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寺社ファシズムと戦った信長、日本経済に必要な「自由化」の荒療治
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産経新聞iRONNA
iRONNA編集部
信長はなぜ戦い続けることができたのか
戦国期、弱兵で知られた織田軍を率いて天下布武を目指した信長。それでも強敵を次々と打ち破れたのは他家を圧倒する経済力があったからに他ならない。戦国のマネー革命とも言われる信長の経済政策。そこには現代に通じるヒントがたさんある。
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寺社ファシズムと戦った信長、日本経済に必要な「自由化」の荒療治
『上念司』
上念司(経済評論家)
経済を発展させるためには、「人々が自由に商売する環境」が必要だ。なぜなら、多くの人が自由な発想で商売することでたくさんのアイデアが生まれるからだ。生まれたアイデアは市場競争によって淘汰される。生き残ったアイデアが正解だ。
これからどのような産業が発展するのか、最初から答えを知る者はだれもいない。その答えは、競争による淘汰によってしか得ることができない。厳しいようだがそれが経済の掟である。要するに、一番儲かるアイデアを考えた奴が勝ちということである。
しかし、その勝ちは永遠ではない。なぜなら、ひとたびそのやり方が儲かるとわかったら、多くの人がその産業に参入してくるからだ。例えば、東京ラーメン戦争において一昔前には勝ち組だった「なんでんかんでん」が2015年にフランチャイズも含めてすべて閉店したのがいい例だろう。
では、時の権力者は経済を発展させるために何をすべきだろうか? このような自然淘汰のみが経済を発展させるのであれば、それが効率よく繰り返し行われる社会を作るしかない。多くの人がリスクを取って独自のアイデアで起業できる社会。そういう社会のインフラが整備されてこそ、経済は発展する。そのためには、取引に制限があってはいけないし、商売で得た利益はリスクを取った人に還元されなければならない。これらをまとめて「経済のインフラ」と呼ぶことにしよう。簡単にまとめると、次の3つのポイントに集約される。
① 物流の自由
② 決済手段の確保
③ 商取引のルール整備
関所を超えるたびに税金を取られたり、物々交換で貨幣が使えなかったり、起業するのに特定の身分である必要があったり、商品が輸送中に頻繁に強奪されたり、売買代金の踏み倒しが頻繁に発生したりする国では経済は発展しない。はっきり言って効率が悪すぎる。中世以前の日本はまさにそういう時代だった。
なぜなら、中世以前において、これら「経済のインフラ」を担っていたのは時の政権ではなかったからだ。室町時代末期の戦国時代の混乱で、全国を統一的に管理する「政府」がなくなってしまい、その機能は代替したのは地方の軍閥や寺社勢力である。よって、中世以前において商業を営んでいたのは専業化した商人ではない。
諸侯が乱立して暴力がモノを言う時代において、商人が契約を結びそれを履行させるためには「力」を必要とした。「力」とは、時に軍事力であり、時に宗教的な権威などである。だから、商業にたずさわるものは、同時に武士であったり、宗教者であったりしたのだ。
たとえば瀬戸内海の水軍(海賊衆)と呼ばれた人々は、同時に流通商人でもあったし、各地を遍歴した宗教者(修験者や御師など)も同時に流通商人だった。特に、宗教者はその宗教的権威によって、戦国大名たちの支配地域を超えるような全国的な通商活動を行っていた。全国の物流拠点は寺社勢力によって牛耳られており、刀鍛冶を囲い込んだり、要塞のような寺院を建築したりして、文字通り有力な軍閥としてのさばっていたのだ。その中でも、比叡山延暦寺や石山本願寺はその経済力によって強大な力を持ち、武家政権のいうことを聞かないばかりか、ことあるごとに対立していた。
信長の功績は、これら寺社勢力に対して、徹底的な打撃を加えたことだ。比叡山の焼き討ちに始まり、各地の一向一揆勢力に対する掃討戦を経て、最終的に石山本願寺を完全殲滅してしまった。憲政史家の倉山満氏によれば、世界には「軍国主義によって正気を保たないとファシズムになってしまう国」がたくさんあるそうだ。ファシズムとは国家の上に宗教や思想がある体制のことだ。今の支那は国家の上に党があるが、あれこそファシズムである。そういう意味ではイスラム原理主義国家も国家の上に宗教を戴いている点では分類上ファシズム体制ということになる。
戦国時代の日本も寺社勢力を放置すれば、ファシズムになっていた可能性があった。しかし、信長は寺社勢力を殲滅することで日本のファシズムを防いだ。もちろん、その手法は「軍国主義によって正気を保つ」という荒療治だったが。
これを経済的な側面からみると、それまで全国的な商業の庇護者がいないことをいいことに商業の利権を独占していた寺社勢力を殲滅し、経済のインフラを政権側に取り戻したということになる。だからこそ、比叡山焼き討ち、石山本願寺殲滅という事件は、宗教から商業が分離独立していくうえで、極めて象徴的な出来事であった。言ってみればこれは経済における「政教分離」だったともいえるのだ。
ポイントは、信長が経済のインフラを寺社勢力から奪い取った点にある。それを寺社勢力が握り続ける限り、自らの勢力拡大に利用するだけである。もっと自由に多くの人々に商売をさせて、経済を発展させる必要があると信長は感じていたのだ。
なぜなら、南蛮船から世界情勢の情報を得ていた信長は、これらに対抗していくために今の日本のままではダメだと思ったのだ。後に、豊臣秀吉の唐入り(朝鮮征伐)に引き継がれる「国際感覚」を持っていた信長は、単なる国内の権力闘争よりももっとスケールの大きい視点を持っていたに違いない。そして、信長は経済の本質を見抜いていた。だからこそ、経済の「自由化」を荒っぽい方法で推し進めたのだ。
翻って現代に視点を移してみよう。経済の活力を奪っている各種の規制がある。その中には本当に必要なものもあるだろう。しかし、租税特別措置に代表される特定の業界を優遇する制度に正当な根拠があるだろうか? 消費税の増税は延期されたが、軽減税率の対象品目になぜ新聞が入らなければならないのか? 「農畜産業振興機構」によるバター輸入業務の独占は本当に必要なのか? 待機児童がこれだけいるのになぜ保育園の供給が間に合わないのか?
こういったことを一つ一つ点検していくと、それらに共通するあることに気付く。それは規制によって不労所得を得ている人がいるという事実だ。そして、不思議なことにこういった人々は消費税の増税を推進している。それが日本経済に破壊的な打撃をもたらすことが明らかであるのに…。
日本を取り巻く国際情勢は戦国時代よりも厳しい。日本から経済力が失われたら独立を保つことすら覚束ない。きっと信長がいたらこういう人々は焼き討ちされることだろう。
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産経新聞iRONNA
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もし信長が「日銀総裁」だったら
歴史に「もし」は禁物だが、この人が今の日銀総裁だったらと思わずにはいられない。戦国大名、織田信長である。信長と言えば、型破りの発想で次々と難敵を打ち破ったことで知られるが、実は傑出した経済人でもあった。デフレ脱却が至上命題の現代ニッポン。「戦国の革命児」信長ならどう挑むか。
橋場日月(歴史研究家、歴史作家)
織田信長が日銀総裁になったら、というお題を頂戴した。「歴史にifは禁物」というが、魅力的な仮定でもある。さまざまな経済政策を実行した信長だけに、彼が現代日本の貨幣流通・金融管理の元締めをどうリードするのか、考えてみるのも面白いだろう。
史実の信長と経済との関わりでまず挙げられるのは「楽市楽座」だ。「楽」は自由、フリーという意味で、誰でも自由に商売ができ、免税され、領主の権力も介入しないという政策だ。信長はこれを美濃征服の翌永禄11(1568)年9月に、岐阜城下の加納(現在の岐阜県岐阜市加納)で実施した。
合戦で荒れた町を復興させるために手っ取り早く商人を集める手段だったのだが、この政策自体は南近江の六角氏による石寺新市(現在の滋賀県近江八幡市安土町石寺)や、駿河の今川氏による富士大宮(現在の静岡県富士宮市大宮町)の楽市指定など、先例がある。
それにこれはどちらかといえば経産省のテリトリーだろう。問題なのは、信長が加納市に宣言した「楽市」が、「借銭・借米・さかり銭」も免除した点だ。これは「楽市」に「徳政」を組み合わせたものといえる。借銭・借米はそのまま借金を指す。さかり銭は「下がり銭」、下がるは「後になる・後にする」という意味があるから、これは後払い=掛け売りに伴う手数料を指すらしい。
ということは、日銀の業務に例えれば、彼は割り引いた手形をそのまま発行元に返し、割引の手数料や利息分もタダにしたという形になるのではないか。あくまで特例的措置とはいえ、劇薬と言ってもいい金融政策だ。「何がなんでも町を立て直す」。信長の決意の固さが、ここに表れている(彼の懐は痛まず貸主が損をするだけの話だが)。
「現代の徳政」といわれる日本航空やりそな銀行などに対する公的資金注入にも似ているが、これは金融庁マターだから、日銀の関わりはとりあえず国庫金を払い出す業務のみだろう。
税を免除し、借金を棒引きにすれば、当然ながら短期的に市場の貨幣は増える。その分物価は上昇し、経済活動は活発化するだろう。大幅な金融緩和でデフレ脱却を目指す現在の日銀総裁と、ある意味共通した思想かもしれない。
ただ注意しておきたいのは、日銀総裁と違って信長は経済政策のすべてを総覧する立場だったことだ。彼は流通ルートの開発に励んだし、道路や橋の整備をおこない、舟運の保護にも熱心だった。市場は取引される商品がなければ成り立たないわけだが、その商品の生産についても、地元特産の瀬戸物を保護奨励し、後に志野焼や織部焼が生まれる基礎を作るなど、差別化や増産に努めたことを忘れてはいけない。
この年に上洛を果たした信長は、明くる永禄12(1569)年、京や奈良に「撰銭(えりぜに)令」を発する。撰銭とは、良質な貨幣とびた銭(劣化したもの、私鋳銭など)を選別して、その扱いに差をつける行為をいう。偽札が厳禁され、劣化した貨幣は回収される現代ではピンと来ないが、当時はそれが当たり前だった。信長は当初この行為を禁止したのだが、少しでも有利な貨幣をと考える人々には受け入れられなかった。
そこで彼は交換レートを定めて、撰銭も決済手段として安定的に用いられるようにし、売買取引がスムーズに行われるよう誘導したのだ。
これは必ずしもうまくはいかなかったが、銭が不足したり、撰銭のせいで流通が円滑に行われず、手っ取り早く米を代価にしたりするなど混乱した当時の状況の中で、信長がなんとか銭を基軸通貨にしようと努力したことは間違いない。それは、有名な「永楽通宝」の銭紋の旗印を掲げた信長にふさわしい政策だった。
おそらく彼が本能寺の変で死なずに天下を統一していれば、徳川家康のように貨幣鋳造事業に乗り出していただろう。この撰銭令も日本銀行の業務でいえば貨幣流通と為替の管理に相当するのではないか。
また、こうして金融政策を駆使して天下統一の歩みを進めていった信長は、「茶湯御政道」と呼ばれる新しい手法も生み出した。大金を投じて名物茶道具を集め、それを手柄のあった部下へ土地の代わりに恩賞として与えるというやり方だ。
信長から茶会を開くことを許され、茶湯に精通した文化人たちからもうらやまれるという名誉に、家臣たちは熱狂した。滝川一益など、「上野国(現在の群馬県)を賜るより茶器が欲しかった」と愚痴ったほどである。信長が新しい価値を創造し、土地に命をかける武士の価値観をガラリと変えてみせたのだ。そんな信長が日銀総裁ならば、おそらく仮想通貨を公認し、よりスピーディーな流通取引を目指すだろう。
以上を総合すると、「日銀総裁」織田信長は貨幣を増産して市場流通量を上昇させインフレに誘導し、金融緩和によって経済活動を活発化させた上に、仮想通貨という新たな基軸通貨を積極的に支持し、全く今までにない国内外の決済システムの構築に向けた取り組みを行っていたことだろう。」
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