- 作者:佐藤 唯行
- 発売日: 2000/08/17
- メディア: 新書
関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博} ・
世界において、反ユダヤが多数派であり、親ユダヤは少数派であった。
親ユダヤ派の一つが軍国日本であった。
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ダニエル・パトリック・モイニハン(アメリカ上院議員)「自分の意見を言う権利は誰にでもあるが、自分で事実を作り上げる権利はない」
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正義は、残酷である。
正義を貫く為ならば、全ての事が正当化され合法化される。
正義を大とすれば、あとの事は全て小である。
勝利という正義の為ならば、如何なる不正も不義理も無慈悲も許される。
正義とは勝利で有り、敗北には正義はない。
勝利を勝ち取った者は正義であり、戦犯として裁かれる事はない。
正義の立場に立つ為には、勝利する事である。
敗者は、戦犯とされ、何ら権利はも認められない。
愛国心同様に正義を振りかざす人間は、恐ろしい人間である。
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フランス諺「慈悲よりも正義がすべての社会の基礎である」
カント「正義が滅びるのなら、人はこの世に住む必要はない」
パスカル「力なき正義は無効で有り、正義なき力は圧政である。力なき正義は反抗を招き、力なき正義は弾圧される」
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アメリカの名門ルーズベルト家は、1649年にオランダからアメリカに移住してきたユダヤ系オランダ人のクラウス・M・ローゼンベルツであった。
2代目のニコラスは、ユダヤ人の名を捨てファミリーネームをルーズベルトに改めた。
ルーズベルト家は、セオドアの家系とフランクリンの家系の二つの分かれた。
セオドア家からセオドア・ルーズベルトが、フランクリン家からフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任した。
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ルーズベルトはユダヤ人児童2万人をホロコーストから救い出す事を拒否した。アメリカ・ユダヤ人団体は、国内の人種差別を恐れて沈黙した。
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アメリカ国内には、ヒトラーの反ユダヤ主義に同調し、ユダヤ人世界征服陰謀を訴える人種差別主義者が存在していた。
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ホロコーストは、アメリカやイギリスがヨーロッパ系ユダヤ人約1,100万人を難民として無条件で受け入れていれば、起きなかった悲劇であった。
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アメリカは、ユダヤ人や黒人そして日本人に対する人種差別が激しい国であった
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親ドイツ派ビシー政権は、ナチス・ドイツの対ユダヤ政策に協力するべく、国内の無国籍ユダヤ教徒ユダヤ人7万6,000人をアウシュビッツなどに列車で送った。
フランスはもとより多くの西洋諸国は、ホロコーストに荷担していた。
国際赤十字やバチカンは、目の前で起きている悲惨な事件でありながら、無関心を装い、見て見ぬふりを決め込んでいた。
だれも、その事を聞く者はいなかった。
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ジャン=ポール・サルトル「およそ、フランス人で、ドイツ軍の占領と対ナチス抵抗運動の経験があるぐらいの年配の人間だったら誰でもそうなのだが、私はユダヤ人の組織的迫害計画を、単なるヒトラーの狂暴性のおそるべき結果として片づけることはできなかった。
このような反ユダヤ政策がフランスにおいて可能だったのは、多くのフランス人が何も言わずにのんびりと『共犯者』となっているからであって、さもなければとてもありえないことだと、毎日毎日いやというほど思い知らされたものだった。
それに、1942年のユダヤ人一斉検挙を行なったのは、ほかならぬわがフランス警察であることや、『真正フランスのフランス人』たるラバル首相が、ユダヤ人追放に関する命令書に『子供を含む』と書き込んだ事実を忘れることはできないのである。」 (サルトル編『アラブとイスラエル』サイマル出版会)
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1939年2月 ニューヨークの上院議員ロバート・ワグナーとマサチューセッツの下院議員イーディス・ロジャーズは、非常に厳しい規制の移民割当数に14歳以下のドイツ系ユダヤ人の子供約2万人を上乗せする特別許可法案を提出した。
世論調査は、ユダヤ人に対する根強い人種差別意識を反映して75〜85%が移民割当数を緩和する事に反対した。
世論としての反ユダヤ意識が、政治運動として政党に影響を与えるほど滲透していなかったが、伝統的孤立主義者や労働組合系移民排斥主義者はユダヤ人難民に門戸を開放する事に反対していた。
個人の信念で動くアメリカの政治家は、投票行動に直接関係する世論調査に神経を尖らせ、ユダヤ資本から献金を受けている政党の方針とは関係なく独自の行動をとっていた。
議会内の保守派と革新派は、「他国の子供より、自国の子供を考えるべき」として、ワグナー・ロジャーズ法案を「ユダヤ人優遇法案」と揶揄して攻撃した。
多数派を占める中間派は、圧倒的多数の民意に従って、同法案を議会で審議する事なく委員会で却下した。
ルーズベルトは、ユダヤ人の子供をヒトラーの迫害から救う法案が却下されるのを見過ごした。
アメリカ・ユダヤ人社会は、アメリカで生活するユダヤ人の権利を守る為に政党や政治家に多額の献金を行っていたが、他国のユダヤ人の人権はおろか生死には興味がなかった。
彼等の最大な関心事は、移民割当数を緩和して多くのユダヤ人難民を受け入れた場合、ユダヤ人世界征服説を信じている人種差別主義のアメリカ市民がどの様な反ユダヤ運動を起こすかであった。
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J・P・モルガン商会は、フランス国内での営業を続ける為に、ビシー政権はもちろんナチス・ドイツとも緊密な関係を持ち続けた。
W・A・ハリマン商社は、ドイツのアウグスト・テッセン銀行系の貿易海運銀行(オランダ)と提携してニューヨークにユニオン・バンキングという銀行(ジョージ・ウォーカー社長)を設立し、1942年10月迄ナチス・ドイツに投資していた。
チェースマンハッタン銀行(ニューヨーク)は、パリ支店の支店長をアメリカ人からスイス人のカルロス・ニーダーマンに代え、ドイツ人の口座を保有して通常業務を続けた。ニューヨーク本社は、42年末まで業務報告を受け中止させなる事なく財務省への報告を遅らせた。
スタンダード石油は、ドイツにドイツ・アメリカ石油(DAPAG)を設立し、取締役カール・リンデマン(ドイツ国際商工会議所元会長)を通じて、ナチ党中枢とドイツ政府首脳とのつながりを持ち、「ヒムラー友の会」(ケプラー・クライスの後身)に巨額の献金を行ってドイツ国内及びドイツ軍占領地の資産を守った。
ITTなどのアメリカ企業も、敵国資産として没収されない為に、中立国のスウェーデンやスイスにダミー会社を作って所有権を移し、経営者をアメリカ人以外の人間とするなどの偽装工作を行い、今まで通りの業務を続けていた。
アメリカ企業がドイツにある資産を守ろうとしたのと同様に、ドイツ企業も連合国にある資産を守ろうとしていた。
親衛隊やゲシュタポが本気で調べれば直ぐに見破る事が出来る偽装工作であったが、摘発を逃れる為に、反共親米派ドイツ財界人を通じて「ヒムラー友の会」に献金を欠かさなかった。
アメリカの戦略情報局(OSS)のアレン・ダレスは、43年1月から4月にかけて、ヒムラーの密使と極秘で和平の予備会談を行っていた。
反共反ユダヤのヒムラー親衛隊長は、ソ連・共産主義に対抗する為にアメリカとの和平を望んでいたが、ヒトラー総統を裏切り追い出すだけの勇気がなかった。
バチカンも、反宗教無神論の共産主義勢力に対抗する為に、ドイツ保守派と連合国の和解を望んでいた。
アメリカの保守派は、ソ連・共産主義勢力のヨーロッパ進出を食い止める為に、ナチス・ドイツの戦犯やユダヤ人弾圧に目をつぶり、強力な反共防波堤をドイツに築こうとしていた。
アメリカ軍内部では、戦後の対ソ戦略から、多くのナチエリートを利用する為にキリスト教会を通じてスカウトに取り掛かっていた。
1942年頃 アメリカ財務省は、イギリスの情報機関イントレピュドお協力を得てIGファルベンと協力関係にあるスタンダード石油を告発してちょうさを開始した。
軍当局は、軍事用燃料をスタンダード石油に依存している為に、戦闘に支障を来す恐れがあるとして財務省に圧力をかけた。
国務省やOSSあ、戦後の国際戦略から、スタンダード石油の支援に廻った。
ルーズベルトは、軍当局の強い要望を受け、財務省に利敵行為の追求を断念する様に指示した。
司法省外国資産管理局は、IGファルベンの子会社ゼネラル・アニリン&フィルム(GAF、デラウェア)を敵国資産として没収するや、ジョン・フォスター・ダレスを通じて親ドイツ派財界人に預けた。
親ドイツ派財界人達は、自由と民主主義の敵である共産主義勢力に対抗するべく、「強いドイツ」の再建計画を建ててアメリカ国内のドイツ資産を保護した。
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ハミルトン・フィッシュ「1942年の初めに、私はヒトラーの非人道的な人種差別政策と、ドイツ、ポーランドにおける、何百万人にものぼるユダヤ人の虐殺を非難する決議案を議会に提出した。
これに対して、国務省はよくわからない理由から、虐殺について何も知らないと主張して、全世界の国々にユダヤ人に対する残虐な虐殺に反対するよう呼びかけようという私の提案の採択を妨害したのだった。その時には、ヨーロッパ中の国が、すでにヨーロッパのユダヤ人に対する残忍な虐殺を知っていたのだ。
しかるに、ルーズベルトの国務省は、説明のつかぬ、わけのわからぬ理由で私の提案に反対したのだった。」「ユダヤ人のベン・ヘクトは、その自伝の中で、次のように述べている。
『ルーズベルト大統領が、ユダヤ人の虐殺を防ぐ人道主義のために、指一本上げなかったこと、ユダヤ人の置かれた境遇に対して消極的なコメントを繰り返したこと、史上最悪の大虐殺に対し無関心だったことは──』理解し難い。
ベン・ヘクトは、続けて、『ルーズベルトの首席秘書官でユダヤ系のデビット・ニイルズから、大統領はドイツのユダヤ人殺戮を非難するような演説や声明を発表したりしないだろう、ということを知らされた』とも書いている。
我々は、ベン・ヘクトの勇気のみならず、彼のこの問題に対する先見性を高く評価しなければならない。
彼は『次の事件』と題された、一幕物の劇を完成しようとしていた。
それは、ルーズベルト大統領が歴史の証言台の前に立たされ、お前はユダヤ人を救うために何をしたのかを述べさせられるのである。そしてナチの火葬場から蘇った12人のユダヤ人が、事件を裁く陪審員を務めるのだ。
ベン・ヘクトはビバリーヒルズ・ホテルで、この原稿を書き終えた時、ちょうど、ルーズベルトの死が発表されたのを、ラジオで聞いたのだった。
私は、ベン・ヘクトを心から尊敬する。
彼は、『ルーズベルト大統領は世界中の人々と、中立国であろうとなかろうと、すべての国に対し、ナチス政権(ヒトラー)にその絶滅政策を止めるよう要求する、人道的なアピールを行なうべきであり、さもなくば全世界が道徳的汚名に苦しむことになる』と主張するだけの、先見の明と勇気を持ち合わせていたのである。
もしホワイトハウスから、そのような声明がはっきりと発表されていたならば、ヒトラーの誇大妄想を止められたかもしれないし、少なくとも、ヒトラーの残虐さについて、おそらく全く知らないドイツ、ポーランド国民に、真相を教えることができたであろう。」
「1943年の初めには、世界中のすべての国と政府が、ヒトラーのユダヤ人撲滅政策を知っていた。
ルーズベルト大統領と国務省は、恐るべき虐殺行為を容赦なく世界の耳目に曝(さら)すべきであったのだ。そして、すべての連合国と中立国に対し、国際法と人道にもとる、無防備の人種的、宗教的少数派を絶滅させようとする恥ずべき政策を止めさせるために、ヒトラーとナチス・ドイツに公的に影響力を行使するよう要請すべきであった。」(『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』)
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ハインツ・E・マウル「1942年6月、アメリカは突如入国規制を強化する。背景には市民の反ユダヤ感情、反移民感情があった。
ユダヤ人を救うことは政治目標の達成をさまたげ、戦争完遂に有害だと考えられたのだ。それに、アメリカのユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた。この措置をロング国務次官が提唱したことは興味深い。ロング国務次官は東欧のユダヤ人に強い偏見をもっていた。」
「1943年4月19日、米英両国は『バミューダ会議』を開催した。
目的は戦争難民問題の解決であったが、現実には欧州のユダヤ人を助けようとするあらゆる努力を阻止することにあった。アメリカが外務省員のほかには、この問題に無知な二級政治家を代表として送ったことは、アメリカの姿勢を反映しており、ロング国務次官はこの会議で大きな役割を演じたのだった。」(『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』)
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サイモン・ヴィーゼンタール「大戦中、死の収容所の存在は早い段階で西側諸国に知られていた。だが、まるで問題にされなかった。
1942年7月2日のNYタイムズ紙の記事は『100万のユダヤ人虐殺される』だった。……アメリカ政府に嘆願書を送った。ナチスによるユダヤ人の移送を止め、アウシュヴィッツのガス室を破壊してくれと。しかし、集中攻撃はなかった。繰り返し爆撃が行なわれたのは郊外の工場だった。連合軍にとって、ユダヤ人の救済は優先度の低い問題だったのである。」
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1942年8月 スイス政府は、39年10月に制定した非常時法に基づき全ての不法入国者(特にユダヤ人難民)を強制送還すると発表した。
無国籍ユダヤ人は、犯罪者として国外追放された。
ナチス・ドイツは、スイスを追い出されたユダヤ人難民を強制収容所に送った。
一部のスイス国民は、政府の命令を無視してユダヤ人難民を匿った。
シュタイガー法相「約10万人がフランス国境からスイスへ押し寄せており、一日に100人が入国を試みている」
バーゼルの某司祭「政治的被迫害者、戦争捕虜、脱走兵などは亡命者として受け容れられるが、ユダヤ人には難民権はない」
スイス国営放送(同年11月)「1万4,000人のユダヤ人が国境を超えてスイス国内に移住した」
1942年から44年までに、スイスに入国したユダヤ人難民は1万1,000人で残りはアメリカやパレスチナなどに移住した。
スイス銀行は、ヒムラーらがユダヤ人を虐殺して奪った「血塗られた金塊」を預かっていた。
戦後。連合国と協定を結び、多くを返還したが、一部を隠匿した。
虐殺されたユダヤ人の口座は勝手に凍結され、ユダヤ人遺族の資産確認請求は拒否された。
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1942年12月 イギリス議会(下院)で、リバプール選出のシドニー・シルバーマン議員が、アンソニー・イーデン外相に対し、「ドイツが全てのユダヤ人を東ヨーロッパへ追放し、彼らの殺害を計画している」という説の真偽を質問した。
それに対し、イーデン外相はこう答えている。
「その通りであります。占領下のヨーロッパで、ドイツの支配の下に置かれているユダヤ人が、野蛮で非人道的な扱いを受けているということに関し、最近、信頼すべき報告が政府に届いていることを、議会の場でご報告申し上げねばならないのは、たいへん遺憾なことであります。」
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ポール・ジョンソン「ユダヤ人難民を多数受け入れる能力があったのは、米国である。
ところが実際には、戦争中たった2万1000人しかユダヤ人移民を入国させていない。これは法律で定められた移民割り当て枠の10%にあたる数でしかなかった。その理由は一般大衆の反感である。米国在郷軍人会から外国戦争退役軍人協会に至るまで、愛国的団体はみな移民の全面的禁止を求めていた。
米国史上、第二次世界大戦中ほど反ユダヤ感情が高まった時期はない。世論調査によれば、1938年から1945年にかけて、人口の35〜40%が、反ユダヤ的立法を支持していた。1942年の調査によれば、米国にとって、ユダヤ人は日本人とドイツ人に次ぐ大きな脅威とみなされていた。
1942年から1944年にわたる期間に、ニューヨークのワシントン・ハイツ地区で全てのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)が冒涜されたが、この背景には広汎な反ユダヤ感情があった。
……
具体的な行動を取るうえで大きな障害となったのは、ルーズベルト大統領その人である。彼には多少反ユダヤ的傾向があり、しかも状況について正確な報告を受けていなかった。この問題がカサブランカ会議で持ち出された時、大統領は、『ドイツ人がユダヤ人に対し抱いている不満は、理解できるように思う。彼らは人口のごく一部しか占めていないにもかかわらず、ドイツの法律家、医者、教師、大学教授の50%以上がユダヤ人なのだから』と語った。
ルーズベルトは国内の政治情勢のみ考慮していたように思われる。(米国内の)ユダヤ人の90%が大統領を支持しており、これ以上ユダヤ人のために行動する必要を感じなかった。組織的殺戮についての事実が明らかになった後でも、大統領は14ヶ月の間、何も行動を取ろうとしない。
1943年4月、遅まきながらこの問題に関する米英会議がバミューダで開かれたが、大統領は一切興味を示さなかった。そして会談の結果、具体的な措置は何も取りえないことだけが確認されたのである。
それどころか、『難民受け入れの可能性に関しては、ヒトラーへのいかなる働きかけもなされるべきではない』との警告が発せられたのだ。」(『ユダヤ人の歴史 〈下巻〉』)
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1943年 ダーネッカー・ベレフ会談(テオドール・ダーネッカー親衛隊大佐とブルガリアのユダヤ人問題担当責任者ベレフ)で、ソフィアのブルガリア系ユダヤ人約2万人を強制収容所に送る事で合意した。
トルコの教皇特使アンジェロ・ロンカーリー枢機卿(後の、教皇ヨハンネス23世)は、ボリス国王に信書を送ってソフィアからの移送を中止させた。
だが、サロニキから輸送された2万4,000人のブルガリア系ユダヤ人はトブリンカ絶滅収容所で虐殺された。
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デンマークの地下組織は、ユダヤ人移送を妨害し、多くのユダヤ人難民を国外に脱出させた。
金儲け目当ての逃がし屋は、大金をも貰って国外に逃がした。
中には、大金をせしめた上で、地元警察やゲシュタポに売った逃がし屋もいた。
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中立国スウェーデンは、3万5,000人のユダヤ人難民を受け容れた。
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1943年4月 スウェーデン政府は、人道的立場から、ユダヤ人児童2万人を救出するべくナチス・ドイツと解放交渉を行っていた。
解放条件として、児童の生活費と医療費をアメリカ・イギリス両政府が折半で負担し、終戦後はパレスチナまたは第三国へ出国させてヨーロッパに帰国させない事を約束した。 ナチス・ドイツ側は、ヨーロッパからユダヤ人を追い出す為に提案を受け入れた。
イギリス政府は5月19日にスウェーデン案に同意したが、アメリカ政府は回答を保留した。
アメリカ政府は、10月11日に、ユダヤ人児童に限らず全ての戦争難民児童を対象にした「国際難民委員会」の発足を求める、逆提案を行った。本心は、反ユダヤの国民世論を意識しての拒否表明であった。
イギリス政府は、妥協案として、スウェーデン案を尊重しながら、ノルウェーのユダヤ人児童を同時にスウェーデンに引き取らせる案を提案した。
アメリカ政府は、面子が守られるとして、44年1月にスウェーデンと共にイギリス案に同意した。
ナチス・ドイツは、アメリカにはユダヤ人を助ける意志はないと見極め、ノルウェーのユダヤ人児童数千人をスウェーデンに出国させる事を拒否し、当初のスウェーデン提案自体も廃棄した。
ホロコーストから助かるかもしれなかった2万人のユダヤ人児童は、大国のエゴと大人の身勝手で見殺しにされた。
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1944年 ルーズベルトの戦争難民全権大使イラ・ヒルシュマンは、ルーマニア政府を説得して18万5,000人の内4万8,000人を救出した。
アメリカは、人種差別をしないの原則に従って、ユダヤ人難民のみを特別扱いする事はなかった。
が。その実は、ユダヤ人難民の救出を最少に止め、それ以外のユダヤ人でない戦争難民の入国枠を拡大した。
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1944年6月 ハンガリーで、人道的活動をしていたスウェーデン人のラオウル・ワレンベルクは、スウェーデン政府の「保護旅券」を、スウェーデンに親戚のいるユダヤ人とスウェーデンと商取引のあるユダヤ人全員に配って移送から救った。それ以外のユダヤ人は見捨てた。
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ヒムラーは、ドイツ軍の敗北を予想するや、ヒトラーの許可を得ずに国際ユダヤ機関と秘密交渉を始め、身の安全を図る為にハンガリー系ユダヤ人2万人を待遇の良い収容余へ移送した。
国際ユダヤ機関も、全てのユダヤ人を助ける意志はなかく、助けられるだけの人数で交渉した。
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グイド・クノップ「1944年に、アメリカ軍の偵察機は上空9100mからアウシュヴィッツ・ビルケナウの写真を撮影しており、火葬場をはっきり確認することができた。それなのにアウシュヴィッツが攻撃を受けることはなかった。爆弾を落とさず、写真を撮ったのである。
政府の圧制に強制されたわけでもなかった人々が、何も抵抗を企てなかったのはなぜか? 連合軍はユダヤ人虐殺の開始について、非常に早い段階から情報を得ていた。彼らがドレスデンのフラウエン教会をそうしたように、アウシュヴィッツを爆撃し、虐殺機構を破壊しなかったのはなぜか?」
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