🏞87)─1─ブラック社会における庶民の抜け道としての旅事情。犬の伊勢詣で。〜No.362No.362No.363 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 1791年 『大和名所図会』著者・秋里籬島(りとう)。絵師・竹原春朝斎。
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 江戸時代の庶民(百姓や町人)は、お上ご無体ご尤もと平伏していたが、その実はずる賢かった。
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 歴史・文化
 No.4 出た飯盛女!江戸時代の旅は犯罪、違法、迷惑行為となんでもあり。江戸時代の旅行事情【4】
 No.3 宿場の運送会社 問屋場の親会社はブラック企業!? 江戸時代の旅行事情【3】
 No.2 なんと江戸時代にもあった旅行積立、そして高級ツアーも。江戸時代の旅行事情【2】
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 歴史・文化    足場札利@2018/05/30
 庶民は旅行禁止の江戸時代、旅に出るための抜け道とは
 学校では修学旅行、会社では社員旅行、家庭では家族旅行、一匹狼のアウトローには気ままな一人旅と、現代の日本では、観光や旅行は庶民にとって身近な娯楽として親しまれています。
 では、江戸時代の旅行事情はどうだったのでしょうか?
 江戸時代では、庶民が旅をすることは各藩の法律によって禁止されていたのですが、これには抜け道がありました。湯治は病や怪我を癒すための治療行為として認められ、伊勢神宮天皇家が祀る、国を代表する神社であり、国民なら誰しも参拝する権利があると考えられていました。これらの名目で届けを出せば、お役所は認めざるを得なかったため、徹底して機能していなかった法律だと言えます。
 全国規模で大ブームとなったお蔭参り
 江戸時代後期、1800年代に入ると、庶民にとっての旅行は身近なものになりました。きっかけの一つは、お蔭参りと呼ばれる伊勢参拝が全国規模でブームとなった集団参拝。貧しい百姓でもお陰参りに繰り出す群衆の流れに乗ってしまえば、着の身着のまま無一文でも伊勢にまで辿り着く事が出来ました。女性の一人旅も珍しくなく、子供や妊婦も混じっていたというのは驚きです。
 慶安3年に始まったお蔭参りは、ほぼ60年周期でご利益が高まるありがたい「お蔭年」に盛んになりました。「不治の病が治った」「店が繁盛した」など伊勢神宮に参拝して幸福になったという話も広まっていたため、観光目的だけでは無く噂を本気で信じて伊勢を目指す人も多かったようです。
 ※実際のブームとなる時期は60年周期では無くその間隔は約10年、20年、50年と規則性はありませんでした。
 このイベントが発生すると沿道の商家などは、参拝者に無料で配る食べ物や草鞋を用意して支援したため、お金の無い参拝者はこれに与りました。このような気前の良い大盤振る舞いを見ると、参詣者だけではなく周囲の人々も巻き込んだお祭りのような感覚だったのだと思われます。
 伊勢への参拝者の数は多い時で年間総人口の1割以上となり、1日だけで十五万人弱の人が伊勢に訪れたという記録も残っています。
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 出た飯盛女!江戸時代の旅は犯罪、違法、迷惑行為となんでもあり。江戸時代の旅行事情【4】
 歴史・文化    足場札利@2018/06/29
 1700年頃の日本で、東インド会社の人間(海外の人)が街道上を気軽に旅をする人々の様子を見て驚いたという記録があります。
 数キロ置きに宿場が整理され、旅行者の野宿や行き倒れなどはほとんどなく、旅の途中、追剥によって命を奪われるといった凶悪事件もほぼ無かった時代ではありましたが、完全に平和だったかというと、決してそうでもありません。
 軽犯罪や違法行為は日常茶飯事で、1802年に出版された旅行の指南書とも言えるベストセラー滑稽本東海道中膝栗毛』の中でも犯罪行為などに対して注意を促していたりします。
 現代から見たら完全な犯罪行為であっても、昔の価値観で考えると、”当たり前のこと”、”日常的なしょうがないこと”として片付けられていたのかもしれません。
 そんな旅行に関する裏事情をいくつか紹介します。
 現代には無い江戸時代のぼったくりタクシー
 まず目立ったのが、駕籠かき、馬方、船頭による、ぼったくり行為で、「安いよ」と客を誘い、運賃の他に酒手(さかて)と呼ばれる酒代を脅迫同然の手口で請求して客と揉める事は日常茶飯事でした。いわゆるぼったくりタクシーというヤツです。
 この様な行為に対して1712年、1802年など、幕府は各宿場に対して何度も御触れを出して旅人に対する理不尽な行為を禁じました。
 幕府が禁じても、ぼったくりタクシーは減らなかったようで、この事態に対して幕府は御触れを出して直接的な手段に訴えました。簡単に言えば、酒代を要求した者に罰を与えるといった、犯罪行為を名指しした、ピンポイントな内容で、現代の日本にぼったくりタクシーが無い事実を見ると幕府側に軍配が上がったように思えます。
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 ウィキペディア
 十返舎 一九(じっぺんしゃ いっく、明和2年(1765年) - 天保2年8月7日(1831年9月12日))は、江戸時代後期の戯作者、絵師。日本で最初に、文筆のみで自活した。『東海道中膝栗毛』の作者として知られる。
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 『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた、十返舎一九滑稽本である。「栗毛」は栗色の馬。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。
 大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。文学的な価値とともに、文才とともに絵心のあった作者による挿絵が多く挿入され、江戸時代の東海道旅行の実状を記録する、貴重な資料でもある。
 一般的には上記の『弥次喜多』あるいは『弥次喜多道中』の通称で親しまれている。
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 名所図会(めいしょずえ)は、江戸時代末期に刊行された江戸・畿内をはじめとして諸国の名所旧跡・景勝地の由緒来歴や各地の交通事情を記し、写実的な風景画を多数添えた 通俗地誌。
 名所図会に先立つ類似物として名所記と呼ばれる刊行物があるが、名所記が文芸的・物語的な叙述に特徴があるのに対し、名所図会は事物の来歴などを客観的に記す点に特徴がある。名所記に比べて挿絵の比重が高く、浮画の影響もあってか鳥瞰図風の写生画をしばしば用いる。名所図会の挿絵は、地理的説明の機能を果たすだけでなく、鑑賞用途にも堪えるものである。また、編集においても、地域別・方面別の構成を取るなどの工夫が見られ、近世における巡礼の盛行による需要に応じて、名所案内としての実用性を備えている。
 こうした名所図会の最初の例は安永9年(1780年)刊の秋里籬島著・竹原春朝斎画の『京名所図会』(6巻11冊)を嚆矢とされる。『京名所図会』は前述のような特徴を備えて、見て楽しむことに重きを置き、通俗に徹しながらも詩歌俳句の類をもとりいれて興味深いものとしたために、好評を博した。版元の吉野家為八は同じ著者・画家による名所図会を引き続き刊行し、それらも同じく成功を収めたことに刺激を受け、他の版元も名所図会の出版に乗り出した。
 名所図会の刊行は寛政年間から文化年間初期にかけてと、天保年間以降の2つの時期にピークが見られ、これらふたつの時期の間の文化・文政年間には、江戸幕府の出版等政策の関係からか、再版が主となり新刊は少ない傾向が見られる。また、ほぼ同時期に流行した狂歌や、浮世絵(なかでも特に、葛飾北斎の『隅田川両岸一覧』や歌川広重『六十余州名所図会』といった風景画)、戯作者の手による名所案内記など、多くのジャンルとの間に相互に影響を及ぼしあったものと見られている。
 刊行された名所図会は多彩であり、『東海道名所図会』『伊勢参宮名所図会』『二十四輩名所図会』などのほか、『唐土名勝図会』などというものや、地誌から離れた『日本山海名産図会』、『源平盛衰記図会』といったものまで作られるに至った。刊行は畿内以外でも行われ、なかでも『江戸名所図会』は天保年間に、斎藤長秋・莞斎・月岑の3代30年もの歳月をかけて刊行され、名所図会の中でも際立った内容を持つと評価されている。

 名所図会の系譜
 秋里籬島の『都名所図会』以降、多くの類書が作られており、名所図会ブームともいえる状況があった。
・都名所図会(安永9年(1780年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
大和名所図会(寛政3年(1791年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
・和泉名所図会(寛政8年(1796年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
・摂津名所図会(寛政8年(1796年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎・画
東海道名所図会(寛政9年(1797年)刊) 秋里籬島・著、竹原春朝斎ほか・画
・伊勢参宮名所図会(寛政9年(1797年)刊) 著者不詳、蔀関月・画
・河内名所図会(享和元年(1801年)刊) 秋里籬島・著、丹羽桃渓・画
木曽路名所図会(文化2年(1805年)刊) 秋里籬島・著、西村中和・画
・江戸名所図会(天保7年(1836年)刊) 斎藤月岑・著、長谷川雪旦・画
尾張名所図会(天保15年(1844年)刊) 深田正韶・著、小田切春江・画
善光寺道名所図会(嘉永2年(1849年)刊) 豊田利忠・著画、小田切春江・補画
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