✨31」─3・B─上海ユダヤ人ゲットーとアメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(ジョイント)。イェドヴァブネ事件。小辻節三。1940年 〜No.156  *    

近衛秀麿 亡命オーケストラの真実

近衛秀麿 亡命オーケストラの真実


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 プロフィールに、6つのブログを立ち上げる。 ↗
   ・    ・    【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 軍国日本・日本軍部は、昭和天皇の御稜威に従い、ユダヤ人に憎まれようともユダヤ人難民を助けた。
 人を信じる日本民族日本人は、心・思いは通ずる事を信じていた。
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 ユダヤ人難民を助けたのは、キリスト教的博愛の自己犠牲でもなく、日本神道的慈愛の八紘一宇精神であった。
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 近衞秀麿。小辻節三。
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 松岡洋右アメリカ人には、たとえ脅かされても、自分の立場が正しい場合には道を譲ったりしてはならない。対等な立場を欲するものは、対等な立場で望まなければならない」
 アメリカは、松岡洋右の外交能力を警戒していた。 
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松岡洋右と小辻節三
 「義を見て見てせざるは勇なきなり」
 小辻節三「西洋の騎士道同様に、武士道は振舞いを律する掟があり、戦場での勇敢さや死に直面した時の気高さという美徳を重視していたのである。……真の武士とは、礼儀正しさ、誠実さ、忠誠心といった品性をとても重視していた」
 1941年 神戸や横浜の日本人達は、辿り着いたユダヤ人難民を助けた。
 ユダヤ人難民達は、安心して日本国内を観光旅行していた。
 各地の日本人達は、「おもてなし」の心でユダヤ人難民達を寛がせた。
 人種差別主義の右翼は、ユダヤ人の世界征服を信じ、ナチス・ドイツ同様にユダヤ人達を差別していた。
 日本人全員が、ユダヤ人難民を助けたわけではない。
 5月 海軍省は、ナチス・ドイツの圧力を受けて、神戸猶太協会に「尋問したいので難民の代表2人が東京に来るように」との通告を与えた。
 小辻節三と二人のラビ(聖職者)は、海軍省に出頭し、それ以外に外務省、陸軍省内務省、情報局にも呼び出された。
 松岡洋右が、彼らを救った。「我が国に住むかぎり、一切の心配は無用」
 1941年秋迄に、ユダヤ人難民は出国した。
 小辻節三「ナチスから圧力を掛けられていた当時の日本であったにもかかわらず、ユダヤ難民が無事に日本を通過できたと言う事は喜ばしい事であった」
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 小辻節三や松岡洋右らは、ユダヤ人難民を助けた事を自慢して言い触らす事は、日本の善意を穢す行為として秘して隠した。
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 軍部は、ユダヤ人難民達を日本の戦争に巻き込まない為に、強制的に日本国内から上海に移送した。
 ユダヤ人難民達は、日本を離れる事に不平を漏らした。
 日本人は、武士道精神から、対米英戦争ユダヤ人難民を人間の盾として利用する気はなかった。
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 レオ・メラメド「日本人の並外れたホスピタリティー、言葉が通じないのに、見知らぬ私達に差し伸べてくれた親切心を忘れる事ができない」
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 ユダヤ人難民達は、軍国日本を天国のような素晴らしい国であったと感想を述べていた。
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 1941年7月10日 イェドヴァブネ事件。ポーランド北東部の小さな町イェドヴァブネ近郊。非ユダヤポーランド人住人は、集団ヒステリーを起こして、隣人として住んでいたユダヤ人住民約1,600人をを虐殺(ポグロム)した。
 穀物倉に閉じ込められたユダヤ人達は、生きたまま焼き殺された。
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 渡部昇一三国同盟の相手であるドイツから『ユダヤ人を迫害してほしい』という要請がきたときに、五相会議が開かれた。これは閣議よりも中核の位置づけで、首相と外務大臣、陸海軍の大臣と大蔵大臣で行なわれる会議である。その場で陸軍大臣板垣征四郎は、『日本は八紘一宇の精神である』と言った。つまり、民族差別しないという表明である。
 あの頃、政府決定でユダヤ人を差別しないと政府決定したのは日本だけだ。そういうことを宣伝しなかった。
 この日本政府のユダヤ人に対する方針が東京裁判の弁護人たちによって上手に使われなかったことは甚(はなは)だ遺憾なことだった。ユダヤ人虐殺を主として裁いたニュルンベルク裁判を手本にして行なわれた東京裁判に、この五相会議の決議が利用されたら、裁判自体が揺らいだはずである。
 ところがなんと板垣征四郎は絞首刑になったのだ。
 『誰に、何を、どのように伝えるか』という能力の貧困は今日の日本にも当てはまる問題である。」
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 ハインツ・E・マウル「当時2600人を数えた在日ドイツ人の中には116人のユダヤ人がいた。
 日本人はユダヤ系の学者、芸術家、教育者に高い敬意を払った。
その中には、音楽家で教育者のレオニード・クロイツァー、ピアニストのレオ・シロタ、指揮者のヨゼフ・ローゼンシュトックとクラウス・プリングスハイム、哲学者のカール・レヴィット、経済学者のクルト・ジンガー、物理学者のルイス・フーゴー・フランクなどがいる。
 日本政府は、ドイツ大使館の激しい抗議にもかかわらず、これらのユダヤ人をドイツ人同様に遇した。
 1941年末、ドイツ大使館は日本政府に対して、外国に居住する全てのユダヤ人は無国籍とされ、今後いかなる保護も与えられないと通告した。そして在日ユダヤ人を解職するよう要求したが、日本の外務省は無視した。
 かくして少数ながら戦争終了まで日本で安全に暮らしたユダヤ人がいたのである。」
 ヒルダ・ラバウヨーロッパで皆殺しになった人々を思えば、上海は楽園でした」
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 ヒレル・レビン教授「いくら日本政府に何らかの損得勘定があったにせよ、日本側の対応は当時のアメリカ政府の非協力的な対応に比べれば文字通り、天と地ほどの差がある。もしアメリカ政府がもっと積極的にユダヤ人救済に手を差し伸べていたら、さらに何百万という命が助かっていたはずだからだ。
 だがアメリカは、杉原がユダヤ人に対するビザの大量発給に注いだのと同じくらいの努力を、ビザを発給しない方向に使ったのだ。
 当時から多くのユダヤ系移民がいたアメリカでは、ユダヤ人勢力が社会にも相当な影響力があったはずである。にもかかわらず、なぜアメリカはユダヤ人を救済しようとしなかったのか? この問題はかなりのミステリーと言わざるを得ない。」
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 近衞秀麿(1898年11月18日〜1973年6月2日)日本の指揮者・作曲家。異母兄に近衞文麿。
 1924日 独学で音楽を学び、ベルリン・フィルを指揮して才能を認められた。
 これ以降は、大音楽家(マエストロ)として世界中で活躍した。 
 1937年 音楽大使としてドイツを拠点に活動したが、火チラーを嫌い、ナチスプロパガンダに非協力的であった。
 1938年 親善大使に任ぜられアメリカに渡ったが、排日運動を避けてヨーロッパに移り各地のオーケストラを指揮した。
 第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツユダヤ人が始まるやユダヤ人を匿った。
 1943年 ドイツ占領下のポーランドやフランスの音楽家に深い同情を寄せ、彼らを通じて各地の反ナチ・レジスタンス組織と関係を持っていた。
 近衛秀麿自伝「救われたユダヤ人家族は10以上」、「日本大使館のY君が担当した」
 7月 ナチス・ドイツは、近衞秀麿がプロパガンダに非協力的であるとしてドイツ国内での活動を禁止した。
 フランスで自前のオーケストラを組織し、ナチス・ドイツプロパガンダ演奏会の場を利用しユダヤ人音楽家を強制労働から救った。
 昭和天皇の御稜威に従い、総計約50人のユダヤ人を国外へ脱出させて助けた。
 日本の名門華族は、日本精神とノブレス・オブリージュ(高貴な身分に伴う社会的責務)でユダヤ人を助けた。
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 ベルリンの日本大使館は、終戦後まで、ゲシュタポに隠れてユダヤ系ドイツ人女性2名を匿っていた。
 陸海軍の駐在武官も、ドイツ語を習う目的で敢えてユダヤ系ドイツ人を事務所に雇っていた。
 強制収容所送りを免れていた混血ユダヤ人達は、日本人に雇って貰えれば助かる事を知って、ホロコーストされるダヤ系ドイツ人をゲシュタポの厳しい監視を避けて日本大使館に連れてきた。
 当時の日本大使館は、現代の観光案内的な事務仕事中心の日本大使館とは根本的に異なった公館であった。
 国益としてはナチス・ドイツtの同盟を重視したが、心情として人道・人権・人命を重んじていた。
 1944年暮れ ドイツに留学していた古賀守は、日本大使館から幌付きのトラックを借り、「日の丸」の旗をなびかせて外交用車輌として、ユダヤ人十数人をドイツ国内からスイスへと脱出させた。
 そして、バーゼルユダヤ救済協会に全員を無事に引き渡した。
 幾ら同盟国といえど、ユダヤ人の逃亡の手助けをすれば容赦なく処刑された。
 軍国日本は国民にユダヤ人の救済を命じなかったが、日本人はナチス・ドイツの国策に逆らって自主的にユダヤ人難民を助けていた。
 それが、日本人軍国主義者であった。
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 アメリカ軍は、ユダヤ人難民を無償で受け容れた神戸や敦賀を無差別爆撃した。
、安住できる新天地に旅立つまで暖かく接したきた神戸や敦賀の市民は、生きたまま焼き殺された。
 現実世界に於いて、良い行いを事したから良い事が訪れるとは限らない。
 むしろ、良い事をしても悪い事が訪れるのが大半である。
 日本人にはユダヤ人への嫌悪がなかった為に、進んで数万人のユダヤ人難民を助けたが、それで良い事は起きなかった。
 日本の善意や思い遣りは、世界では通用しなかった。
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 祭祀王・昭和天皇は、大和心から、キリスト教世界を逃げ出してきたユダヤ人難民達の保護を切望していた。
 皇室は、自然のままあるがままという営みで、人種差別をしないという皇道で苦しむ人々を救済しようとした。
 それが、人種・民族に関係なく全ての人が一つの家族という大家族主義・八紘一宇である。
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 自然にあるがままという、相互補完共生の生き方。
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 弱い者イジメはしない。
 強きを挫き、弱気を助けく。
 弱い者とは戦わず、強い者と戦う。
 信念の為に死んでも悔いを残さず。
 一蓮托生。
 生きるも死ぬも一緒。
 命を大事にして惨めに生き残るよりも、命を捨てても納得できる悔いのない死を選ぶ。
 それが、真のサムライであり、武士道の極意である。
 そして、日本民族神話・天皇心神話に生きる日本の真の姿である。
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 1943年 日本軍は、42年3月にインドネシアを軍事占領してオランダ人など敵性外国人を民間人抑留所に収容し、さらにユダヤ人を選別してユダヤ人のみの抑留所に収容した。
 ユダヤ人世界征服陰謀説を信じる日本軍人は、占領地のユダヤ人を秘密結社フリーメーソン会員か支配階級であるユダヤ系国際金融資本の手先と見なし、ナチス同様に隔離する必要があると信じていた。
 ジャワ憲兵隊は、インドネシアの全ユダヤ人を強制連行する為に、一般人を逮捕し拷問して名前と住所を吐かせた。
 日本軍は、捕らえたユダヤ人を抑留所「テルアビブ」に隔離して、銃と鉄条網で厳重に監視した。
 収容所の管理運営は、朝鮮人兵士か朝鮮人軍属に押し付けられていた。
 その扱いは、ドイツ親衛隊の様に非人道的であったと言われている。
 日本人の中にも、ユダヤ人を助けたいという昭和天皇の思いを踏みにじってユダヤ人を迫害しようとする、人種差別主義者が存在知る。
 全ての日本人が心の根の優しい人間ではなく、血に飢えた凶悪な差別主義者の日本人も多くいた。
 戦後。オランダのB級C級戦犯裁判所は、ユダヤ人弾圧を行った日本人兵士をナチスが行ったホロコースト同様の「人道に対する罪」で処刑した。
 一部のユダヤ人研究者は、ユダヤ人迫害は軍上層部の命令であり、昭和天皇と日本政府はユダヤ人弾圧の事実を隠蔽していると非難している。
 日本国内の人種差別反対団体は、昭和天皇と軍部はナチス同等かそれに近いホロコーストを行ったと確信し、ユダヤ人研究家の協力を得て犯罪行為の調査研究を行っている。
 世界世論に於ける、昭和天皇と軍国日本への非難は現代でも止む事がなく、弁護する声は一つとしてない。 
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 アメリカ政府は、上海のユダヤ人難民の生活が苦しくなる事を知っていて、在外日本資産を凍結し、物資の輸出を停止に近い制限を加えた。
 日本軍は、上海の日本租界に「無国籍難民隔離区」(ユダヤ人ゲットー)を設置して保護したポーランドユダヤ人難民達を収容した。
 上海のユダヤ人難民は、ジョイント(アメリカ・ユダヤ人合同配分委員会)からの送金が停止され、生活物資の流通も途絶えて生活が苦しくなった。
 日本軍は、ポーランドユダヤ人難民達が生活費不足し困窮しているので、東条英機首相の許可をえて、ニューヨークのジョイント本部と協議してスイス赤十字経由で18万ドルのクレジットを承認した。
 アメリカ政府は最初は戦争を優先して反対したが、ジョイントの説得とキリスト教会の要請で日本軍支配下への送金を認めた。
 交渉に当たったのは、A級戦犯東郷茂徳外相(靖国神社)であった。
 賀屋興宣蔵相(A級戦犯)は、ユダヤ人難民救済の為に、特例として上海租界の在米資産凍結を解除した。
 ポーランドユダヤ人難民保護は、昭和天皇の希望でもあった。
 日本陸軍内部には、親ドイツ派親ファシスト派より親ポーランド派親ユダヤ派の方が強かった。
 ナチス・ドイツは、上海無国籍難民隔離区のユダヤ人をホロコーストするように軍国日本に圧力を加えたが、東条英機首相と軍部は拒否した。
 現場で活躍したのは、松岡洋右ら外交官と松井石根ら日本軍であった。
 ポーランドユダヤ人難民達は守っていたのが、満州派と呼ばれていた東条英機松岡洋右らであった。
 つまり、ポーランドユダヤ人難民達をヒトラーナチス・ドイツから守っていたのがA級戦犯達がである。
 A級戦犯達を祀る靖国神社は、世界から目の敵にされている。
 日本軍は、終戦まで上海無国籍難民隔離区を維持したが、日本人兵士が不足していた為に朝鮮人の兵士や軍属に管理を命じた。
 ユダヤ人問題では、ファシスト中国(中国国民党)も中国共産党も一切関与していなかった。
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 現代日本人が同じような立場に立たされたら、決して、A級戦犯達のような自己犠牲的な人道貢献はしない。
 責任を絶対取ろうとしない陰湿・陰険体質。ウソと詭弁と裏切り。事なかれ主義。問題先送り。他人任せ。
 現代日本人とは、日本民族の歴史上で初めて生まれた、冷血で、冷酷で、薄情で、非情で、非常識な良い所の少ない日本人である。
 現代教育は、そうした人間性を抹消した人形的日本人を量産している。
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 自分に関係しなければ他の事は気にしない。
 例え、親兄弟・子供でも、ましてや祖先など関心も興味も持たない。
 それが、思考力及び感情・情緒抹消の現代教育である。
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 現代教育の最優先課題は、人間形成は建前で、高得点を取る事が本音である。
 高得点で量産されているのが、政治・経済・外交・軍事・教育・社会などで国家を動かしている高学歴出身知的エリートである。
 その割合が多いのが、リベラル派・革新派・エセ保守派そして一部の保守派である。
 それは、左翼・左派・ネットサヨクも右翼・右派・ネットウヨクでも同じであるが、最も重症で救いようがないのは右翼・右派・ネットウヨクの方である。
 真面な日本人は、人口激減と共に急速に減っている。
 それが始まったのは、1980年代後半頃である。
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 三島由紀夫「我々の反革命は、水際に敵を邀撃する事であり、その水際は、日本の国土の水際ではなく、我々一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。……我々は日本の美の伝統を体現する者である」
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 2017年11月23日 産経ニュース「「命のビザをつないだ男」ユダヤ難民救った文化研究家・小辻節三氏を表彰 鎌倉市議会
 鎌倉市議会が顕彰したヘブライ学者の小辻節三氏(家族提供)
 第二次世界大戦中にナチスの迫害から逃れて日本にやってきたユダヤ難民の滞在期間を延長したヘブライ文化研究家の小辻節三氏(1899〜1973)=写真(遺族提供)=について、神奈川県の鎌倉市議会が顕彰を行った。
 鎌倉市に在住した小辻氏は「命のビザ」を発給した外交官の杉原千畝氏とともに、ユダヤ難民が欧州から来日する手助けを行った。小辻氏は杉原氏が発給したビザでは日本での滞在期間が10日間しかなかったため、滞在期間の延長に尽力。「命のビザをつないだ男」とされている。市議会では小辻氏について「迫害を受けていたユダヤ難民のために、みずからの命を顧みずに行った勇気ある行動は、粉骨砕身の人道的な偉業」として全会一致で顕彰を決めた。
 市によると、小辻氏の存在は日本であまり知られていないが、イスラエルや欧米では「ユダヤ難民を救った英雄」として著名な存在だという。
 顕彰式典には小辻氏の娘の暎子さんやイスラエル大使館関係者も参加。市では今後、市内中学校に対して小辻氏の業績をまとめた資料を配付し、授業で活用する考えだ。」
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 ウィキペディア
 アメリカ・ユダヤ人共同配給委員会(American Jewish Joint Distribution Committee, JDC)は救援機関。ジョイント("the Joint", "JOINT")として知られる。45のユダヤ人救援団体で構成される「災害援助ユダヤ人連合」の活動調整役を果たしている。 1914年設立。
 
 概要
 ユダヤ人、異教徒を問わず、救援活動を行う。85以上の国で活動しており、2001年にはエルサルバドル、インド西部の地震における救助活動を行った。
 1933年から1939年までの間に250,000人のドイツのユダヤ人と、125,000人のオーストリアユダヤ人を救助し、ポーランドユーゴスラビアにおける対ナチスパルチザンを助けた。
 神戸にあったユダヤ人コミュニティーは戦時中大半が上海に移動し、1万8,000人のコミュニティーが上海に形成されたが、その際支援活動を行った(日本のユダヤ人を参照)。
 最近ではソ連ユダヤ人(食糧配給など)、ベタ・イスラエル、イエメン・ユダヤ人、イラクユダヤ人の救援活動を行っている。
 2007年、委員会に対してイスラエル国家からイスラエル賞が授与された。
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日本に来たユダヤ難民: ヒトラーの魔手を逃れて 約束の地への長い旅

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日本とシオンの民 戦前編

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