✨31」─3・A─ユダヤ人難民を助ける事に、日本軍部は協力し、日本外務省は猛反対した。杉原千畝。根本三郎。1940年 〜No.156 *    

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   ・    ・    【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 軍国日本・日本軍部は、昭和天皇の御稜威に従い、ユダヤ人に憎まれようともユダヤ人難民を助けた。
 人を信じる日本民族日本人は、心・思いは通ずる事を信じていた。
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 軍国日本がユダヤ人難民を入国を拒否せず、国内から排除せず、無償で保護したのは、昭和天皇が希望したからである。
 昭和天皇は、間接的ではあったが人道貢献をした。
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 ユダヤ人難民を助けたのは、キリスト教的博愛の自己犠牲でもなく、日本神道的慈愛の八紘一宇精神であった。
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 軍国日本を戦争に追い込み、国民を戦火で殺したのは、マルクス主義者の高学歴知的エリート文官官僚=革新官僚と軍人官僚エリート達であった。
 彼らは、新ナチス・ドイツ派としてユダヤ人難民を助ける事に猛反対した。
 日本外務省は、日本軍部以上に人種差別主義者・排外主義者であった。
 軍部の保守派は、親ユダヤ派親ポーランド派としてユダヤ人難民を助けた。
 靖国神社に祀られたA級戦犯東条英機松岡洋右らは、ポーランドユダヤ人難民を助けた。
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 アメリカの政府や軍部とアメリカ・ユダヤ人達は、ポーランドユダヤ人難民を助ける軍国日本を阻止しようとしていた。
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 ユダヤ人難民を助けた日本人は、悲惨な最期を迎えた。
 神戸市民は、無償の「おもてなし」でポーランドユダヤ人難民を受け入れ保護し助けたが、連合軍(アメリカ軍)の無差別絨毯爆撃で生きたまま焼き殺された。
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杉原千畝松岡洋右
 松岡洋右は、杉原千畝に対して、正規な手続きを終えていないユダヤ人難民は受け入れられないという訓令を、最重要とした暗号電報ではなくあえて普通電報で送った。
 アメリカとの戦争を避ける為にはユダヤ人難民の保護は有利になるとの判断で、その真意を酌み取ってくれる事を期待して普通電報とした。
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 日本は、杉原千畝に助けられた。
 それは、事実であった。
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 法治国家であれば、法律で定められた正規の手続きを終えていない難民を、如何なる理由があろうとも、入国させないし、通過もさせない。
 それが、法律における常識である。
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 ナチス・ドイツソ連は、軍国日本と戦争をしてたファシスト中国(中国国民党)に武器弾薬を供給していた。
 ソ連は、正規兵を国際義勇兵として抗日戦線に投入していた。
 日本軍部は、ナチス・ドイツソ連を中国戦線から引き離す為に条約を結ぶように松岡外相に要望していた。
 ソ連と条約を結ぶ事で、中国共産党とも戦闘を終わらせる事が期待できた。
 日本軍部の中には、ナチス・ドイツソ連が戦争を始める事を期待していた。
 そうすれば、ファシスト中国に軍事援助している国は中立国のアメリカ一国のみとなる。
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 ファシストと戦争をしたのは、中国共産党ではなく軍国日本であった。
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 1940年9月 松岡洋右は、中国からナチス・ドイツの支援を排除するべく日独伊三国同盟締結交渉を行っていた。
 リトアニアカウナス領事杉原千畝は、外務省からの訓命を無視して、ナチス・ドイツの迫害から逃げてきたポーランドユダヤ人難民約6,000人に通過ビザを発給した。
 日本外務省は、杉原千畝の懇願に答える事なく放置した。
 杉原千畝は、暗殺されるかもしれないという重圧に耐え、相談する相手もなく一人で重大な決断を行った。
 軍国主義時代の、日本を代表する日本人である。
 親ドイツ派の外務官僚は、人種差別主義の右翼や反ユダヤの軍人等に情報を流していた。
 杉原千畝は、ロンドンのポーランド亡命政府の軍事秘密組織とソ連について情報を交換していた。
 日本軍部は、対ソ戦略から、ドイツ軍以上にポーランド軍と親密な関係を維持していた。
 陸軍の主流派は、親ドイツ派ではなく、親ポーランド派であった。
 松岡洋右は、杉原千畝が発給したオランダ領キュラソーへのビザが方便である事を知りながら、ユダヤ人難民の日本通過を見逃した。
 各地の日本外交官は、杉浦ビザを取得したユダヤ人難民の軍国日本通過を支援した。
 軍部は、ユダヤ系国際資本を利用する為にユダヤ人難民を助けた。
 東條英機陸相は、沈黙していた。
 神戸などの日本国民は、命からがら逃げてきたユダヤ人難民を温かく「もてなした」が、後年、ユダヤ人が作った焼夷弾で生きたまま焼き殺された。
 京都や大坂の日本人等も、ユダヤ人難民が日本を離れるまで観光を支援した。
 ナチス・ドイツは、逃亡ユダヤ人難民を助ける軍国日本に不快感をあらわにする。
 人種差別主義の右翼や右派は、天皇の大御心・御稜威を無視して、ユダヤ人を差別した。
 戦後。杉浦千畝は、GHQの目の前で外務省から追放された。
 GHQのユダヤ人ニューディーラー達は、杉浦千畝や松岡洋右らのユダヤ人難民救済を知っていた。
 ユダヤ人は、全ての事を知り、昭和天皇と軍国日本を見捨てた。
 9月5日 杉原千畝は、ベルリンに到着し、ベルリンの日本大使館赴き来栖三郎大使の指示を仰いだ。
 来栖三郎大使は、外務省の命令に逆らってユダヤ人難民に通過ビザを発給した事について何も言わなかった。
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 松岡外相は、明治時代に大日本帝国憲法の起草をアルベルト・モッセに助けてもらった恩に報いるべく、ベルリンの日本大使館に対してモッセ一族の保護を命じた。
 モッセ一家は、強制収容所に送られる所を軍国日本に救出された。
 軍国日本は、モッセ以外にも日本に所縁のあるユダヤ人を数多く助け保護した。
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 日本外務省や軍部の中にいた親ドイツ派や、人種差別主義者や反ユダヤ主義者の右翼・右派は、日本国内の情報をナチス・ドイツに流していた。
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 別のヨーロッパ諸国にある幾つかの日本大使館や領事館も、杉原千畝に倣って助けを求めてきたユダヤ人難民に通過ビザを発給した。
 昔の日本人は、惻隠の情としてナチス・ドイツから逃げてきたユダヤ人難民達を助けた。
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 在独大使大島浩は、ユダヤ人難民を助ける事に反対する電報を東京に送った。
 日本外務省内の親ドイツ派は、ユダヤ人難民を助ける事に猛反対した。
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 軍部は、建て前としてナチス・ドイツの抗議を受け入れたが、本音でユダヤ人難民を極秘に保護した。
 親ドイツ派は、軍部よりも外務省や各官庁の革新派エリート官僚の中に多くいた。
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 昭和19年 昭和天皇は、杉原千畝が外交官として国益に貢献した事を認めて勲五等瑞宝章を授けた。
 外務省が承認しなかった杉原ビザは、日本国内はもちろん日本軍占領地でも無効にならず、公式なビザとして通用していた。
 杉原千畝は、通過ビザを発行しても無効にならないとの確信を持って、ユダヤ人難民達に渡していた。
 軍国日米との戦争が始まるまで、アメリカも、イギリスも、フランスも、そしてソ連さえも、杉原ビザを正式公文書として取り扱った。
 軍国日本は、法と秩序を守らない中国共産党とは違っていた。
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 戦後。日本外務省は、自主国家としての外交権をGHQによって剥奪された為に、余剰人数整理として、杉原千畝ら3分の1の人員を免官した。
 ユダヤ人難民救助を渋ったり拒否した国にとって、軍国日本がユダヤ人難民を人種差別せず受け入れた事実は不都合な事実で有り、難民救助という人道的歴史から抹消すべき事柄であった。
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 重慶国民党政府・駐ウィーン総領事の何鳳山も、ユダヤ人難民に通過ビザを与えたが、上海までの逃亡ルートは日本軍部のルートしかなかった。
 戦後。何鳳山は、国共内戦に敗れ、中国共産党から逃げるようにして台湾に渡った。
 中国共産党は、ユダヤ人難民救出には一切関係していなどころか、ナチス・ドイツ同様にユダヤ人を資本主義者として弾圧していた。
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 軍国日本は、ユダヤ人難民を助けた親ユダヤであった。
 中国共産党は、ユダヤ人難民を見捨てた 反ユダヤであった。
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*日本外務省はユダヤ人難民の保護に反対であった。
 1940年9月 ユダヤ人難民の第一陣が、福井県敦賀港に上陸した。
 敦賀ウラジオストックを結ぶ欧亜連絡船は、一ヶ月に三度往復していた。
 ユダヤ人難民が、大挙してシベリア鉄道ウラジオストックに到着し始めるのは翌41年からであった。
 情緒的な日本人達は、着の身着のままで浮浪者のような格好で辿り着いたユダヤ人難民を助けた。
 12月 根井三郎は、ウラジオストック駐在総領事代理として赴任した。
 1941年2月3日 駐ソ日本大使の建川美次は、ユダヤ人難民が日本を目指してシベリア鉄道に乗り込んでいる事を報告した。
 「目下ソ連領内に約800名のポーランド避難民がいる。ウラジオストック経由だけでは移動は困難であるので、一部を満州経由としたい。例外として約400名に対し満州国通過ビザを発給してはどうか」
 外務省は、3月7日に、ユダヤ人難民の日本通過はあくまで本国の許可証我或る者としあるとして、杉原ビザを拒否した。
 2月8日 根井は、杉原ビザで到着し始めた大量のユダヤ人難民をどう処理するかを、東京の外務省に問い合わせた。
 3月19日 近衛文麿首相は、松岡洋右外相が西欧歴訪で不在の為に外務大臣を兼務し、根井に行き先国の入国手続き完了した者のみを日本への船に乗船させるよう指示した。
 ユダヤ人難民に対して、手続きに不備がある者はウラジオストックに行っても無駄であるとの警告を出す事を命じた。
 3月30日 根井は、日本を頼って来たユダヤ人難民を放り出すわけにはゆかないとして、無差別救済を求めて外務省に激しい口調で反論した。
 「帝国領事の査証を有する者に、遙々当地に辿り着き、単に第三国査証が中米行きとなりおるとの理由にて、一率に検印を拒否するは、帝国在外公館査証の威信より見るも面白からず。また査証を有らざる者に対しても単に避難民取締簡易化の見地よりのみ、当館にて査証の発給を停止するは、彼らがモスクワへ引き返し得ざる事情よりするも、適当ならず」
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 駐ソ大使建川美次予備役陸軍中将は、ユダヤ人難民の受け入れを拒否する外務省に激しく抗議した。
 外務省は、モスクワの日本大使館以外での通過ビザ発給を厳に禁ずるという訓令を出した。
 建川大使は、天皇の御稜威や大御心から、毅然として抗議し再考を求めた。
 「実害なき者は従来通り査証をあたえるよう再審議すべし」
 「新取扱決定は実情に即せざるもの」
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 2016年11月16日 産経ニュース「「日本のシンドラー」が救った人たちと神戸の人々との交流を展示 19日まで神戸市文書館
 中島信彦さんが神戸市に提供した写真。ユダヤ人難民の男性3人(前列中央)は和服を着ている(同市提供)
 第二次大戦中、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人難民と神戸市民との交流を今に伝える企画展「神戸と難民たち」が、神戸市文書館(同市中央区)で開かれている。難民が和服を着ている写真やオーストラリアに移住した難民の手記などが展示されている。
 神戸にやってきたユダヤ人難民の大半は、当時リトアニアカウナス領事館にいた外交官、杉原千畝が発給した「命のビザ」と呼ばれる日本の通過ビザを持っていたといい、その後、米国やオーストラリアなどに逃れていったという。
 市は、ユダヤ人難民と市民の交流を後世に伝えようと、今年1月から、当時を知る人の証言や写真などの提供を市広報紙やインターネットで呼びかけたところ、今月8日までに53件の情報が集まったという。
 企画展では、市民らから寄せられた写真や手記などのほか、これまでに判明している難民が住んでいた場所を示した地図も展示。情報提供された当時の様子を撮影した貴重な写真も紹介されている。同市灘区に住んでいたという中島信彦さん(84)は、家族でユダヤ人の男性3人と一緒に写した記念写真を提供。和服姿で写っているユダヤ人の表情は安心しているように見える。
 このほか、神戸からニュージーランドを経てオーストラリアに移住したピーター・バルーク氏が難民だった当時のことを振り返る手記なども公開されている。
 企画展は19日まで。入館無料、午前10時〜午後4時。問い合わせは同館((電)078・232・3437)。難民に関する情報提供は市企画課((電)078・322・6917)。」
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 12月22日 産経ニュース「「命のビザ」にソ連の影 杉原千畝の活動を経済利益・軍事情報狙い“容認”か 露の歴史研究で判明
 杉原千畝
 【モスクワ=黒川信雄】第二次大戦中に多くのユダヤ人を救った“命のビザ”で知られる日本人外交官、杉原千畝(ちうね、1900〜86年)が進めたリトアニアからの救出劇の成功の背景には、ソ連領を通過するユダヤ人から経済的利益や軍事情報を得ようというソ連側の狙いがあったことが、ロシアの歴史研究家らの共同研究で分かった。
 杉原は第二次大戦中にリトアニアで日本領事館領事代理を務め、ナチス・ドイツに迫害された数千人のユダヤ人が米国などに渡れるよう、日本の通過ビザを発給した。当時、日本政府は避難先の入国許可を得ていない外国人に通過ビザを発給しない方針だったが、杉原はそれに反してビザを出し続けたとされる。
 ただリトアニアから日本に向かうには、当時のソ連領を通過する必要があった。ソ連がなぜ大量の難民の通過を容認したかについては、十分な研究はされていなかった。
 この問題をめぐり当時のソ連指導部間の書簡や回想録、公文書館の資料、国営旅行会社の活動実態などに基づき共同研究を進めたロシア・ホロコースト・センターのイリヤ・アルトマン共同代表(61)は、ソ連当局がユダヤ人の自国領内の通過を承認した理由として、「経済的利益」と「海外情報網の構築」という2つの狙いがあったことを指摘する。
 第二次大戦の勃発後、外国からの観光客が途絶えたソ連にとり、ユダヤ人難民は貴重な外貨収入源とみなされた。ソ連は極東に逃れるユダヤ人をモスクワに送り、ボリショイ劇場での観劇や高級ホテルへの宿泊などをさせた後に、シベリア鉄道で極東ウラジオストクに移動させた。
 難民1人の“旅行代金”は200ドル程度だったと推定されている。当時の200ドルは巨額で、多くの難民は親類や慈善機関の支援などを受け、ようやく支払ったといわれる。
 またソ連は当時、海外情報を得るための諜報機関整備が不十分だった。そのためソ連は難民らに情報収集活動への協力を働きかけていたという。
 杉原の軍事情報収集能力をソ連が高く評価していた実態も明らかになりつつある。アルトマン氏によれば、ソ連が特に強い関心を寄せたのは、同国によるリトアニア併合(40年8月)後、杉原が赴任した独ケーニヒスベルク(現在のロシア・カリーニングラード)での活動という。
 杉原は41年5月、現地に日本領事館を開設。バルト海沿岸での独軍の移動の状況などから独ソ戦争開戦(41年6月)のタイミングをほぼ正確に推測し、モスクワの日本大使館、駐独日本大使、日本外務省に電報で伝えていたためだ。
 当時ソ連は日本の暗号を解読する技術を有し、日本側の情報はソ連側に筒抜けだった。杉原が日本などに宛てた3通の電報をめぐっては「ソ連の情報機関だけでなく、政界指導部にもおそらく知れ渡っていた」という。
 さらにソ連は、日本がモスクワから極東に鉄道輸送していた外交文書を撮影するために列車内に専用設備まで設けていたといい、ソ連当局が日本の情報を極めて重視していた実態が浮かび上がっている。
 ロシア・ホロコースト・センターは10月、モスクワで杉原の活動を顕彰する国際フォーラムを開催した。」
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 2019年3月1日 msnニュース 西日本新聞社「命のビザ」つないだ外交官 根井三郎 再検閲命令拒む 杉原千畝とともにユダヤ難民救う 生誕地の宮崎で資料展
 © 西日本新聞社 資料展会場で、「根井三郎を多くの人に知ってほしい」と話す顕彰する会の根井翼会長
 第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民のため杉原千畝(ちうね)(1900~86)が発給した「命のビザ」を引き継いで亡命を手助けした外交官、根井三郎(1902~92)の功績を後世に伝える取り組みが、生誕地の宮崎市佐土原町で広がっている。世界各地で難民を巡る対応が社会問題化し、国内では官僚の「忖度(そんたく)」が取り沙汰される今、自身の利益を顧みず、人道的に行動した気骨ある外交官が「命」のバトンをつないだリレーが注目されている。
 駐リトアニア領事代理だった杉原は1940年7月から9月にかけ、外務省の訓令に反して、ナチスの迫害から逃れようとしたユダヤ人に約2千通の日本通過ビザを発給。家族を含め約6千人の命を救ったとされ、国際的に知られている。
 一方、杉原の思いをつなぎ、多くの難民を救済した根井の功績は日本国内でもあまり知られていない。
 難民の大半はシベリア鉄道で移動後、日本への航路があったソ連極東・ウラジオストクへ。現地の総領事代理だった根井が41年3月に外務省と交わした電報が外交史料館に残っている。
 外務省は軍事同盟を結んでいたドイツに配慮し、杉原が発給したビザを再検閲するよう根井に命じた。だが、根井は「国際的信用から考えて面白からず」と異を唱え、ビザを持つユダヤ人難民らを敦賀港(福井県)行きの船に乗せ、ビザを持たない者には独断でビザや渡航証明書を発給した。
 上陸先の敦賀や神戸では市民が温かい手を差し伸べた。杉原、根井のバトンを継いだ神学者小辻節三(1899~1973)は国に働き掛け、行き先が決まるまで滞在を延長させた。
 根井は戦後、法務省に移り、名古屋入国管理事務所(現管理局)の所長を最後に引退。難民を助けた理由は語らぬまま90歳で他界したため、古里でも功績は知られていなかった。
 だが近年、福井県敦賀市の元職員で、杉原と小辻の研究者古江孝治さん(68)による調査をきっかけに2016年3月、宮崎市佐土原町の親族宅で根井の写真が見つかった。同年8月には同市で「根井三郎を顕彰する会」が発足。翌年には、関東在住の孫が家族とのアルバムや将棋盤などの遺品を受け継いでいることが判明。根井が長崎県立大村中を卒業後、外務省に入省していたことも分かった。
 杉原千畝記念財団理事を務める古江さんは「ユダヤ難民救済は杉原だけの力で成し得たものではなく、根井ら陰で支えた人も評価すべきだ」と語る。顕彰する会の根井翼会長(76)は「侍のような素晴らしい宮崎生まれの外交官がいたことを多くの人に知ってほしい」と話している。
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 同会は根井の家族写真など50点を集めた資料展を4日まで開催中。2日午後2時から、イスラエル政府の「ヤド・バシェム(諸国民の中の正義の人)賞」に根井を推薦している大学教授や古江さんらによる講演会がある。いずれも同市佐土原総合文化センターで。無料。同会=0985(73)1111。=2019/03/01付 西日本新聞夕刊=」
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 3月3日 msnニュース AERAdot.「イスラエル人が飛騨高山を目指す理由とは?
 飛騨高山で知られる岐阜県高山市は2016年、ヘブライ語で書かれた観光マップを作成しました。最近、外国人観光客が増えている高山市では、英語や中国語など11カ国語の観光ガイドが作られていますが、人口約800万人の小国イスラエルのための案内書をわざわざつくったのは、「イスラエル人が年間一万人も高山市に観光にくるためですよ」(同市担当者)というのが理由です。
 なぜ高山観光にくるのかは後ほど述べますが、イスラエル人が多いのは高山だけではありません。主要な観光地でも同じです。昨年4月に京都に行ったとき、三条の商店街、清水寺三年坂、哲学の道を歩いているときでさえ、ヘブライ語が聞こえてきました。団体旅行だけではなく、家族連れや若いバックパッカーイスラエル人も増えてきました。日本旅行熱は本物です。
 イスラエル人にとって日本は、遠くて不便、物価が高いと三重苦な国でした。最近の円安、イスラエルの経済力アップでかなり事情が変わりました。17年には、一人当たりのGDPで日本を追い抜いています。物価高はイスラエルも同じで、東京の物価はそう高くは感じなくなってきています。エルサレムのちょっとしたホテルなら一泊2~3万円はします。
 イスラエルは四国くらいの面積しかありません。こんな小さな国からなぜ、日本にこんなに観光にくるようになったのでしょうか。第一にはイスラエル人の「旅行好き」な国民性があるでしょう。人口800万人のうち半分の400万人が一年間で少なくとも一回は外国旅行にでかけているという統計があります。だから、休日ともなると一番大きなベン・グリオン空港はとんでもないくらいに混みあっています。空港の組合はイスラエルで最も強いのですが、もしストライキになるなら国全体はものすごい混乱になるでしょう。だからというわけではないでしょうが、この組合の要求はたいてい通ってしまいます。
 もう一つの理由はユダヤ民族しての文化と歴史的な背景です。1948年にイスラエルが建国するまで、ユダヤ民族は約2000年間にもわたり、しばしば世界中のあちこちを動いてきました。あるときは迫害から逃れ、また生活のあてを探して……。ユダヤ民族のディアスポラ(民族離散)の存在は、世界を旅するという国民性を考えるうえでは大事なことです。またイスラエル経済が世界の市場に広がっているということも忘れてはいけません。経済発展を続けるために国外で勉強し、ビジネスの好機をうかがい、外からなにかを学ぶことに国を挙げて奨励しています。ユダヤ人の頭のなかは大きな地球儀があるのかもしれません。
 最近では若い世代の海外旅行熱が高まってきています。イスラエル国民皆兵です。高校を卒業すると男子は3年、女子は2年の兵役につきます。ちなみに私は4年間、戦車部隊の士官として従軍していました。ちょっと長かったですね。最近の若い人たちは兵役期間が終わっても、すぐに大学に行きません。バックパッカーとしてアジアや南米などを数カ月間、貧乏旅行をしながら回ります。そして23~24歳くらいに大学に入学します。
 イスラエルの大学生は先進国の大学生(とくに日本)と比べると年上ですが、それだけ経験も積んでおり、成熟した考えも持っているところが違います。日本にお願いがあります。民泊禁止はなんとかならないでしょうか。日本に興味を持った大学生が研究の最後に日本に行くとホテルに泊まることが多く、日本人の生活に密着できないため日本熱が冷めてしまう学生もいます。
 日本に魅かれる理由にイスラエルのメディアは日本を好意的に紹介するせいも大きいですね。年配のイスラエル人は、茶の湯、生け花、歌舞伎など伝統的な日本文化や自然に興味を示します。イスラエルの旅行会社は日本ツアーを2週間程度で組むときは、東日本では富士山、日光、西日本は広島と厳島神社。そして京都、奈良、高野山、飛騨高山を組み入れます。イスラエル人団体旅行の特徴は、団体行動ができないこと。勝手に好きなところに行く、おしゃべりをやめない。とにかく添乗員泣かせなんです。
 イスラエル人にとっての「聖地」は、杉原千畝(ちうね)記念館です。名古屋市の北約50キロに杉原氏の生誕地岐阜県八百津(やおつ)町にあります。第2次世界大戦中に外交官、杉原氏(1900~86年)はリトアニアカウナスの領事代理を務めていたとき、ナチスの迫害から逃れようとしたユダヤ人に2139通の日本通過ビザを発給。家族らを含め約6千人の命を救い、ユダヤ人を救ったドイツの実業家の名にちなんで「日本のシンドラー」と呼ばれています。杉原記念館を訪れた観光客はそのまま足をのばして同県高山市に行っていたのですね。
 日本への旅行には最近、環境が整ってきました。イスラエル人はユダヤ教信者が多いのですが、東京、京都、神戸にユダヤ教の教会であるシナゴークができて、お祈りがしやすくなりました。またユダヤ教徒には、コーシャと呼ばれる食事規定があります。豚肉、エビ、タコ、イカなどが制限されています。イスラム教にも同じような食事規定がありますが、最近の日本では対応した料理を出すレストランも増えてきました。今年9月には、成田-テルアビブ(ベン・グリオン空港)を結ぶ直行便も開設さる予定です。これまでは、欧州各都市、アジアを経由して20時間近くかかっていましたが、これからは13時間で行けます。楽になりますね。
 国外に行くことはそんなに大事でしょうか。外に出れば、その国と人々との絆が強くなります。自分の国の文化にも敬意を払うようになるでしょう。実際、私は日本に旅行した経験で日本を研究しようと決心しました。自分の人生の大きな部分は日本という国が作っています。今、イスラエルには年間約2万人の日本人が観光にきています。この日本人についてはこれから書いていきたいと思います。
 ○Nissim Otmazgin(ニシム・オトマズキン)/国立ヘブライ大学教授、同大東アジア学科学科長。トルーマン研究所所長。1996年、東洋言語学院(東京都)にて言語文化学を学ぶ。2000年エルサレムヘブライ大にて政治学および東アジア地域学を修了。07年京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科修了、博士号を取得。同年10月、アジア地域の社会文化に関する優秀な論文に送られる第6回井植記念「アジア太平洋研究賞」を受賞。12年エルサレムヘブライ大学学長賞を受賞。研究分野は「日本政治と外交関係」「アジアにおける日本の文化外交」など。京都をこよなく愛している。
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