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ユダヤ教の聖職者が語る 「日本軍はナチスからユダヤ人を救った」
2018.04.13
日本軍に保護されたユダヤ人難民は、神戸港に居留した。
日本国内外における反日感情の背景には、大戦時の日本をナチスと同一視する歴史観がある。
だが実は、日本は当時、国策としてナチスの迫害に遭っていたユダヤ人を救った、世界で唯一の国だった。しかも、日独は同盟関係にあったにもかかわらず、である。
さらに、ユダヤ人救出を主導したのが、後にA級戦犯で死刑となった人々であった。
戦後、日本に滞在した経験のあるアメリカ在住のラビ(ユダヤ教の聖職者)であるマーヴィン・トケイヤー氏に、当時の日本がどういう経緯でそうした人道主義的な行動をするにいたったかについて聞いた(2014年6月号記事再掲)。
ユダヤ教ラビ マーヴィン・トケイヤー
1936年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。イェシヴァ大学を卒業後、1968年に来日、日本ユダヤ教団のラビ(教師)となる。著書は、『ユダヤ製国家日本』(徳間書店)、『ユダヤと日本・謎の古代史』(産能大学出版)、『日本・ユダヤ封印の歴史』(徳間書店)、『ユダヤ5000年の知恵』(講談社)、『ユダヤ人5000年のユーモア』(日本文芸社)など多数。
――日本はドイツの同盟国でした。
トケイヤー(以下、ト): 大戦当時、他の欧米諸国でさえホロコーストに苦しむユダヤ人を助けるどころか、積極的に差別しました。ですから私は、「ナチスドイツの同盟国だった日本は、なおさらユダヤ人を差別し、弾圧しただろう」と思い込んでいました。
――なぜ考えを変えたのですか。
ト: 歴史を研究していく中で、日本はユダヤ人を助けた唯一の国だと分かったからです。
満州でユダヤ人を助けた「A級戦犯」
ト: 1938年1月、満州に駐留する日本軍は、八紘一宇の精神のもとに、ユダヤ人を平等に扱うという「対ユダヤ民族施策要領」を策定しました。
その後すぐ、満州の樋口季一郎少将は、「満州の国境に数千人から約2万人のユダヤ人難民が押し寄せている」という連絡を受けます。ヒトラーの迫害を恐れ、リトアニアやポーランドから、シベリア鉄道経由で逃げてきた人たちでした。
――彼らはビザを持っておらず、本来は満州に入れません。彼らの入国を認めるのは、ナチスドイツとの関係上も危険でした。
ト: しかし樋口少将は、以前からナチスのユダヤ人弾圧を許せないと思っていました。彼はユダヤ人救出を決断しました。ユダヤ人に貢献した人たちを讃える「ゴールデンブック」には樋口少将の名もあります。
――ユダヤ人の救出は、樋口少将が独断で行ったのですか。
ト: まさか、そんなことはできません。実は、先に述べた「要領」の決裁者も、ユダヤ人救出の責任者も、関東軍司令部参謀長の東條英機でした。上司である東條が認めなければ、樋口少将は動けません。絶対に無理です。何かあったら責任を取るのは、樋口ではなく東條ですから。このことは、ユダヤ人の中でも私ぐらいしか知らないことです。
――なぜ東條はゴールデンブックには載っていないのですか。
ト: ゴールデンブックの編纂者は「東條とは会ったことも、喋ったこともないからだ」と言っていました。もしユダヤ人が東條を知っていれば、間違いなく名前が載っていたでしょう。
――その後、日本とドイツとの関係はどうでしたか。
ト: 後日、日本政府はドイツ外務省の強硬な抗議を受けました。東條はそれを「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として一蹴しました。
ちなみにこの時、樋口少将から依頼されて何本もの列車を手配し、ユダヤ人を移送したのは、満州鉄道総裁の松岡洋右でした。松岡はその後、外相としてドイツと交渉しています。
彼は日中に来たユダヤ人に「私はヒトラーとの同盟の責任を負っているが、日本で彼の反ユダヤ人政策を遂行するとは約束していない。これは単なる個人的な意見ではなく、日本の意見だ」と述べています。
ユダヤ人保護は国全体の「人種平等」策だった
――「ユダヤ人保護」は一部の軍人の考えではなかったのですか。
ト: これは国策でした。38年12月、首相、陸相、海相、外相、蔵相が集う最高位の国策検討機関「五相会議」で「ユダヤ人対策綱領」が決定されます。
これは「日本が長年にわたり主張してきた人種平等の精神」に基づいて「ユダヤ人を平等に扱う」というものです。相当な「反ナチス政策」で、世界のどの国もそんな決定はできませんでした。世界中の人々が知るべきものです。これを提案した板垣征四郎陸軍大臣を筆頭に、五相会議を開いた5人は全員がヒーローです。彼らはもっと勲章を受け、尊敬されるべきです。
――ユダヤ人救済に関わった東條・松岡・板垣はいずれも、東京裁判における「A級戦犯」です。
ト: この裁判は私にとって悲劇です。正義などありませんでした。「被告人」全員が法廷に入る前から有罪と決まっていたのです。さらにほとんどの裁判官は開廷日に、家で寝ていて来ませんでした。「裁判」と呼べるようなものではありません。そんな場で、私たちを救ってくれた人々が「戦争犯罪人」として裁かれたのです。
日本は「エデンの園」だった
――満州へ入国したユダヤ難民の一部は、日本に送られ保護されましたね。
ト: そこでも日本人は、彼らを丁寧に扱いました。実際日本人は、食べ物、着る物、住む場所、病気の治療、すべてを供給しました。誰ひとり犠牲者は出ませんでした。ユダヤ人たちはそんな日本を「エデンの園」と呼んでいたのです。
【関連記事】
2017年11月27日付本欄 故・渡部昇一氏インタビュー 改めて発信すべき「南京」の無実
https://the-liberty.com/article.php?item_id=13845
・ ・ ・
戦時中の日本の対ユダヤ人政策
原文はこちら→ http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb100.html
第1章 上海のユダヤ難民を保護した日本政府
ドイツ・オーストリア系ユダヤ人が上海に初めて流入したのは、1938年の秋にイタリア商船コンテ・ビオレ号が上海港に接岸したときである。 ドイツ軍が1939年9月からポーランドに侵攻するにつれて、数百万人のハザール系ユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。 しかし、彼らハザール系ユダヤ人が行きたかったアメリカ・中南米・パレスチナなどは入国ビザの発給を非常に制限し、ほとんど入国拒否の政策を採った。 イギリス委任統治領パレスチナでは、海岸に着いたユダヤ難民船にイギリス軍が陸上から機関銃で一斉射撃を加えるという事まであった。 そうした状況の中で、ハザール系ユダヤ人が入国ビザなしで上陸できたのは世界で唯一、上海の共同租界、日本海軍の警備する虹口(ホンキュー)地区だけだった。 海軍大佐:犬塚惟重(いぬづか これしげ)は日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎にあてるなどして、ハザール系ユダヤ人の保護に奔走した。 犬塚惟重海軍大佐はユダヤ問題の専門家で、上海を拠点にユダヤ問題の処理に当たった。 戦後、彼は「日ユ懇談会」の会長を務めた。 日本政府の有田外相はハルビンのユダヤ人指導者アブラハム・カウフマン博士を東京に呼び、「日本政府は今後もユダヤ人を差別しない。 他の外国人と同じに自由だ」と明言した。 1939年夏までに、約2万人のユダヤ難民が上海の日本租界にあふれた。 上海のセム系ユダヤ人たちの中には、貧乏なハザール系ユダヤ難民の受け入れを嫌がる者が沢山いたという。
第二次世界大戦中、ドイツで公然と行なわれたユダヤ人迫害に対して、ヨーロッパ諸国の政府もアメリカ政府も長い間沈黙を守った。 第二次世界大戦中、アメリカ政府はユダヤ人に対する入国査証の発給を非常に制限し、ほとんど入国拒否の政策を採った。 その上、アメリカ政府は日米開戦と同時に「在上海ユダヤ難民救済基金」の送金すら差し止めた。 それに対して日本側は、犬塚惟重海軍大佐の尽力により、スイス赤十字社経由で救済金を受け入れる方法をとったが、それすらアメリカ政府が阻止した。 そこで、日本政府は凍結した英米系預貯金の中からユダヤ難民救済の寄付分だけを解除するという処置をとった。 そのことを今でも深く感謝するユダヤ人は犬塚惟重海軍大佐を顕彰している。
「世界ユダヤ人会議」のユダヤ問題研究所副所長を務め、リトアニアと日本でユダヤ難民の救出に尽力したゾラフ・バルハフティクは著書『日本に来たユダヤ難民』(原書房)の中で、次のように述べている。
1941年の時点で、上海のユダヤ人社会はよく組織されていた。 スペイン系社会とアシュケナジー系社会があった。 前者は、19世紀にバグダードから移住してきたユダヤ人たちで、なかにはイギリス国籍を取得している人すらあった。 その代表格が、いろいろな事業を経営するサッスーン家だった。 そのほか、ハードン家やアブラハムズ家も有名で、助けを必要とするイラク出身のユダヤ人移民に支援の手を差し伸べていた。 サッスーン家の家長ビクター・サッスーンは上海の大立者であり、極東で一、二を競う大富豪であった。 経済と政治への影響力は相当なものであったようだ。 ビクター・サッスーンは家の伝統に従って同胞の為に尽くした。 しかし、上海の中国住民に対する貢献はもっと大きかった。 売春婦の収容施設に多額の金を使ったし、市街電車の路線延長も彼の功績である。 〈中略〉 革命やポグロムが発生するたびに、ロシア系ユダヤ難民が満洲へ流出し、そこから国際都市「上海」へ向かった。 彼らの多くは上海に根をおろし、貿易商となった。 〈中略〉 当時、上海にはドイツ系ユダヤ人社会もあった。 それはかなり大きく、その数約1万5000人であった。 上海へは入国ビザの必要がないので、ユダヤ難民が続々と流れてきた。 上海は1939年の中頃までユダヤ難民を無制限に受け入れた。 しかし、その後は、居留が厳しく制限されるようになった。 〈中略〉 スペイン系とアシュケナジー系で構成される『上海ユダヤ人委員会』は、アメリカを本拠地とするジョイントの資金援助を受けながら、日本租界の虹口(ホンキュー)地区に沢山ある簡易宿泊所へユダヤ難民を収容した。
第二次世界大戦中、上海で暮らしたユダヤ難民たちは、大戦後、ナチス・ドイツによる虐殺と、それを看過したキリスト教ヨーロッパ社会の実態を知り、ナチス・ドイツと軍事同盟下にあった日本がユダヤ人の保護政策をとってくれたことに感謝している。 ユダヤ難民だったヒルダ・ラバウという女性は1991年に、日本人がユダヤ人の為に安全な地を確保してくれたと、深い感謝の気持ちを表わす詩を作り、「ヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」と語った。 また、天津のユダヤ人も戦後の1946年9月、「自分たちは日本の占領下で迫害を受けることもなく、日本側はユダヤ人、特にヨーロッパからの難民には友好的でした」と、世界ユダヤ人会議に報告した。 世界ユダヤ人会議の調査では、終戦当時、中国におけるユダヤ人の数は2万5600人で、上海の他にハルビン・天津・青島・大連・奉天・北京・漢口にユダヤ人がいたという。
当時、上海には多種多様なユダヤ人組織が存在し、様々な活動を展開していた。 代表的なユダヤ人組織や人物を幾つか挙げておく。
◆「上海ユダヤ人協会」 E・ニッシム会長
イギリス国籍のスペイン系ユダヤ人。 共同租界の北京路に「大商事会社」を経営。「上海ユダヤ人協会」の会員は約800人で、ほぼ全員がスペイン系ユダヤ人。
◆「上海シオニスト協会」 P・トーパス会長
シベリア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。 貿易会社を経営。 この「上海シオニスト協会」は1903年に設立され、会員は約3000人で、パレスチナ移住者を募集していた。 機関紙『イスラエルズ・メッセンジャー』は約1000部が購読され、海外にも発送され、東アジアのシオニズム運動の貴重な声として世界にその存在を誇示すると同時に、イギリスと東アジアを結ぶ架け橋としての役割を果たした。
◆「ブナイ・ブリス」 カムメルリング会長
ルーマニア出身のアシュケナジー系ユダヤ人。「香港・上海ホテル」の株主。 シオニスト右派に属していた。
◆「ブリス・トランペルダー」 R・ビトカー会長
ポーランド出身のアシュケナジー系ユダヤ人。 この組織は青年を対象にした民族主義的シオニスト・グループだった。
◆「上海ヘブライ救援協会」 I・ローゼンツヴァイク博士(会長)
ロシア系ユダヤ人で、アシュケナジー系ユダヤ難民への救援を目的としていた。
◆「ヘブライ・エンバンクメント・ハウス」 テーク夫人(幹事)
有力ブローカーであるスペイン系ユダヤ人テークの妻。 貧しいユダヤ難民に宿舎を提供していた。
◆「ヨーロッパ移民委員会」
M・スピールマン(議長)、D・アブラハム、J・ホルツェル、エリス・ハイムなどから成る。 M・スピールマンはオランダ市民であるが、実際はロシア生まれのユダヤ人で、若い時オランダ領東インドに移り、そこで市民権を得て、1917年に上海に移住。 この委員会の中の秘匿委員会として「政治運営委員会」があり、コミンテルンおよび国民党と密接な連絡を保っていた。 この秘匿委員会の責任者はレーヴェンベルク博士(ドイツ系ユダヤ人)で、弁護士を職とし、共産主義者であったが、ドイツで3年間収容所に入れられ、脱走してオランダへ、さらに上海に移った。
◆「上海ユダヤ人クラブ」(アメリカ・デラウェア州の法人)
1923年に設立され、何回か解散したが、支那事変が始まると、当地のアメリカ総領事館に登録した。 会員は約400人。 名誉会長ブロック、会長ポリャコフなど、役員の多くはロシア系ユダヤ人で、このクラブはソ連の木材公社と取り引きがあった。
戦時下を上海で過ごしたユダヤ人の中で、数奇で劇的な運命を辿った男がいる。 その男の名はマイケル・ブルメンソール。 彼はドイツで生まれ、幼少期にナチに追われ、家族と共に船に乗って上海まで逃げ、日本租界で8年を過ごした。 彼は戦後、アメリカに渡り、勉学に励み、プリンストン大学で経済学博士号を取得した後、ケネディ政権とジョンソン政権の通商副代表となった。 そして、カーター政権の財務長官にまで昇り詰めた。 彼は日本では、為替相場に口先介入し、初めて円高を誘導し、日本経済を苦しめた財務長官として知られている。
第2章 アジア地区のゲシュタポ司令官ヨゼフ・マイジンガー
ナチス・ドイツは上海のユダヤ難民に対する日本政府の「寛容な政策」を不愉快に思っていた。 その為、彼らは上海のユダヤ難民の取り扱いについて、日本政府に圧力を掛けていた。 1941年にナチス親衛隊(SS)長官ハインリッヒ・ヒムラーが東京に派遣したアジア地区ゲシュタポ司令官ヨゼフ・マイジンガーは、その悪魔的残忍さの為に「ワルシャワの殺し屋」というあだ名を持っていた。 ヒムラーでさえマイジンガーの行動記録にショックを受け、裁判に掛けて場合によっては銃殺しようと考えていたが、側近のハイドリヒが手を回し、これを阻んだ、と言われている。 マイジンガーの東京での任務は、在日ドイツ人の中からユダヤ人と反ナチ分子を見つけ出し監視することだった。 マイジンガーは着任後ただちにゾルゲについて警告して日本側を驚かせ、これがゾルゲの逮捕につながった。 しかし、その残虐さと粗暴さ、狡猾さと薄気味悪い慎重さで、マイジンガーの東京での評判は最悪だったという。 彼は戦後、アメリカ軍によって逮捕され、ポーランドで処刑された。
1942年7月、ヨゼフ・マイジンガーは日本に対して次のような3つの提案を示した。
上海のユダヤ人処理の方法
【1】 黄浦江に廃船が数隻ある。 それにユダヤ人を乗せ、東シナ海に引きだし、放置し、全員餓死したところで日本海軍が撃沈する。
【2】 郊外の岩塩鉱山で使役し、疲労死させる。
【3】 お勧めは、揚子江河口に収容所を作り、全員を放り込み、種々の生体医学実験に使う。
この反ユダヤ的な提案は、陸軍大佐:安江仙弘(やすえ のりひろ)経由で東京の松岡洋右に伝えられたが、この提案は実現しなかった。 安江仙弘陸軍大佐はユダヤ問題の専門家で、1938年、大連特務機関長に就任すると、大陸におけるユダヤ人の権益擁護に務め、ユダヤ人から絶大な信頼と感謝を受けていた。 安江仙弘陸軍大佐の息子である安江弘夫氏が書いた本『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店)の中で安江弘夫氏は父(安江仙弘陸軍大佐)について、次のように書いている。
第二次世界大戦中、支那在住のユダヤ人たちにドイツで行なわれたようにユダヤ人識別のための黄色の星形マーク(ダビデの紋章)や認識票を付けさせようとしたナチスの圧力に抗して、陸軍の上層部を説得して止めさせたのは父・安江であった。 父は、ユダヤ人問題に関して政府や陸軍中央と交渉する時は、いつでも当時の日本の国是であった『八紘一宇』を逆手にとって相手を説伏していた。 つまり『錦の御旗』である。 戦後、わが国の学者およびユダヤ系の学者の一部が『日本が特に理由無くユダヤ人を助けるはずがない』との先入観から、『外資導入』とか『対米関係』に着目し、日本政府が自らの利害だけを考えてユダヤ人保護政策を決めたと納得しているが、それは誤解である。 政府の中心勢力は軍であり、海軍を含めてドイツとイタリアに強く接近しており、そのような時期に、このようなユダヤ人保護政策を決めさせたのは、父・安江の人道主義とユダヤ民族に対する個人的心情に他ならない。
第3章 戦時中の日本の対ユダヤ人政策
ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ軍空軍将校)は、戦時中の日本の対ユダヤ人政策について次のように述べている。
当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。 日本人はユダヤ系の学者・芸術家・教育者に高い敬意を払った。 その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。 日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。 1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、それらのユダヤ人は全てドイツ国籍を剥奪され、今後いかなる保護も与えられないと通告した。 そして、在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。 かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいたのである。
『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』の著者である山本尚志氏は、著書の中で次のように述べている。
ほとんど所持金もなく行き先のあてもなく来日したユダヤ難民に、日本の人々は温かく接した。 ユダヤ人の子供に食料を贈った日本人もいた。 物資の入手には配給券が必要だったが、商店に配給券を持たないで難民が現れると、店員は自分の配給券を犠牲にして物資を売った。 官憲すらユダヤ難民に便宜をはかった。 〈中略〉 日本人はユダヤ難民を好意的に扱ったのである。 1930年代に、ドイツでは急速にユダヤ系音楽家が排除されていった。 圧迫されたユダヤ系の音楽家にとって、希望の地のひとつが極東の日本だった。 〈中略〉 ナチス・ドイツ政府は、日本で活躍するユダヤ系音楽家に不信の目を向けた。 〈中略〉 在日ドイツ大使館はひそかにシロタを含むユダヤ系音楽家のリストを作成して、日本からユダヤ系音楽家を排除し、代わりにドイツ人音楽家を就職させる陰謀を繰り返した。 〈中略〉 しかし、日本側は、このようなナチスの圧力を事実上無視した。 〈中略〉 第二次世界大戦が始まってからも、東京でユダヤ系音楽家がソリストや指揮者や音楽学校の教授として活躍する状況は変わらなかった。 日本ではユダヤ系音楽家の作品も演奏されていたのであり、これはドイツやドイツ占領下の諸国では許されないことだった。 レオ・シロタは、日本人のユダヤ人問題に対する立場を次のように説明していた。 『日本人は世界事情に詳しく、ユダヤ人問題にも大きな関心を寄せているため、日本在住のユダヤ人に対して寛容で、差別することも、自由を奪ったりすることも全くありません。 その良い例として、このような事実があります。 日本の大学には多くの外国人教授がいますが、その中でもドイツからのユダヤ人が多いことです。 ヒトラー政権時代にドイツで教授職を剥奪されたユダヤ人に対し、日本政府は彼らの契約期間を延長しました。 最近では東京音楽学校の学長がさらに2人のユダヤ人教授を雇用しました』。 シロタは日本のユダヤ人政策を無知の産物でなく、世界事情の理解の結果と考えていたのである。 〈中略〉 シロタの観察によれば、日本のユダヤ人たちは特定の宗教を信じて共通の文化的背景をもってはいるけれども、特に差別されることも社会集団を形成することもない、普通の外国人として生活していた。 当時の日本におけるユダヤ人問題を考える際に、シロタの言葉は、知的で日本社会によく溶け込んだ同時代のユダヤ人の証言として重視されていい。 日本では、ユダヤ人は自分がユダヤ人であることをとりたてて意識しないでも生きていくことができたのだった。
第4章 満洲にユダヤ国家を作ろうという「河豚計画」
1881年から1906年までロシア帝国領ウクライナで爆発的に、且つ、大規模に、且つ、断続的に起きたポグロム(ハザール系ユダヤ人に対する集団的・計画的な虐殺)の影響で日露戦争(1904年~1905年)後にハルビン(北満洲の主要都市)には多数のユダヤ人が流入した。 1908年にはその規模は8000人強になった。 その後も、ウクライナでのユダヤ人迫害を逃れたユダヤ人やロシア革命の混乱を避けたユダヤ人が何千人も満洲に入ってきた為、ハルビンのユダヤ人口は1920年には1万人を数えた。 1931年9月から1932年2月にかけて満洲事変が起き、その結果として、北満洲も日本(関東軍)の支配下に入った。 1932年に満洲国が成立した頃、ハルビンのユダヤ人口は1万5000人になっていた。 この頃、「ハルビン・ユダヤ人協会」が設立され、ラビのアロン・モシェ・キセレフとアブラハム・カウフマン博士がその代表的な人物だった。 こうして、ハルビンは満洲のユダヤ人活動の中心地となった。 1933年にナチスがドイツの政権を掌握し、露骨なユダヤ人迫害を始めると、これを嫌ったハザール系ユダヤ人がシベリアを経由して満洲へ洪水のごとく流れてきた。 この時代、日本はアメリカから工作機械を全く輸入できなくなっていた為、日本の満洲経営は大きな壁にぶつかっていた。 その為、日本はユダヤ財閥の資本と経営技術とを必要とした。 そこで、ユダヤ財閥との関係を良好なものとする為に、ユダヤ難民を保護し、満洲にユダヤ国家を作る計画があった。 この計画は「河豚計画」と呼ばれた。 日産コンツェルンを率いていた鮎川義介(あゆかわ よしすけ)は1934年に『ドイツ系ユダヤ人5万人の満洲移住計画について』という論文を発表した。 彼は、ドイツ系ユダヤ人5万人を満洲に受け入れ、最終的には100万人を移住させ、満洲にユダヤ国家を作ることで、ソ連への防波堤にしようと考えていた。 1936年、鮎川義介が関東軍の後援で満洲に行き、満洲重工業開発株式会社を設立したことにより、「河豚計画」は国策レベルに浮上した。 (鮎川義介は大正・昭和期に活躍した実業家で、日産自動車の実質的な創業者である)。 ユダヤ人との間に対話の場を設けて関係を強めることを考えた日本軍首脳は、1937年から1939年にかけてハルビンで計3回の「極東ユダヤ人大会」を開催した。 支那事変開始(1937年7月7日)後の1937年12月、第1回の極東ユダヤ人大会が開催され、この大会には安江仙弘陸軍大佐や樋口季一郎陸軍中将や谷口副領事などが出席した。 その直前に結成された「極東ユダヤ人会議」の議長にはユダヤ人アブラハム・カウフマン博士が選出され、極東の上席ラビにはアロン・モシェ・キセレフが選ばれ、1000人近いユダヤ人がその会議を傍聴した。
第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎陸軍中将は次のように演説した。
ヨーロッパのある国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。 いったい、どこへ追放しようというのか。 追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。 当然とるべき処置を怠って追放しようとするのは、刃を加えざる虐殺に等しい行為と、断じなければならない。 私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。 ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ。 安住の地をあたえよ。 そして、また、祖国をあたえなければならないのだ。
この樋口季一郎陸軍中将の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎陸軍中将の前にひざまずいて号泣し始めたという。 ハルビン・ユダヤ人協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。
第1回の「極東ユダヤ人大会」では多数の作業計画が採択された。 その基本理念を定めたのは樋口季一郎陸軍中将の演説だった。 彼は「日本人は人種偏見を持っておらず、親ユダヤ的だ」と強調し、日本人はユダヤ人と協力し、経済的接触を保つことに関心があると述べた。「極東ユダヤ人大会」には、ハルビンのほか、奉天・大連・ハイラル・チチハル・天津・神戸など、極東各地のユダヤ人社会から代表が出席した。 因みに、「極東ユダヤ人大会」に参加したユダヤ人はハザール系ユダヤ人ばかりであり、セム系ユダヤ人は参加しなかった。
「極東ユダヤ人大会」の主要な結果は、カウフマン議長名でニューヨーク・ロンドン・パリのユダヤ人組織に打電され、数多くのマスメディアに通報された。 しかし、マスメディアの反響は期待を遥かに下回るものだった。 満洲のユダヤ人は日本と協力する用意があったのに対して、「アメリカ・ユダヤ人会議」の議長スティーブン・ワイズ博士率いるアメリカ・ユダヤ人は反日的であった。 スティーブン・ワイズ博士は、日本が世界のファシズムの最も危険な中心の一つだと考えていた。「極東ユダヤ人会議」の議長アブラハム・カウフマン博士は、アメリカ・ユダヤ人のスポークスマンに対して「日本をもっと好意的に見るように」と説得したが、フランクリン・ルーズベルト大統領の側近だったスティーブン・ワイズ博士は日本を信用せず、満洲でのユダヤ国家建設構想(河豚計画)に賛成しなかった。 スティーブン・ワイズ博士はアメリカ・ユダヤ人の指導者の中心人物であるのみならず、全世界のユダヤ人の指導者ともいうべき人だった。 彼はフランクリン・ルーズベルト大統領のブレーンの中でも随一であり、フランクリン・ルーズベルト大統領がいる所には、必ず影のように彼がついていたと言われ、フランクリン・ルーズベルト大統領の政策を左右する実力を持っていた。 そして、スティーブン・ワイズ博士は基本的に反日主義者であった。
日本軍が上海のサッスーン一族のキャセイマンションや外国人クラブを接収すると、アメリカ・ユダヤ人会議のメンバーは猛然と反日意識を燃やし始めた。 彼らアメリカ・ユダヤ人は莫大な資金援助により蒋介石軍を支え、日本軍を中国から追い出そうとした。「上海キング」と呼ばれていたビクター・サッスーンは、日本の「河豚計画」に協力することを断固として拒否し続けた。 ビクター・サッスーンはイギリス育ちの親イギリス主義者であり、反日主義者であった。
サッスーン財閥は、上海のユダヤ財閥の中で桁はずれの財産を保有する屈指の財閥であった。 サッスーン家はロンドン・ロスチャイルド家の東アジアにおける代理人であった。 その当時、サッスーン家やロンドン・ロスチャイルド家は上海を東洋における最大拠点と考えていた。 だからこそ、莫大な資金援助により蒋介石軍を支え、日本軍を中国から追い出そうとした。 歴史研究家ハインツ・E・マウルはビクター・サッスーンについて次のように述べている。「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の河豚計画には関心がなく、それどころか、1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。 日本の中国での冒険を終わらせる為に、アメリカ・イギリス・フランスは日本を事実上ボイコットせよというのである。 日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた」。
明治大学教授の阪東宏氏によれば、1939年2月にアメリカを訪問したビクター・サッスーンは、ニューヨークで記者会見を行ない、次のような趣旨の反日発言をしたという。「日本軍による対中国作戦と中国側の焦土作戦の結果、中国では来年大飢饉を免れないであろう。 日中戦争開始後の日本の中国経済開発事業は、アメリカ・イギリス・フランスの財政支援なしには不可能であろう。 日本の戦略物資の70%を供給しているアメリカ・イギリス・フランスが対日輸出禁止を実施すれば、日本は中国から退却せざるを得ない。 また、日中戦争の経費負担の増加の為、日本は中国よりも赤化する可能性がある。 なお、アメリカ・イギリス・フランスの対中国投資は、今後も安全が保証されるであろう」。 この反日発言に神経をとがらせた日本の外務省は、ニューヨークと上海の総領事館宛にサッスーンの言動を調査・報告するよう指示したが、意味のある調査結果は得られなかったという。
ハザール系ユダヤ人のマーヴィン・トケイヤーは著書『The Fugu Plan(河豚計画)』の中で次のように述べている。
1930年代、『河豚計画』は日本がまさに求めていたものを提供するはずだった。 膨張を続ける日本の版図は、ロスチャイルドやバーナード・バルークやヤコブ・シフなどユダヤ財閥の資本と経営技術を必要としていた。 資本と技術を持った人々を、日本が中国から獲得したばかりの植民地「満洲国」に定住させ、一日も早くソ連という北方の脅威との緩衝地帯にしなければならなかった。 ユダヤ人を利用する代償として、日本はユダヤ人たちに夢を約束した。 ヨーロッパの荒れ狂う迫害の嵐からユダヤ人を救い、安住の地を与えようというのである。 ユダヤ人迫害は、キリスト教と密接な関係があるが、神道を国家信教とする日本には、ユダヤ人を排斥しなければならない理由はなかった。 つまり、もし『河豚計画』が成功していれば、完全な両方得が成功するはずであった。
「河豚計画」の推進には、犬塚惟重海軍大佐の「犬塚機関」の活動があった。 犬塚機関は、著名なユダヤ人と広い交際を持っていた田村光三(マサチューセッツ工科大出身で、東洋製缶ニューヨーク出張所勤務)の協力を得た。 犬塚機関は、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることで日本の安泰を図ろうと、一所懸命に動いた。 また、犬塚機関は、サッスーン家が反日姿勢を改め、日本に協力してくれることが何よりも重要だと考え、1939年夏、ビクター・サッスーンを上海の虹口地区(通称「日本租界」)に招いて会食を開いた。 しかし、1940年9月27日、「日独伊三国軍事同盟」が締結されるに及んで、アメリカのユダヤ人組織から「犬塚機関」と田村光三に対して、次のような通告が送られてきた。「日本当局が上海その他の勢力範囲でユダヤ人に人種的偏見を持たず、公平に扱かって下さっている事実は我々もよく知り、今回のクレジットでその恩に報い、我々の同胞も苦難から救われると期待していましたが、我々には、アメリカ政府首脳および一般アメリカ人の反日感情に逆行する工作をする力はない。 非常に残念だが、われわれの敵ナチスと同盟した日本を頼りにするわけにはいかなくなってしまいました」。 この通告を受けとった東條英機陸軍大臣(在任 1940年7月~1944年7月)は、安江仙弘陸軍大佐(大連特務機関長)を解任し、この年(1940年)の12月に予定されていた第4回極東ユダヤ人大会を中止した。 そして、日本は翌年(1941年)12月8日に真珠湾を攻撃して、日米戦争へ突入した。
安江仙弘陸軍大佐とは民族や立場を超えた親友であった「極東ユダヤ人会議」の議長アブラハム・カウフマン博士はハルビンでソ連軍に逮捕され、ソ連で苦難の道を歩んだが、幸いにして、彼はイスラエル国に行って、その一生を終えることが出来た。 彼は16年間に渡るソ連の刑務所や労働キャンプでの体験を書いた自伝『キャンプの医者』の中で、「戦前・戦中の満洲で、私が妻以外に信用できた唯一の人物が安江大佐であった」と述べている。 アブラハム・カウフマン博士は「極東ユダヤ人会議」の議長であったが、同時に満洲におけるシオニストの統領でもあり、その立場から世界中にネットワークを張り巡らした「シオン団」を通じて、各国の動きを熟知していた。 因みに、博士の妻は日本人(旧姓高橋)だった。 博士は1971年3月21日に死去した。
第5章 ユダヤ人の救出に力を尽くした樋口季一郎陸軍中将
1938年3月、満洲国と国境を接したソ連領のオトポール駅(現ザバイカリスク駅)で2万人のユダヤ難民が吹雪の中で立往生していた。 これらのユダヤ難民はドイツでナチス政権から迫害を受けた人々で、ドイツを離れてポーランドに雪崩れ込んだものの、既に数百万人のユダヤ人を抱えていたポーランド政府は、雪崩れ込んできたユダヤ難民を体よくソ連領に追いやってしまった。 ソ連政府は彼らユダヤ難民を酷寒のシベリアに入植者として送り込んだが、彼らユダヤ難民は都市生活者だったので、酷寒のシベリアで入植・開拓できるはずもなかった。 そこで、彼らユダヤ難民は満洲国を通り上海に行こうとして、シベリア鉄道の貨車に乗って、オトポール駅にたどり着いたところであった。 ところが、満洲国政府が彼らユダヤ難民の入国を拒否したため、彼らユダヤ難民は前へ進むことが出来ず、退くことも出来なかった。 彼らの食糧は既に尽き、飢餓と寒さで凍死者が続出し、彼らユダヤ難民は最悪の状況に置かれていた。 その窮状を知ったハルビン・ユダヤ人協会の会長カウフマン博士が、満洲国のハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎陸軍中将のところに飛んできて、同胞の窮状を訴えた。 しかし、満洲国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ難民を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱であった。 しかし、樋口季一郎陸軍中将は自分の判断で、ユダヤ難民全員を受け入れることを決めた。 ユダヤ難民の8割は大連・上海を経由してアメリカへ渡っていき、残り4000人は開拓農民として、ハルビン奥地に入植した。 樋口季一郎陸軍中将は部下に指示し、それらのユダヤ開拓農民の為に、土地と住居を斡旋するなど、最後まで面倒を見た。 この樋口季一郎陸軍中将のユダヤ難民保護に対して、案の定、ナチス・ドイツ政府から強硬な抗議が来た。 しかし、 樋口季一郎陸軍中将はそれをきっぱりとはねつけた。 もう少し詳しく述べると、樋口季一郎陸軍中将はドイツの抗議に対して、「ドイツが自国内でユダヤ人をどう扱おうが、それはドイツの勝手であるが、満洲国のような独立の主権国家の領域内での決定にドイツが干渉することは許されない。 日本はドイツの属国ではなく、また、満洲国も日本の属国ではない」と主張したのである。 樋口季一郎陸軍中将の上司であった東條英機関東軍参謀長は樋口季一郎陸軍中将の主張に同意し、外務省にその通りに回答した。 こうして、ドイツの抗議は空振りに終わった。 現在、エルサレムの丘の上に高さ3mの「黄金の碑」が建立されていて、モーセ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人と共に、上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」とあり、その次に樋口季一郎陸軍中将の部下であった安江仙弘陸軍大佐の名が刻まれている。
おまけ情報1: 『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)
ナチスと同盟を結んだ日本政府はヒトラーの反ユダヤ主義に同調してしまったのだろうか。 ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ軍空軍将校)は著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で、日本の対ユダヤ人政策について、次のように述べている。 参考までに紹介しておく。
戦争中の日本では、反ユダヤ・キャンペーンが強化されたとはいっても、政府のユダヤ政策そのものは基本的に変わらなかった。 松岡外相は1940年12月31日に個人的に招いたユダヤ富豪のレフ・ジュグマンに日本のユダヤ政策を説明している。 『ヒトラーとの同盟は自分が結んだものだが、彼の反ユダヤ政策を日本で実行する約束はしていない』というのである。 それは松岡個人の意見ではなく、日本政府の態度である。 かつ、それを世界に対して語らない理由はない。 松岡は満鉄総裁時代に当時の『ユダヤ問題顧問』のアブラハム小辻(小辻節三博士)に、『自分は防共協定を支持するが、反ユダヤ主義には賛成しない』と言っている。 1938年12月6日の五相会議の対ユダヤ人政策の決定は、政治指導部間の妥協の産物ではあったが、下された時期が良かった。 これでユダヤ人の絶滅というナチスの目標に歯止めをかけたからである。 日本の対ユダヤ人政策は明確な構想を欠いた複雑なものではあったが、人道・道義という面では汚染されておらず、お陰で日本は『ユダヤ人殺し』の汚名を負わずに済んだ。 日本は投資が欲しくてユダヤ人を救ったわけではない。 人種平等の原則によりユダヤ人を拒否しないという五相会議の決定は、政策の方針に倫理的な性格を与えた。 1939年の上海の入国制限は、軍の権威と自信を示そうとするものだった。 日本政府のほうは自信がなく、時には無関心で、訓令も曖昧だったため、現地の担当者には行動の自由があった。 満洲やシナでは、初めの頃、優越感や自信の欠如あるいは単なる手違いから、ユダヤ人を蔑視した取り扱いも見られたが、後にはユダヤ人を支援し、さらには救済する方向に転じて、かつての過ちを補うことになった。 欧州で戦争が始まると、難民の流れは極東に向かった。 難民の運命は日本の軍人・市民・税関や警察そして外交官の手中にあった。 上海の柴田領事は命の危険を冒してゲシュタポの計画をユダヤ人に漏らした。 東條英機関東軍参謀長(在任 1937年3月~1938年5月)は満洲のユダヤ人を穏健に処遇するように指令を発した。 アブラハム小辻(小辻節三博士)は外務大臣とのコネを利用して神戸のユダヤ人の状況改善を図った。 ぎりぎりの状況の中でユダヤ人を救おうとした外交官も沢山いた。 日本船の船長は収容能力を超えてユダヤ難民を乗せたし、東京のドイツ大使館が日本在住のユダヤ人の解職を要求した際に、課長・局長クラスの役人はこの要求をはねつけた。
日本の対ユダヤ人政策は国際関係や外交協定より下のレベルの事象だった。 他の国々にとっては、日本がユダヤ人をどうしようと、自国の利益が害されない限り関心外のことだった。 エビアン会議からバミューダ会議まで、各国は耳を塞いでおり、ユダヤ難民への扉は閉ざされていた。 ハルビンから上海まで、日本とユダヤの相互理解への努力は、直接の影響を受けないユダヤ人や非ユダヤ人の関心をひかなかった。 日本と日本在住ユダヤ人は他から孤立していたのだ。 〈中略〉 日本の海外進出への努力は、常に自国と周辺の国との直接の対比の中で行なわれた。 ユダヤ人は日本人にとって『ユダヤ人』ではなく単に外国人だった。 日本人はユダヤ人と出会ってからも、この民族が世界各国にとって問題をもつ存在であることを無視していた。 ドイツと同盟を結んだ後でもそれは変わらなかった。 想像上のユダヤ人と現実のユダヤ人には決定的な相違があった。 ユダヤ人は日本人にとって西洋の異人であり、所詮、外国人だった。 ナチス時代の日本人にとって、ユダヤ人はどこからか来てどこかへ去っていく外国人だった。 日本人にとって、ユダヤ人は通り過ぎる旅人であった。
以上、ハインツ・E・マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)より
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