💖24)─2・A─杉原ビザのその後。ポーランド・ユダヤ人難民を助けたJTB。撃沈された天草丸。〜No.100 

日本とシオンの民 戦前編

日本とシオンの民 戦前編

  • 作者:栗山 正博
  • 発売日: 2007/08/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 杉原千畝が東京・外務省の訓令を無視してポーランドユダヤ人難民に発行した通過ビザであったが、ポーランドユダヤ人難民にとってはホロコーストから逃れる為の「命のビザ」であった。
 が、通過ビザは万能のビザではなく、シベリア鉄道を乗り継ぎ、ウラジオストックから日本までの通行ビザでしかなかった。
 日本までは手持ちの資金を使って自力で行かねばならなかった。
 アメリカの旅行会社であるウォルター・プラウンド社(のちのトーマス・クック社)と日本のジャパン・ツーリスト・ビューロー(ビューロー。現在のJTB)が、協力し、分担して、ポーランドユダヤ人難民の逃避を支援した。
 日本政府・外務省・軍部は、同盟国ナチス・ドイツに忖度せず、杉原ビザを有効として、ポーランドユダヤ人難民の日本の入国・通過・滞在・出国を承認した。
 ポーランドユダヤ人難民を救ったのは、松岡洋右東条英機A級戦犯達であった。
 それを望んだのが親ユダヤ派の昭和天皇である。
   ・   ・   ・   
 現代の日本人と昔の日本人とは別人の日本人である。
 現代の日本人は、中国との貿易の為に中国共産党に忖度し、中国共産党の非人道的少数民族ジェノサイドから目を逸らし、弾圧され惨殺される少数民族を助けようとしない。
 その傾向は、政治家、官僚、経営者、学者、メディア関係者などの高学歴出身知的エリートに多い。
 現代日本人には、昭和天皇靖国神社の祭神であるA級戦犯達を非難する資格はない。
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 団塊ユニバース
 「命のビザ」を繋いだ船・知られざる天草丸の話
 2019.07.22 船 命のビザ, 天草丸, 杉原千畝
 HOMEYOGIの部屋船「命のビザ」を繋いだ船・知られざる天草丸の話
 杉原千畝のビザのあと
 1940年、窮地に陥ったユダヤ人に、権限を越えて「命のビザ=日本通過査証」を発給した杉原千畝の「勇気」はよく知られているが、それは事の始りであり、ユダヤ人達が無事に逃げ延びるためには更なる支援が必要であった。
 シベリア鉄道による二週間に及ぶ逃避行中はソ連兵による暴力と、金品を強奪される等の非情な仕打ちを受けて、生きた心地もせずにウラジオストックに着の身着のままの悲惨な状態で到着した彼らを、敦賀の港まで安全な内に移送するのを助けた民間人がいた。
 到着した敦賀では持たざるユダヤ人に食料や風呂を無償で提供した一般市民もいた。
 ドイツとの関係の中で、触らぬ神に祟りなし、を決め込むことも出来たであろうが、敢えて関係を無視して便宜を図った将校もいた。
 外務省も結局は杉原の逸脱した行為を黙認した。
 発給時の日本滞在10日間、という短すぎるビザの有効期間を延長するために奇策を練った官民もいた。
 結果、敦賀の後、神戸、横浜にて、太平洋を渡る日本船を用意する時間も与えられて、「命のビザ」所持のユダヤ人は希望通りに目的地である米国や豪州にExodusすることができたのだ。その数約6千人。
 日本海汽船の天草丸。人種差別を憎む日本人全員の「儀」を体現した船である。
 ウラジオストック港の岸壁が大型船の接岸に適していなかったため、2〜3千トン程度の小ぶりな船が任に当たった。その代表格が建造後30年という老朽化した天草丸であった。僚船である河南丸などと共に、真冬の日本海の荒波に抗しながら幾度も往復してユダヤ人をウラジオストックから敦賀まで運んだ。
 僚船、河南丸
 僚船にはイラストの河南丸の他、はるぴん丸や氣比丸があった。
 義を見てせざるは勇無きなり。
 実は杉原千畝だけでなく、欧州の幾つかの日本領事館も通過査証を発給していたのだ。
 また、別の時期に上海の地にては、海軍が査証を持たない者を含む2万人近くのユダヤ人を保護し無事に脱出させた事例もあった。
 杉原の前にも、満州国境を通過させてユダヤ人を救出した陸軍将校もいた。
 つまり、日本中がユダヤ人の境遇に同情し、直接関与した日本人は献身的に脱出を支援したのである。
 日本は当時、人種差別に反対する唯一の国家であり、死の瀬戸際に追い詰められたユダヤ人に手を差し伸べることは日本国民全体の合意であったのだ。
 天草丸はドイツで建造されてロシアが運航していたが、日露戦争の結果、戦利品として日本の所有となった。そしてユダヤ人を助けた。戦争中、アメリカ軍潜水艦の雷撃により沈没してしまった。
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 JTBグループ 交流創造事業 発信サイト
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交流文化クロニクル
「第四回 素敵な日本人へ ユダヤ人避難における役割」
 Nov. 24, 2015/交流文化クロニクル、訪日、グローバル、歴史、杉原千畝、命のビザ、映画
 JTBグループが取り組む「交流文化事業」。
 その原点は、これまでの100年の歩みの中にあります。
 めまぐるしく移り変わる時代の中
 人と寄り添い、考え、行動し、新たな価値を提供してきた人たち。
 そこにどんな物語があり、思いがあったのか。
 それは今も、受け継がれています。
 故きを温ね、新しきを知る
 交流文化クロニクル。
 私たちのこれまでと、これからの姿をお伝えします。
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 01 「命のビザ」、その先に
 第二次世界大戦中、命のビザを手にしたユダヤ人を日本へ
 2015年、日本は終戦から70年を迎えました。
 今、世界各地では当時の記録を、世代を越え継承することに高い関心が集まっています。
 そのひとつに「命のビザ」があります。第二次世界大戦の最中、ユダヤ人の命を救うため日本人外交官・杉原千畝(1900~1986)が発給し続けたビザの記録です。
 昭和15(1940)年、杉原千畝は副領事として赴任していたリトアニアで、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に政府の方針に背き日本通過のビザを発給し続けることで彼らの亡命を助けました。現在、杉原が執務にあったリトアニアの旧日本領事館は「杉原千畝記念館」として一般公開され、この功績は海外でも多くの人々に知られています。
 杉原のビザを手にしたユダヤ人の多くは、その後大陸を横断し、海を渡り、日本へ。そこから世界各地へ脱出し命をつなぎました。この大陸から、日本への船での輸送斡旋を担ったのが、「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(以下、ビューロー)。現在のJTBグループでした。
 荒れ狂う海上でこの輸送斡旋に従事した記録が残っています。交流文化クロニクル第4回では、このユダヤ人避難でJTBグループが果たした役割と職員たちの記録を紹介したいと思います。
 02 4000人の命を運ぶ
 荒れる海、困難な旅路、多くの命を運んだユダヤ人の輸送斡旋
 重大な決断
 昭和15(1940)年春、一件の依頼がジャパン・ツーリスト・ビューローのニューヨーク事務所に入りました。それはヨーロッパから日本経由でアメリカへ向かうユダヤ人の輸送斡旋協力の依頼でした。
 依頼前年の9月にナチス・ドイツポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツユダヤ人を弾圧、強制収容所へと送り込みました。当時その迫害から逃れるため西欧への脱出路を断たれた多数のユダヤ人が、唯一の逃げ道であった旧ソ連領に続々と押し寄せていました。
 彼らの多くは杉原が発給した日本通過のビザを持っていました。この知らせを受け在米ユダヤ人協会は同胞を一人でも多く無事に助け出したいとアメリカ政府の許可のもと、旅行会社のウォルター・プラウンド社(のちのトーマス・クック社)を通じビューローに協力を依頼してきたのです。
 ヨーロッパからシベリア鉄道で終点のウラジオストクに到着するユダヤ人たち。そこから日本へ渡る唯一の避難経路は船でした。船舶で日本海を縦断し、福井県敦賀(つるが)港で日本に入国。神戸や横浜へ移動の後、アメリカ・サンフランシスコを目指しました。ビューローはこのユダヤ人のウラジオストクから敦賀までの海上輸送とその斡旋を依頼されたのでした。
 当時の日本にとってドイツは重要な友好国。ナチス・ドイツから逃れるユダヤ人を日本の特定の機関が助けることは、時局をかんがみて様々な問題を引き起こすことも考えられました。それは、日独伊三国同盟が締結されるわずか数カ月前のことだったのです。
ジャパン・ツーリスト・ビューローの本社でも、依頼を受けるべきか、さまざまな議論が交わされたといいます。最終的に人道的見地から依頼を引き受けることに決定しました。
 命がけの輸送斡旋
 ウラジオストク敦賀間の航路に添乗員を派遣し上陸地の敦賀には駐在員を配置、まず海上輸送の体制を固めました。さらに日本入国後のユダヤ人乗客の移動にも万全の体制で臨みました。港から敦賀駅までのバス輸送の準備、さらに敦賀駅から神戸や横浜へ向けて出発する臨時列車の手配も行いました。
 昭和15(1940)年9月10日最初の船が敦賀港を出航。ユダヤ人乗客を迎えるため ウラジオストクへと向かいました。極東の港湾都市ウラジオストクまでは片道2泊3日の道のり往復で約1週間の旅程です。
 記録では4名の職員が交代で乗船、休みなく添乗斡旋にあたっています。当時入社2年目でこの業務に最も多く従事した職員大迫辰雄が当時の様子を回想録に残しています。
 それによれば、困難を極めたのが日本海を縦断する航海だったようです。季節が秋から春にかけての冬場。冬の日本海は時化(しけ)が多く船は揺れに揺れ、また「船酔いと寒さと下痢に痛めつけられた」と振り返っています。さらにその揺れはとても眠れたものではなかったと語り、食堂では「用意した皿、調味料台などがテーブルの上を前後左右にすっ飛び、万事休す。」と記述に残しています。
 乗船した職員同様、乗り込んだ400名以上のユダヤ人にとっても、その道のりは決して楽なものではなかったことがうかがえます。また大陸近くの海では機雷により不運にも沈没していく船もあったといいます。当時の状況を考えると、乗員にとっても乗客にとってもまさに命がけの航海だったともいえます。この海上輸送は、翌年の独ソ戦の開始によりヨーロッパからシベリア経由での避難経路が断たれるまで約10か月に渡り続けられることになります。
 03 素敵な日本人へ
 「素敵な日本人へ。」一人のビューローマンに贈られた乗客からのメッセージ
 重要な船内業務
 ウラジオストクから敦賀までの海上輸送を開始させたビューロー。大迫たち職員は輸送斡旋以外にもう一つ重要な役割を担っていました。
 米国在住の親戚・友人からユダヤ人協会へ託された保証金。それを預かり名簿と照らし合わせ乗客の中にいる該当者へ手渡すことでした。そのお金は日本到着後アメリカへの脱出を支える貴重な資金となりました。
 その業務は日本到着後、最終目的地への移動を滞りなく進めるため、ウラジオストクから敦賀までの航海中に行われました。船の添乗にあたる職員は2泊3日という限られた時間の中で約400名にのぼる乗客の氏名と送金額のリストを照合、ひとりひとりへの給付の手配や授受の有無を確認していく必要がありました。
 「多くの航海中、殆どの難民は船酔い状態。悪臭漂う三等船室で一人一人をチェックすることは大変な仕事であった。」大迫は記録に残しています。
 荒れ狂う海の上、膨大なリストの中からひとりずつ名前を聞いて回り本人を探し出すのは容易なことではありませんでした。
 なにより苦労したのは言葉の問題でした。アメリカからの依頼を受け英語に堪能な職員で添乗員たちは構成されていました。しかしヨーロッパ各国から逃れてきた多くの乗客は多種多様な言語を話し英語を話せる方は非常に少なかったのです。
 職員たちがこの業務を全うできたのはユダヤ人乗客の協力によるものでした。乗客の中から英語を話せる方を探し出し通訳をお願いしたのです。どんな困難な環境でも、与えられた業務を全うする。それは現在のJTBグループにも受け継がれる職務姿勢のひとつです。そこにはその思いに共感し賛同してくれる協力者の存在が欠かせません。当時の職員たちの懸命な働きが乗客の皆さんの協力を生み出していったのではないかと考えています。
 民間外交の担い手として
 「私たちビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族の数千の難民に通じたかどうかは分からないが、私たちは民間外交の担い手として、誇りをもって一生懸命に任務を全うしたことは確かである。」回想録の中で大迫はこう結んでいます。
 『民間外交の担い手』という言葉。それは業務だけに留まらず困難な旅路でも常に乗客の心に寄り添うことを目指しました。大迫が残した当時のアルバムにその姿勢を垣間見ることができます。
 女性のユダヤ人乗客と大迫が甲板に並んで写ったスナップ写真。
 大迫が隣に寄り添う女性客は安心した笑顔をカメラに向けています。
 別のページには7人の乗客のポートレートが並んでいます。それは大迫が添乗した際にユダヤ人乗客から贈られたものです。裏側には大迫に宛てて様々なメッセージがつづられています。ポーランド語で書かれたある女性客のメッセージです。
 「私を思い出して下さい。素敵な日本人へ。」
 懸命に働いた大迫をはじめとした職員たち。乗客に寄り添い忘れられない交流を生み出すことにも気を配りました。その努力と姿勢が言葉をこえ、お客様の心へ届いたのではないかと考えています。
 04 どんな状況でも職務を全うする
 どんな困難なときも常にお客様に寄り添い、その笑顔と喜びを
 民間外交官という言葉を胸に取り組んだユダヤ人避難の輸送斡旋。ウラジオストクから約4000名のユダヤ人が海を渡り、晴れて敦賀に降り立ちました。そしてその後日本を経由し最終目的地アメリカへと無事旅立っていきました。
 国や情勢がいかなるものであっても、目の前のひとりひとりの大切なお客様に寄り添い懸命にお手伝いをする。どんな状況でも常に職務を全うするという気持ちがそこにはあります。
 その思いは時代をこえ、日本を代表するという志のもと現在のJTBグループに受け継がれているのです。
 (取材協力/北出明氏)
 参考文献/北出明著『命のビザ、遥かなる旅路杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書)
 『観光文化 別冊2006 July』(財団法人日本交通公社
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 素敵な日本人へ~命をつないだJTBの役割~
 ユダヤ人の足取り
 Aug.18, 2017/グローバル、歴史、杉原千畝、命のビザ、映画
 ナチス・ドイツポーランドに侵攻し、迫害から逃れてきたユダヤ人たちは、リトアニアに辿り着きます。当初ビザは、日本領事館だけでなく、オランダなど他の領事館でも発給されていました。
 しかし、1940年6月、ソ連ラトビアエストニアに続き、リトアニアを占領。7月には併合が決まり、各国の大使館や領事館は次々に閉鎖され、唯一残された日本領事館の閉鎖も8月末と通告されます。
 追い詰められたユダヤ人が生き延びるには、日本の通過ビザを手に入れ、シベリア鉄道で極東まで進み、日本へ渡って第三国へ脱出するしか道は残されていなかったのでした。
 リトアニアの首都カウナスで、杉原千畝が発行したビザを持ったユダヤ人は、シベリア鉄道でロシアを横断して、ウラジオストクへ。ここから船で敦賀に上陸し、その後横浜や神戸へ移動、最終的にはアメリカなど他国へと渡って行ったのです。
 この長く厳しい避難の旅の一部を、アメリカのユダヤ人協会から依頼されたのがジャパン・ツーリスト・ビューローでした。
 当時、日本はドイツと友好関係にあったことから、この依頼を受けるべきか、ジャパン・ツーリスト・ビューロー本社内で議論の末に、人道的見地から引き受けるべきと決断。敦賀に臨時の事務所を開設して駐在員を置き、「天草丸」に添乗員を配置。受け入れ体制を整えました。
 敦賀の人々は到着したユダヤ人たちを、花を手に笑顔で出迎え、銭湯を無料で開放したり、リンゴを無償で配布するなど、言葉も文化も違う異国での暮らしを心身ともに支えました。
{当時のJTB
 JTBの前身であるジャパン・ツーリスト・ビューローは、1912(明治45)年に外客誘致を目的に創立されました。国内外に案内所を開設したほか、大連、旅順、長春など旧満州にも委託案内所を設け、社の刊行物や各種観光案内などの印刷物を配布して、日本への誘客をスタートしました。
 1915(大正4)年には乗車券の委託販売を開始。1925(大正14)年には邦人客向けに鉄道省運輸省が管轄する鉄道線の一般乗車券とクーポン式遊覧券の販売を開始し、現在の旅行業への業態変換を意味する大きな転換期となりました。
 1927(昭和2)年には社団法人となり、規模を拡大していきました。第二次世界大戦終戦時には、職員総数は4900人を数えました。}
 01 「ユダヤ人渡米旅行の斡旋」
 昭和十四年九月、ドイツ軍がポーランドに電撃作戦を敢行したため、東欧諸国、とくにポーランド在住のユダヤ人は西欧への脱出路を断たれた。そこで唯一の逃げ路であるソ連領に難民がなだれ込んだ。
 その一部はシベリア経由日本及び北中支方面にも流れて来た。
 在米ユダヤ協会では、悲惨な同胞を一人でも多く助け出したいと、ユダヤ難民救援会を組織し、同協会の保証を条件として、アメリカ政府の許可の下に、ウォルター・プラウンド社(後にトーマス・クック社に合併)を通じて、ビューローに斡旋の協力を依頼してきた。こうした要請にこたえたのは、時の外務大臣松岡洋右の外交感覚であったと云われる。欧州からシベリア鉄道で、ウラジオストックまで来て、日本海敦賀経由で日本に入り、東京、横浜から、アメリカへ送り出すまでの斡旋をしてほしいと要請された。費用は一人当たり神戸乗船者で四〇ドル、横浜乗船者は五〇ドルという契約であった。ビューローでは、敦賀ウラジオストック間の航路に添乗員を派遣して、ユダヤ人輸送の斡旋に当った。昭和十五年九月十日、敦賀港出帆のハルピン丸を第一船として輸送を開始、独ソ戦のはじまる昭和十六年六月まで、十ヶ月にわたって、毎週一往復を運航、この間、一万五〇〇〇人に及ぶユダヤ人の輸送を実施した。この期間中、ビューロー本部では上陸地敦賀に駐在員を配置、また満州支部では満洲里案内所を強化して輸送に協力した。
 当時毎週一回の割で二十数回にわたって日本海を往復、添乗斡旋に当った「大迫辰雄」は、各航海とも海が荒れ、船酔いと寒さと下痢に痛めつけられたうえ、異臭に満ちた船内斡旋のつらかったことを想起し、よく耐えられたものであると述懐している。
 『七十年史』には以上の通り記されているが、何せ、今では五十年以上も前のことで、私の記憶も薄れてきており、細かいことは忘れてしまっているが、思い出すままに当時のことを偲んで見ることにしたい。
 この当時のユダヤ人輸送の件については、大東亜戦争後になって、新聞雑誌等で時折、記事になったことを記憶している。特に昭和十四年から十六年にかけて当時リトアニアの日本副領事をしておられた杉原氏が、外務本省にかまわず、独自に多数のユダヤ人に対し日本通過査証を発行したことに対する在米ユダヤ人の有志が、今は亡き杉原副領事を称える行事を行うに至り、日本側も、同領事の当時の人道的処置を見直すことになったと云われる。昨年だったか、米国映画で「シンドラーのリスト」というのが日本で上映され、大ヒットとなり、私も観に行ったが杉原副領事は日本のシンドラーと称されるに至った。但し、シンドラー自身は金儲けの為にやったと云うところが杉原氏とはちがう。
 さて、その輸送斡旋業務であるが、私は当時入社二年目の若造。勿論乗船勤務など初めてのこと、何故私がこの業務に選ばれたのかは分らないが、若いだけに使命感にあふれるものがあったことは確かであろう。乗船勤務に当っては、待遇はアシスタント・パーサーと云うことで、船員手帳をもらい制服制帽を支給された。初めて着る船員服が何かしら、てれくさかったことを憶えている。
 02 第一話 天草丸のこと
 前にも述べた通り、この輸送の第一船はハルピン丸であったが同船は大きすぎてウラジオストックの岸壁に着壁困難ということで、代船として天草丸が就航することになったといういきさつがあったようである。そこで私は天草丸に乗ることになったのであるが、仄聞した処によるとこの船は船齢二十八年とかで、相当な代物、二〇〇〇トンというから、大きい客船とは云えない。船の幹部としては坊主頭のまじめ一方の船長と、背の高い機関長と、局長とよばれたでっぷりとした通信士と、ロシア語の堪能な事務長(パーサー)の四人であった。そのほかに、私の身辺を色々と世話をしてくれた、ちょっと目先の利く、要領の良いボーイ長がいた。
 幹部四人と私は毎日食堂で三食を共にすることになっていた。船客は一等客のみが我々と一緒だった。一等船室は数える程しか無かったので、毎航とも数える程しか乗船していなかったように覚えている。
 船室の多くは三等で、窓のない大部屋が廊下をへだてて両側に並んでいた。雑居寝方式で三等の収容数は、常識的に二〇〇~二五〇名というところだったろう。実際には復路のユダヤ人輸送に当っては、当時のソ連邦の勝手な扱いにより四〇〇人程が乗船してくることが多かったようである。私は一等船室を与えられたが、寝台が上下二個あり、丸窓がひとつあって、海を見ることは出来たが、殺風景な部屋であったと思う。
 又、食事は日本食とか、洋食とかが交互に出たと思うが、どんなコックがどんな料理を出したのかは覚えていない。他に何の娯楽設備もなかった。(但し、将棋盤とか碁盤はあったようで、船長とか機関長とかが時折、遊んでいたのを覚えている)従って往路はする仕事もなく、暇を持て余すことが多かったように記憶している。
 03 第二話 冬の日本海航路のこと
 冬の日本海は時化が多く、波も荒いと聞いていたが、実際に航海をして見て驚いた。敦賀ウラジオストックの間は、片道二泊三日の航海であったが、たった二〇〇〇トン級の船で、しかも古いと来ているので、まことに良く揺れた。縦揺れと横揺れの両方であった。ひどい時化の日など、船橋に立って見ると、船首が大波を被って、ぐっくっと沈み、甲板が海水であふれて、大丈夫かなと思うほど気色が悪い。大波は次々と襲ってきて、船はそれを一つ一つこえていくのだから大変だ。そういう時は、一体本船は前進しているのかどうか、疑いたくなる状況だった。この状況が丸一日、いや丸二日も続くと、全く船から降ろしてくれと云いたくなる。そんな時はベッドに寝ているしかなく、横になっていても、横揺れはまだいいが、縦揺れになると、船がミシミシ音を立て、身体ごと、船と一緒に沈んでいく気がして、とても眠れたものではなかった。勿論そんな状況では食堂で食事は出来ない。用意した皿、調味料台などがテーブルの上を、前後左右にすっ飛び、万事休すで、船員以外の船客はほとんど船酔いで、出てこないし、我々船員には、船室に握り飯が配給になるのが通例であった。
 私もご多分に漏れず、初めての第一回目の往路の航海では、船酔いの洗礼を受け、ほとんど寝たきり、食事無しの苦しい経験をせざるを得なかった。しかし不思議なもので、ひどい船酔いも、船が港に着くと、ケロッとして直ってしまうのであった。
 私の場合、第一回目の復路の航海は、船客としてユダヤの難民が多数乗り込んできたこともあり、極度の緊張で船酔いばかりしていられず、幸いに帰りは余り海もしけなかったのか、何とか、寝たきりにならずに、船客相手に任務を遂行出来た様に記憶している。
 その後、二十数回にわたり、私は日本海を往復することになったのだが、日本海でもよく晴れた日もあり、そんな時はデッキに出て思いきり太陽の光を浴びたり、歩き回ったりして健康維持に努めたものであった。
 そんな冬の航海も回を重ねる程に慣れて来て、あんなに揺れても船は中々沈まない物だと思うようになり、経験豊富な船長を信頼して日本海の往復を続けたのであった。
 船客の中には強気な人も居て、時化の日でも無理して食堂に出てきて食事を始めるのだが、大抵は途中で気持ち悪くなって席を立ち、そのまま帰ってこないようなことが多かった。船員は大方、商売柄?船には強く「多少は船が揺れないと飯がまずい」などと云う猛者もいた。新米の私は其れ程ではないにしても、航海を重ねる毎に船酔いには強くなったのだから驚きである。
 私は太平洋戦争が終わって、米国の占領軍統括の時代に、漸く国際観光が許可になり、日本に米国を主体とした観光客が来日することになった頃、米国と日本を結ぶ豪華客船(その頃はそう云われた)アメリカン・プレジデント・ラインの「ウィルソン号」に日本交通公社から乗船勤務者第一号として、横浜―サンフランシスコを一月かけて往復することになったが、この客船は大型(一万八千トン)であり、天草丸とは天と地の差があったし、太平洋横断は生まれて初めてではあったが、前の日本海の経験が物を云ったのであろう、全然船酔い無しで任務を遂行出来たことはありがたかった。
 04 第三話 ユダヤ人のこと
 昭和十四年~十五年の頃の私は、ビューローに居て、ユダヤ人とのお付き合いは恐らくなかったと思う。それが、この時のユダヤ人輸送の斡旋の仕事のおかげで一万人以上のユダヤ人とお目にかかることになったのである。
 真冬のウラジオストックは凍りついて、気温は〇度以下が多く、寒さは厳しい。雪の舞う波止場に列を成してタラップに乗り込んでくることもあったが、私どもがタラップの上で待っていると、ソ連側のゲー・ペー・ウー(G・P・U)即ち警察の隊員が、一人一人の証明書のような物をチェックして乗船を許可していた。難民と云っても千差万別で、最も分かり易いのはユダヤ教の僧侶、上から下まで黒装束で、頭にお皿見たいな小さな丸い黒色の帽子?を載せていた。老若男女が入り混じって大きな荷物を重そうに持って乗船してくる姿は壮観であった。中には英語を得意として話す者もあり、彼等が私との通訳となったわけで、坊さんの数も多かったが、殆ど英語は分からなかった。
 前にも述べたが、本船には数は少ないが、一等船室もあったので、どういう選択をしたか知らないが、一等の乗船券を持ったお客も毎回いた。そういうお客は、同じユダヤ人でも、これが難民かと疑われるような、ぜいたくな服装の夫婦であり家族連れであった。彼等はどういう訳か、金持ちであり、大方が尊大であった。ボーイ長にはチップの稼げる乗客であったようで、いろいろサービスに努めていたようだが、ケチなお客とはよく喧嘩していた。坊さんや一般の難民たちは大体が三等客で大部屋にゴロゴロしていた。彼等は余り金を持っておらず、敦賀に着いたときに貰う現金と引き換えるトーマス・クック社のバウチャー(引換証)をもっている筈であった。
 老若男女といっても、最も数多く乗船したユダヤ人は中年の男性で、女性も中年以上が多かったように記憶している。中には珍しく目を見張るような美人がいた。概してユダヤ系の若い女性は美人型が多いとか、但し年を取るほどに殆ど例外なく肥満体となり、若いときの面影がなくなるという話であった。
 何れにせよ、その当時のユダヤ人はパスポートを持たぬ無国籍人で、欧州から逃れてきた難民ということで、一般的に何となく元気なく、中にはうつろな目をした人もおり、さすらいの旅人を彷彿させる淋しさが漂っていた。無国籍人の悲哀をこれ程感じたことはなく、私はこの時くらい、日本人に生まれたことを幸せに思ったことは無い。
 05 第四話 ウラジオストックのこと
 今でこそ、ロシアに変わったウラジオストックの町は外国人にも解放され、ビジネスマンや、ツーリストまでが自由に訪問できる時代になったが、五十年前のこの町は、私ども船員は原則として上陸は認められなかったのである。もっとも厳寒のこの港は、粉雪が舞い、凍りついていて、出る気もしなかったのが実情であった。
 私どもは本船が入港後はのんびりと、揺れない船室で一時を過ごすことが多かったが、ソ連側のG・P・Uは四六時中、本船を警備していた。若い隊員はヅカヅカと船室に入ってきて、日本語を流暢にしゃべり、私どもの持ってきた日本の新聞を漢字まで読んだのには、本当に驚いたものである。そんなにまで日本に対して研究というか、将来の何かに備えていたのかと、恐ろしくなったものである。大体、若い隊員が多く、彼等の態度は一応優しく、にこやかであったように記憶している。
 一度だけ、船長に誘われて、お供し、上陸して現地の日本領事館を訪問したことがあった。船長だけは、しばしば領事館を訪問しており、この往復だけ(勿論徒歩で)がゆるされていたようで、余り気分の良いものではなかった。領事館で何をしたか覚えていないがとにかく一度だけ、ソ連の土を踏んだという思い出だけが残っている。
 06 第五話 ビューローの斡旋業務のこと
 前にも述べたように、ビューローは米国の当時有名だったトーマス・クック旅行社との契約により、日本経由で、米国やその他の国に逃げてくるユダヤ人宛に、米国在住の親戚、友人から預けられた難民個人に対する保証金を、当時のビューローのニューヨーク事務所を通して、東京本社に送金するという仕組みになっていた。
 ニューヨーク事務所では、つぎつぎと受取った保証金を本社に送金すると同時に、渡すべき難民本人の氏名を本社に打電した。それにより本社外人旅行部では、難民の氏名と送金額のリストを作り、乗船勤務者と敦賀駐在員に送った訳である。
敦賀駐在員は何ヶ月毎かに交代したが、寒い冬の敦賀での業務は決して楽ではなかった筈である。私と最も長く冬場の駐在員として付き合ったのは鈴木君という当時のハリキリボーイであった。本船が帰ってくると私は、業務を終えた後、本船のスケジュール、又は天候、船の遅れによる変更等で、一泊から二泊を駐在員と同じ旅館で過ごすのが常であった。上陸後に、揺れない旅館で、ゆっくり駐在員と歓談できたことは喜びであった。
 乗船勤務の私は、毎回出航前に受取った本社からのリストにより、復航に乗ってきた難民を相手に、当時「イエローペイパー」と呼ばれていた送金通知書の所持を確認し、リストによって、ビューローから送金が来ているかどうかを、チェックする業務に当ったのだが、多くの航海は時化で船酔いの難民が殆どで、悪臭ただよう三等船室で、一人一人をチェックすることは大変な仕事だったし、全員をチェックすることなど、到底無理であった。その上、さらにチェック業務を難しくしたのは、ユダヤ民族の名前であった。モスコヴィッチとか、ゴールドベルクだとかいう同じ苗字の人が多く、所謂ファーストネームで本人を確認しなくてはならなかった。従って敦賀に入港すると、駐在員が大変苦労することになったのである。
 日本の、外国人入国手続きとしては、先づ検疫、次に入国管理官による旅券と査証(ビザ)の検査、其れから税関による荷物検査と云う順序は昔も今も変わらない。
 この時代の敦賀港では、難民は無国籍で旅券を所持しないので、所謂身分証明書と、其れにある査証がチェックされたのであるが、難民の場合は、「見せ金」というか、トーマス・クック社からの送金が着いているかどうかが、今一つの条件だったので、まづビューローで送金の有無がチェックされなくてはならなかった。この送金が確認されれば、晴れて上陸が認められることになったのである。処が、数百人の中には、送金が着いていないものも多数いた。そういう時には、神戸から来ていた米国ユダヤ人協会の日本支部の責任者が呼ばれて「ギャランティ(保証)」し、滞在費を支払うことになったが、ここに私はユダヤ民族の強力な団結力の現れを見た気がした。
 私と駐在員は、何とか本人をリストから捜しだそうと、数百名の膨大なリストを夢中になってチェックしたことを今でも覚えている。其れは確かにシンドイ仕事であった。
 しかも、ビューローの斡旋業務はそれだけではなかった。本人を確認した送金引換証に対して、事前に用意した円貨を、駐在員が手渡すことであった。滞在費を含め、当時の金で(当時は米貨一ドルが約二円四十銭前後)二百数十円を何百名かに渡す業務も大変だったと思う。こうして現金を受取り、上陸を許された難民たちは税関検査を終えて、横浜か神戸へと移動したのだったが、大方の人数が分ると、ビューローの駐在員は、要領よく敦賀駅までのバス輸送を準備したり、時には団体の大きさにより、臨時列車の手配をした。
 私達ビューローマンのこうした斡旋努力とサービスが、ユダヤ民族、数千の難民に通じたかどうかは分らないが、私達は民間外交の担い手として、誇りを持って、一生懸命に任務を全うしたことは確かである。
 これらの難民の中から、米国に行って成功し、出世した人、金持ちになった人もいたことであろう。彼等が中心になり、嘗て世話になり、命を助けられた杉原元副領事を称える運動が、この数年の間に広がってきたことを聞き、ユダヤ人たちも中々良いことをしてくれるものだと感じている今日の私である。
 (平成七年一月二十五日記)
 『大迫辰雄さんについて』
─ 大迫さんとの出会いについて教えてください。
 北出明氏:私は大学を卒業した1966年、外国人旅行者の誘致活動を行う政府機関、国際観光振興会(現日本政府観光局=JNTO)に就職しました。そこで初めて、当時JTBからJNTOに出向してこられたばかりの大迫さんと出会いました。その年、JNTOでは国際会議の誘致業務も開始するため、専門部署のコンベンション・ビューローを新たに設置したのですが、その責任者として大迫さんが迎えられ、そこに、新入職員の私が配属されたのです。
─ 大迫さんはどんな方でしたか?
 北出明氏:とにかく英語が堪能で、上司でしたが決して偉ぶることなく、とても謙虚でシャイな一面もある、日本人的な人でした。
ユダヤ人輸送の任務を知ったのは?
 北出明氏:私は大迫さんの下で3年間お仕えしたのですが、その間、大迫さんが1940年~41年当時、ユダヤ人の輸送の任務に携わっておられたことはまったく知りませんでした。大迫さん自ら口にすることはなかったのです。
 私がそれを初めて知ったのは、それから約20年後のこと、大迫さんも既に現役を退いておられた頃だったと記憶しています。ある日、たまたま「日本交通公社70年史」を手にする機会があり、読み進んでいくうちに、かつてJTBユダヤ人輸送の業務を請け負ったとの記述が目に入りました。そして、驚いたことに大迫さんがこの任務に携わっておられたことを知り、深い感動を覚えました。それ以来、いつか大迫さんにお会いし、直接お話をお聞きしたいと思うようになりました。
─ その後、お会いできましたか?
 北出明氏:私が海外勤務を終え帰国した1998年にようやくお会いできました。
でも、「自分は任務を全うしただけ」という姿勢を崩さず、決して多くを語ることはありませんでした。
 その謙虚な姿に、ますます敬慕の念が深まりましたね。
 ただ、そのとき、大迫さんが大事にされていた当時のアルバムを見せられたのです。
 そのアルバムには、当時のユダヤ人乗客から贈られた写真がきれいに保存されていて、写真の裏には大迫さんへのメッセージが書かれていました。
 中でも印象に残っているのが、「私を思い出してください。素敵な日本人へ。」
 というメッセージ。
 このとき、残された写真やメッセージを目にして、「外交官 杉原千畝の命のビザについては広く知られているけれど、当時のJTBの取り組みや、日本へ逃れて来たユダヤ人たちの思いについては、知る人は少ない。これらをきちんと後世に伝えるべきだ」と感じ、取材活動を始めたのです。
 『取材活動でわかったこと』
─ 当時のJTBは、なぜこの任務を受け入れたのでしょうか?
 北出明氏:戦中・戦後の混乱により、この当時のJTBの記録はあまり多くは残されていないようですが、JTBに、ユダヤ人輸送業務の要請が来たのは、1940年春頃だとわかりました。
 シベリア大陸を横断し、ロシア・シベリアを経てウラジオストクへ。そこから日本海を渡り、福井県敦賀へ。
 そして、日本から受入れ先となる第三国へ向かうというルート。
その頃、ユダヤ人たちがナチス・ドイツによる迫害から逃れるルートは、もうこれしか残されていなかったのです。
 当時の世界情勢から考えると、この任務を請負うことは、日本と同盟を結ぶナチス・ドイツに逆らうことにもなるため、JTBにとって非常に難しい決断を迫られたことでしょう。
どのような議論が交わされ、この要請を受け入れたのか?最もそれが知りたいところですが、記録が残っていないため確かめることができません。
 しかし最終的にJTBは、「人道的見地からこの任務遂行を決断した」との記録が残っています。
─ 大迫さんをはじめとした当時のJTB職員は、この任務にどのように携わったのでしょうか?
 北出明氏:1941年のドイツ軍によるソ連侵攻を機に、シベリアルートが断絶するまで、10数回に渡るユダヤ人輸送が行われました。最も多く輸送任務に関わったのは大迫さんですが、海上輸送に関わった職員は4名ほどいたようです。
 ユダヤ協会から渡された名簿をもとに、乗客ひとりひとりの顔と名前の照合や、ユダヤ協会からの支給金の給付、第3国への出国をスムーズに行うための仕事などに携わりました。
 敦賀に開かれたJTBの臨時の駐在所では、海上輸送で到着したユダヤ人乗客を、神戸や横浜などの国際港へ送客する業務にも従事しました。
 中でも海上輸送は、特に大変な業務だったようです。
 第1回目のユダヤ人輸送は、約5000トンの大型船「ハルピン丸」で行われました。しかし大きすぎてウラジオストクの港に着岸できなかったため、第2回目以降は2300トン程度の中型船「天草丸」に変更。冬の日本海は時化が多く、波が荒れるため、大迫さんが「天草丸」で初めてウラジオストクへ向かう往路は、激しい船酔いの洗礼を受け、眠れない、食べられない、の苦しい航海となったようです。しかし、港に着き、たくさんのユダヤ人たちを目の前にすると、船酔いのことなど忘れてしまい、無事任務を遂行することができた、と大迫さんは回想録の中で語っています。
─ 当時船に乗ったユダヤ人の方たちにも取材されたそうですね?
 北出明氏:ユダヤ人たちは、追われるようにヨーロッパを脱出し、シベリア大陸を横断するためにシベリア鉄道に乗っている間も、「いつソ連の官憲に連行されるか分からない」という不安に怯えていました。
 やっとの思いで輸送船に乗り込み、ウラジオストクを出港した瞬間、どこからともなく、ユダヤ人たちの心の拠りどころとも言うべき歌「ハティクヴァ(希望)」(現:イスラエル国歌)が船内に溢れたそうです。日本行きの船に乗れたということが、ユダヤ人たちにこの上ない安堵感や安心感を与えたのでしょうね。
 しかし船に乗ってしまえば安全というわけではなく、第二次世界大戦下の海を10数回往復するという大迫さんの業務は、文字通り命をかけた危険な仕事だったと言えるでしょう。
 当時避難民だった方たちに取材した際、敦賀に到着したユダヤ人たちは、「敦賀を天国だと思った」と言っていました。迫害を受ける宿命を背負って生きて来たユダヤ人たちにとって、敦賀の人たちの温かい歓待は、幸せな記憶として鮮明に残っているのでしょう。
 昨年2014年の春に、大変嬉しいことがありました。大迫さんの娘さんから例のアルバムを託され、7枚の写真の持ち主を探していたのですが、ついに、73年の時空を超え、そのうちの一人の身元が判明したのです。
 それが、「素敵な日本人へ」の女性(ソニア・リードさん)でした。残念ながら、ご本人はすでに他界されていましたが、幸い、3人のお子さんたちと連絡が取れ、大迫さんの娘さんのご了解を得、長女の方(デボラ・リードさん)に「お母さんの写真をお返ししたい」と申し出ました。
 デボラさんからは「両親と姉二人の命を奪われたという母は、私たちに当時のことは殆ど語りませんでした。よほど辛い時代を送ったのでしょう。この写真を見て、その頃の母の様子が偲ばれ、感無量です。
 70年以上も前に母が大迫さんに残した言葉は<私を思い出してください。素敵な日本人へ>でした。
 そして、母の願いは叶えられました。彼女は生き延びて幸せな人生を送ることが出来ただけでなく、しっかりと記憶されていたのです。そして、助けを必要としていた人々に示された日本人の親切もまた間違いなく記憶されていたのです。」とコメントをいただき、私も大変感激しました。
─ 最後に、北出さんを取材活動へと突き動かした原動力は何だったのでしょうか?
 北出明氏:現在、親日民族として世界的にも知られるユダヤ人ですが、2011年の東日本大震災や1995年の阪神・淡路大震災のときなど、海外のユダヤ人コミュニティからたくさんの支援の手が上がりました。
 約6000人の命を救った外交官・杉原千畝の“命のビザ”が、今にも続くユダヤ人の日本人に対する親愛の念を生み出したのは確かだと思います。
 でも、大迫さんをはじめとした当時のJTBの職員たちが、“民間外交官”として懸命に働き、ユダヤ人たちを気遣い、労ったことも、現在までに続く親愛の念や交流を生み出した理由のひとつになっているのではないかと思います。
 第二次世界大戦の混乱の中、こんな日本人がいたことを、現在の多くの人たちに知って貰いたい。
 その一念です。
{北出明 氏
 1944年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。
 1966年慶應義塾大学文学部仏文科卒、国際観光振興会(現・日本政府観光局=JNTO)に就職。ジュネーブ、ダラス、ソウルの各在外事務所に勤務。
 1998年国際観光振興機構コンベンション誘致部長。
 2004年JNTO退職。
 知られざるJTBの貢献として、1940年~1941年までのユダヤ人輸送任務を紹介した「命のビザ、遥かなる旅路杉原千畝を陰で支えた日本人たち」(交通新聞社新書)を執筆。}
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