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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
部落解放同盟の一部は、天皇制度を否定し、昭和天皇を非人道的犯罪者と糾弾している。
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日本には、俗欲に塗れた政治権力と宗教権威、そして私利私欲のない神聖な天皇の御威光の3つが存在していた。
差別され迫害を受けてきた賤民や部落民の精神面を支えていたのは、天皇の御威光であった。
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士農工商とは、儒教において社会の主要な構成要素(官吏・農民・職人・商人)を指す概念である。「四民」ともいう。日本では、近代になり江戸時代の身分制度を意味すると捉えられるようになったが、1990年代頃から実証的研究が進み、同時代的に現実に施行された制度ではないと理解されるようになった。
差別用語としての「士農工商」
「士農工商穢多非人」の語は江戸時代には存在しなかったとされており、明治7年(1874年)に初めて使用されて以後、昭和初期の融和教育の中で頻繁に使われるようになったと考えられている[誰によって?]が、「士農工商○○」(○○の部分には「芸能人」「予備校生」「アナウンサー」などの語が入り、しがない身分を自嘲的に表現するのに使う)との表現は部落差別の深刻さを茶化すことにつながるという主張から、1980年代以降は部落解放同盟の糾弾を受けるようになり、放送禁止用語として扱われている。具体的には、以下の糾弾事例がある。
TBS糾弾事件
1981年8月6日のTBS系のテレビドラマ『虹色の森』(毎日放送制作)に「士農工商、その下がうちだよ」との台詞が登場。これに対し、広島や熊本の部落解放同盟関係者が怒鳴り込んだ。これ以後、部落解放同盟中央本部はこの種の表現を軒並みに糾弾するようになった。
週刊文春糾弾事件
『週刊文春』1985年5月9日号に筒井康隆による「士農工商SF屋」との表現が掲載されると、部落解放同盟が抗議。筒井は「多種多様な業界で自嘲的に使われている成句であり、その限りにおいて部落差別の隠喩にもなりえない」と突っぱねたが、文春は部落解放同盟に謝罪した。
その後、部落解放同盟の小林健治から筒井に「週刊文春とは話がついたが、あなたとはまだついていない」との電話があった。「話をつける」とはこの場合あきらかに「詫びさせる」という意味だったので、筒井は話し合いを断った。すると部落解放同盟の小林健治は「この電話は個人の資格で言っているのではなく、背後には部落解放同盟20万の人間がいる」と言った。
この言葉に逆上した筒井は思わず「20万が200万であろうと」云々と怒鳴りあげ、後になってからそのことを大人げない行為と反省しつつも「これはやはり先方の言い方に問題があるので、この言い方をされたらたいていの者は脅えるか怒るかなのだ」と部落解放同盟にも反省を促している。
この一件につき、野町均は「差別表現をネタに背後には部落解放同盟20万の人間がいると恫喝めいたことを口にするような姿勢がどれほど堕落したものであるかはおのずと明らかであろう」と批評している。
阿久悠糾弾事件
『東京新聞』1984年12月10日付に掲載された連載「この道」第35回で、阿久悠が広告代理店勤務時代にテレビ局の社員たちから屈辱的な扱いを受けた思い出に触れ、「番組ディレクターは帝王だった。それに比べて、広告代理店は自ら士農工商代理店と嘲るほど立場が弱かった」と書いた。これに対し、部落解放同盟東京都連合会は、作者の意図にかかわらず「差別表現」であると抗議し、阿久悠を謝罪に追い込んだ。
電通事件
電通発行の週刊紙『電通報』1996年9月16日付に掲載された連載コラム「シリーズ・広告自分史<8>」に「士農工商代理店、われら車夫馬丁でござんす」との表現が登場(筆者は愛媛新聞社会長の松下功)。これに対して電通は同紙を即刻回収し、謝罪声明を発表すると共に、問題の表現を差し替えた第二版を発行。翌9月17日には部落解放同盟中央本部に電通みずからが連絡して詫びを入れ、1997年4月8日には電通の花岡専務が組坂繁之に面会して謝罪文を手渡し、一件落着となった。このほか、問題の記事の筆者である松下功が1997年2月17日に部落解放同盟中央本部を訪れ、頭を下げた。
佐賀新聞社糾弾事件
1997年3月、佐賀新聞社社長の中尾清一郎が、佐賀市におけるシンポジウムで「佐賀というのは福岡から下にみられ、福岡人が士農工商の商であれば、佐賀は穢多非人」と発言。これが差別発言として問題視され、部落解放同盟佐賀県連合会が中尾を糾弾し、謝罪に追い込んだ。一方、部落解放同盟と対立する全国部落解放運動連合会九州地協は「部落差別発言ではない」「比喩として不適切だっただけ」との見解を発表し、糾弾会に出席しないよう中尾に促した。
サイゾーとAV監督への糾弾事件
『サイゾー』2016年8月号における安達かおるの発言「結局、僕は職業カーストの、昔で言えば「士農工商えた非人」の最底辺なんですよ。AV業界にも職業カーストは厳然としてあって、その中でもスカトロなんて撮ってるのは最底辺だしね」が部落解放同盟から問題視された。2016年11月5日、サイゾーの代表取締役と編集長と広告部長と安達監督などが部落解放同盟中央本部に呼び出され、反省文を提出させられた。
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部落解放同盟(ぶらくかいほうどうめい、英: Buraku Liberation League)は、部落差別の解消を目的に標榜している同和団体である。関係者みずからによる略称は解放同盟。
関係者の間では単に「同盟」と呼ばれることもある。解同の略称は部落解放同盟の大賀正行も第6回部落解放夏期講座で使ったことがあるほか、部落解放同盟福岡県川崎町連絡協議会も『『あいうえお』からの解放運動』165頁や256頁で使っている。また裁判所でも使われており、特に日本共産党はカギカッコつきで「解同」と表記する。
また、裁判所によって部解同と略されたこともあり、朝日新聞が解放同と略したこともある。
立憲民主党の主な支持団体の一つであり、同党に組織内候補を輩出している。地域によっては自民党・公明党・国民民主党・社民党・新社会党などを支持する場合もある。
規約では「部落民でない者についても、都府県連合会で審査決定し、中央本部の承認により同盟員とすることができる」と定めるが、事実上は「学識経験者以外は役員、たとえば中央執行委員などには(部落民以外を─引用者注)あまり入れない」ことになっており、過去には部落外の協働者から「部落外の人間からの批判の拒否」を指摘されたこともある。
歴史
1922年、大正デモクラシーの空気の中で、全国水平社が結成された。戦前の運動は、1940年の大会で国歌斉唱・宮城遥拝・英霊に対する黙祷で幕を下ろすまで続けられた。
戦後の部落解放運動は、戦前の水平運動、融和運動双方の活動家の大同団結した部落解放全国委員会の結成によって始まった。同委員会は1955年、大衆的運動団体であることを明確にするために、部落解放同盟と改称するが、その一方、55年体制の対立構図が明確化する過程で融和運動系列の活動家を除名、60年代後半から70年代前半にかけては共産党の活動家を除名。除名された者たちはそれぞれ別組織を結成した。その結果、自民党系の全国自由同和会、共産党系の全国部落解放運動連合会(全解連)、そして1955年結成の部落解放同盟に分かれて推進されることになる。
部落解放同盟内部の共産党系の派閥は、内閣同和対策審議会答申(1965年10月8日)を「毒まんじゅう」であり自民党との妥協の産物であると批判。一方、部落解放同盟内部の社会党系の派閥は同答申を歓迎した。佐々木隆爾によると、この部落解放同盟の分裂劇の裏側には、部落解放運動の主流から共産党勢力を排除し、部落解放同盟内の利権派に主導権を握らせ、部落解放運動を体制の中に取り込もうとする旧内務省系の自民党右派議員グループ「素心会」の思惑があったという。以後、1970年代にかけて共産党系の勢力が社会党系の勢力に排除され、今日に至る。このような経緯から、共産党と部落解放同盟は反目を続けている。
「日本共産党#部落解放同盟との対立」も参照
共産党との対立が爆発したのが、1974年に起きた八鹿高校事件である。もともと共産党系の部落問題研究会が設置されていた兵庫県立八鹿高等学校で、部落解放同盟系の生徒が部落解放研究会を結成しようとしたのを、共産党系の教師が非公認としたことから、部落解放同盟が組織的に解放研の生徒の支援に乗り出し、教師を糾弾するに及んだ。このとき、共産党支持の教員のみならず社会党支持の教員や支持政党のない教員も暴力の被害を受けている。当時は部落解放同盟の不祥事に関する報道がタブー視されていたことから、全国紙はこの事件を積極的に報道しようとしなかった。共産党はこれらの事件を国会で取り上げ、部落解放同盟を非難している。
部落解放運動の草創期から「言った・言わない」による暴力的な吊し上げが行われていた。その頂点が八鹿高校事件であった。また、糾弾の対象とした宗教団体・企業・マスコミなどを「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」(同宗連)、「同和問題に取り組む全国企業連絡会」(同企連)、「出版・人権差別問題懇談会」「人権マスコミ懇話会」などの組織に糾合し、参加費を徴収し、部落解放同盟の研究集会や糾弾会に糾弾側として動員している。この間の事情について、部落解放同盟員は「将棋のコマや思ってくださったらええねん。将棋の場合は相手のコマを取ったらそれをまた今度は自分のコマで使うでしょう。そういうことなんですね。だからね、最近は企業の人、行政の人の発言の方が僕なんかよりも解放同盟寄りの発言だったりする。僕があべこべに『あんたはほんまに解放同盟ですか』と言うてやられるんだから(笑)」と説明する。
共産党は「部落問題は既に解決している」として全解連を解散し、人権一般を扱う団体に衣替えした。部落解放同盟も部落のみならず、障害者解放など社会的少数者全般の権利を擁護するとのスタンスに変わりつつあるが、部落問題を最終的に解決するのは行政の責任だとする立場は堅持している。
部落解放同盟は、かねてから社会党・公明党・民社党・社会民主連合との関係を重視してきた。現在は、立憲民主党との関係が深いが、小森龍邦・部落解放同盟元書記長は、新社会党委員長を務めていた。ただし本来の部落解放同盟は多種多様なイデオロギーの持ち主が集まった大衆団体であり、「部落解放同盟という看板あげてるけども、外したらやってること言うてること自由同和会とそんなに変わらへん」との声も内部にはある。
公式方針としては反天皇制をスローガンに掲げており、1974年6月の部落解放同盟の「子ども会」では
日本共産党
橋本浙子(日本共産党員。矢田事件への見解が原因で勤務先の大阪市役所から研修名目による職場いじめを受け、法廷闘争をおこなった)
昭和天皇
機動隊
などを「6つの敵」と称し、この6つをかたどったロボットをつくり、これらを倒す競争をさせていた。
しかし末端レベルには天皇崇拝者もおり、「家の中行ったら天皇陛下の写真と日の丸があって、それで支部長やってる」場合もあるという。たとえば部落解放同盟鹿児島県連合会初代委員長の村岡仁三次も自宅に天皇皇后両陛下の写真を飾っていた。なお村岡は大日本翼賛壮年団出身であった。「南九州の被差別部落の解放運動の人にはときどきいるタイプなんです」と、有馬学は述べている。このほか「日本塾」の右翼が部落解放同盟に入り込んで幹部になった例も指摘されている。
1995年当時、部落解放同盟には
旧社会党の「党員協」
いわゆるソ連派の「日本のこえ」
中国派の「中国研究会」
の3つの流れがあった。元々は「党員協」が主流で、松本治一郎も上杉佐一郎もこの派閥に属する。しかし1995年までには「日本のこえ」が主流派閥となり、「日本のこえ」の上田卓三が書記長となる。これに伴い、「日本のこえ」と対立関係にある新社会党の小森龍邦は書記長を解任されるに至った。かつての岡山県連合会(「中国研究会」系)のように、同盟中央の方針に対立したために解体された例もあり、中核派系統の支部が同盟中央から機関解体されて部落解放同盟全国連合会(全国連)となった例もあり、部落解放同盟は一枚岩の組織ではない。また、同盟中央から解体されてからも自らの正統性を主張し、行政から補助金を受け続けている組織もある。
1999年4月30日、広島県教育委員会は、君が代の斉唱を推進する立場をとり、教員と対立した県立校長の自殺事件の背景に、解放同盟県連や日教組の「圧力」があったとする調査結果を発表した。
2002年に同和立法が期限切れを迎え、一部地方自治体において同和予算を見直す動きが出る。これに危機感を持った部落解放同盟は同和立法の代替法として人権擁護法案の成立を強く推進。メディアでは関係の深い朝日新聞社に強く働きかけを行っており、2005年の通常国会時は専務取締役の坂東愛彦や社会部の本田雅和などが同調し、紙面の論調に反映された。これに対して、共産党は赤旗などを通じて反対姿勢を鮮明にした。
部落問題研究所は部落解放同盟を憲兵や特高刑事になぞらえている。全解連もまた
{「戦前の国民は、天皇の国家の名で民主主義のかけらもない暗黒支配のもとにおかれて、自由、権利を圧殺されていた。天皇を批判し、冗談にもやゆするものは、それだけで『不敬罪』として逮捕され、牢獄にほうりこまれたのである。これとは、次元がちがうが、『解同』朝田派を批判したものだけでなく、かれらににらまれたものは、それだけでも、"差別糾弾"の対象にされ、"糾弾学習会"とよぶ監禁、どうかつ、脅迫、暴行をうけなければならないのである。このようにみてみるならば、『解同』朝田派の部落排外主義とは、鉄面皮な新しい差別主義である」}
と述べている。戦前の特高が内務省警保護局保安課編『特高月報』を通じて国民の不敬発言とされたものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録していたように、部落解放同盟もまた「部落解放基本法」の永久立法の必要性を世に訴えるために「部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会」名義で小冊子『全国のあいつぐ差別事件』を毎年刊行し、国民の部落差別発言とされるものを便所の落書きに到るまで逐一監視し記録している。
「日本のこえ」派で上田卓三のブレーンであり、部落解放同盟の「影の書記長」「影の委員長」「最大の権力者」ともいわれた大賀正行(部落解放・人権研究所名誉理事、元部落解放同盟中央本部顧問)は、部落解放同盟を「人権同盟」と改称し、部落問題だけではなく人権問題全般を扱うNGOに改組し、行政の補助により運営していく構想を持っている、とも伝えられる。
最盛期には18万人いた部落解放同盟員は、同和対策関連法の失効(2002年)を経て、2012年現在、6万人に激減している。飛鳥会事件やハンナン事件、八尾市入札妨害恐喝事件、大阪府同和建設協会談合事件、芦原病院問題、京都市環境局不祥事、奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件などの相次ぐ不祥事を受けて、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部の元幹部は「部落差別はほとんどなくなってるから、解放同盟はもう要らんと思う。別に解放同盟がなくても生活できるやん。結婚差別はまだあるで。でも、それも一部やろ。解放同盟はすでに役割を果たし終えた」と語っている。長年にわたり部落解放同盟と共闘していた灘本昌久もまた「現在、部落解放同盟は野垂れ死に状態になりつつあるが、それは自然となったのではなく、古い運動と理念にしがみついたがための、自業自得の野垂れ死にである」と評している。
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