🏞94)─4─徳川幕府のハリネズミ式全方位型専守防衛戦略。〜No.356 

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 現代の日本人は、外圧に弱く、外圧に屈し、不承不承で、外圧の変化強要に従って消極的に変化している。
 昔の日本は、外圧に強く、外圧に屈する事なく、外圧に反発し、是々非々で、外圧に対抗・対応する為に積極的に変化していた。
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 危機感・危機意識は、現代日本人と昔の日本人では違っていた。
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 徳川幕府は、ロシアの侵略から日本を守る為に、海に面した全ての藩に対し領内の海岸に台場などの海防施設を築くように命じ、内陸の諸藩に対しては海防に協力するように命じた。
 武士達は外国語を知らなかったが、国防を西洋の軍事専門家に頼る事の危険性を充分に理解して独力防衛策を貫き、高額で購入していた数多くのオランダ語軍事専門書を庶民の蘭学者らの協力を得て翻訳し、知らない軍事専門用語に対して知恵を絞って理解し、西洋式軍事図面を独自の解釈を加え工夫し改良して実行していた。
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 文化露寇事件。(シャナ事件・北辺紛争・フヴォストフ事件)。 
 日本の陰暦……文化4年4月23日〜文化4年5月1日。
 西洋の太陽暦…1807年5月30日〜1807年6月6日。
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 文化5(1808)年 徳川幕府は、蝦夷地・北方領土樺太防衛強化の為に、奥羽諸藩に対して前年07年の派兵約3,000人に対し更なる増派を命じた。
 奥羽諸藩は、増派して合計約4,000人の兵士を蝦夷地・北方領土樺太に送った。
 徳川幕府は、外国船の攻撃に備えるべく江戸湾沿岸に砲台修築の起工を命じた。
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 文化7(1810)年 徳川幕府は、白河藩会津藩に相模・房総に台場を構築するように命じ、同様の命令を諸藩にも命令した。
 徳川幕府は、日本をハリネズミのような専守防衛に改造するべく全国に砲台・台場を建造し始めた。
 日本は、死を覚悟した戦いを思い出し始めた。
 攘夷派、愛国主義者、民族主義者らは、日本天皇と神国日本をロシアの侵略から命を捨てても守るべく、北へ、蝦夷地・北方領土4島へと向かった。
 徳川時代には、統一された国家意識も民族意識もなかった為に、日本はあっても日本国はなく、日本人も日本民族もいなかった。
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 日本は、言霊信奉の国である。
 徳川幕府の基本方針は、偉そうな事を言い並べても「備えずして罰するは不可」(保科正之)である。
 現代の言霊認識は現代だけの特異な認識で、日本本来の宗教的言霊認識ではない。
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 1840~42年 アヘン戦争
 日本は、清国=中国に感謝する必要はない。
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 嘉永6(1853)年 黒船来航。代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した。
 庶民は狂歌「泰平の眠りを覚ました上喜撰(じょうきせん)たった4杯で夜も眠れず」を読んだが、打ち上げ花火になれていた庶民は黒船の儀礼空砲に恐怖して混乱する事はなかった。
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 安政6(1859)年夏 幕末のロシア人襲撃事件。ロシア海軍少尉のロマン・モフェトと水兵のイワン・ソコロフの2人が横浜で襲撃、殺害された事件。
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 文久1(1861)年2月 対馬事件。ロシア軍艦ポサドニック号は、イギリスが対馬を軍事占領しようとしていると言い掛かりを付けて、対馬浅茅(あそう)湾に侵入して停泊し、軍事力を見せ付けて上陸地の租界権を要求した。
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 日本民族日本人は、祖先から受け継いできた国土の一片、土の一握り、砂の一粒、小さな無人島さえも、外国に奪われる事に軍事力で抵抗し、大金で外国に売り渡す事を断固拒絶した。
 昔の日本人は、現代の日本人とは違うのである。
 日本民族日本人は、「武士は食わねど高楊枝」として、貧しさを甘受していた。
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 2020年4月号 WiLL「シリーズ『ニッポンの城』
 幕末のお台場
 日本国の独立を堅持した海防施設
 写真・文 外川淳
 『台場』とは江戸時代末、海防のためにつくった砲台を意味する。『台場』跡を訪れれば、当時の人々の国防意識がうかがえる──。
 ロシア海軍の士官は、完成した品川台場を見て『夜襲をしかけねば、瞬時に攻略できる』と豪語。この一言を流用しながら、品川台場を無用の長物であると説く識者は少なくない。だが、もしも品川台場が容易に攻略できても、台場を攻撃することは、日本という独立国家に対する宣戦布告を意味した。ペリー提督をはじめ、来日した西洋列強の対日外交の責任者たちは、本国政府から軍事力で威嚇しても、行使することは可能な限り回避するように通達されていた。このような状況において、品川台場が築かれたことは、砲艦外交への対処として有効だった。
 アジア諸国のなかで、国家としての独立を維持しながら、近代化に成功したのは日本だけだった。日本人は台場を建設するため、オランダ語で書かれた築城教本を参考にした。欧米発祥の技術や文明を摂取することで、日本は西洋に追い付き、追い越そうとした。その原点が台場の建設にあったのだと思う。
 19世紀前半から明治維新が達成されるまで、台場は海防施設として千ヵ所以上、築かれた。ただし、薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件で使用された砲台以外は、実戦で使用されることなく廃棄された。
 そのうちの圧倒的多数は、地上から遺構が失われ、その存在も忘却された。国指定をはじめ、都道府県指定、もしくは市町村指定の台場は約100ヵ所。南部藩長州藩薩摩藩をはじめ、数十単位の台場が築かれたエリアでは、史跡に指定されなくとも、良好な状態で残される事例も少なくない。
 国指定史跡は、未指定よりも価値があるべきところ、台場に限らず、城郭においても、行政的な諸事情によって格差が生じる傾向が見え隠れする。とはいえ、価値があるか否かは私自身で判断することであり、今まで実際に探査して、写真に記録し、図面を作成した約150の事例に加え、まだ見ぬ台場を探査し続けたいと思う。」
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 下級武士や庶民を巻き込んだ攘夷の敵とは、北から攻めてくるロシアであって、南のイギリスや東のアメリカではなかった。
 ロシアの日本侵攻は、田沼意次時代から始まっている。
 松平定信水野忠邦らの海防強化政策は、当然、ロシアの侵略に対してである。
 徳川幕府は、蝦夷地・北方領土4島をロシアの侵略から、如何なる犠牲を出しても守り切ろうとしていた。
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 日本は世界の7大帝国の一国であったが、イギリスがムガル帝国を植民地化し清帝国の軍隊を撃破した為に、西洋列強は日本の軍事力を恐れてはいなかった。
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 現代日本が昔の日本と違うように、現代の日本人は昔の日本人とは違う。
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 現代の日本には武士などいないし、現代日本人は武士や庶民の子孫でもない。
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 現代の日本には武士道はない。
 現代の日本人には、武士道精神も、百姓根性も、大和心もない。
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 歴史力がない現代の日本人には、死を覚悟して、戦争をしてまでも守ろうとした当時の日本人の心情など理解できない。
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 2020年3月12日号 週刊新潮「医の中の蛙  里見清一
 戦争ができる国、できない国
 考えたくないこと
 福島原発事故のあと、核燃料メルトダウン後の格納容器の内部を見ようと、ロボットによる観察が試みられた。しかしなかなかうまく行かない。これは日本の技術が、歌ったり踊ったりするロボットを作るのには長けているが、荒廃した戦場のようなところに入り込んでミッションを果たすようにはできていないからだと皮肉られた。日本は戦争を『しない』国のつもりでいたが、その実『できない』国になってしまっている。それが良いことか悪いことかの評価は、立場によって異なる。
 大雑把にまとめると、憲法を守れという野党革新系は『戦争ができないようにすれば戦争をせずにすむ』と主張し、憲法を改正しようという政府与党系は『戦争ができるようにしておけば戦争をせずにすむ』と考えている。前者は『機械あれば機事あり、機事あれば機心を生ず』(荘子)、つまりそこにもの(軍備)があると使うこと(戦争)になるし、また使いたくなってくるのだ、という道教の考え方である。一方、後者は『相手が攻めてこないだろう、と考えるのではなく、攻めてこられないに準備をしておく』という孫子や、『人の愛(好意)をもって我が為にするを恃(たの)むものは危うし』と警告する韓非子(かんぴし)の思想である。その是非はともかく、『戦争ができない』と、『戦争に近いこと』までできなくなるようで、それはやはり困る。
 新型コロナウイルスの蔓延に対して、中国の習近平の号令一下、発生源である人口1,000万人超の武漢市を封鎖し、1,000病床の大病院を10日間の突貫工事でいくつも作ってしまった。これを後手に回ったなどと批判するのは簡単であるが、こんな『馬鹿力』は、日本政府など逆立ちしても発揮できない。こういう戦時対応は、人権を無視した強権国家の『強み』だろう。武漢から帰国した日本人にウィルス検査を『お願い』し、拒否されたら強制できないと泣き言を言う日本政府と対照的である。
 かのクルーズ船『ダイヤモンド・プリンス』号で、日本政府の対応はまずく結果的に感染者を増やしたと、内外から散々批判された。だがこの船はイギリス船籍で、本来日本がどうこうしなければならない義務はない。寄港を拒否してしまえばそれまでだったのを、『人権的に』受け容れて、しかも各国に感染者を送り返さないように配慮して泥沼に嵌(は)まった。
 むろん、受け容れたからにはちゃんとやるべきで、そこにはいくつも問題点があっただろうが、『ではどうすればよかったか』については、このような船の寄港拒否を非難するWHOも具体的な解決策を示していない。アメリCDC疾病対策センター)のような組織をもたず、頼りないWHOに頼っていた日本はお手上げの状態である。医療でも、我々は癌とか認知症とかいう『平時』の病気にばかり目を向け、『戦時』対策を怠っていたようだ。
 2月12日の衆議院予算委員会自民党赤沢亮正代議士が、今後のため『病院船を保有したらどうか』と提案した。病院船は本来、戦時に傷病兵を治療しながら搬送するのが目的で、現時点での保有数は、圧倒的にアメリカが多い。むろんアメリカは今でもあちことで戦争をしているからである。だから自民党は戦争準備を目論んでいる、と批判する声もあるようだが、短絡的に過ぎる。具体的方策や実現可能性は別として、もし病院船があったらダイヤモンド・プリンス号の対処にも有用であったはずである。今後また同じようなことがあるのか、どういう事態が想定されるかを検討した上でとなるが、赤沢さんの提案には一理あると私は思う。『戦争(に近いこと)に備えること』と『戦争をしようとすること』は全く別物で、世の中の『考えたくないこと』は、考えなければ起こらなくなるのではない。
 アメリカは中国も『戦争ができる』国で、アメリカが戦争に強い(少なくとも個々の戦闘には強い)のは、世界中でしょっちゅう戦争をやっているからだろう。名医と呼ばれる人たちが、数多くその病気の治療をやっているのと同じである。翻って我が国の自衛隊は、戦争をせずに戦争に備え、戦争に近い事態(災害救助など)に出動する。西原理恵子は、3・11大震災以前に、知り合いの『自衛隊のおっちゃん』が、『わしらが歓迎される世の中はろくなものじゃない』と笑い飛ばしていた、と描いていたが、そこまで自らの使命を達観できるのは尊敬に値する。
 人の不幸が飯の種
 古来、“profession”(専門職)と呼ばれるのは、医者と坊主(宗教家)と法律家で、この三者に共通しているのは『人の不幸が飯の種』ということである。そうすると軍人もこの仲間入りだろう。そして、不幸を望まず、不幸に備えるのは、実は非常に難しい。日本には『病む医者、死ぬ坊主』という嫌な言葉があるくらいだ。そこまでいかなくても、やはり我々医者は多くの病人に当たって、自らの腕を上げたいと考える。荘子の言う『機心』である。でも専門職をなくしてしまえばそれに対応する不幸は起こらなくなるのか。そうはいくまい。
 我々は、戦争のことなんか考えずにいようとした。しかしパンデミックや大災害は戦時に準じ、それへの備えは戦争への備えと重なる。またたとえ、非常に嫌なことだが、戦争があるたびに外傷学が進歩し、その意味では日本の交通事故の患者さんなんかは戦争の『恩恵』に浴している。『悪』の良い面を見ず、また『善』の悪い面を見ずにその存在を全否定するのでは子供と同じである。
 今、政官財挙げて最大時はオリンピックだが、そんあこと言っている場合ではないのかも知れない。我々も実は、今が『戦時』と薄々気がついてはいるが、平時の感覚から抜けきれず、結果ヘンテコな行動が生じている。
 循環器学会や胃癌学会のような大きな学会が無期延期になり、女子ゴルフ開幕戦が無観客試合になる一方、2月23日の東京競馬場は競馬G1レースで大観衆がひしめきあった。中止できなかった市民マラソンでは、ランナーがマスクを着けていた。さぞ苦しかろうに、なんでそこまでして走らないといけないのだろう。そういえばマラソンも、マラトンギリシア軍がペルシア軍を破ったという捷報(しょうほう)を伝えに走った兵士に由来するから、これも戦争が起源なのだが」
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 現代日本の国家は、個人の人権と自由を優先して国民の命を守らない。
 日本は、狂信的「個人の人権と自由」原理主義によって衰退し滅びて行く。
 非情に国民を見殺しにする傾向は、左翼・左派・ネットサハの革新派、リベラル派、護憲派人権派、良心派、道徳派、反戦平和市民に強い。
 その実例が、阪神淡路大震災における社会党自民党連合政権・兵庫県庁・神戸市の対応の遅れである。
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 日本の不幸は、清国(中国)や朝鮮が日本を侵略しようとしているロシアに味方もしくは協力した事である。
 日本にとって、清国(中国)・朝鮮・ロシアの三ヵ国は敵であった。
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 日本とロシアの戦争は避けられない定めにあった。
 日露戦争を日本の大陸侵略と言う日本人は歴史を語る資格はない。
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 海上公園なび 
 お台場海浜公園 & 台場公園
 台場の歴史(公園として残る国指定の史跡)
 1853年(嘉永6年)のペリー来航に危機を感じた江戸幕府は6つの台場(砲台)を築造しました。現在に至る過程で第三台場と第六台場が残され、第三台場は公園に、第六台場は自然豊かで学術的にも貴重な史跡として海上保全されています。過去と現在が共存する公園に足を運んでみてはいかがでしょう。
・年表
 1853年(嘉永6年)6月
 ペリーが浦賀に来航。幕府は江戸湾海防強化の必要性を痛感
 1853年(嘉永6年)8月
 江川英龍の指揮により御台場11基の建設着工
 1854年(嘉永7年)7月
 第一・第二・第三台場竣工
 1854年(安政元年)12月
 第五・第六台場、御殿山下台場竣工
 ※第四・第七台場は築造計画の縮小により工事中止、第八台場以降は未着工。
 1926年(大正15年)10月
 第三・第六台場が国史跡に指定
 1928年(昭和3年)7月
 第三台場が都市公園「台場公園」として開園
・黒船来航と品川御台場の築造
 嘉永6年(1853)6月3日のペリー来航は、江戸幕府を長い「鎖国」の眠りから覚ますことになった。 ペリー退帆後、幕府はすぐさま江戸湾の海防強化の検討に入り、勘定吟味役(※1)格江川太郎左衛門英龍(坦庵)らによる江戸湾巡視の結果、内海防備のための御台場築造が決定した。築造計画は、西洋の築城書・砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築造しようとするものであった。
 工事は嘉永6年(1853)8月末に着手され、昼夜兼行で進められた。土取人夫(※2)などは第一・第二・第三台場築造時で5,000人にも及び、総築造経費は75万両(※3)という膨大なものとなった。
 第一・第二・第三台場は翌年7月に、第五・第六台場と途中で加えられた陸続きの御殿山下台場は12月に竣工した。第四・第七台場は築造に着手したが、工事半ばで中止し、第八台場以降は未着手に終わった。
 最終的に6基完成した御台場は、徳川将軍家に近い親藩・譜代とそれに準ずる家格を持つ大名によって、慶応4年(1868)の幕府崩壊直前まで江戸湾整備の拠点として警備が行われた。
 ※1 勘定吟味役:幕府財政の監査を担う役職
 ※2 土取人夫:土木労働を課せられた人
 ※3 現代の貨幣価値換算で約700億円(諸説有り)
 (品川区立品川歴史館解説シート「品川御台場」より抜粋)
・品川御台場その後
 完成した6基の御台場は、明治6年(1873)に海軍省の管轄となり、明治8年(1875)に海軍省から陸軍省に移籍された。その後、第三台場は第六台場とともに、大正4年東京市に払い下げられ、同13年東京府知事によって史跡の仮指定を受け、同15年国指定史跡となる。その後、東京湾に浮かぶ6つの御台場は、2つの史跡を残して埋め立てられたり、撤去されて姿を消していった。
 なお当時の面影をしのばせる第三台場は、都立台場公園として人びとに親しまれている。
 (品川区立品川歴史館解説シート「品川御台場」より抜粋)
・西洋砲術を極めた男―江川太郎左衛門英龍(坦庵)ー
 江川太郎左衛門英龍(坦庵/1801-1855)は伊豆韮山に生まれ、同地の世襲代官で坦庵と号した。蘭学者幡崎鼎・渡辺崋山らに師事し、高島秋帆から西洋砲術を極めた。江川は水野忠邦政権下での高島流砲術の普及と海防強化の実績を買われ、ペリー来航時の阿部正弘政権下では御台場築造位置の選定と大砲鋳造等の任に当たった。江川が主張した築造計画は実現しなかったが、その後自らが指揮を執り、6基の御台場完成へと導いた。
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 台場とは、幕末に設置された砲台で、要塞の一種である。日本各地に築かれた。
 当初は幕府や各藩において異国船の打払いを企図したものが多く海岸や河岸に築かれるものが多かった。しかし、幕末から明治にかけて起こった戊辰戦争箱館戦争西南戦争においては、堡塁や塹壕、胸壁などの野戦築城の数々も台場と呼ばれるようになった。これらは海岸線に限らず、峠・高台・交通の要衝に築かれる事が多々あった。

 主要な台場遺構
 幕府の台場
 品川台場(品川砲台)(東京都港区) - 国の史跡。江戸幕府がペリー来航に備えて築いた砲台。通称「お台場」。第一台場から第七台場までの建設が進められたが、第七台場は未完成のままとなった。
 弁天台場(北海道函館市) - 新選組明治新政府軍と最後の戦いの場。
 堺台場(大阪府堺市堺区) - 36貫目モルチール砲など大砲8門を設置。堺事件の舞台でもある。
 楠葉台場(大阪府枚方市)・高浜台場(大阪府三島郡島本町) - 淀川の防衛を目的とした河川台場。京都方面に遡上する敵艦に両岸から砲撃が加えられるように、2基の砲台で1セットとなっていた。

 各藩の台場
 丸岡藩 砲台跡
 下関戦争で外国軍に占領された長州藩前田台場
 平舘台場(青森県外ヶ浜町弘前藩) - 青森県指定文化財
 加賀藩生地台場(富山県黒部市) - 富山県指定文化財
 伏木台場跡 (富山県高岡市) -富山県指定文化財 加賀藩が異国船防備のため、設置を定めた13箇所の砲台の一つで1851年に設置。1867年頃までには、撤去されていたという。
 丸岡藩砲台跡(福井県坂井市三国町梶) - 梶台場、国の史跡。
 小浜藩台場跡(福井県大飯郡おおい町) - 松ヶ瀬台場跡、鋸崎台場跡。国の史跡。
 明石藩舞子台場跡(兵庫県神戸市) - 国の史跡。勝海舟の設計、明石海峡の防衛。
 徳島藩松帆台場跡(兵庫県淡路市) - 国の史跡。明石海峡の防衛。
 鳥取藩台場跡(鳥取県内8か所) - 国の史跡。
 長州藩下関前田台場跡(山口県下関市) - 国の史跡。関門海峡の防衛で下関戦争の舞台。低台場と高台場によって構成され、周辺には壇ノ浦砲台跡など十数の砲台が築造されていた。
 菊ヶ浜土塁(山口県萩市) - 別名・女台場[6]。萩市指定史跡。海岸線に沿って築かれており、随所に横矢掛かりを仕掛けた防塁である。
 台場 (福岡藩)
 戊辰戦争時の台場
 四稜郭(北海道函館市
 権現台場(同市) - 旧幕府軍が旧箱館東照宮(現在の神山稲荷神社。東照宮はその後、同市陣川町に移転)の境内を野戦陣地化したもの。
 母成峠、馬入峠 (福島県猪苗代町など) - 会津戦争時に会津藩が国境の峠に野戦陣地を構築したもの。
 酒樽台場 (京都府京都市) - 鳥羽・伏見の戦いにおいて、旧幕府軍が急ごしらえで構築した一種のバリケード。接収した酒樽で構築した事から名づけられた。
 西南戦争時の台場
 七本柿木台場(熊本県熊本市
 二俣瓜生田官軍砲台(熊本県玉名郡玉東町) - 政府軍の堡塁
 鹿児島橋頭堡(鹿児島県鹿児島市) - 政府軍が構築。多数の堡塁や野戦陣地から成る。
 他の台場・陣屋設営地
 神奈川県
 猿島横須賀市
 神奈川台場(横浜市神奈川区伊予松山藩
 小田原台場(小田原市小田原藩
 千葉県
 房州沿岸警備役:会津藩・武蔵忍藩+1853年のペリー来航後、備前岡山藩筑後柳川藩も追加
 洲ノ崎備場(館山市・館山湾への突部)
 富津台場(富津市・柳川藩
 七曲砲台:(富津市・会津藩
 嶋戸倉砲台:(富津市)
 竹ヶ岡砲台(富津市・会津藩
 吾妻村番所:(富津市・幕府)
 白子遠見番所南房総市・幕府)
 富津陣屋(富津市・白河藩
 竹ヶ岡陣屋(富津市)
 波左間陣屋:鴨川市
 北條陣屋:
 飯野陣屋:(富津市・飯野藩)
 和歌山県
 雑賀崎台場(和歌山市紀州藩、現番所庭園)
 加太台場(和歌山市紀州藩
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