって弾劾することが出来ず、ユダヤ人を進んで救おうとする動きを作ることが出来なかった。 そして、戦争が最終段階に入って誰の目にもナチス・ドイツの崩壊がはっきり判る頃になって、ユダヤ人救済の声がようやく国際的に上がり始めた。 しかし、時すでに遅かった。
アーロン&ロフタス著『汚れた三位一体〈バチカン・ナチス・ソ連情報部〉』には次のように書かれている。
「1943年4月、イギリスとアメリカの高官レベル会議(バミューダ会議)で、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策に対しては、何もすべきでないことが正式に決まり、大量救出のためのあらゆる計画が放棄された。 イギリス外務省とアメリカ国務省は、ナチス・ドイツがユダヤ人迫害を中止した場合、強制収容所で生き残ったユダヤ人数十万人が西側に流れ込むことを心配した。 1943年の終わり頃、イギリス外務省は 「ドイツヘの対応があまりに強化されれば、この事態が起こりかねない」 との懸念をアメリカ国務省に明示した。 1943年春に開かれたバミューダ会議の秘密報告書は、ユダヤ人の入国を望む国が1つもなかったことを明らかにしている。 ユダヤ人をアメリカやイギリスやカナダに大量疎開させるより、ヒトラーに任せておく方が得策だと、彼らは考えた」。
第2章 不発に終わった「エビアン会議(1938年)」
1938年7月6日、32ヶ国の代表者がフランスのエビアン(レマン湖南岸の保養地)に集まり、ユダヤ難民問題の会議「エビアン会議」を開いた。 ナチス政権がユダヤ人迫害を始めてから既に5年が経っていた。 ナチスのユダヤ人迫害はいよいよ露骨になり、それを多くの人々が知り、欧米諸国が国内の世論を無視できなくなっていた。 各国の代表者は、人道主義的立場から、虐げられているユダヤ人を救済するためには全員一致してナチス政権の反ユダヤ政策を阻止すべしとか、ユダヤ難民を受け入れようとか、熱弁をふるった。 しかし、それらは空理空論ばかりで、実行可能な具体策は1つもなかった。 各国代表は、どこかの国が問題を解決してくれるだろうと期待し、終には異口同音に、「我々はユダヤ難民に手を差し伸べるのにやぶさかではないが、我が国の現状がそれを許さないのは誠に遺憾である」 という趣旨の発言をした。 結局のところ、イギリス政府も、アメリカ政府も、フランス政府も、難民受け入れのために移民法をほんの少しでも緩めるどころか、反対に移民制限を厳しくした。 ドイツの隣国であるスイスも、ユダヤ人の不法越境が増えたので困ると言って、ナチス政権に抗議した。 イギリスのチェンバレン首相(在任 1937年~1940年)が 「ユダヤ人を受け入れることによって、国内の反ユダヤ主義が強まるのを恐れる」 と言い訳し、ナチス政権の外相リッベントロップは 「我々がドイツからユダヤ人を放逐しようと思っても、どこもユダヤ人を受け入れてくれない」 と、こぼしたそうである。 実際にはイギリスとオーストラリアが僅かではあったが、ユダヤ難民受け入れに手を貸した。 しかし、それも、国民を刺激することを恐れて、秘密裏に行なわれた。 ナチス政権はこういうヨーロッパ全体の反応を予測していた。 ユダヤ人救済のラッパは鳴れども、誰も動かなかった。 ナチス政権の理論的指導者として活躍したアルフレート・ローゼンベルクは、このエビアン会議について、党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』に論説を寄せ、国際会議というものは伝統的に反ユダヤ主義者の代表の集まる場であることを指摘した。
エビアン会議が不発に終わってから4ヶ月後の1938年11月9日、ドイツでは「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人迫害事件が起き、計画的なユダヤ人迫害が始まった。 この「水晶の夜」と呼ばれるユダヤ人迫害事件は、ユダヤ人青年が在フランス・ドイツ大使館の書記官であるフォン・ラートを射殺した事が切っ掛けとなって起きた。 この事件によって、ドイツ全土の400のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)のほとんど全てが焼き打ちされ、7500のユダヤ人商店が破壊された。 その際に砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから「水晶の夜」と言われているが、実際には殺害されたユダヤ人の血や遺体、壊された建造物の瓦礫などで現場は悲惨なものだったという。 この事件で96人のユダヤ人が殺され、2万6000人のユダヤ人が逮捕されて強制収容所に連行された。 この事件を機に、ヒトラーはユダヤ人の大規模な国外追放を始めた。
エビアン会議で西側諸国がユダヤ難民の保護に二の足を踏んだことが、ユダヤ人迫害の完遂を急ぐナチス・ドイツにゴーサインを送ることになったと見る歴史家は少なくない。 ルント・シラー著『ユダヤ人を救った外交官 ラウル・ワレンバーグ』(明石書店)の訳者である田村光彰氏(北陸大学法学部教員)は、エビアン会議の実態について次のように語っている。
「1938年7月6日、フランスの保養地エビアンで10日間にわたる国際難民会議が開催された。 この会議では、わずかな例外を除いて、いかなる国もユダヤ難民を引き受けようとはしなかった。 そればかりか、その時点まで法律上受け入れの可能性のあった国々は、移民法を改正し、締め出しを図り、少しではあるが開いていた国境を閉じた。 ユダヤ難民の入国を拒否する理由は、第1に福祉政策上の恐れであった。 ユダヤ人は多くの法律や条例で職業から締め出され、ユダヤ人自営業は閉鎖され、人間として生存する最低限の市民権をも奪われていた。 更に、ドイツやオーストリアから国外移住する場合には、ほぼ全財産が没収された。 貧困と絶望がユダヤ人を直撃した。 諸外国は、入国してくるユダヤ難民が福祉の受給者になることを避けようとした。 第2に、世界恐慌の影響と、それによる自国内の失業者の存在である。 〈中略〉 32ヶ国の代表と39の救援組織が参加したこの国際難民会議は、見るべき成果がほとんどなかった。 ユダヤ難民を救うという本来の主旨は、難民の救済とは不釣り合いな開催場所である保養地の湯煙のなかに雲散霧消してしまった。 以降、ユダヤ難民に手を差し伸べようとする組織的で国際的な努力は、第二次世界大戦の勃発と共に、ほんの少数の例を除いて、消滅していった」。
第3章 ユダヤ難民に冷淡だったフランス
ナチス・ドイツがフランスに侵入して来る2年前、フランスのダラディエ首相はユダヤ移民を対象とした人種差別法令を発していた。 また、フランスの「ユダヤ人問題委員会」のベルポワは 「戦争を望んでいるのはユダヤ人である。 戦争が彼らの経済を助長し、世界征服へと繋がるものであるからだ」と述べ、更に「ヒトラーは問題解決法をよくわきまえた人物である」と、ナチス政権の政策を称賛した。 1938年11月の「水晶の夜」事件以後、ドイツを脱出するユダヤ人が続出すると、フランスはその波(影響)が自国を揺さぶらないように手を打ち始めた。 イギリスのチェンバレン首相がパリに出向いて、「もっとユダヤ人を受け入れるべし」とフランスに対して勧告すると、「これまでユダヤ人を入れ過ぎた。 もう一人たりとも入国させられない」と、フランス側は返答した。 その言葉通りにフランスはドイツからのユダヤ難民を送り返した。
1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵入すると、同年9月3日、フランス政府はイギリス政府と共にドイツ政府に宣戦し、ここに第二次世界大戦が始まった。 フランスはドイツと戦う自信が十分にあったが、宣戦布告から僅か9ヶ月後の1940年6月にドイツに降伏し、ヴィシー政権(1940年~1944年)が生まれた。 フランスではそれから3ヶ月も経たないうちに「ユダヤ人を差別する法規」が作られ、実施された。 その第1段階として、ユダヤ人は公職から追放され、学校・病院といった公的機関からも締め出され、翌年からは自由業も禁止され、ユダヤ人の大部分は失業を余儀なくされた。 ユダヤ人学生は、1941年6月に作られた法規によって大学進学の道を封じられ、ユダヤ人の子供たちは公園で遊ぶことを禁じられた。
フランスには、1870年に成立した「クレミュー法令」というのがあって、それによってユダヤ人に対する中傷も禁じられていたが、ヴィシー政権は「クレミュー法令」の無効を宣言した。 この法令は、ある種の人間の集団に対してジャーナリズムが人種的・宗教的反感を煽り立てることを禁じたものであったが、ヴィシー政権下ではその無効宣言によって、反ユダヤ主義運動が合法化された。 ヴィシー政権はナチス・ドイツに屈服した後で成立したから、あたかもナチス政権の圧力によってユダヤ人迫害に手を染めたかのように一般には信じられてきたが、実際には「クレミュー法令」の無効宣言はヴィシー政権が自発的に発したのであった。 ヴィシー政権のラヴァル首相は、ドイツの反ユダヤ主義を利用して、フランスの再建を図った。 彼は「永遠に同化しようとしないユダヤ民族は、フランスの中に別の国家を築いて我々を滅ぼそうとしているのである」などと言い、1941年の春にはユダヤ人の財産没収を宣言した。 ユダヤ人の財産没収のことを「アーリアニザション(アーリアン族所有化)」と称し、得意になったラヴァル首相は、ドイツのSS将校との会合において、「反ユダヤ主義の行動という点では、我々フランスのほうが諸君ナチス・ドイツよりも先輩である」と言ったと言われている。 しかし、この「アーリアニザション」たるや、体裁のよい掠奪みたいなものであった。 例えば、没収した物品についての控えもろくに付けていなかった場合が多く、没収財産の大方は行方不明となり、それに携わった役人の懐に入ってしまったと言われている。
第4章 ユダヤ難民に冷淡だったイギリス
第一次世界大戦後、イギリスは、パレスチナ占領の実績にものを言わせて、国際連盟からパレスチナの委任統治権を得た。 同時にイギリスはユダヤ人の国家作りも課題として負わされた。 当時、イギリスは国内政策としても、外交政策としても、ユダヤ人に関する難題を抱えていた。 具体的には、第一次世界大戦前にロシアからおびただしい数のユダヤ人がドーバー海峡を渡って住み着いた上に、1930年代に入ってからはドイツからユダヤ人が押し寄せ、国内にユダヤ・ストレスが貯まっていた。 イギリスのチェンバレン首相は、先述したように、フランス政府に対してユダヤ難民をもっと受け入れるようにと、人道的な呼び掛けをしたが、自国や委任統治領パレスチナに大量のユダヤ人を受け入れることを種々の理由で渋っていた。 そのようなイギリスの政策によって、どれだけのユダヤ人が命を失ったか計り知れないと言われている。
シオニズム発生以来、パレスチナへ流れ込んだユダヤ人はロシア、ポーランド、ルーマニア、スロバキア、ハンガリー、ブルガリア、リトアニア、ラトビア、などからやって来た東欧ハザール系ユダヤ人であった。
1942年12月、イギリス議会下院で、リバプール選出のシドニー・シルバーマン議員がアンソニー・イーデン外相に対し、「ドイツが全てのユダヤ人を東ヨーロッパへ追放し、彼らの殺害を計画している」という説の真偽を質問した。 それに対し、イーデン外相は次のように答えた。 「その通りであります。 占領下のヨーロッパで、ドイツの支配下に置かれているユダヤ人が野蛮で非人道的な扱いを受けているということに関し、最近、信頼すべき報告が政府に届いていることを議会の場でご報告申し上げねばならないのは、たいへん遺憾なことであります」。 このようにイギリス政府はヒトラー政権下のハザール系ユダヤ人の悲惨な状況を明確に把握していた。 しかし、イギリス政府は東欧ハザール系ユダヤ難民に対して冷淡・無関心な姿勢を崩すことはなかった。
第5章 ユダヤ難民に冷淡だったアメリカ
1930年代末(第二次世界大戦当初)、ユダヤ人の追放・処刑・殺害といったニュースがナチス・ドイツ占領下のポーランドからアメリカに伝わってきた時、アメリカ政府はユダヤ難民の受け入れの意志を見せなかった。 ルーズベルト大統領はユダヤ人の収容地としてドミニカ共和国を考えていたようである。 スペイン政府は40万人のユダヤ人に対して、行先国のビザを所有する者に限って通過を許可したが、そのような時でもアメリカ政府は知らぬ顔を通した。 1930年代のアメリカでは、ユダヤ人が政府の職に多く就きすぎていると考える者が24%、ヨーロッパでユダヤ人が迫害を受けているのは彼ら自身の責任であると思う者が35%で、ドイツから多数のユダヤ人がアメリカに亡命してきたら受け入れるべきかという問いに対しては、回答者の77%が否定的だった。 また、大西洋横断無着陸単独飛行に世界で初めて成功したチャールズ・リンドバーグは第二次世界大戦へのアメリカの参戦に反対し、「ユダヤ人とイギリス政府とルーズベルト大統領がアメリカを参戦させようとしている」と主張した。 彼はその後も親ナチス的な言葉を口にし、大戦中、反ユダヤ主義を公然と支持した。
ナチスに追われたユダヤ人がアメリカに押し寄せ始めた時、アメリカ政府は1939年6月の「スミス法」で外国人受け入れ取締りを強化し、続いて1941年11月には「ラッセル法」を制定してビザ発給を制限した。 それにより、ヨーロッパにおけるアメリカ政府の出先機関はビザ発給を停止したのも同然であった。 ナチス政権は初めの頃はユダヤ人がドイツ国外に移住するのを黙認していたが、1941年10月、ユダヤ人のドイツ国外への移住を禁止した。 だから、それまでにアメリカがもっとユダヤ人を受け入れていれば、迫害の犠牲とならずに済んだユダヤ人はかなりいたであろうと言われている。 アメリカ政府は、それらの人々にとって最も貴重な時期に2つの法令を以てユダヤ人の足を二重に縛った。
1930年代、アメリカ政府は、イギリス政府からユダヤ人受け入れの催促を受けた時、「戦争が済んだ後、それらのユダヤ人たちが再びイギリスに戻るという保証がない限り、受け入れられない」と言い、1940年になって現実に受け入れたのは、わずか3万6000人あまりであった。 そして、その後も1日に20人~30人のみの審査をするといった悠長さであった。 1942年に、ソ連邦内のユダヤ人母子1万人をソ連から他国に移動させるのを手伝う用意があると、アメリカ政府が声明を出したが、これとてアメリカが自国に引き取るのではなく、具体的には「ソ連からペルシャに集結した難民1万人をメキシコに送る輸送料を受け持つ」というものであった。 1942年8月に在スイスのアメリカ大使館からの報告で、「ナチス政権がヨーロッパにおいて大量のユダヤ人を殺害する計画を企てている」と聞かされた時も、アメリカ政府は「ユダヤ人の被害妄想的プロパガンダ」としか受け取らなかった。
ルーズベルト大統領夫人のエリノア・ルーズベルトが、ユダヤ人たちをアメリカもしくはアフリカに受け入れるべきであると世論に訴えたこともあったが、その気のないアメリカ国務省は船舶不足を理由に、夫人の提案を退けた。 そして、「ナチスのスパイが潜入していることも考えねばならない」と付け加え、更に「いずれにせよ、我々はユダヤ人問題に関わり合う立場ではない」と、一切の救援を拒否する態度を明らかにした。 また、国際的に活躍していたアメリカのランドール女史が「アメリカは、現行の移民法でも最小で50万人のユダヤ人を救うことが出来るはずである。 私たちは末長く、兄弟を裏切った者と呼ばれたいのですか」と訴えたが、これも空しく響いただけであった。
アメリカ政府はユダヤ人迫害の情報を秘密にして、それらの情報が一般市民には出来るだけ洩れないように努めた。 一般市民たちから集会やデモなどによって突き上げられるのを恐れたためである。 1943年、シュテフェン・ワイスという事業家が、スイスに溜めておいた私財を投じて、ナチスに賄賂を使い、7万人のユダヤ人を救出する計画を立て、着々と準備していたが、アメリカ国務省はこの計画のためには動こうとせず、その上、イギリス政府も7万人のユダヤ人を救った後のことを憂慮して、協力することを拒んだ。 シュテフェン・ワイスとその仲間は、このときの状況について「これはイギリス的冷酷と二枚舌の悪魔的な結合であり、これでは死刑宣告と同じだ」と言って、嘆いたという。
第二次世界大戦中のアメリカ政府によるユダヤ人救済政策の手ぬるさを厳しく批判した歴史家ダヴィッド・ウェイマンは著書『招かれざる民 アメリカとヨーロッパ・ユダヤ人の虐殺』の中で次のように指摘している。
「ドイツとオーストリアにいた凡そ70万人のユダヤ人のうち、その半数が第二次世界大戦開始前に外国へ移住・逃亡した。 そのうちの10万人をアメリカが、10万人弱をパレスチナが、5万人をイギリスが、5万人弱をその他の諸国が受けいれた。 残る30万ほどのユダヤ人の多くがナチスによる絶滅計画の犠牲になることになる。 そして、第二次世界大戦の開始によって、ドイツの支配下に入ったポーランドへ向けて、各地からユダヤ人の強制輸送が始まった。 1941年10月には、ナチス第三帝国支配下の地域からのユダヤ人の移住は禁止され、海外への逃亡の道は全く閉ざされることになったのである」。
リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、ダッハウ収容所に収容されたが、アメリカの日系人部隊によって救出されたという。 彼はこの時の体験を著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。 彼は当時のアメリカ外交官について、この本の中で次のように書いている。
「リトアニアの臨時の首都カウナスは長年にわたり、ユダヤ人がよそからの干渉をほとんど受けることなく暮らすことのできる、ヨーロッパで数少ない場所のひとつで、ユダヤ人は強固なコミュニティを築き上げていた。 私が11歳のとき、第二次世界大戦が始まり、一転して恐怖に満ちた日々となった。 カウナスは、ナチの手を逃れ、避難場所を提供してくれる国を必死に探し求める人々であふれかえる、ふきだまり地点と化した。 彼らの多くが断られ、あちらの政府こちらの当局から追い返された。 アメリカとイギリスの政府もそうであった。 〈中略〉 ダッハウ収容所で5歳年長のベルトルトと一緒に過ごすことが多くなった。 ベルトルトの一家は、私の家族と同じように、もう少しでアメリカに渡るところだった。 ポーランド駐在のアメリカ領事は最初、問題はないといっていた。 ところが、ベルトルトの母親がユダヤ人で、父がポーランド社会党のメンバーであるのを発見すると、『わが国にアカはいらん。 それにユダヤ人が洪水みたいにやってきては困るんでね』と手の平をかえした。 これをきいて、日ごろ温厚なベルトルトの父親が領事に飛びかかり、なぐりたおしてしまったという。 『これでアメリカ移住はおじゃんさ。 あげくの果てに、お袋と弟はアウシュヴィッツに送られ、おやじはワルシャワ蜂起のときに殺されたよ』 ユダヤ人を差別したこのアメリカ外交官と、カウナスの、あの日本領事代理(杉原千畝)はなんと違っていたことか」。
アメリカを代表する歴史家の一人、ボストン大学のヒレル・レビン教授(ユダヤ学研究所所長)も、次のように語っている。
「いくら日本政府に何らかの損得勘定があったにせよ、日本側の対応は当時のアメリカ政府の非協力的な対応に比べれば、天と地ほどの差がある。 もし、アメリカ政府がもっと積極的にユダヤ人救済に手を差し伸べていたら、何百万という命が助かっていたはずだからだ。 だがアメリカは、杉原がユダヤ人に対するビザの大量発給に注いだのと同じくらいの努力を、ビザを発給しない方向に使ったのだ。 当時から多くのユダヤ系移民がいたアメリカではユダヤ人勢力が社会に相当な影響力を持っていたはずである。 にもかかわらず、なぜアメリカはユダヤ人を救済しようとしなかったのか。 この問題はかなりのミステリーと言わざるを得ない」。
第二次世界大戦中、アメリカ政府はユダヤ人に対する入国査証の発給を非常に制限し、 入国拒否に近い政策を執っていた。 明治学院大学法学部教授の丸山直起氏は、著書『太平洋戦争と上海のユダヤ難民』(法政大学出版局)の中で次のように述べている。
「アメリカのルーズベルト大統領はユダヤ難民の境遇に同情し、亡命者あるいは難民としてアメリカに入国した多くの優秀なユダヤ人の能力を高く評価し、彼らを通じてドイツ国内の悲惨な状況を把握していた。 しかし、移民法を改正してユダヤ難民のために門戸を全面的に開放することまでは考えなかった。 1939年5月、ユダヤ難民を乗せドイツからキューバに到着しアメリカを目前にしたものの、ヨーロッパに送り返された『セント・ルイス号』難民の悲劇ほど、ユダヤ難民に対するアメリカの冷淡さを象徴する事件はなかった。 また、1942年以降、ユダヤ人虐殺の悲報がホワイトハウスに届けられたにもかかわらず、ルーズベルト大統領は積極的な行動に出ようとはしなかった。 1943年10月6日、ワシントンでナチスのユダヤ人虐殺を糾弾する正統派ユダヤ教徒による集会と行進が挙行された際、ユダヤ教のラビ代表とルーズベルト大統領との会見の調整が試みられたが、ルーズベルト大統領は、こうした会談は国務長官が行なうべきであると判断し、ホワイトハウスを訪れたラビ代表に対して、その到着前に外出し会見を回避する道を選んだのであった。 〈中略〉 正統派ユダヤ教団体は、ヨーロッパのユダヤ人を脱出させるため、パスポートやビザなどを偽造したが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちはこうした不正な方法に反対し、自国の移民政策に反してまで気の毒なユダヤ難民に支援の手を差し伸べる気はなかった。 とりわけ、ポーランドで救援を待ち望む聖なるユダヤ教学者を救うことこそ、何ものにも優先すべきとする正統派ユダヤ教団体と、アメリカ国内世論の動向に神経質なスティーブン・ワイズら米国ユダヤ人社会の指導者の対立は深刻であった。 例えば、1940年8月初めにアメリカの主要ユダヤ人団体が参加した会議で、正統派のラビたちは、リトアニアから3500人のラビ・学生たちを入国させるための特別ビザを発給するよう国務省に圧力をかけて欲しいと要請したが、スティーブン・ワイズらは、これほど多数のユダヤ人を定住させることは容易ではないとして、アメリカ政府に圧力をかけることに反対した。 アメリカのシオニスト運動指導者たちは、ホロコーストの間もパレスチナにユダヤ人国家を建設する計画に精力を傾けており、ヨーロッパのユダヤ人の救済は二の次であった」。
アメリカ孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、「ルーズベルトはユダヤ難民に無関心だった」と告発している。 少し長くなるが、参考までに紹介しておきたい。
「1942年の初めに、私はヒトラーの非人道的な人種差別政策と、ドイツとポーランドにおける何百万人にものぼるユダヤ人虐殺を非難する決議案を議会に提出した。 これに対して、国務省はよくわからない理由から、虐殺について何も知らないと主張して、ユダヤ人に対する虐殺に反対するよう全世界の国々に呼びかけようという私の提案の採択を妨害したのだった。 その時には、ヨーロッパ中の国が、すでにヨーロッパのユダヤ人に対する虐殺を知っていたのだ。 しかるに、ルーズベルトの国務省は、説明のつかぬ、わけのわからぬ理由で私の提案に反対したのだった。 ユダヤ人のベン・ヘクトは、その自伝の中で、次のように述べている。 『ルーズベルト大統領が、ユダヤ人の虐殺を防ぐ人道主義のために、指一本上げなかったこと、ユダヤ人の置かれた境遇に対して消極的なコメントを繰り返したこと、史上最悪の大虐殺に対し無関心だったことは理解し難い』。 ベン・ヘクトは続けて、『ルーズベルトの首席秘書官でユダヤ系のデビット・ニイルズから、大統領はドイツのユダヤ人殺戮を非難するような演説や声明を発表しないだろうということを知らされた』とも書いている。 我々は、ベン・ヘクトの勇気のみならず、彼のこの問題に対する先見性を高く評価しなければならない。 彼は『次の事件』と題された、一幕物の劇を完成しようとしていた。 それは、ルーズベルト大統領が歴史の証言台の前に立たされ、お前はユダヤ人を救うために何をしたのかを述べさせられる話しである。 そして、ナチの火葬場から蘇った12人のユダヤ人が、事件を裁く陪審員を務めるのだ。 ベン・ヘクトはビバリーヒルズ・ホテルで、この原稿を書き終えた時、ちょうど、ルーズベルトの死が発表されたのをラジオで聞いたのだった。 私はベン・ヘクトを心から尊敬する。 彼は、『ルーズベルト大統領は世界中の人々と、中立国であろうとなかろうと、すべての国に対し、ナチス政権(ヒトラー)にその絶滅政策を止めるよう要求する人道的なアピールを行なうべきであり、さもなければ、全世界が道徳的汚名に苦しむことになる』と主張するだけの、先見の明と勇気を持ち合わせていたのである。 もし、ホワイトハウスからそのような声明がはっきりと発表されていたならば、ヒトラーの誇大妄想を止められたかもしれないし、少なくとも、ヒトラーの残虐さについて、おそらく全く知らないドイツ国民・ポーランド国民に真相を教えることができたであろう。 〈中略〉 1943年の初めには、世界中のすべての国の政府がヒトラーのユダヤ人撲滅政策を知っていた。 ルーズベルト大統領と国務省は、恐るべき虐殺行為を容赦なく世界中の耳目に曝すべきであったのだ。 そして、すべての連合国と中立国に対し、国際法と人道にもとる、無防備の人種的・宗教的少数派を絶滅しようとする恥ずべき政策を止めさせるために、ヒトラーとナチス・ドイツに公的に影響力を行使するよう要請すべきであった」。
第6章 不発に終わった「バミューダ会議(1943年)」
1942年1月、ロンドンの聖ジェームス宮でヨーロッパ17ヶ国の亡命政府の会議が催された時、ルクセンブルク代表を除いて、ユダヤ人虐殺をテーマに取り挙げた者はいなかった。 また、その時の共同声明の中にユダヤ人に対するナチスの犯罪を糾弾する言葉は全く見られなかった。 連合国側の態度に憤慨した在ロンドンのポーランド亡命政府は『デイリー・テレグラフ』紙に声明文を載せ、ポーランドでユダヤ人がいかなる試練を受けているかを詳細に訴えた。 一般の人々がユダヤ人迫害の凄惨な事実を知らされたのは、これが初めてだったと言われている。 イギリスやアメリカでは、ぼつぼつ市民大会が催されるようになったが、ナチスのユダヤ人迫害に対する批判が世論の形で起こったのは、ナチスがユダヤ人迫害を始めてから10年目を迎える頃、つまり、1942年の末頃であった。 その時でさえイギリス政府はユダヤ人救済には乗り気でなく、アンソニー・イーデン外相は東ヨーロッパで行なわれているユダヤ人迫害について、その年の12月の半ばに至ってようやく下院で、「ヒトラー政権はどう見ても、ユダヤ人をヨーロッパから駆逐するというかつての宣言を実行しているとしか考えられない」と報告した。 それでもなお、具体的にユダヤ人救済にはどうすればいいかという議論や、ナチスの残虐行為に対して制裁や威嚇を検討するというようなことは起こらなかった。
「この期に及んでイギリス政府は何故、ユダヤ人救済の手を打たないのか」と、腹を立てた劇作家ジョージ・バーナード・ショーをはじめ、ハロルド・ニコルソンなど、作家や政治家たちが署名して抗議をしたのであったが、それに対してさえ反響はなかった。 ようやくイギリス政府が、ユダヤ難民受け入れの政策を検討しようとアメリカ政府に提案したときも、応答を得られるまでに2ヶ月かかった。 そういった呑気さに業を煮やしたイギリスのカンタベリー司教は上院に、「事は急を要するのである。 イギリスは直ちに入国査証制度を検討し、改正すべきである」と訴え、やっとのことでイギリス政府とアメリカ政府がバミューダでユダヤ難民対策の会議「バミューダ会議」を開いた。 これは1943年4月のことである。 しかし、この時もイギリス政府スポークスマンのクランボーン卿は「ユダヤ人問題ばかりに重点を置くのは誤りである」と発言し、アメリカのコーデル・ハル国務長官も「我が国はユダヤ難民に対して、特別の処置を取ることは出来ない」と、釘を刺した。 このバミューダ会議では相変らず実行不可能な空論ばかりが飛び出し、傍聴していたイギリス自由党のエマニエル・セラーは「人間の福祉と理想を裏切る地上最低の会議」と非難した。 実際にユダヤ人への迫害が日々進行している緊急時に、出席した28ヶ国の代表はユダヤ人受け入れを了承しないばかりか、それを避けるために汲々としていたことを、当時の議事録は物語っている。
ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、このバミューダ会議の実態について、次のように語っている。 「1942年6月、アメリカは突如入国規制を強化した。 背景には市民の反ユダヤ感情、反移民感情があった。 ユダヤ人を救うことは政治目標の達成をさまたげ、戦争完遂に有害だと考えられたのだ。 それに、アメリカのユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた。 この措置をロング国務次官が提唱したことは興味深い。 ロング国務次官は東欧ユダヤ人に強い偏見をもっていた。 1943年4月19日、米英両国は『バミューダ会議』を開催した。 目的は戦争難民問題の解決であったが、現実には欧州のユダヤ人を助けようとするあらゆる努力を阻止することにあった。 アメリカが外務省員のほかには、この問題に無知な二級政治家を代表として送ったことはアメリカの姿勢を反映しており、ロング国務次官はこの会議で大きな役割を演じたのだった」。
第7章 なぜアウシュヴィッツ収容所は破壊されなかったのか
ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害がとどまるところを知らなかった頃、これを阻止するため、アウシュヴィッツ爆撃に踏み切って、その近辺のユダヤ人殺害ルートを破壊することにより、その殺害システムに打撃を与えようとの計画があった。 そのためのスパイがワルシャワに送り込まれ、その筋の戸棚の奥深くに保管してあったアウシュヴィッツの詳細なレイアウトを示した図面を盗み出すことに成功した。 一方、アメリカ空軍の撮影した写真により、技術的にも戦術的にも爆撃によるユダヤ人救済の見通しが立った。 しかし、そのプランは「アウシュヴィッツは軍事施設ではない」という理由で実行されなかった。
『アウシュヴィッツで私は14歳だった』という本を書いたアナ・ノヴァクは、1982年4月17日の『ル・ヌーベル・オブセルバトゥール』誌のインタビューに応えて、重大な証言を行なった。 彼女の言葉によれば、アウシュヴィッツ爆撃をやらなかった連合軍はその代わりに、アウシュヴィッツで強制労働させられていた囚人たちを機銃掃射したのだそうだ。 アウシュヴィッツ収容所のユダヤ人たちは連合軍戦闘機の群れに狙われたのである。 「私たちユダヤ人は、強制収容施設を爆撃してくれることを毎日どんなに待っていたか知れません。 ところが、首を長くして待っていた結果がこれでした。 それは、アウシュヴィッツ収容所に対して抱いていた絶望感よりも、もっともっと大きな絶望感を私たちに与えました。 戦後、そのことについては誰も語りたがらないのです。 連合軍は何故あんなことをやったのでしょうか。 きっと、これに答えられる人は一人もいないでしょう」。
戦時中、連合軍はアウシュヴィッツ第三収容所(モノヴィッツ)の石油精製所を爆撃したようだが、囚人を逃がすことを目的にはしていなかった。 連合軍は、アウシュヴィッツの管理施設はおろか、アウシュヴィッツへ続く鉄道網を爆撃することすらしなかった。 ユダヤ人を運ぶ移送列車の鉄道網を普通に破壊するだけでも、アウシュヴィッツ収容所の機能は混乱し、多くのユダヤ人が救われたはずなのに。 なぜ、連合軍はアウシュヴィッツ収容所を無傷のまま放置したのだろうか。 この謎について、次のように説明する人がいる。 「戦時中、連合軍は、ヨーロッパ文明のただ中で、これほどの蛮行が行なわれているとは信じられなかったし、信じたくもなかったのだ。 『ガス室』のおぞましい実態は、戦後、明らかにされた。 もし、戦時中に、『ガス室』の存在を知っていたら、直ちに爆撃していただろう」。 なるほど、このような説明は、一見もっともらしく聞こえる。 しかし、このような説明を鵜呑みにすることはできない。 なぜならば、戦時中、連合軍の飛行機は、アウシュヴィッツや周辺地域にポーランド語とドイツ語の「宣伝用パンフレット」を多数ばらまいていた。 そのパンフレットには「収容所内の人々が『ガス』で殺されている」と書かれていた。 しかも、その内容は連合国ラジオ局によって西ヨーロッパにも放送されていた。 つまり、連合軍は積極的に「ガス室」の存在を宣伝していたのである。 しかも驚くことに、イギリスはアメリカの参戦前から「ガス室を使った虐殺」という反ナチス・プロパガンダ作戦を展開していた。 彼らはナチスの残虐性を世界に宣伝する一方で、ユダヤ難民の救出には手を貸さないという奇妙な行動を取っていた。 特に、イギリス治安調整局という組織は、戦時中、協力関係にある新聞やコラムニストを通して、いかにナチスが占領地で残虐であるかという内容のニュースをたくさん配信し、アメリカ人キリスト教徒の同情を得るために、「ナチスが教会や修道院を破壊している」といった内容のニュースもたくさん流し続けた。 因みに、こうしたニュースの中には、事実に基づかず、はじめからイギリス情報機関によって捏造されたものが多く含まれていた。
連合軍は恐ろしいほど完全にアウシュヴィッツの囚人を黙殺した。 否、先のユダヤ人女性の証言が正しければ、連合軍は黙殺したどころか、アウシュヴィッツの囚人たちに機関銃弾を浴びせたのである。
三菱化成生命科学研究所の米本昌平氏は1989年に著わした本『遺伝管理社会 ナチスと近未来』(弘文堂)の中で、次のように述べている。 「実は、アウシュヴィッツが今日見学できるのは不思議なことなのである。 この点で、M・ギンベルトは『アウシュヴィッツと連合軍』(1981年)という重要な本を書いている。 ここでM・ギンベルトは、すでに1944年の後半は、ドイツの制空権の一部は連合軍の手中にあったのに、爆撃されたのは軍事施設に限られ、アウシュヴィッツ収容所には爆弾が一発も落とされなかった謎を問題にしている。 確かにこれは奇怪なことである。 連合軍がドイツの軍事施設ばかりか大都市までをも徹底的に破壊したのに、人類が作った最大の悪魔的施設アウシュヴィッツ収容所が無傷のまま残り、しかも、最近までこの不思議さに誰も気づかなかったとは」。
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