➰146)─1・B─化外の民・異形の民は天皇・皇室の目であり、耳であり、口であった。白拍子。〜No.301      


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 日本の芸能は、中国・朝鮮における道化とは違う。
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 後白河法皇は、天皇の権威と法皇の権力を守る為に遊女や白拍子を保護した。
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 2019年3月24日 サンデー毎日「夢よりもなお狂おしく  なかにし礼
 オペラ『静と義経』再演 久々の演出
 オペラ『静と義経』は吉野で始まり吉野で終わる。『義経千本櫻』が象徴するように、吉野は義経と静のアジール(隠れ処{が})」であり、吉野山に咲く数万本の桜は、化外(けがい)の民とさげすまれてきた芸能の民たちの魂の依代(よりしろ)であり、ふるさとでさらるからだ。例えば『助六』の開幕で歌われる河東節(かとうぶし)では、吉野山から、
 〽根ごして植えし江戸桜──、とある。吉野から移しかえられた桜であるからこそ、江戸に芸能の華が咲いたのである。
 時代はまだ日本に芸能が始まっていない頃だったが、化外の民である白拍子(しらびょうし)の舞う踏歌(とうか)からのちに能となる田楽や猿楽が始まり、またその変形として歌舞伎が誕生する。いわば白拍子は日本芸能の本質を体現する存在であったということ。このところがいかに重要であるか。
 ……
 頼朝ら鎌倉武士たちは義経の首柩(ひつぎ)を、扇を広げ、逆さにしてその骨を通して見る。穢れたものを見る伝統的作法である。あれほどの武勲を残した義経が生首すなわち穢れとなってそこにある。しかし、穢れたことによって、義経は静と一体となったのである。戦場から戦場へとさまよい、あげくは奥州へと追われ追われてさすらう姿は、路上に生きる化外の民の姿そのものではないか。ゆえに二人の愛には死してのち蘇(よみがえ)る力があるのだ。それこそが芸能の不思議な力というべきものだろう」
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 吉野山は、山伏による山岳修験道の根本道場であり、皇室と深い関係にある。
 後醍醐天皇は、吉野に落ち延びて南朝を開いた。
 真に天皇・皇族・皇室を命を犠牲にして守ってきたのは、下級武士、貧しい庶民(百姓や町人)、非人や穢多(えた)などの賤民、芸能などを生業とする化外の民、山の民・海の民・川の民などの部落民、つまり被差別民達であった。
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 日本における芸能の神は、天の岩屋戸神話で舞った天細女命(あまのうずめのみこと)とされている。
 天鈿女命は、悪霊・邪鬼を払う道案内神(道祖神)・猿田彦と深い関係にあった。
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 吉野山を象徴するのは「桜」である。
 皇室の紋は「菊(16の重弁)」であり、神紋は「桐」であり、花は「桜」である。
 菊は、奈良時代に中国大陸から持ち込まれ、江戸時代に改良された。
 儒教価値観の影響から、菊・梅・竹・蘭は高潔な美しさから四君子と称えられた。
 梅の原産は中国大陸で、古典・漢籍などによる高度な教養を持った知識人が愛した。
 桐の原産は中国大陸で、日本各地で栽培された。
 桜は、中国大陸・ヒマラヤから日本にかけて広く自生し、日本に種類の数が最も多く日本の花となっている。日本人が最も愛する花である。
 故に、桜の花見は日本独自の日本文化、庶民文化で、朝鮮とは縁も所縁もない。
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 日本の花が梅から桜に移ってから、日本は中華文明圏から脱し、文化も唐風から国風に入れ替わった。
 桜は、日本文化の花であり、独立の花である。
 そして、桜は天皇家・皇室と堅く結びついている。
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 ウィキペディア
 白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。
 主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す。
 
 起源伝承
 複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている。
 また「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説している。

 歴史
 白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かった。
 古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊熊襲征伐において女装を行い、神功皇后三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという。
 このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった。
 白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす(時代が下ると色つきの衣装を着ることも多かった)という男装で歌や舞を披露した。伴奏には鼓、時には笛などを用いた。
後に、猿楽などへと変貌していった。後に早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなった。また延年にも取り入れられ、室町時代初期まで残った。

 歴史上の白拍子
 白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子も多い。また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

 事例
 仏御前を例にとると、14歳のとき上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となり、その後京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛の屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより清盛の前で即興で今様を詠み、それを自分で歌いながら舞を見せ、一気に寵愛を集めた。このとき詠んだ今様は、以下のようなものである。
 君を始めて見るをりは  千代も経ぬべし姫小松  御前の池なる亀岡に 
  鶴こそ群れ居て遊ぶめれ
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 今様(いまよう)は、日本の歌曲の一形式。今様とは「現代風、現代的」という意味であり、当時の「現代流行歌」という意味の名前であった。

 概要
 平安時代中期に発生。平安時代末期には後白河法皇が愛好し、熱中し過ぎて喉を痛めたことが史書の記録に残されている。また、法皇が編纂した『梁塵秘抄』の一部が現代に伝わっている。
 歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成するのが特徴で、様々な歌詞が生み出された。
 曲の方も、後述の越天楽今様(シラブル型)の他に各種作られ、長生殿のようなメリスマ型の曲や、中部日本放送CBC)のクロージング(1964年 - 1993年)に使われた[1]ような暗い曲調のもの(原曲は箏曲、シラブル型)もあった。近代以降の歌曲にも、『一月一日』、『我は海の子』、『荒城の月』等この形式の曲が多い。『蛍の光』、『リパブリック讃歌』等、外国曲に今様形式の歌詞を当てはめたものもある。童謡・唱歌には3/4今様、歌謡曲には5/4今様の形式も多い。

 『越天楽今様』
 中でも有名なのは、『越天楽』のメロディーに歌詞を付けた『越天楽今様』である。雅楽の楽器を伴奏に使う場合のみ、雅楽の謡物に該当する(楽部のレパートリーには入らないが、民間の雅楽団体のレパートリーには入る場合が多い)。特に有名なのは「春のやよいの」で始まる慈鎮和尚の歌詞。この曲に舞を付けたものは「今様舞」と呼ばれ、白拍子装束で舞う。この他にも様々な歌詞が付けられた。これが九州に伝わったものが筑前今様となり、後に黒田節と呼ばれるようになった。近代に作られた神楽である豊栄の舞も、現代版「越天楽今様」・「今様舞」と言って良い。
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