💖23)─1─オトポール事件。軍国日本とポーランド・ユダヤ人難民達。上海のユダヤ系サッスーン財閥。1932年〜No.94 

さすらいの航海 [Blu-ray]

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   ・   ・   {東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博・   
 世界には、人種差別が普通に存在し、その中でもユダヤ人、アフリカ人そして日本人への差別が酷かった。
 中世キリスト教会は、キリスト教と白人至上主義から、アフリカ人と日本人を奴隷として売っていた。
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 日本には、反ユダヤ主義などの人種・民族差別はなかった。
 人種・民族差別をしないと言う事が、皇道の八紘一宇精神である。
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 昭和天皇は、日露戦争ユダヤ人に助けられた事を死ぬまで感謝し、その恩義に酬いるべくユダヤ人難民を助ける事を切望していた。
 日本精神では、一度受けた恩は死ぬまで忘れず、死ぬまで何度でも恩返しをする。
 その恩義は、一代で終わりではなく、子々孫々まで歴史として語り継がれていく。
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 東京裁判は、軍国日本の人道的貢献を一切認めず、ユダヤ人難民達をホロコーストから助けた東條英機板垣征四郎らをA級戦犯として処刑した。
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 昭和天皇A級戦犯は、1人でも多くのユダヤ人難民を「おもてなし」精神で助けようとした。 
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 反天皇反日的日本人、特に昭和天皇戦争犯罪者として戦争責任を問う日本人は、人種差別主義者であり、反ユダヤ主義者である。
 天皇制度廃絶論者も同様に、人種差別主義者であり、反ユダヤ主義者である。
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 ルーズベルトは、助ける事ができるユダヤ人児童2万人をヒトラーに引き渡し、ホロコーストで見殺しにした。
 アメリカはもちろんイギリスもカナダも、ナチス・ドイツから逃げて来たユダヤ人に冷淡でり、多くのユダヤ人をホロコーストに送って見殺しにした。 
 それは、バチカンローマ教皇も同じであった。
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 日本の外交官で、ユダヤ人救出者として「諸国民の中の正義の人」の称号を授与されているのは杉原千畝だけである。
 イスラエルの正義の人指命委員会は、称号を授与するに当たって二つの厳しい規定を設けている。
 1,当該の外交官が一人、あるいは数名、実際にはもっと多数のユダヤ人を、ビザもしくはその他の命を救う文書の発行というかたちで救出した事を示す。
 2,明解な指令に反して、あるいは明解な違反ではないものの、結果的に受けた指示の本旨に反するに等しい行動をとつた事を立証される必要がある。
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 松岡洋右は、1880(明治13)年に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれた。
 11歳の時に、父親が事業に失敗し破産した。
 1893(明治26)年に、親戚が既に渡米して成功を収めていた事から留学のため渡米した。
 白人による激しい人種差別に苦しめられながらも、オレゴン州ポートランドカリフォルニア州オークランドなどで勉学に励み、オレゴン大学法学部に入学、1900(明治33)年に卒業した。
 勉学心旺盛で、オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強した。
 卒業後、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学する事を目指して準備をしながら、様々の職種で働いていた。
 アメリカの人種差別と貧富の格差という不条理を目の当たりにしながら、負けん気の強神経から不条理と戦うように仕事をした。
 白人による、黒人やユダヤ人や有色人種への差別。
 豊かな白人による、貧しい白人への差別。
 同じ人間でありながら、人を動物・家畜の様に扱う。
 奴隷制度が廃止されたにもかかわず、自分と違う肌の色を持つ人間を奴隷のようにあしらう現実。
 周囲の人々に勧められ、キリスト教の影響を受け、関心を抱いた。
 オレゴン州ポートランドアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリスと出会って「隣人愛信仰」に目覚め、日本自由メソヂスト教会の河辺貞吉から洗礼を受けた。
 メソジスト派の信者で、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。
 アメリカで「人種差別」や「貧富の格差」の被害を受けた苦しい体験から、「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で望まなければならない」を信条とした。
 1902(明治35)年母親の健康状態悪化などを理由に帰国した。
 松岡は、アメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と語るほどの親米派であった。
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 親米派は、上流階級と接して、アメリカの素晴らしい所しか見ない視野狭窄の日本人である。
 反米派は、貧困階級を垣間見て、アメリカの嘘偽りを知った排他的な日本人であった。
 松岡洋右は、高橋是清らと同様に、アメリカの両面を見、矛盾する現実を肌で感じていた。
 そして、日本と同時にアメリカを愛していた。
 高橋是清は、誤解もあって、奴隷として売られた。
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 1932年 コミンテルンは、日本共産党徳田球一に、暴力的日本革命を起こし天皇とその一派を根絶やしにする大虐殺を示唆し、ピストルと活動資金を与えて帰国させた。
 日本共産党は、ソ連から活動資金を得て、日本を共産主義化する為に地下抵抗工作を活発化させた。
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 そして、キリスト教との上海系朝鮮人テロリストも日本・朝鮮・中国などで活動していた。
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 1932(昭和7)年9月 リットン調査団は、満州事変における報告書を国際連盟に提出した。
 12月8日 松岡洋右全権代表は、厳しい雰囲気のジュネーブ特別総会で、原稿なしに英語のみで「十字架上の日本」という題の大演説を1時間20分おこなった。
 「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」
 出席国の大半がキリスト教国であった為に、日本の現状を「十字架上の日本」とした事が逆効果になったといわれている。
 1933年2月24日 国際連盟は、最初から中国寄りであった為にファシスト中国側の言い分を認め、日本側の言い分を悪と否定した。
 松岡洋右全権代表は、抗議の告別演説をして退場したが、国際連盟を脱退する事には反対であった。
 昭和天皇も、日本が国際社会で孤立化する事を恐れ、国際協調の立場から国際連盟に留まる事を望んでいた。
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 ナチス・ドイツソ連は、軍国日本と戦うファシスト中国を軍事支援していた。
 ソ連は政治顧問団と人民義勇軍を派遣し、ナチス・ドイツは軍事顧問団を派遣していた。
 ナチス・ドイツは、反日派として中国と親密な提携関係にあった。
 コミンテルンは、日本と中国を全面戦争に突入させるべく、中国共産党日本共産党を使って煽っていた。
 日本軍は、抗日中国軍を通じてドイツ軍及ぶソ連軍と戦っていた。
 諸外国は、日中戦争ソ連軍が全面参戦する事を希望していた。
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 1937年8月13日 第2次上海事変。日本軍はファシスト中国軍・ドイツ軍事顧問団の連合軍と戦闘に突入した。日中全面戦争の勃発である。
 ドイツ軍需産業は、ヒトラーの許可を得てファシスト中国軍に大量の武器弾薬を売って軍事支援をおこなっていた。
 中国共産党は、ソ連コミンテルンの指示を受けて日中全面戦争を仕掛けていた。
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 国際世論は、最初から中国を侵略を受けている可哀相な国という見方をし、軍国日本は好戦的な凶悪な邪悪な犯罪国という烙印を押していた。
 国際正義を相手にして、如何なる事実を出し、如何なる証拠を出して、如何に真実を明らかにして弁明しようとも軍国主義国家日本には勝ち目はなかった。
 話し合って解って貰えるという事は、まず絶対にあり得ないという、絶望的な現実であった。
 ユダヤ系国際的報道機関は、軍国日本を悪し様に非難していた。
 ドイツのユダヤ人も、反日天皇派であった。
 特に、アメリカ系ユダヤ人の日本への憎悪は激しかった。
 上海のユダヤ系サッスーン財閥は、反日強硬派として、米英のユダヤ系国際金融資本の指示に従ってファシスト中国を支援していた。
 キリスト教会も、日本批判を強めていた。
 ユダヤ人に於いて、親日派は少数派で、反日派が多数派であった。
 天皇制度廃止論者も、ユダヤ人に多かった。
 ユダヤ人の多くが、天皇も、日本も、嫌いであった。
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 西田幾太郎は、1938年に京都大学で「日本文化の問題」という講演を行い、40年に同名の本を岩波新書から出版した。
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 ユダヤ人「我々ユダヤ人はアジア人。日本人もアジア人。白人至上主義のヒトラーは、我々の次に日本人を迫害するでしょう」
 ヒトラーが掲げるアーリア人ゲルマン民族主義には、アングロ・サクソン族のアメリカとイギリスは同族として受け入れていたが、大和民族日本民族)の日本は含まれてはいないどころか排除すべき下等民族とされていた。
 ナチス・ドイツにとって、表向きは日本との友好関係を求めていたが、実態は反日として対等関係を望んではいなかった。
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*オトポール事件
 1938(昭和13)年1月 関東軍参謀長の東条英機は、「現下におけるユダヤ民族施策要綱」を策定し、関東軍全部隊と憲兵隊及び特務機関に通達した。
 3月8日 ユダヤ人18名は、ナチスの迫害下から逃れ、ポーランドに受入れを拒否され、シベリア鉄道でソ満国境沿いのソ連領オトポール駅まで避難して来た。
 「満州国西部の満州里駅の対岸に位置するソ連領・オトポールに、ユダヤ人の難民が姿を現す」
 ソ連は、外国籍ユダヤ人の受け入れを拒否していた。
 ユダヤ人難民は、満州国への入国を希望した。
 満州国は、ナチス・ドイツへの配慮から、ユダヤ人難民の入国許可を渋った。
 日本政府は、満州国の外交と軍事に責任を持つが、属国ではなく、出入国は内政であるとの建前から判断を満州国に預けて静観した。
 ユダヤ人難民大は国際問題化していたが、何れの国もユダヤ人難民を引き取ろうとはしていなかった。
 ユダヤ人難民が目指していたのは、上海と日本であった。
 満州の極東ユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマンは、ハルビン特務機関長は樋口季一郎少将に同胞の救済を訴えた。
 樋口少将は、ユダヤ人難民に対し、部下に命じて給食と衣類・燃料の配給を手配し、満州国外交部に対し入国・出国の許可を要請し、満州鉄道に対して上海租界への移動の斡旋を依頼した。
 満州国外交部ハルピン駐在員の下村信貞は、樋口と協議した。
 満州鉄道総裁の松岡洋右は、ユダヤ人難民救出の特別列車を出す事を即決して、部下に手配を命じた。
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 松岡洋右ヒトラー如きなり上がり者が皇国に指図するなど永遠にありえない」
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 3月12日 松岡洋右「自分はユダヤ人に助けられた事がある」
 満州国は、定住しない事を条件として「5日間の満州国滞在ビザ」を発給し入国通過を許可した。
 日本軍兵士は、彼等を松岡洋右総裁が差し向けた特別列車に乗車させた。
 ユダヤ人難民は、特別列車でハルビン駅に到着した。
 満鉄職員は、ユダヤ人難民を温かく迎えた。
 アブラハム・カウフマンらは、ユダヤ人難民達を地元の商工クラブや学校に収容しで炊き出しをおこなった。
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 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣は、オイゲン・オット駐日ドイツ大使を通じて、すぐさま抗議した。
 東京の外務省は、問題は軍部にあるとして、ドイツからの抗議書を関東軍司令部に転送した。
 関東軍司令部では、対ソ戦略から防共協定を結んだナチス・ドイツから講義を受けて、即時入国を差し止めるべきとの声が上がった。
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 関東軍参謀長東條英機中将は、事情を聞く為に樋口季一郎少将を司令部に呼びつけた。
 樋口季一郎「小官は小官のとった行為を決して間違ったものではないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもないはずである。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない」
「参謀長、ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか?」
 東條英機は、天皇の御稜威から、ユダヤ人難民を助けた樋口の主張を受け入れ処分せず擁護した。
 樋口季一郎は、東条英機は筋さえ通れば話のわかる人だったと回想している。
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 日本は、ナチス・ドイツへの配慮から表だって口外しなかった。
 だが、A級戦犯東條英機松岡洋右ユダヤ人難民を助けたのは、紛れもない事実である。
 軍国日本は、親ユダヤであって、反ユダヤではなかった。
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 国際報道機関も、各国の反ユダヤ人感情から取り上げる事はなかった。
 如何に人道主義といっても、ユダヤ人難民の悲惨な身の上を気に病む国家や個人は皆無に近かった。
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 ユダヤ人難民は、樋口・東条・松岡らの脱出ルートを利用して1941年6月までに2万人以上が日本や上海に無事に辿り着いた。
 上海は、A級戦犯松井石根の影響が強かった。
 ニューヨークの合同配置委員会は、軍国日本の協力を得てユダヤ人難民達に支援金を送っていた。 
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 東条内閣・賀屋興宣蔵相(A級戦犯)は、日米全面戦争開戦によってニューヨークの合同配給委員会から送金が途絶えて生活苦に陥った上海のユダヤ人難民を救うべく、蔵相の権限でニューヨークからの送金を可能にした。
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 それは、東條英機松岡洋右満州で責任ある地位にいたからできた奇跡である。
 後に。A級戦犯板垣征四郎広田弘毅らもユダヤ人難民救済に協力した。
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 憲兵隊と特務機関は、縄張り争いをしながらユダヤ人難民を上海や日本に送り届けた。
 神戸など日本の都市は、ユダヤ人難民を暖かく迎え、苦難の疲れがとれるように日本的に持てなした。
 日本には、「和」による独自の「持てなし」方があった。
 日本国民は、ユダヤ人難民を助けた。
 日本の警察は、ユダヤ人難民に法外な値段でモノを売る不心得者を厳しく監視した。
 後日。ユダヤ人難民を助けたという日本の実績を抹消するかの様に、神戸などの都市や日本国民は無差別縦断爆撃で生きたまま焼き殺された。
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 昭和天皇と軍部は、ユダヤ人を利用する為に、ユダヤ人難民を助けた。
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 ユダヤ人難民に関わった日本人の多くは、戦犯容疑で逮捕され有罪となって処分された。
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 夏 フランスのエビアンユダヤ人救済の国際会議が開催された。
 総論でユダヤ人救済には賛成したが、各論として全ての国はユダヤ人を引き取る国はなかった。
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 12月 近衛文麿首相、板垣征四郎陸相らは五相会議を開いて、国策としての「ユダヤ人対策要綱」を決定した。
 軍国日本は、国家の責任として、正規の手続きを経ていないユダヤ人難民は不法入国者として入国を拒否するが、正規の手続きを終えたユダヤ人難民は入国を許す事にした。
 軍国日本の差別なき人権主義とは、国家・政府として国際法を厳格に実行する事であって、個人的な私情で普遍的な法の原則を恣意的に破り行動する事ではなかった。
 軍国日本は、憲法国際法を遵守する法治国家であって人治国家ではなかった。
 ユダヤ人対策要綱は、杉原千畝が直面してた正規な出国手続きを得ていないユダヤ人難民達と対面した1940年7月当時の混乱を想定していなかった。
 軍国日本は、同盟国ナチス・ドイツに従ってユダヤ人難民の受け入れを拒絶したわけではなかった。
 国際法に照らした入国取締規則の条件を満たしていない避難民は、如何なる理由があろうとも常識に考えれば無届け出国者であり不法入国者である。
 つまり、条件を満たしていない避難民を、主権国家は拒絶する権利がある。
 ユダヤ人難民の受け入れを無条件でなかった事で、日本人は薄情で、ヒトラーと同罪とされた。
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 アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスなどの国際的ユダヤ系財閥は、反日派としてファシスト中国(中国国民党)をヒト・モノ・カネで全面支援していた。
 ハインツ・E・マウル「当時、ビクター・サッスーンは日本にとって上海のユダヤ財閥の代表格であったが、日本の計画(フグ計画)には関心がなく、それどころか1939年2月のアメリカ旅行の際に反日発言を繰り返した。日本の中国大陸での冒険を終わらせるために、米英仏は日本を事実上ボイコットせよというのである。日本の陸戦隊本部は、サッスーンは自分の権力と影響力を失いたくないので日本軍を恐れているのだと見ていた。」
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 1939年 松岡洋右満鉄総裁は、国際情勢の急激な変化に即応して満州経営を行う為に、調査部を拡充して大調査部に再編した。
 当時、日本最大の調査・政策研究機関であった。
 部員数、2,125人。予算、800万円(現在の価格で約43億円)。
 共産主義弾圧から逃れた左翼から国粋主義者軍国主義者の右翼まで、有能な者を調査部に加えた。
 満鉄調査部は、1940年に極秘資料「支那戦力調査」をまとめ、軍部の行っている都市攻撃占領という重点戦略では日中戦争を解決でず、解決するのは軍事ではなく政治であるとの結論を出した。
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 満州国に入国したユダヤ人難民は、1938年に245人、1939年に551人、1940年に3,574人。
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 軍部は、ユダヤ人難民を利用する為に「ふぐ作戦」を立案した。
 軍人の樋口季一郎東条英機、外交官の松岡洋右らは、軽薄な人道主義者ではなく冷徹な現実主義者として、国益の為にユダヤ人難民を助けたに過ぎない。
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 松岡洋右は、ソ連同様にドイツを嫌い、スターリン同様にヒトラーを信用していなかった。
 「ドイツほど信用できない国はない。自国の利益の為なら平気で他国を犠牲にして裏切り、迷惑をかけることなど屁とも思っていない。その外交姿勢は徹頭徹尾利己的であり、ドイツと関わった国の外交は例外なく混乱を余儀なくされる」
 アメリカ連携論者である松岳洋右は、アメリカとの戦争を回避する為に、意に反した正反対の極論を吐くことも厭わなかった。その為に誤解され、嫌われ、多くの敵を作った。
 「アメリカとだけは戦ってはならない。アメリカと戦えば日本は100%負ける。
 昭和天皇三国同盟を成立させる事に不同意であっても、軍部や右翼・右派やマスコミそして国民世論が三国同盟成立を望んでいた。
 松岡洋右外相は、国内の三国同盟待望論圧力は変えられないとして、ナチス・ドイツの戦争に主体性を失って引き摺られないように予防線を張る事に、交渉方針を切り替えた。
 参戦に関する「自己決定権」を保持する事。
 日本が戦争に捲き込まれる恐れがあると判断した時は、自主判断で同盟から脱退する自由を認めさせる事。
1,同盟を攻守同盟ではなく防御同盟にする。
2,第三国からの攻撃の意義をきわめて狭く解釈する事について、ドイツの了解を取り付けた。
3,攻撃の有無、及び同盟援助の時期、及び方法の決定権を、当該国独自の判断に判断にまかせる。
4,同盟が日本を戦争に引き込まれる恐れがあると認めたとき、日本は同盟を脱退する事ができる、という事についてドイツの了解を取り付ける。
 松岡洋右外相は、ヒッラー、ナチス・ドイツアメリカは雌雄を決する為に戦争をするであろうし、その時、日本はその戦争に捲き込まれてはならないと考えていた。
 アメリカの厭戦気分を強く持つ国民世論を味方にするべく、多民族国家という特性を利用するべくユダヤ系、アイルランド系、アフリカ系との協力関係を築くよう駐米外交官に命じていた。
 アイルランド系は反イギリスとして、アフリカ系は反白人として、日本との友好関係を受け入れた。
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 ソ連コミンテルンは、日米全面戦争を起こす為に、中国共産党や日本人共産主義者を総動員していた。
 ルーズベルト政権内部には数百人の共産主義者が、日本との戦争勃発の為に活動していた。
 反天皇反日ユダヤ人達は、彼らを支援していた。
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 アジアに逃げてきたユダヤ人難民を助けたのは、軍国日本であってファシスト中国=国民党でもなければ、ましてや中国共産党などではなかあった。
 中国共産党は、今も昔も虐殺を行う無法集団であった。
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 A級戦犯とは、「戦争を始めた罪」であって、「捕虜虐待の罪」でもなければ、「民間人虐殺の罪」でもない。
 平和に対する罪であって、人道に対する罪ではない。
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 戦争犯罪国家日本は、連合軍の軍事占領から独立する条件としてサンフランシスコ講和条約東京裁判を正当裁判であったと受け入れた。
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 世界の常識は、ユダヤ人難民をホロコーストから助けたA級戦犯達の人道的貢献を認めないどころか、靖国神社に合祀する事さい。
 A級戦犯達には、国家の指導者として戦争を始めた「平和に対する罪」はあっても、人としてホロコーストを行った「人道に対する罪」はない。
 A級戦犯東條英機は、東洋のヒトラーではない。
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 A級戦犯達は、戦争で敵兵と殺し合いをしても、戦場以外では人として人道的道徳的であろうとした。
 ユダヤ人難民を助けたのは、人として当然の事であり、当然の行為であったから自慢をしなかったし、人道貢献を主張して東京裁判で助かろうとはしなかった。
 それが、靖国神社の心であった。
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 中国や朝鮮では、一つの恩義は一度恩返しをすればよく、日本の様に何度も恩返しはしない。
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 日本の善意は、世界では通用しないし、評価されない。
 それどころか、憎まれて処刑される。
 日本の相手を思って行う配慮や善意は、するだけ無駄である。
 日本人が善かれと思って行った行為は、正しく評価される事なく完全否定された。
 日本人は、無償で、無報酬で、心一つで、何をやっても報われる事はなかった。
 それでも、その手を止める事は日本人としてできなかった。
 「惻隠の情」
 「やむにやまれぬ大和心」
 日本民族的日本人は、弱い者イジメは「男の恥」として嫌い、喧嘩する時は必ず自分より強い相手と喧嘩した。
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 現代日本人は、ユダヤ人難民を助けたA級戦犯東條英機と共に松岡洋右を嫌っている。
 アメリカと中国と韓国・北朝鮮は、靖国神社A級戦犯東條英機松岡洋右を神として祀る事に猛反対し、靖国神社問題を解決したければユダヤ人難民を助けたA級戦犯達の霊魂を捨て去るように要求している。
 靖国神社廃絶要求に同調する日本人が、多数存在する。
 靖国神社問題とは、反ユダヤ主義に基づいた人種差別問題でもある。
 靖国神社を否定する者達は、反ユダヤの人種差別主義者として、この事を十分理解して反対している。
 A級戦犯達は、昭和天皇の気持ちを察してユダヤ人難民を助けた。
 昭和天皇戦争犯罪者として責任を追及する者も、また、反ユダヤ主義である。
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 セントルイス号事件。
 2016年4月23日 YAHOO!ニュース「(佐藤仁 | 学術研究員/ジャーナリスト)
 米国ホロコースト記念博物館:1930年〜40年代の米国の新聞記事を収集:新聞紙の読み方の指導も
 米国ワシントンD.C.にあるホロコースト記念博物館では、全米の学生や先生らに対して「Citizen History Project(市民の歴史プロジェクト)」の一環として、1930年代〜40年代に欧州でのナチスドイツによって実行されたユダヤ人やロマの大量虐殺であるホロコーストに関する記事を集めている。
 全米の学生、先生から当時のアメリカ国内の新聞記事を収集
 1993年にオープンした米国ホロコースト記念博物館は2018年に開設25周年を迎えるが、それに向けて「History Unfolded: U.S. Newspapers and the Holocaust」を立ち上げて、当時のアメリカの新聞がどのようにホロコーストを伝えていたかを確認するために、当時の新聞記事の収集を全米の学生や先生らに呼び掛けて、ネットで収集活動を行っている。既に48州から1,000以上のアメリカ国内の新聞記事が集まっている。全米から集まった記事はテーマや事件などで分類されてネットでも公開されている。ホロコーストの生存者もだんだん少なくなっていき、ホロコーストが歴史から忘れ去られないように、当時のアメリカの新聞記事を収集することによって、歴史のアーカイブとして残そうとしている。
 新聞記事の読み方を知らない現在の若者に「新聞記事の読み方の指導」も
 ホロコーストが猛威を振るった1930年代〜40年代は、当然インターネットもスマホも存在していない。そのため新聞は紙の記事だ。いわゆる新聞紙だ。ところが、現在の学生はスマホでネット経由でのニュースかテレビのニュースにしか触れていないことから、新聞紙の記事の読み方を知らないそうだ。そのためホロコースト記念博物館のDavid Klevan氏は「"How to Read Old Newspapers from the 1930s and 1940s"」(「1930年代〜40年代の古い新聞記事の読み方」)というページを用意して、紙の新聞紙の記事の読み方やスキャンのやり方の解説を行っている。
 ユダヤ人救出には消極的だったアメリ
 当時のアメリカにはユダヤの難民の受け入れを歓迎しない空気が強く支配しており、大統領らもホロコーストの存在を知っていたが、犠牲者となっているユダヤ難民の受け入れには消極的だった。当時のアメリカは失業問題、ナショナリズム孤立主義を主張するアメリカ第一主義)、根強い反ユダヤ主義などがあり、こうした要因が、アメリカ国内でユダヤ人難民の入国禁止を強く働き掛ける素地を生み出していた。そしてルーズベルト大統領はホロコーストの事実は情報として伝わっていても、国際問題化していなかった。
 1939年5月にはドイツ系ユダヤ人難民900人以上で満員のセントルイス号をアメリカへの入国を許可しないで、ホロコーストの待っている欧州に追い返したことだった。結局ヨーロッパに戻ったセントルイス号のユダヤ人たちはフランス、オランダ、ベルギー、イギリスに引き取られた。しかし1940年以降ガス室への道を免れることができたのはイギリスに引き取られたユダヤ人(約280人)だけだった。
 またアメリカ国内の反ユダヤ主義は1938年から1945年にかけて最高潮に達した。世論調査によれば1930年代末には、アメリカ人の60%がユダヤ人には「不快なところがある」と感じ、50%近くが「ユダヤ人はアメリカで権力を持ちすぎている」と考えていたそうだ。そして20%が反ユダヤ主義のキャンペーンに共鳴すると答えていたそうだ。これらの事実もまた市民の歴史のアーカイブの1つである。
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 2017年1月29日 YAHOO!ニュース「(佐藤仁 | 学術研究員/ジャーナリスト)
 ホロコーストの悲劇、米国に入国拒否された「セントルイス号」乗客のユダヤ人の運命を辿ったツイート
 ナチスドイツによる600万人以上のユダヤ人やロマらを大量虐殺したホロコーストの象徴であるアウシュビッツ絶滅収容所が解放されたのが1945年1月27日。そして1月27日は「国際ホロコースト記念日」だ。
 セントルイス号乗客の運命をツイート
 2017年1月、アウシュビッツ解放72年を記念してユダヤ人の教育家Russel Neiss氏がセントルイス号の乗客らのためにTwitterのアカウントを作った。セントルイス号は、当時のドイツとアメリカを結ぶ船で、この船に乗って欧州から約900人のユダヤ人がアメリカに逃れようとしたが、入国を拒否されて、結局セントルイス号は欧州に戻らざるを得ず、多くのユダヤ人がナチスによって迫害され、そのほとんどが殺害された(詳細は下部参照)。
 Twitterのアカウントも「St. Louis Manifest」で日本語に訳すと「セントルイス号の乗客名簿」だ。このアカウントではセントルイス号の乗客でナチスドイツの犠牲になったユダヤ人たちの運命をあたかも本人がツイートしているかのように辿っている。当時は当然Twitterもインターネットもなかった。セントルイス号の乗客でナチスの犠牲となったユダヤ人たちの運命が72年経って、Twitterで全世界に公開されている。犠牲者たちの写真も多く残っており、以下のような悲劇的なツイートが約250人分掲載されている。
 「私の名前はヴェルナー・シュタイン。1939年にアメリカへの入国を拒否されました。そしてアウシュビッツで殺害されました。(My name is Werner Stein. The US turned me away at the border in 1939. I was murdered in Auschwitz)」というように、犠牲者の名前とその後の運命を辿るツイートが続いている。犠牲者の写真が残っている場合は写真もある。モノクロやセピアの写真は家族や友人らと一緒に平和な時期に撮影されたものばかりだ。犠牲者の中には小さな子供も多く、ナチスに迫害されていなかったら、まだ存命だった人も多いだろう。
 セントルイス号乗客の運命
 1939年5月に欧州からのユダヤ人で満員のセントルイス号を追い返したように、アメリカにはナチス支配地域からのユダヤ人難民を歓迎する空気はなかった。どこの国もユダヤ人を受け入れようとしなかったため、セントルイス号はヨーロッパに戻り、ユダヤ人たちはフランス、オランダ、ベルギー、英国に引き取られた。そして1940年以降に大量虐殺を免れることができたのは英国に引き取られたユダヤ人だけだった。下記に『ホロコースト全史』(マイケル・ベーレンバウム著、芝健介監修)にその様子が描写されているので、長文だが抜粋し引用しておく。
 セントルイス号は、ハンブルグアメリカを結ぶ豪華船だった。1939年5月13日、セントルイス号は936名の乗客を乗せて、ドイツからキューバに向かった。6人を除いて乗客の全員がユダヤ人だった。「水晶の夜」以来、何十万人ものユダヤ人がドイツを出国する方法を探している中で、彼らは幸運だと羨ましがれ、数日のうちに自由の地を踏めるものと思われた。
 ハバナ入港が間近になると、乗客たちの多くはドイツにいる親戚たちに「無事についた」という電報を打った。だが5月27日にセントルイス号が港に入ると、キューバ政府はビザ発行を拒否した。船がドイツを出航する前日、キューバ大統領は、乗客のキューバ上陸許可を取り消していたのである。この事実は船会社には伝えられていたが、セントルイス号の船長の耳にまでは入っていなかった。
 入国するには乗客1名につき500ドルの分担金が要求された。しかし船がハバナ港に接岸すると、分担金の総額は100万ドルに跳ね上がった。海外のユダヤ人の救援と社会復帰を助けることを目的としたユダヤ人組織、アメリカ・ユダヤ人合同配置委員会はジレンマに陥った。900人のユダヤ人のためにそれほど莫大な身代金を払うという前例を作れば、他国の政府も同程度かそれ以上の現金を要求してくる恐れがあったからである。ユダヤ人と非ユダヤ人の双方から要求をのむようにという圧力がかかる中で、合同配置委員会は交渉を続け、新聞、ラジオは乗客の運命を連日のように報道した。
 緊急の誓願アメリ国務省に提出されたが、国務省は干渉しないことを決めた。乗客たちはルーズベルト大統領に電報を打ったが、返答はなく、ホワイトハウスも難民問題について沈黙を守った。ニューヨークでは合同配置委員会がコロンビア、チリ、パラグアイ、アルゼンチンから思わしくない返答を受け取っていた。
 6月5日、24時間以内に453,000ドルを支払えばキューバに難民を上陸させるという申し出もあった。だが合同配置委員会は24時間以内にそれだけの金額は用意できなかった。結局セントルイス号はハバナを去り、ドイツ人船長グスタフ・シュレーダーは合衆国に対して寄港を要請したが、努力は徒労に終わった。船はマイアミの明かりを見ながら、フロリダの海岸沿いを航行した。
 そして合衆国海岸警備隊が海に飛び込んで密入国する者が出ないかと監視する中、セントルイス号はヨーロッパに戻った。船内では自殺者が出ることを防ぐためにパトロールが行われていた。その後、セントルイス号の悲劇は一転して幸福な結末を迎えたかに見えた。ベルギー、オランダ、イギリス、フランスが乗客を受け入れたのである。だがその数か月後、ナチは西ヨーロッパの諸国を占領した。このためセントルイス号の乗客のうちホロコーストを免れたのはイギリスに上陸した288名だけであり、その他の乗客で終戦まで生き延びた人はほとんどいなかった。
 出典:マイケル・ベーレンバウム著、芝健介監修『ホロコースト全史』創元社、1996年 PP123-126」
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 2月7日 YAHOO!ニュース「(佐藤仁 | 学術研究員/ジャーナリスト)
 米国ホロコースト博物館、SNSで「#AskWhy」キャンペーン「なぜ起きたのか?問い続ける」
SNSを活用して「なぜホロコーストが起きたのか?を問うことをやめない」
 第2次大戦時にナチスドイツによって、ユダヤ人やロマ、政治犯など約600万人が殺害された。いわゆるホロコーストだ。1993年に創設された米国のホロコースト記念博物館は今年で25年目を迎える。創設に尽力したホロコーストの生存者で、1986年にノーベル平和賞を受賞したエリ・ヴィーゼル氏は「ホロコースト記念博物館は答えを見つけるためにあるのではない。問いを行うためにあるのだ」と語っていた。
 同博物館でディレクターを務めるSara Bloomfield氏は、博物館開設25周年を記念してSNSを活用したデジタルキャンペーン「"Never Stop Asking Why"(なぜホロコーストが起きたのか?を問うことをやめない)」を開始したことを明らかにした。
 目的は若い世代にSNSを通じてホロコーストの歴史を学んでもらうため。「どうしてホロコーストが起きたのか?どうしてそのようなことが可能になったのか?現代社会に問うべきことは何か?」といったことを学んでもらいたいとSara Bloomfield氏は述べている。米国のホロコースト記念博物館では自身のサイトだけでなく、FacebookTwitter、インスタグラム、YouTubeGoogle+PinterestとあらゆるSNSで情報発信を行っている。
「考えられないようなことが、いつでも起こりうる」
 そしてSara Bloomfield氏は「SNSで『#AskWhy』を付与して、ホロコーストの歴史について疑問に思っていることを呟いて欲しい」と呼びかけている。SNSでつぶやくことによって、その疑問を友人や知人と共有したり、世界に向けて情報発信することができる。
 また同氏は「博物館のミッションは『考えられないようなことが、いつでも起こりうる』ということを人々に思い出させることだ。人々は社会での自分自身の役割を考えることによって、将来は過去よりも良いものを作ることができる」と述べている。
ホロコーストがなぜ起こったのか?」その問いかけもSNSで発信してもらおうとしている。ホロコーストの生存者は年々減少し、証言できる人の高齢化も進んでおり、直接話を聞けることもなくなってきつつある。
 SNS以外にも、ホロコーストの記憶の継承に様々なデジタルの活用も進んでいる。当時の資料や証言者の記録のデジタルでの保存、人工知能(AI)やホログラフィー技術などデジタルを活用して、ホロコースト生存者らの声を後世に語り継ごうとしている。
 ▼米国のホロコースト記念博物館では動画でも「なぜホロコーストが起きたのか?を問い続ける」ことを訴えている(米国のホロコースト記念博物館)
 エリ・ヴィーゼルホロコーストの記憶について以下のように語っている。
 「覚えておいてほしい。人命を救うのは難しいことではなかった。見捨てられた子供に情けをかけるのに、雄々しくなる必要も夢中になる必要もなかった。ただドアを開けるだけ、パン一つ、シャツ一枚、硬貨一枚、投げてやるだけでよかった。同情するだけだ。あるいはアメリ国務省がビザを増やしてくれるだけでもよかっただろう。当時は人間らしい気持を持ち続けるだけで、もっと崇高な人間になれたのだ。
 ホロコーストを可能にしたのは、人類を敵対するグループに分けようとした時の努力が成功したためである。高齢者と若者、金持ちと貧乏人、同国人と外国人、友人同氏、そして全ての人がユダヤ人と、敵対するように仕向けられた。だからホロコーストの記憶は、全人類が一致させるためのものでなければならない。
ホロコーストの意味を学ぼうとするものが、それによって分裂するなら、我々はその呪いの重みを背負い続けなければならない。だが、もし分裂を退け、ユダヤ人だけが経験した悲劇ではあったが、普遍的意味合いがあることに気付くなら、我々の子供たちには約束された安息の地、安住の地があることを、その記憶の中に見出すだろう」
 出典:キャロル・リトナー、サンドラ・マイヤーズ編・倉野雅子訳『思いやる勇気―ユダヤ人をホロコーストから救った人びと』サイマル出版会、1997年 PP221-222」
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 11月9日 第45号 バンクーバー新報「太平洋を渡った杉原ヒ゛サ゛
 連載22 ユダヤ系避難民に閉ざされたドア 冷たかったカナダ政府の対応
 1940年・41年、日本に着いた杉原ビザ受給者にとって、最終目的地へのビザ入手は至難であった。カナダも厳しく門戸を閉ざしていた。
 ■避難民のための会議出席を渋ったカナダ
 第二次世界大戦をはさむ1930年代から40年代中頃までのカナダ政府のユダヤ系避難民への対応は、先住民への差別・虐待や、真珠湾攻撃直後からの日系カナダ人への排斥などと並び、カナダの歴史上、暗い影の部分である。この期間の連邦政府排他主義は、二つの国際的な出来事を通して象徴される。一つは「エビアン会議」。
 1930年代、ナチスドイツの台頭に伴いユダヤ系避難民が増加。38年3月、米国は避難民の受け入れに関する国際会議の開催を世界に呼びかけた。避難民受け入れに気が進まないカナダ政府は参加表明を引き延ばす。4月下旬、ようやく代表団派遣を決定。「発言は最小限に。いかなる約束も責任も引き受けないように」と申し合わされた。
 同年7月、フランスの避暑地エビアンで開催された会議では、参加した32カ国の大半が、カナダ同様、避難民の受け入れを増やさないとの言い訳に終始した。
 ■上陸懇願を拒否
 カナダがユダヤ系避難民の窮状に冷淡であったことは、「セントルイス号事件」での無干渉でも説明される。
 1939年5月、937人を乗せたドイツ客船セントルイス号は、ハンブルクからキューバに向かう。乗船客の大半がナチスドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人で、キューバ上陸許可証を持っていた。しかし、船がハバナ港に到着するまでに同国政府はその許可証を無効とし、船の入港を拒否。数日後、30人ほどは上陸できたが、900人以上は乗船したまま、やむ無く米国へ向かった。だが米国も入港拒否。ユダヤ人を乗せた船はヨーロッパに引き返すことを余儀なくされた。そのうちの多くの者が、数カ月後、ナチスドイツにより捕らわれ、強制収容所で露と消えた。
 セントルイス号の船長は、キューバや米国に入港を拒否された時、南北アメリカの他の国々にユダヤ人乗船客の受け入れを懇願した。しかし応じる国はなかった。カナダもその一つだった。国内から救援の声も上がったが、マッケンジー・キング首相は、断固として無視するようにという政府高官からの助言もあり、沈黙を保った。
 ■カナダ移民法での避難民受け入れ
 カナダの移民法の最初の制定は1869年。以来、人口や経済の動向を見ながら、修正と変更が繰り返された。移民入国者数は、1913年の40万人がピークで、翌14年からの第一次世界大戦、その後の世界恐慌の影響で低調が続く。
 カナダ統計局によると1931年から39年までの移民入国者数は約14万7千。そのうちユダヤ系は約5千と関連文献で報告されている。全体の3パーセントほどでしかない。カナダ国内での反ユダヤ感情や、当時はまだ避難民受け入れ方針がカナダにはなく、財産を剥奪されたユダヤ系避難民が一般移民と同様の条件下で審査されたことなどが背景にある。
 第二次世界大戦中の1941・42・43年の移民入国数はそれぞれ1万人にも満たず、その中でユダヤ系避難民の入国はさらに難しかった。この間、ヨーロッパではホロコーストが進行。ユダヤ人受け入れの人道的な対応が一番欲しい時期であった。
 日本では、1940年秋から41年春、ポーランドユダヤ人を主とする杉原ビザ受給者の多くが、最終目的地からのビザを得ようと東京、横浜、神戸の各国公館を訪ね回っていた。
 一方、英国にあったポーランド亡命政府、日本とカナダのポーランド大使館は、カナダ政府にもポーランドユダヤ人の受け入れを切々と訴える。だがカナダ側では、ポルトガルに追い込まれたユダヤ系避難民の受け入れ問題も持ち上がり、数や対象者の選考を巡って状況は紆余曲折。キング内閣の対応は冷たかった。
 当時、あるジャーナリストが政府高官に、戦後のユダヤ系避難民の受け入れ数を尋ねたところ、「None」(無し)、取り繕うように「is too many」 (多数は)と返ってきた。受け入れが念頭になかったことがうかがえる。
 ■カナダ入国への道
 日本に滞在した杉原ビザ受給者でカナダ入国を果たした人々は、カナダの「戦中のみ有効」というビザを次のような立場で取得した。
・農業従事者として。
・カナダに住む親戚や友人を保証人として。
・避難民受け入れ数1000の枠で。
・専門家向けの特別枠で。
・英国軍ポーランド人部隊に志願し、カナダで軍事訓練を受けるため。
 ビザ受給者は数年後、それぞれカナダ永住ビザを取得した。その中の一組、ナテック・ブルマンと妻ゾシア(当連載1回)の長男でブリティッシュ・コロンビア大学名誉教授のジョージ・ブルマンさんはこう語る。
 「生物工学を勉強した父は、東京のカナダ公館で専門家25人を対象とする入国ビザを得ました」。だが、当初それはナテック一人分だった。翌日、ゾシアは自ら同館に出向き館員を説得。夫婦でのカナダ渡航がかなった。
 「両親はカナダが二人分の入国ビザを発給してくれたことにとても感謝していました」とブルマンさん。
 1945年に戦争が終了しても、カナダの排他的移民政策はしばらく続いた。人口増と労働力増強の必要を迫られ、キング首相が移民制限緩和の声明を読み上げたのは1947年5月であった。
 ●参考文献
? Irving Abella and Harold Troper, None Is Too ManyーCanada and the Jews of Europe 1933-1948, University of Toronto Press, 2012.
? Claude Belanger, Why did Canada Refuse to Admit Jewish Refugees in the 1930's?, The Quebec History Encyclopedia, Marianopolis College, 2006. fculty. marianopolis.edu/c.belanger/quebechistory/readings/CanadaandJewishRefugeesinthe1930s.html
? ヴァレリー・ノールズ著、細川道久訳、『カナダ移民史 多民族社会の形成』、明石書店、2014年。(取材 高橋 文)」
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