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・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
日本の不幸は、毒性の強い疫病発生源である不衛生な中国・満州、東南アジア、インドが身近にあった事である。
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疫病・伝染病対策は、内務省衛生局が強権の発動し、警察・軍隊・地方自治体を指揮した。
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ファシズム国家は、侵略戦争をして領土拡大する為に強力な軍隊をつくる為に大量の健兵を必要とした。
ナチス・ドイツは、健康帝国であった。
つまり、ファシズムの成功の鍵は国民の健康であった。
同じ全体主義であるマルクス主義・共産主義には、人民の健康は考慮されていなかったがゆえに医療や衛生は前近代的で、疫病・伝染病の蔓延で死者が多数でていた。
それは、ソ連や初期中国共産党を見れば明らかである。
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中国は、日本をモデルに近代国家建設を進めて、日本に求めたのは中国の面子が立つように日本が被害・損害を無言で不満を持たず反発せず耐え忍んで甘受してくれる事であった。
つまり、日本に対して、儒教的中華思想の華夷秩序に基ずく上下関係で下位にへりくだり「ご無理ご尤も」と盲従する事であった。
が、日本には日本の体面と誇りがあり、朝鮮とは違って日本は名誉の為に拒否し、日本民族日本人の意地を示すべく武力をもって抵抗した。
日本も中国も、ナショナリズムの為に戦争をした。
中国が日本に求めたのは、対等な関係での友人ではなく、主従関係での隷属であった。
それは、古代から変わりない日本い対する中国の要求であった。
そして、中国の願望は現代においても変わりない。
その証拠が、中国共産党・中国軍による尖閣諸島への威嚇行動である。
日本国内には、中国側の意図を理解して忖度する人びとが存在する。
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飯島渉著『感染症の中国史 公衆衛生と東アジア』 中央公論新社
第Ⅱ章 近代中国と帝国日本モデル
1 公衆衛生の日本モデル──植民地台湾と租借地関東州
日本の衛生改革
19世紀末から20世紀はじめ、第Ⅰ章で少し触れましたが日本でもペストが発生しました。その発生地点は、神戸、大阪、横浜などの港町を中心としたものでした。ここでペストが日本に影響を少し詳しく見てみましょう。
1900年、京阪神でのペストの発生を調査した北里柴三郎は、ペストはインドのコロンボやシンガポール、香港からの感染で、ボンベイ綿花と中国米の神戸港への輸入が感染経路であると指摘しています。急速な工業化、とくに綿製品部門での輸入代替工業化を進めていた日本が、インドから原料綿花を大量に輸入していたこと、また食料として安価な中国米の輸入を進めていたことがペストの感染の背景となっていたのです。
横浜でのペストもほぼ同様の状況でした。発生は市内に偏在し、郡部での発生はごく少数でした。
孟買(ボンベイ)香港には『ペスト』の絶えず流行しつつあるを以(もっ)て、本邦へ侵入せし病毒は或(あるい)は此等の諸港より感染せしものなるべし、而(しか)して上記2港に次いで『ペスト』流行船舶は実に台湾航路に当れるものなるべし、乃(すなわ)ち上記諸港より横浜へ輸入する貨物中最も多きものを米穀及綿花なりとす、之(これ)神阪地方の実験及我横浜市患者の系統等に鑑(かんが)みるに、横浜市へ侵入したる病毒は必ずや此等のものと深甚(しんじん)なる関係を有するのは明らかなり。
(神奈川県警察部『神奈川県「ペスト」流行史』1910年)
ペストは、神戸や大阪と同様に、ボンベイ(現ムンバイ)、香港及び台湾から輸入される綿花、米穀が感染経路となっていました。
こうした貨物を積載した船舶、塵芥や貨物を入れる古袋・古俵にくっついてきたネズミが運ぶペスト菌に感染したノミが媒介動物でした。そのため、これらを取り扱う労働者やその家族がペストに感染したのです。
横浜とペスト
ペストへの対策は、まず税関による検疫の強化でした。……
ペストが発生すると、横浜市当局は、交通遮断、ネズミの駆除と買い上げ、感染地域の建造物の買い上げと焼却、衛生講和会の開催、隔離病院の設置などを進めています。
1902年の第1回の発生の際には、第1患者がペストであると確認されるや、ただちに患者の居住していた地域の検査を実行しました。検査の結果、ペスト菌を持つノミが付着したネズミを検出すること、同地域に禁足令を出し、交通遮断、ネズミの駆除と買い上げを実施しました。また、神奈川砲台跡地に隔離所を設置し、感染地域の人びとや家財道具を収容、消毒を実施するとともに、ペスト患者の発生地域の全面的な焼却を実行しています。
ペスト発生地域の焼却は、警察が実施しました。家屋の焼却には市当局から一定の補償が行われましたが、反対も多く、この措置は第一次発生のときだけ実施されました。
衛生ナショナリズム
日本がペストの発生に対して機敏に対応をとることができたのは、19世紀半ばから衛生行政を整備してきた結果でした。また、検疫権の回収もその背景となっていました。1858年の安政五ヵ国条約では、治外法権の拡大解釈によって外国領事が船舶検疫に関与し、日本の検疫権が制限されていたことはあまり知られていません。つまり、日本政府は外国船舶に対する検疫を確実に行うことができなかったのです。
こうしたなかでも、1879年『検疫停船規則』などを制定して、各国と交渉して、検疫の確実な実施に向けた努力を重ねました。また、感染症対策を進めるため『伝染病予防規則』(1880年)を制定し、コレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフス、天然痘を法定伝染病に指定し、発生の届出、避病院の設置、患者の収容、排泄物などの焼却、遺体の埋葬、交通遮断、検疫委員の選出などを定めました。
1893年には、地方官官制の改正によって、地方衛生行政は府県警察部衛生課の管轄なり、ここに、(中央)内務省衛生局─(地方)府県警察部衛生課、という中央集権的な衛生行政機構が確立されます。
19世紀末の広東省や香港でのペストの流行後、1897年『伝染病予防法』、99年『海港検疫法』を制定し、同年には治外法権の撤廃に成功して、検疫権を回復します。
条約改正が日本の政治や社会に与えた影響はきわめて大きなものでした。日本は国内で公衆衛生行政や検疫制度を確立すると、その後そうした制度を植民地や租借地、占領地に拡大していきます。
ペストが発生した際に、建物の焼却を含む厳しい対策がとられる根拠となったのは、伝染病予防法でした。この法律は、それまでの伝染病予防規則とは異なり、個人(家)を単位として、流動人口を含む個人の組織化を通じて、感染症対策を進めようとしたものでした。
また、ペスト対策をきっかけとして、各地に衛生組合がつくられ、衛生行政を下支えする組織として機能することになったのです。
ペストの発生は、日本の社会にたいへんな危機感をもって迎えられました。日露戦争後の唱歌でも、『旅順奉天遼陽で勇名あげし戦捷(せんしょう)も、ペストの敵にもしあいて、斃(たお)るるときは効もなし』とか、『また此の病はびこらば、世界各国交際も、通商貿易中絶えて、国運次第に衰えん』(箱石孝蔵『鼠疫(そえき)予防 衛生教育 ねずみ唱歌』)と歌われていたほどだったのです。
植民地台湾
日清戦争の講和条約として1895年に結ばれた下関条約によって、日本は台湾を植民地とし、1945年の敗戦ま約50年間統治しました。台湾統治は、日本にとって最初の植民地統治であり、その意味で、台湾統治のあり方は日本社会のあり方を示すものでもありました。また、のちに植民地とする朝鮮や租借地の関東州などの統治の基礎が作られました。
感染症対策は、植民地統治のなかでも大きな位置を占めていました。なぜなら、台湾を占領した日本軍がまず直面したのは、ペストやコレラ、マラリアの流行だったからです。
台湾では、ペストは『香港病』と呼ばれることがありました。
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国内制度の〝輸出〟と反発
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台湾総督府が実施したペスト対策は、日本国内で実施されたものとほぼ同様のものでした。対策の受け皿として衛生組合も組織されました。すなわち、衛生行政の面では、日本国内の制度が台湾に輸出されたのです。
こうしたペスト対策は厳重であり、たとえば検疫の結果、病院に送致されると殺されるといった風評が広がります。また、それまで土葬が主だった台湾で、ペスト対策として火葬を持ち込んだため、反発も広がりました。
1896年のペストは、12月中旬になってようやく収束し、臨時『ペスト』病予防委員会も解散されました。
軍陣医学──日清戦争と伝染病
衛生行政と軍隊の関係は、これまでほとんど注目されてこなかった問題です。しかし、戦争や植民地統治のなかで、軍隊が衛生行政に与えた影響はきわめて大きなものでした。
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日清戦争では、多くの将兵がさまざまな感染症の犠牲となったのです。とくに台湾植民地化のための戦争(台湾領有戦争)では、多くの将兵がコレラやマラリアなどの感染症で命を落としました。日清戦争における日本軍将兵の死亡の約8割は実は台湾領有戦争に集中しており、その9割が感染症などによる戦病死でした。
台湾駐屯軍の感染症対策
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後藤新平と『台湾統治救急案』
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保甲制度と医学校の設置
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台湾総督府医学校は、沖縄や九州から多くの日本人学生を受け入れ、その性格を変化させ、1927年5月、台湾総督府台北医学専門学校(以下、台北医専)に改称します。1934年に台北帝国大学医学部が開設されると(台北帝国大学の開設は1928年)、台北医専は台北帝大医学部附属医学専門部となり、引き続き医者の養成を行いました。
こうして台湾では、医学校が『新科挙』の役割を果たし、台湾人男性のなかで新たなエリート層を誕生させました。しかし、こうした階層は同時に、反植民地運動の担い手ともなりました。また、台湾総督府は、女子のための医学教育機関を設置しなかったので、富裕層を中心に日本に留学し女医となる人びとも登場します。
こうした台湾での施策は、その後、朝鮮や関東州に適応されていきます。次に日露戦争後に手にした租借地、関東州の状況を見てみましょう。
関東州の衛生行政
関東州は台湾と同様に、日本が公衆衛生に力を注いだ外地でした。
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日露戦争に日本が勝利すると、日本は関東州租借地の行政権を再び握ります。公医制度が1907年から導入され、……この制度は先述したように、1896年から台湾で実施されていた制度を導入したもので、のちに朝鮮や満州国でも実施されます。
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関東州でのペスト
1910年から11年、満州全域を席捲してペストは、大連や関東州も襲いました。大連民政署がペスト予防についての注意を発表したのはかなり早く、1910年11月20日のことです。
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大連で最初に患者が発見されたのは、1911年1月5日でした。……対策に充実のために神戸から6人の検疫医が招かれました。
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中国と朝鮮の国境に位置する安東(あんとう)では、アメリカ領事の意見によって防疫事務所を設置し、巡警局が自治会や総商会と共同して、消毒隊、死体埋葬隊、査検隊を組織してペスト対策にあたりました。結果として、安東でのペストの発生は軽微なものでした。しかし、国境付近の鳳皇城(ほうおうじょう)でペスト患者が発見されたことを契機に、朝鮮総督府は1911年1月下旬、新義州及び仁川で検疫を開始しました。
朝鮮総督府は盛んに情報を収集し、大韓医院(後の朝鮮総督府医院)と順化院(京城伝染病院)の医師を大連、奉天、長春に派遣して調査にあたらせます。中国からのジャンク船がペストを朝鮮に蔓延させることを懸念したからです。しかし、結局、朝鮮ではペストは発生しませんでした。
管理される苦力
ペストの流行のなかで問題となったのが、大連埠頭の荷役労働を担っていた山東苦力を中心とする中国人労働者の存在でした。
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植民地医学・帝国医療
19世紀半ば以降、西ヨーロッパでは、コレラ対策を契機に衛生事業が制度化され、政府が公衆衛生機構の頂点に位置し、医療・衛生事業に積極的に介入する国家医療(state medicine)や国家衛生(stae hygiene)が推進されました。
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日本の植民地となった台湾や租借地となった関東州でも、さまざまな方法によって感染症を治療すると(治療医学)、感染症のメカニズムを研究してその感染を防ぐこと(予防医学)が発達し、こうした知見を社会制度に反映させ、衛生事業の整備によって感染症を防止すること(公衆衛生)が進められました。
その結果、台湾では1910年代半ばまでに、ペストの発生ほとんどなくなり、その抑制に成功しました。
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そして、衛生事業の制度化は、台湾総督府が台湾人社会への権力的な介入を図るための梃子(てこ)となりました。これを近代日本の帝国医療と呼ぶとすれば、近代日本の帝国医療は、台湾植民地統治の中心に位置したのです。また、近代日本が最初の植民地である台湾で進めた衛生の制度化は、他の植民地や租借地にも適用あれることになったのです。
2 中華民国と『公衆衛生』
辛亥革命と衛生局設置
近代日本は西洋医学を導入し、それを基に衛生事業の制度化を進めました。その到達点のひとつは不平等条約改正にともなう検疫権の回収でした。これは衛生行政の近代化でしたが、日本は植民地として台湾や朝鮮、租借地である関東州にも衛生事業の制度化を強制しました。このことは、東アジアの社会に大きな影響を及ぼすことになったのですが、それは中国も同様でした。
1911年10月に起きた湖北省武昌(ぶしょう)での軍隊の反乱をきっかけに、征服王朝であった清朝が倒れました。これは、干支にちなんで辛亥革命と呼ばれています。清朝に代わって中国を統治することになった中華民国政府は共和政体を採りましたから、この革命は、長いあいだ続いた王朝政治の終焉でもありました。
中華民国政府も日本をモデルとして衛生の制度化を進めます。それは中国が日本モデルを積極的に導入することでもありました。
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『公衆衛生』という用語が使用されていたことは注目されます。また、衛生会や地方衛生組合の設置が構想されていたことも、中華民国政府が近代日本の公衆衛生制度をモデルとしてその制度の整備を進めようとしていたことがわかります。
伝染病予防条例の制定
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衛生行政のモデルが日本に求められたため、中国の衛生事業も警察も密接な関係を持つものとなりました。日本モデルの導入の背景には、多くの中国人留学生が日本の医学校で学び帰国したことや日本人医師・技術者が中国の医学校で教鞭をとったことがあります。
山西省のペストと閻錫山(えんしゃくざん)
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1916年の袁世凱の死去から蒋介石を指導者として中国の再統一が実現する28年まで、中国には北京に中華民国中央政府が存在していたものの、地方政権が軍事力を背景に割拠するたいへん不安定な時期を迎えました。
こうした混乱のなか、1917年秋、山西省を中心にペストが流行し、約1万6,000人が犠牲となります。
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『公衆衛生』から『公共衛生』へ
辛亥革命以後、袁世凱政府は中央集権的な統治機構を整備しようとしました。そこでは、政府が積極的に衛生行政に関与する近代国家的なあり方=国家医療が志向され、そのモデルは、これまでにも触れてきたように日本の公衆衛生制度でした。
しかし、第一次世界大戦中の対華二十一ヵ条要求(1915年)や戦後秩序を決定したヴェルサイユ条約で中国の主張がほとんど認められなかったことをきっかけに、五四運動などの反日運動が盛んになり、中国と日本の関係はしだいに悪化していきます。
中国の改革のモデルとしての日本の位置はしだいに光背に退(しりぞ)けかれ、医療・衛生事業でも、『公衆衛生』にかわり、『公共衛生』とう用語がしだいに一般的になっていきました。北京公共衛生事務所の活動にロックフェラー財団が設立した協和医学校が関与していたことも含め、日本の影響力は急速に低下していったのです。
国際標準化の圧力──国際連盟保健機関
第一次世界大戦後、国際連盟が設立され、ジュネーブに本部を置いた保健機関が設置されました。この組織は現在のWHO(World Health Organization 世界保健機関)の前進にあたります。
ここで簡単に国際的な保健機関の歴史を振り返ってみましょう。19世紀後半、コレラのヨーロッパへの伝播を防ぐため、国際衛生会議が何回か開催されました。しかし、自由貿易の利益を強調し、過度な検疫を避けようとするイギリスと、検疫を徹底してコレラの感染を防ごうとするフランスの意見が一致せず、感染症対策をめぐる国際的な枠組みはなかなか成立しませんでした。
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極東伝染病情報局
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ロックフェラー財団は、極東伝染病情報局の設置に際して5万ドル、その後の5年間で12万5,000ドルの資金を提供し、同情報局が派遣する衛生調査団にも資金を援助しました。
中国『東方病夫』論
1926年、極東伝染病情報局の長官が中国北部を訪問し、これ以後、天津。青島、秦皇島からも感染症の発生情報がシンガポールに伝えられるようになりました。けれども、同局の1927年度報告書では、中国における感染症の発生情報は依然として不足しており、改善も望み薄いとされていました。
当時、中国を表す言葉として、『東方病夫』あるいは『東亜病夫』という言葉が使われるようになっていました。これは中国の政情が不安定であることを示す言葉でしたが、一方でコレラなどの感染症が流行し、対策も不十分であることも表していました。その背景には、中国で感染症が蔓延すれば、周辺地域への影響が大きかったことがありました。
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衛生行政のマスター・プラン
1920年代になると、衛生問題を国家や民族の盛衰と結びつけ、中国の置かれている状況を改革しようとするさまざまな動くが顕在化しました。
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胡定安(こていあん)と社会医学
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西洋医学対中国医学
1920年2月に開催された第1回中央衛生委員会行政会議で、余雲岫({ようんしゆう}1879~1954)は、中国医学の医師を排除する法案を提案しました。
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中国国民党は西洋医学への傾斜を深めており、1930年5月『西医条例』を公布しました。
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中国医学の医師は、この動きに猛烈に反発しました。……中国医学の国家による公認です。
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検疫権の回収
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1930年、通商条約の改訂、すなわち関税自主権の回収に連動して、6月『海港検疫章程』、8月『海港検疫所組織章程』が公布され、国民政府は、7月から上海、厦門、汕頭(スワトウ)、営口(牛荘)、安東、漢口、大沽、秦皇島の海港検疫機構を接収しました。
国民政府の管理する上海検疫所の所長となったのは伍連徳でした。日本政府はこれに不満でしたが、イギリスやアメリカがこれに同意したためそれに従うことになりました。
こうして中国は、検疫制度をめぐる東アジア・東南アジアの国際秩序に主権国家として参入しました。国民政府は『衛生行政系統大綱』を着実に実行したのです。この背景には、衛生の制度化がナショナリズムとも連動し。国家建設の一環と位置づけられるようになったことがありました。
1930年9月には、『伝染病予防条例』(24条)が衛生部から公布されます。ただし、その内容は、1916年に公布された条例とほぼ同様でした。
以上のように、中華民国政府は、国際連盟の援助のもと検疫権の回収を梃子にしながら着実に衛生事業の制度化を進めました。……
中国政府は、ペストなどの感染症の流行に直面するなかで、医療・衛生事業に政府が関与する国家医療の制度化を導入しました。それは清朝政府も中華民国政府も同様でした。
衛生事業の制度化のモデルとなったのは、日本でした。しかし、1920年代になると、日中関係が次第に険悪になるなか、モデルとしての日本の位置も後背に追いやられます。そして、1930年代、中華民国政府が衛生事業の制度化を図ろうとしたとき、その動きを阻んだのは、日本との長い戦争でした。」
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現代日本には、正式な学問として地政学、戦争学、戦略学、軍事史学そして軍陣医学・戦争医学など平和と対極にある全てのものが否定されている。
その結果が、2020年に蔓延した新型コロナウイルス(武漢肺炎)における後手後手の対応や右往左往の醜態であった。
その傾向は、歴史力の乏しい高学歴出身知的エリートに強い。
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近代用語漢字の約7割は、日本が作った和製漢字であった。
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日本は、台湾、朝鮮、関東州・満州統治を円滑に行う為に、風土病やペスト・コレラ・チフス・天然痘・赤痢・インフルエンザ・マラリアなどの疫病・伝染病に対する衛生治療や公衆衛生の充実に巨費を投じ、地元民感染者のは医師や看護婦などの医療団を派遣して治療に当たった。
台湾人は、日本に感謝し、親日派知日派が急速に増えた。
中国人や朝鮮人は、日本に感謝するどころか逆恨みし、反日派敵日派となって抗日運動を激化させた。
各地の総督府は、派遣された日本人の医師だけでは感染症予防はできないし言葉や文化風習が違うい反感・敵意を買う為に、才能のある若い地元民に西洋医学などの高等教育を施し医者とした。
が、その結果、反日独立過激派を作りだしていた。
日本の植民地支配の失敗は、地元住民に高度な近代教育を施した事である。
その最たる例が、朝鮮や中国であった。
彼らに接近したのが、アメリカ・キリスト教会と共産主義者であった。
日本の善意は、台湾では通用して友好をもたらしたが、朝鮮や中国では通用せず敵意だけが生まれた。
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不平等条約に苦しめられていた昔の日本は、41年の長き年月をかけて条約改定を成し遂げ、国際社会が認める自主独立国としての権利と自由を得た。
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日本は善意から公衆衛生日本モデルをアジアの植民地、租借地、占領地などに強要した為に、地元民の拒否にあい、激しい抵抗を受け、反日運動や日本製品不買運動が起きた。
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日本の安全保障上の懸案は、国内的には自然災害であり、国外的には疫病・伝染病侵入であった。
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日本の疫病・伝染病の感染・蔓延は、グローバル化、近代化において避けられない定めである。
つまり、日本は疫病・伝染病蔓延危険地帯である。
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江戸時代。封建領主である徳川幕府や諸大名の最重要課題は産業を興して財をなし国を富ませる事ではなく、異常気象による凶作で餓死者を出さない事、甚大な自然災害で年貢徴収の田畑を失わない事、死を伴う深刻な疫病・伝染病を蔓延させて領民を減らさない事、であった。
つまり、貧しく貧困に喘ごうとも理不尽な死を避ける事であった。
この点に於いて、日本は東洋、中華(中国や朝鮮)、西洋とは違う。
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ペストやコレラなどの海外由来疫病・伝染病の蔓延は、近代化による富の代償であった。
近代化において、日本はアメリカとは違い、海外に依存せず自給自足体制のみで自国内で完結できなかった。
近代国家として生産し生きていく為には、食糧(米)・物資(綿花)・エネルギー(石油)を輸入するしかなかった。
日本の不幸は、そこにあった。
疫病・伝染病は、海外からヒトとモノが多く集まる都市部で発生し、集まらない地方では被害が少なかった。
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現代日本の歴史教育は不毛であり、現代日本人は歴史を記憶しても教訓として学ぶ事がなかった。
その結果が、令和2(2020)年に発生した新型コロナ感染(中国発生武漢肺炎)騒動における政府・議会の政治家や官公庁の官僚らによる、トンチンカンなズレた審議(感染対策より桜を見る会疑惑など)、後手後手の対応という醜態、発想の貧困(アベノマスクなど)、若者向ける人気取りの駄作(インスタグラム映像)などなど。
政治家や官僚とは、最高学府の超有名大学で高得点を取って卒業した高学歴出身知的エリートである。
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