🏞113)─2─ロシア軍艦対馬占領事件。文久元年2月3日(1861年3月14日)。~No.447 ㊶ 

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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。  
   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・    
 日本領対馬は、古代から、極東アジアにおける最重要軍事拠点であった。
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 ロシアは、昔から油断も好きもない信用ができない仮想敵国であった。
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 日本が教訓とすべきは、アヘン戦争に敗れて衰退した清国(中国)ではなく、臣下のマハラジャ藩王)に裏切られて滅亡したムガル帝国であった。
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 外国奉行小栗小栗上野介忠順と箱館奉行村垣淡路守範正も英艦の派遣を聞いて「前門の虎を追い出して、後門に狼を招くようなもの」と反対した。
 小栗上野介と艦長ビリレフ 第2回会談
 ビリレフ「船の修理をしていたらちょうどそこへ(リハチョフ)提督から命令があって、修理滞泊のついでに海図を作成するように言ってきたのだ。それに英仏もこの地を狙っているから、我々がいる間は、両国も手を出すことはできないだろう」
 小栗「そういう話なら、ロシア政府から直接わが政府に申し出るべきではないか」
ビリレフ「それはわかっているけれど、私からは答えられないから、詳しいことは提督かゴシケビッチから話があると思うから、そっちから聞いてくれ」
(日野清三郎『幕末における対馬と英露』)
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 ロシア軍艦ポサドニックは「英艦が行ったから退去した」は誤り。
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 昔の日本人は現代の日本人とは違う日本人であった。
 当時の日本民族日本人で、現代日本人の親中国派・媚中派やリベラル派・革新派のように日本の敵に味方を売り、母国を裏切る者は一人もいなかった。
 日本民族日本人は、祖先から受け継いだ国土を、寸土の土地も、離れ小島さえも、武器も取り、命を捨てても守り通していた。
 日本民族日本人とは、国益を守る為ならば戦争も辞さない人間であった。
 昔の日本人であれば、日本国土内に外国人租界や外国人自治区など認めはしなかった。
 何故なら、昔の日本人は、ローカルな人間でグローバルな人間ではなかったし、ムラ人であって都会人ではなかったからである。
 現代日本人は、グローバルな都会人が好きで、ローカルなムラ人を「ド田舎者」と嫌う。
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 ロシア軍艦対馬占領事件は、幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる。
 経過
 ロシア軍艦の進出
 文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
 ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶。しかし、海事大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった(南下政策・帝国主義も参照)。
 ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。
 3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。
 
 対馬藩との交渉
 対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。
 ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。
 4月12日、ロシア兵が短艇に乗り大船越の水門を通過しようとしたのを対馬藩の警備兵が制止すると、ロシア兵は警備兵・松村安五郎を銃殺、さらに郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内1名(吉野数之助)は舌を噛み切って自殺した。ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、7頭の牛を奪って帰船。さらに翌日には水兵100余人を派して大船越の村で略奪を行った。
 宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを要求しながらも米・塩・薪炭を贈り懐柔を図った。紛争を避けるため藩内士民には軽挙を戒める一方で、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。また、宗氏の所領の肥前田代では代官平田平八が手兵を率いて対馬に渡り、ロシア兵を討つ気勢を示した。

 幕府の対応
 長崎奉行・岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を議したが有効な手は打てなかった。
 幕府は報告を受けて驚き、箱館奉行・村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させる。また外国奉行小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせた。
 文久元年5月7日、目附溝口八十五郎などを率いて対馬に到着した小栗忠順は、5月10日、艦長ビリリョフと会見した。この第一回の会談でロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求め、小栗は謁見を許可する旨を回答。5月14日、第二回の会談で小栗はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議。5月18日、第三回会談で藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対し小栗は(老中安藤信正に謁見は対馬居留を認めることになるので許可できないといわれたので)前言を翻し謁見はできないと回答。話が違うとビリリョフは猛抗議を行ったが、小栗は「私を射殺して構わない」と言い切り交渉を押し切った。5月20日には小栗は対馬を離れ江戸に向かった。
 江戸に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見を受け入れず、小栗は7月に外国奉行を辞任することになる。
 5月26日、交渉に行き詰まった対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなり、ビリリョフは軍艦を府中に回航し、部下を従えて藩主宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日滞留の恩を謝した。しかしロシア側は芋崎の永久租借を要求し、見返りとして大砲50門の進献、警備協力などを提案した。対馬藩側では幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。沿道警備にあたった藩内士民はロシア兵の傲岸な態度に激怒したが、辛うじて事なきを得た。

 イギリスの介入
 7月9日、イギリス公使ラザフォード・オールコックイギリス海軍中将ジェームズ・ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、老中・安藤信正らと協議する。
 7月23日、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウンター、リンドーブ)が対馬に回航し示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議した。しかし実はこの時点においてオールコックも、イギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。
 また老中・安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じてロシア領事に抗議を行わせた。これまでビリリョフの行動をそのままにさせていたロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、軍艦ヲフルチニックを対馬に急派し、ビリリョフを説得。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号は対馬から退去した。
 9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。
 ロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を越され、対馬を租借されるのを恐れていたとされる。
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 海軍大臣コンスタンチンは皇帝の弟
 「大名との取引で・・・外交の形式をとらず…」
 海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛 指令書
 「…日本帝国の封建制度は、君が中央政府と関係することなしに現地の大名、あるいは領主との友好的な取引だけで済ませることができるという意味で今回の問題の助けとなるかも知れません。君が執り行う交渉はすべて、決して外交の形式を取ってはならず、初めは現地政権とわが国艦隊との個別取引の形で行われなければなりません。・・・」
(万延元年(1860)年六月二十一日)(伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館2009年)
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 「滞泊の既成事実を積み上げ・・・対馬藩との海軍の私的契約で基地を設立・・・外交は必要ない・・・」
 海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡
 外務大臣ゴルチャコフは、……この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました。それ故私はあなたに手紙を書きます。
 この問題は外交的条約ではなく、海軍の私的契約という性格を持たなければなりません。問題は、我々がこの島に海軍の基地、自由港を設立できるかどうかということであります。そのためには、どのような外交も必要ではありません。
 これを、あなた自身より上手にやれる人はおりません。もし、あなたが、対馬当局との地方的交渉に限定できるか、あるいはなんの交渉もなしに既成事実を積み上げる方がよいでしょう……
岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)
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 リハチョフから艦長ビリレフへの命令書 <極秘>
 艦長ビリレフ
 …領事ゴシケヴィチ氏を箱館に送り届けたら、時を失うことなく朝鮮海峡対馬に行って下さい。…できるだけ早く上記の湾に到着し、そこにコルヴェット艦を停泊させ、この湾から始めて対馬全体の、さらには朝鮮海峡両岸の詳細な航路調査にすぐ取りかかって下さい。言うまでもないことですが、両側の航路の調査に限定するだけでなく、この辺境の状態と資源について必要な情報をすべて集めるように努力して下さい。仕事を急ぐ必要はないから、すべて詳細に仕事を進めるように注意して下さい。
コルベット艦の修理が必要なら、この美しく、外洋からまったく閉鎖されている湾に停泊していることを利用して下さい。…以下略‥
(露暦1861年2月2日長崎にて・極秘・『文久元年の対露外交とシーボルト』保田孝一編著)
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 外務大臣ゴルチャコフは皇帝の前で、北京領事イグナチェフ箱館領事ゴシケヴィチを巻き込まないよう、海軍大臣コンスタンチンに釘を差している
 (ゴルチャコフは)この問題を誰に任せてよいかはっきり判らないと言い、イグナチェフに任せることを欲しないと 断固として言いました。この席で彼はイグナチェフをこの問題から解放するように私に願い、この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました
海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡・岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)
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 リハチョフ提督から海軍大臣コンスタンチンあての報告書
 (同年12月{8月に退去した後}のリハチョフ提督から海軍大臣コンスタンチン宛の報告書)
 「ロシア海軍対馬藩主との私的契約で進めるべき今回の交渉が、ロシア政府が望んでいなかった外交的土壌に移った…ので、支障が生じてポサドニク艦を引き揚げさせた。」
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 海軍大臣コンスタンチンからリハチョフ提督宛書簡
 外務大臣ゴルチャコフは、この問題を誰に任せてよいかはっきり判らないと言い、イグナチェフに任せることを欲しないと 断固として言いました。この席で彼はイグナチェフをこの問題から解放するように私に願い、この問題を外交問題としてではなく、純粋に海軍の問題にする、それ故に問題をあなたに一任すると話を結びました。私(海軍大臣コンスタンチン)はもちろん、この展望を非常に喜び、ベターだとすぐに同意しました。
岡山大学保田孝一編著『文久元年の対露外交とシーボルト』)
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 在箱館の英国領事ホジソンは『長崎箱館滞在記』で「対馬支配下にすべき」と書き「吾人(英国)の急務は対馬をベリム島となすにある」と述べた。
 ベリム島とは、紅海からアデン湾への出口にある英領の小島である。
 英領事ホジソン『長崎箱館滞在記』
 われわれにとって肝要な点は、疑いもなく対馬島を視界に入れることである。同島はどんな軍艦にも役立つ左右に出口を持ったすばらしい港を持ち、木材や水があり、われわれを歓迎してくれる住民は、この上なくもてなしがうまい民族で氷に覆われた満州と中国の絹生産地を結ぶ大そう優雅で重宝なはね橋の役を果たす。
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 英国公使オールコックから外務大臣ラッセル宛報告書
 予は露国が着手する数年前に、他の西欧強国が同島に先鞭を著けずして放置したるを奇異に感ずるものである・・・略・・・露艦の不法を詰って退去を迫り、若し露艦がこれを拒む場合は、英国自身がこれを占領すべきである。
 その手段としては、日本政府に条約履行の保証と大阪・兵庫の開市開港とを強要し、これを容れざる時は、従来の条約違反に対する賠償として割譲せしむべきである。
(大塚武松『幕末外交史の研究』宝文館・昭和27年)
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 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。 
 日本の陰暦……文化4年4月23日〜文化4年5月1日。
 西洋の太陽暦…1807年5月30日〜1807年6月6日。
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 樺太への襲撃 文化3年9月11日(1806年10月22日)、樺太の久春古丹に短艇で上陸したロシア兵20数名は、銃で威嚇して17、18歳のアイヌの住民の子供1人を拉致した。13日にも30数人の兵が再び上陸し運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪し11箇所の家屋を焼き、魚網及び船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して帰船。ロシア側本船は17日に出帆しその地を去った。船を焼失した影響で連絡手段が絶たれたため、翌年4月になってこの事件が松前藩及び幕府に報告された。
 シャナ事件 文化4年4月23日、ロシア船二隻が択捉島の西、内保湾に入港した。番人はこれを紗那の幕府会所に通報した。紗那は幕府会所のある同島の中心地であり津軽南部藩兵により警護されていた。箱館奉行配下の役人・関谷茂八郎はこの報に接し、兵を率いて内保まで海路で向かうがその途中、内保の南部藩の番屋が襲撃され、中川五郎治ら番人5名を捕え米、塩、什器、衣服を略奪して火を放ち、本船に帰り既に出帆したとの報を受ける。関谷は内保行きを中止して紗那に戻り、その守りを固める。
 影響
 この事件は、爛熟した化政文化の華が開き、一見泰平にみえる日本であらためて国防の重要性を覚醒させる事件となった。江戸幕府の首脳はロシアの脅威を感じることとなり、以後、幕府は鎖国体制の維持と国防体制の強化に努めた。また、日露関係の緊張によって、幕府は自らの威信を保つためにも内外に対して強硬策を採らざるを得なくなった。このことは1811年のゴローニン事件の原因となった。さらに、この事件は平田篤胤国学を志すきっかけとなったともいわれている。
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 文化5(1808)年 幕府は、蝦夷地(北海道)・北方領土樺太防衛強化の為に、東北諸藩に対して前年07年の派兵約3,000人に対し更なる増派を命じた。
 東北諸藩は、ロシアの侵略に備えて蝦夷地・北方領土に合計約4,000人の兵士を送った。
 アイヌ人は、日本の敵か味方か。
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 安政元(1854)年 イギリス軍艦アクティオン号は、ロシア帝国が南下して日本海を制圧する事を警戒して、日本領である対馬を測量した。
 イギリスやフランスは、日本にはロシア帝国の侵攻を防ぐ軍事力がないと分析し、非公式の雑談的な会話として幕府に対して対馬租借を持ち出していた。
 横井小楠は、フランスが対馬租借を申し込んでいる事を書き記した。
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 安政元(1854)年 イギリス軍艦アクティオン号は、ロシア帝国が南下して日本海を制圧する事を警戒して、日本領である対馬を測量した。
 イギリスやフランスは、日本にはロシア帝国の侵攻を防ぐ軍事力がないと分析し、非公式の雑談的な会話として幕府に対して対馬租借を持ち出していた。
 横井小楠は、フランスが対馬租借を申し込んでいる事を書き記した。
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