🕯149)─1─気弱な日本人の、死への不安、死後への恐怖、慰霊の渇望。創られた死後の世界。~No.315No.316 @ 

「あの世」と「この世」のあいだ ――たましいのふるさとを探して (新潮新書)

「あの世」と「この世」のあいだ ――たましいのふるさとを探して (新潮新書)

  • 作者:谷川 ゆに
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/12/14
  • メディア: 新書
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 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
   ・   ・{東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博}・  
 新潮新書 『「あの世」と「この世」のあいだ たましいのふるさとを探して』 谷川ゆに
 現代人のかえり方
 この数年のあいだに、私にとって身近だった人たちが次々と亡くなりました。老齢だった伯父たちや両親です。いつまでも大人になり切れない私は、その一々がとても寂しく、それは心もとなくてずいぶん落ち込みました。
 そもそも、私には特定の宗教的信仰がありません。よって『あの世』も『かみさま』もない。今までは、それで特に困ることもなかったわけですが、いざリアルな死が目の前に突き付けられると、それについて考えるための枠組みも言葉も実は持っていない。どこに求めていいのかすら皆目(かいもく)分からない。そのことに愕然としました。
 いつの間にか近代的合理を身につけてしまった現代人にとっての『この世ならざる』世界や存在とはいったい何なのか。全国を旅して、その土地に古くから伝わる『あの世』と『この世』のあいだに立つことで、その問いに身を浸したくなった背景には、たしかに、そんな私の個人的な状況が関係していたのは間違いありません。
 ところが、各地を彷徨しているうち『まてよ、この世ならぬものをすっかり失ったかに見える私たち現代人も、我知らず「魂のふるさと」に触れていることがあるのではないか』と気づきはじめたのには、自分でも驚きました。
 たとえば私は子供の頃、夏に訪れた河原で、手のひらほどの大きさをした丸い石を、亀のようだと思って拾い、それから一日中、その石を亀としていっしょに遊んだ覚えがあります。川の水に放ったり、また取り出してその甲羅を撫でたり、私はすっかりその小石と仲良くなりました。日がくれて帰る頃には、まったく別れるのが切なくなったほどです。
 現代人の大人からすれば、子供ならではの豊かな空想の賜物、ということになりそうですが、石に霊性を認め、親しくつながりをもつ幼い私は、その実、近代以前の信仰のありようにとても近い。八丈島ではたくさんの石を、生命体のように祀った『イシバサマ』に出会いましたし、琉球弧では『石が成長する』と信じられており、かみさまとして大切にされている場所がある。かつての私は、河原でかみさまと遊んでいたわけです。
 古来、死者や神々は、人間が暮らしの中で親しくつながる身近な山海や川、草木、岩石、動物や虫たちの中に感覚されてきました。自然の万物やコスモスこそが、いわば私たちにとっての『魂のふるさと』であるということができます。
 その懐かしい場所に現代人がかえろうとしたとき、道しるべはすでに身体感覚の中に宿っている。子供の頃はそれが顕著ですが、大人になったとしても、自分の内部にある古層、野性的感受性をたどれば、私たちはいつでもそこにかえることができる・・・。そんなことを感じ考えた本です。」(『波』1月号より転載)
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 江戸時代、大地を揺らし甚大な被害をもたらす地震の原因が分からない為に、大鯰が原因だと思い込んだ。 
 噴火して溶岩・火砕流・火山灰で甚大な被害をもたらす火山を山の神の怒りと恐れ、山の神に怒りを鎮めくれるように祈った。
 疫病も疫病神の仕業として恐れ、疫病神よりも格が高く徳のある神や仏に祈り、護符を家に貼った。
 日本民族日本人は、目に見えない、姿形が分からない、理解不能な事は神の怒りと恐れ、神の怒りを避ける為に、災害をもたらす危険のある全ての神を祀り機嫌をとってきた。
 日本民族日本人の宗教心・信仰心とは、神の怒りに対する恐怖心から生まれた。
 日本民族日本人にとって、災害で甚大な被害を起こす自然は恐怖であった。
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 日本列島は、自然災害多発地帯である。
 自然災害を理解し対処するのは人である。
 祈りでは自然災害を防げない。
 つまり、日本には絶対神や救世主(メシア)の奇跡も救済も恩寵も存在しない。
 日本の自然の中で、奇跡や救済や恩寵を期待するのは無意味である。
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 日本列島で生きる事は、偶然と幸運であって必然ではない。
 つまり、日本には「甘え」はない。
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 理系的に、木を植え育て、山や森を守り保存し、幾重にも堤防を築き、災害の資料を事細か書き残し、いつ襲ってくるか分からない神の怒りに備え、知りうる限り打てる限りの災害対策の技術力を高めた。
 文系的に、些細な自然の変化をも見逃さない観察から、花鳥風月プラス虫の音の日本文化を生み出した。
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 如何に、自然災害を起こす怒れる神々と折り合いを付けて共に生きていくか。
 そこに、日本独自の徹底して妥協を目指す相互補完共生の生き方が生まれた。
 だが、それは世界の非常識であり、西洋キリスト教世界でも、イスラム教世界でも、中華儒教世界でも、地球上の至り所でも通用しない。
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 東日本大震災で犠牲になった人々の無念の「死」を説明できる、世界中に数多くある宗教や古代から思索されてきた哲学・思想・主義は存在しない。 
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 東日本大震災は、自然を支配し制御できるという傲慢な科学技術万能さえも無力化した。
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 人は無力である、それでも生きなければならない。
 何故に、何の為に、それが「最大の謎」である。
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 1月3・10日新年特別号 週刊新潮「医の中の蛙 里見清一
 何をそんなに怖がるの
 今そこに『モノ』がる
 ……
 かれがここで感じたのは『恐怖』である。臨床心理学では、『不安』と『恐怖』は別々の用語で使い分けられている。対象となるものがはっきりしないのが不安で、明らかものが恐怖である。もし彼が、『最近うちの子が元気がないみたいですけど、どこか調子が悪いのでしょうか?』と『不安』を打ち明けるような電話をしてきたら、……彼だって『あ、すみません』の段階で一旦電話を切ったはずだ。今そこに『モノ』があるから恐怖に駆られて話し続け、私もそれを理解できたのである。
 なんとなく、『恐怖』は『不安』よりも強いものだと感じられがちだが、そうとは限らない。特にこのように、結局は問題ない、という際には、相手が分からない不安だとその場の理解は難しい。『そうは言っても・・・』という感覚が残るはずである。明治の名人4代目橘家圓喬の怪談噺は、演(や)っているときはさほど怖くなかったらしい。ところが終わって外へ出て夜道を歩くと、今聞いた噺のフレーズが耳に残り、後ろに誰かいるような気がしてみんな家へ飛びかえったそうだ。得体の知れない『不安』の余韻を残すのが名人芸なのだろう。
 相手をはっきりさせる
 話は飛ぶが、癌の患者さんに病名を告知するかどうか、の問題は、つまり『何だか分からない』不安と、『死病にとりつかれた』という恐怖のトレードオフである。将来、医療者や家族は、不安状態に置かれた方が恐怖に震えるよりもいいと判断して告知をためらったのである。だが相手がはっきりすれば対策も取れる。治療効果に期待する、というのはその一つだが、もちろん治らずに死んでゆく患者さんも多く、告知した以上はそのフォローは重要である。
 さてその、いわゆる『死の恐怖』も、二つに分類されるようだ。一つは痛くないか、苦しくないか、家族に迷惑をかけないか、という具体的な『恐怖』であって、これは個々に対応できる。適宜(てきぎ)鎮痛剤を使うとか、酸素を吸ってもらうとかやっていけばよい。しかし考えてみると、これらは『死の恐怖』そのものではなくて死ぬ過程の『まだ生きている段階』での話である。本物の『死の恐怖』は『死の不安』と呼ぶべきものだろう。死んだらどうなるのか、今それを考えている自分が消滅してしまうということがどうしても実感できず、分からない、分からないから対策の立てようもなく、不安で仕方がない。こちらの方が厄介なのは明らかである。
 そして、ほとんどの宗教では、その救済策として、『死後の世界』を提示する(岸本英夫『死を見つめる心』講談社文庫)。死んでも『終わり』ではなく、まだその先がある、というのである。極論すれば、地獄でも『ないよりマシ』である。地獄の責め苦は『恐怖』だが、まだしも具体的なイメージが描ける。
 世の中の恐ろしいこと、たとえば災害や疫病に対して、よく『正しく恐れる』なるキャッチフレーズが使われる。きちんと理解して、それへの対応策を考える、といった意味合いである。これはつまり、嫌なものを漠然と怖がっているのではなくて、相手をしっかり捉えろ、ということだから、『不安』から『恐怖』への転換とも言える。だから前述の『死後の世界』の創出と似ている。むろん、具体的に検討した結果どうにもならない場合もあるのだが、それでも相手が分かっていれば最後の手段として開き直ることもできる。上方落語に『山より大きい猪は出んわい』というフレーズが出てくるが、まさにこの態度である。
 遊園地のお化け屋敷には客が絶えないし、稲川淳二の『怖い話』は大人気である。だから現代人は(解決できる)『恐怖』を好むように見える。一方で『不安』を好む人はいない。まず不安を恐怖に置き換えるのが解決の第一歩なのかも知れない。
 私も寄る年波で不安を抱える。この間自己分析してみたら、『このコラムがネタ切れになるのではないか』という具体的な恐怖が浮かび上がった。果たしてこれは解決できるのだろうか。」
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 死ねば全てが消えてなくなる。
 生きていた事も、存在していた事も、何もかもが消えてなくなる。
 そして、死後の世界はなく、魂の助けもなく、魂の救済もなく、魂のやすらぎもなく、魂の故郷もなく、魂そのものが空しく消えてなくなる。
 死は、「完全なる無」として、何もかもが消滅する事である。
 そこには夢も希望もなく、死はもちろん生さえも諦め絶望するしかない。
 それが、反宗教無神論共産主義マルクス主義)である。
 共産主義マルクス主義)は、例外なく全ての宗教施設を破壊する。
 法要などの供養をする墓や仏壇を作らない海洋散骨や樹木葬などの自然葬は、祖先と子孫との「魂の絆」を断ち切るマルクス主義的死生観につながる。
 少子高齢化による人口激減社会とは、祖先の魂・霊魂を供養する子孫を作らない社会であるがゆえに自然葬が当たり前となる。
 つまり、日本民族日本人は消え失せる運命にある。
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 日本民族日本人の本性は、気が弱く、寂しがり屋で、一人自立して生きていけるほどの気丈夫ではなく、家族や友人と離れて孤独になっても不安を感じる事なく生きていけるほどの精神力もなかった。
 気が弱く、寂しがり屋であるだけに、死んで家族や友人、家や故郷と離れる事が怖くて怖くて堪えられなかった。
 それ故に、日本民族日本人の死生観・人生観・宗教観は、キリスト教の欧米人とは違うし、儒教の中国人や朝鮮人とも違う。
 自立できない気弱な日本民族日本人を支えたのは、日本神道・日本仏教・日本儒教である。
 つまり、死んだら神仏となるであり、祖先神・氏神の人神崇拝である。
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 日本人男性の精子劣化。
 日本人女性の卵子老化。
 日本人の生殖機能の退化。
 日本人の繁殖能力の衰退。
 自然淘汰
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 死んでいく者にとって、生き残る者の事など気にはしないし心配せず、後に残った者が自分で考え行動し対処すればいい事である。
 死者の供養は生きている者がする事で、死んだ者がとやかく注文する事ではない。
 無縁仏として捨てられるかどうかは、生きている者が決める事で、死んだ者がとやかく言う問題ではない。
 つまり、墓を必要とするのは死んだ者ではなく、生きている者である。
 生きている者が死者を供養する墓など必要がないと思えば、墓は捨てられる。
 残った者に供養されないとなれば墓を作らず、海洋散骨か樹木葬などで遺骨を自然に投棄・廃棄してもえばいい。
 その方が、後腐れもなくサッパリ、スッキリする。
 現代日本とは、そういう絆も縁も切断されていく自立した個の社会である。
 子供や孫は、あてにできないし、あてにしてはいけない、のである。
 子供にとって老親は、自分を守る為に切り捨てる存在である。
 それができない哀れな人間が、無理心中か共倒れする。



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