🕯98)─1─奈良・天平時代。国際都市・平城京に住み着いたインド人仏教僧達。~No.213No.214  *

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 日本に渡ってきた仏教僧は、鑑真などの中国人名僧だけではなく、インド人や中央アジア人の高僧も数多くいた。
 そうした宗教家の中には、ゾロアスター教徒ユダヤ教徒キリスト教徒、その他の宗教宗派も少なからずいた。
 日本神道は、多神教からそれらの宗教・神仏を吸収して同化させ、異質による対立・敵対・反目などを消し去った。
 朝鮮半島から渡ってきた僧侶は、親日派知日派百済王朝僧侶ぐらいで、それ以外の諸王朝の僧侶はいなかった。
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 渡来人と帰化人は違う。
 協力者は、帰化人に似ているが、渡来人には似ていない。
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 1200年以上前、日本はグローバル化していた?!~世界中から祝福された東大寺の大仏~
 2019.03.01
 提供:立正大学 仏教学部
 テーマ
 文学・歴史・地理
 歴史学
 高校の“日本史”で習う「東大寺の大仏」。
 大仏が完成した当時、世界中から祝福を受けたって知っていましたか?当時、大仏の完成は日本だけに限らず、世界的な事象だったのです。大仏だけではありません。仏教の歴史は、中国やインドをはじめ、世界と深く関わっています。
 実は当時、グローバルな側面をもっていた大仏と仏教の歴史を紐解いてみましょう。

 この記事をまとめると
 ①東大寺の大仏の完成式である大仏開眼供養は、インドや中国、ペルシャの人々も参列する国際的なイベントだった。
 ②仏教はインドで生まれ、中国、朝鮮へと伝わり、日本に伝来、つまり“輸入”されたもの。
 ③立正大学仏教学部の授業では、仏教の歴史について多角的に学ぶことで、高校までの日本史や世界史にはない発見や驚きがある。

 東大寺の大仏の完成式は1万人が見守る国際的な一大イベントだった!?
 修学旅行のコースでもおなじみ「東大寺の大仏」。見たことがある人も多いのではないでしょうか。
 見上げるほど大きなこの大仏は、銅499t、鉛8.5t、水銀2.5t、金440㎏、人手260万人(延べ)という、気が遠くなるほどの材料と人手を使って造立されました。
かかった費用は、現在の金額で4600億円!一大国家プロジェクトだったことがうかがえますね。
 日本人なら誰もが知っている東大寺の大仏ですが、意外と知らないことも多いのです。
 まず、正式名を「盧遮那仏(るしゃなぶつ)」と言います。これは、サンスクリット語の「ヴァイローチャナ」を音訳したもので、「太陽の光」という意味。
 仏教経典の一つである「華厳経(けごんきょう)」では、盧遮那仏は蓮華蔵世界という果てしない世界(宇宙)の中心となる存在で、生命あるすべてのものを救済すると示されています。
 大仏は、人々を“太陽の光”のように温かく照らし、救いの光を示す存在なのです。
 そして、大仏が大きいのは、世の中のすべてを漏らすことなく照らし、救済するためとされています。
 聖武天皇が大仏造立を決めたのも、それが理由。
 当時、相次ぐ災害や流行り病の広がりによって多くの人が亡くなり、日本国内は争いが絶えず、不安定な状況でした。そのため、災いや争いごとから日本を救うために、仏教の力を借りようとしたわけです。
 完成式である大仏開眼供養が行われたのは、聖武天皇の詔(みことのり)から9年が経った752年。
 奇しくも、日本に仏教が伝来して200年目にあたる記念の年でした。
 大きな筆で目を書き入れる開眼師はインド人僧侶の菩提僊那(ぼだいせんな)、法会で施主の祈願をする呪願師は中国人僧侶の道璿(どうせん)が務め、ペルシャ人の李密翳(りみつえい)が参列したと伝えられています。
 さらに、開眼供養では、日本をはじめ、朝鮮、中国の様々な舞楽が演じられたそうです。まさに国際的なイベント!世界が「東大寺の大仏」の完成を祝ったのです。
 日本にとって、仏教は “輸入”されたグローバルな文化
 では、どうして東大寺の大仏が世界中からお祝いされたのでしょう。
 そもそも仏教って、どこで発祥したか知っていますか?
 多くの外国人観光客が日本の寺院を訪れる様子を見ていると、まるで仏教は日本で生まれ育ったもののように思ってしまいそうですが、実は仏教誕生の地は、インド。
 この地で生まれた釈迦が悟りを開いたことに始まります。やがて釈迦やその弟子が教えを説いて回ったことで、仏教はインド中に広まり、さらにインドを飛び出し、南北のルートを通って東へ東へと伝播していきました。
 現在の仏教は、その伝わったルートによって、スリランカを経て東南アジア世界へ広まった南ルートの「上座部仏教」、東アジア系、チベット系へと伝わっていった北ルートの「大乗仏教」、さらに源流である「原始仏教」の大きく3つに分けられます。
 そうして伝わっていく間に、各国の文化や風土によって変化し、同じ仏教でもそれぞれ教えが少しずつ異なっているのです。
 日本に伝来されたのは、中国で広まった大乗仏教。6世紀、すでに中国から仏教が伝わっていた朝鮮の百済王が、日本に仏像や経典を贈ったのが最初と言われています。
 いまではすっかり日本でも文化として定着し、人々の生活と密接に関わりのある仏教ですが、元来、日本にとっては“輸入”された文化であり、グローバルなものだったというわけです。
 歴史の面白さや仏教の奥深さを多角的な授業で体感
 大仏造立・開眼をはじめ、1200年以上も前の日本において、仏教に関係することはグローバルな事柄でした。
 それは、グローバル化が叫ばれ、海外のモノやコトを積極的に吸収しようとする現代と何ら変わりのないことではないでしょうか。そして、日本の歴史・文化を学ぶ中で、仏教を題材にした内容、また仏教そのものを学ぶことは特別なことではないのです。
 立正大学仏教学部は、日本の思想的基盤とも言える仏教の歴史について、多角的に学ぶことができます。
 仏教伝来からの歴史的展開について学ぶ「日本仏教史」、発祥の地インドにおける仏教の成立からその後の衰亡、近代における復興まで学ぶ「インド仏教史」といった仏教史はもちろん、神話などを手がかりに日本の精神文化史を考察するための視点を探る「日本文化史」、アジアという土壌で展開されてきた文化の諸相をたどる「アジア文化史」など、授業内容はさまざま。仏像などの仏教美術を軸に、先史時代から近世まで日本美術の変遷を学ぶ「日本美術史」といった授業も用意されています。
 日本とアジア、さらに世界へと仏教が広がっていったように、学びの視点を広げ、かつ深める授業の数々には、高校までの日本史や世界史の授業だけではなかなか得られない発見や驚きが詰まっています。
 歴史の面白さや仏教の奥深さを、学びを通じて体感できるはずです!
 【広告企画】提供 : 立正大学 仏教学部
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 聖武天皇は、徳を持って自分を律し、仏教と工芸や和歌などの文化で日本を一つにまとめようとした。
 天皇が求めた徳とは、儒教の中華的徳ではなく、神道の日本的徳である。
 中華的徳とは、天・天帝の徳、古代の聖人君主の徳である。
 日本的徳とは、神代の神徳と御仏の慈悲である。
 故に、日本的徳と中華の徳は違う。
 日本的徳の象徴が、仁徳天皇光明皇后が示し求めた慈愛である。
 現代日本には、中華的徳やキリスト教の博愛が溢れてきているが日本的徳が消えつつある。
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 昔の日本は現代日本とは違って、地の果ての辺境という最悪の地理的条件を生かし、グローバルとローカルを程良く調和を保ちながら内在させていた。
 それを可能にしていたのが、男系父系Y染色体神話に基づく万世一系男系天皇(直系長子相続)であった。
 グローバルとは日本国内に対してであり、ローカルとは中華・インド・ペルシャに対してである。
 その証拠が、正倉院の宝物である。
 正倉院の宝物の大半が、中華・インド・ペルシャの宝物を模して日本の職人が作ったメイド・イン・ジャパンで、その宝物が天皇の名義で日本各地の有力豪族に贈られていた。
 そして、伝来仏教も日本風に解釈され、勅命で日本全国に国分寺国分尼寺が建立され仏教徒を増やしていった。
 第45代聖武天皇は、現天皇家・皇室と男系父系の「血筋」と宮中祭祀の「宗教的縁」で繋がっている直の祖先である。
 天皇の正統性は、男系父系Y染色体神話に基づく血筋と宗教的縁である。
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 シルクロードの終着地である倭国・日本、奈良・平城京は、国際国家・国際都市として数多くの外国人がインドやペルシャなどから日本へと訪れていた。
 日本には人種・民族・性差別も排他主義もなかったが、唯一、朝鮮半島出身者だけは日本人から嫌われていた。
 聖武天皇光明皇后は、困窮した庶民を救済する事を仏に祈っていた。
 皇族や藤原氏などの貴族達は、身分差別を持って庶民を虐げていた。
 日本は、中国や朝鮮と同じようにブラック社会であった。
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 ウィキペディア
 菩提僊那(ぼだいせんな、サンスクリット語: बोधिसेन、Bodhisena ボーディセーナ、704年 - 760年3月16日(天平宝字4年2月25日)は、奈良時代の渡来僧。婆羅門僧正、菩提僧正、菩提仙那とも称される。
 中国に滞在中に日本の入唐僧の招請を受けて736年(天平8年)12月13日に来日。752年(天平勝宝4年)に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師をつとめた。弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』および『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている。
 菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。姓はバーラードヴァージャ(婆羅門遅)と伝わっている。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊菩薩に会うためという説もある)。 唐では長安崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、ペルシャ人の李密翳や、唐人で唐楽の演奏家の皇甫東朝、林邑出身の僧侶で林邑楽を伝えた仏哲、唐の僧侶で日本から伝戒師を委嘱された道璿、のちに音博士となる唐出身の袁晋卿らとともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。
 僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。
 751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
 760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。翌3月2日、登美山右僕射林に葬られた。残された僅かな図画を基に、2002年の開眼1250年法要の機会に三輪途道らにより菩提僊那像が製作され、現在、本堂に安置されている。運慶の無著、世親像(興福寺蔵)に倣って日本人の顔立ちであるが、眼は緑色に彩色されている。
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 仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。
 生涯
 チャンパ王国(林邑国、現在のフエ)の出身。南インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。唐の開元年間に師とともに入唐、当時唐に滞在していた日本僧理鏡らの招きにより、開元24年 / 天平8年(736年)に師の菩提僊那・唐僧道璿らとともに日本入りした。大宰府を経て都に入り、大安寺に住した。聖武天皇からの信頼篤く、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼法要では舞楽を奉納し、「菩薩」、「抜頭」などといった舞や林邑楽(仏哲らが伝えたとされるインド系雅楽の楽種の一つ)を楽人に伝え、また多くの密教経典、論籍も請来したという。
 仏哲らが伝えた林邑楽は、春日若宮おん祭で毎年12月に披露されており、2014年4月には春日舞楽の雅楽団「南都楽所」がフエで「里帰り公演」を行なった。
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