関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。
・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・
東日本大震災復興と日本らしさを捨てた日本建築。
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キリスト教世界では、災害に遭った被災民を救済するのは、政治権力の王侯貴族や政府ではなく、宗教権威のキリスト教会の役目であった。
日本では、被災民を指導的立場で救済するのは、幕府や大名などのお上・御公儀ではなく、神社や寺院でもなかった。
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「天災は忘れた頃にやってくる」
休む暇のない、気を抜く暇のない、天変地異が頻繁に襲い来る日本列島。
その中で生き抜く心構え、気持ちの有り様として日本人気質が生まれ、日本人の生き様を形成された。
「運命は自分で切り開く思い定め、運を天に任せ、自己責任で自分が判断して自らが動く、結果は宿命として受け入れた」
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自然災害多発地帯の日本では、100〜150年おきに巨大地震が発生し大津波が起きていた。
数十年おきに大型地震が発生するや、それに誘発されて数年後に巨大地震が連動して数カ所で発生した。
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2018年11月号 時空旅人「小泉八雲が見た天災と日本人
〜〝A Living God〟と『稲むらの火』〜
小泉八雲が描いた短編『生き神様』は『稲むらの火』をはじめさまざまな形で、現代に生きている。天災を物語として受け継ぐことの意味について考える。
談/池田雅之
『浜口は老体に鞭打って山の斜面にある稲むらに火を放ち始めた』(『生き神様』より)
『A Living God』は何のために描かれた物語なのか?
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが残した作品に、『生き神様(A Living God)』という短編がある。浜口五兵衛という人物が取り入れたばかりの稲むらに火を放って、村人たちに大津波を知らせ、多くの命を救った物語である。〝Tsunami〟という言葉を世界的に有名になったのも、この短編がきっかけだった。
八雲がこの作品を執筆したのは明治29年(1896)の明治三陸地震津波の後だ。この津波は2万2,000人もの犠牲者を出した。この災害にヒントを得て安政南海地震(嘉永7年・1854)における浜口梧陵(ごりょう 物語では五兵衛)という人物の逸話をモチーフに物語を書いた。
『和歌山県の広村(現・広川町)を舞台にした作品で、大分評判になりました。あの地域には昔から地震や津波が多いことが、地域の人々の頭のなかにはインプットされていました。もうひとつ大事な点は八雲の作品と史実にはかなり隔たりがあるということです。歴史学者からすると疑問もあるようですが、そもそも八雲は、これをフィクションとして書いているのです。
つまり強調したい点は、彼にとっての真実なわけです』(池田氏、以下同)
八雲は執筆の際に大幅に変更を施した。例えば、主人公の浜口氏は35歳の壮年だったが、老人にした。地震は激震だつたが、長くゆっくりとした揺れにした。さらに物語の最後は、浜口氏が神社に生き神様として祀られたことになっているが、実際には固辞しているのである。
『日本には生きた人間が神として崇められる伝統があります。八雲はなぜ浜口を生き神として神社に祀ったと書いたのか。これはもともと西洋人に向けて英語で書かれた物語です。つまり、日本人の神概念や信仰について伝えたかった。人間が生きたまま神になるという考え方は、西洋の世界にはないわけです。そうしてもうひとつは、後にこの作品を元にした「稲むらの火」にも描かれるように、日本人の報恩感謝の念、自然から恵みを受けたり、仲間から頂き物をしたりといった事に対しての〝美徳の報恩〟の意識が、浜口梧陵のなかにあった。だから災害に直面した時に、その報恩を人々に還元したい気持ちが働いた。いざという時に自分の一番大事にしているものさえ投げ出す、そうした日本人の心根に八雲は感動したんですね。八雲はこうした自己犠牲の精神が一番好きなんですよ(笑)』
昭和9年(1934)、『生き神様』に感銘を受けたとされる中井常蔵という小学校教員がいた。彼が文部省の教材公募に応募し、入選した作品が防災教材として知られる『稲むらの火』である。『生き神様』のエッセンスをさらに凝縮した短編で、昭和12年から10年間にわたって小学国語読本(5学年用)に掲載され、今日でも防災教材として活用されている。
『しかし「生き神様」は、読み方によっては防災の話というだけでなく、日本人の神の概念を西欧に向けて説明した作品として読む人もいるでしょう。しかし私たちの多くは日本の古い共同体の良さや日本人の報恩感謝の気持ちを表現したものとして読んでいます』
小泉八雲が出会った日本の姿とは?
明治23年(1890)4月4日、小泉八雲は横浜へと降り立った。その時すでに40歳。資本主義によって競争社会・合理主義が到来していたアメリカで、生きていくことに精一杯であった人間のひとりだった。
『ハーパーズ・マンスリーという雑誌の記者として日本に派遣されるわけですが、実際には日本に住みたい、研究したいという思いがあったようです。東京帝国大学にいたバジル・ホール・チェンバレンという先生に就職の斡旋を頼んでいます。8月くらいまで横浜を拠点にして、鎌倉などの神社仏閣を回りました。それが日本体験の始まりでした。「日本の面影」という作品のなかに「鎌倉・江ノ島詣で」という紀行文があるのですが、お寺回りをしているんですね。円覚寺や建長寺、鎌倉の大仏などを訪れました。その時、大仏様を見て非常に感動します。そのお顔には日本人の精神性が現れている。穏やかで、しかも色々な苦難に耐えてきたという表情。大仏様との出合いが彼にとって最初の日本の発見だったろうと思います。このテーマは後の「日本人の微笑」という作品につながります』
八雲は来日する前から日本や東洋の世界に憧れていた。母親はギリシャ人、父親はケルト人、どちらも多神教の世界観を持つ人々である。そうしたDNAに刻まれた血筋が影響したのか、キリスト教に対する反発心を幼い頃から抱いていた。またアメリカ時代には、仏教についても勉強をしていたようである。
『八雲に言わせると日本人の微笑みは文化である。生きる作法であり、マナーであると言うんですね。自分のて亭主が亡くなった葬式に来てくれた友人や知人を、微かな笑みで未亡人が迎えるというのが、西洋人には理解できない。しかし、それは来て下さった方への感謝の気持ちであり、相手の立場に立って物事を考えるという意識ですね。そお微笑と同じものを大仏様の表情に読み取ったんです。大仏様は決して頬笑んでいるようには見えないけれど、心の平静さや静謐さのようなものを感じたのです』
災害を通じて発揮される日本人の力
先述のチェンバレンが古事記を英訳し、アメリカ時代に八雲はそれを読んで日本への憧れを募らせていた。そして1884年にニューオリンズ万博が開催されると日本の調度品などが並ぶ展示に通い詰めるようになった。そこで欧州各国を視察していた日本の文部省官僚・服部一三と出会い、親しくなったことが来日への大きなきっかけとなった。
『13歳の時にイギリスのダラムにあるセント・カスバール・カレッジというカトリック系の学校に入学します。厳格な宗教教育に反発するのですが、多神教的なケルトやギリシャの両親の血筋が大きいと思います。自然信仰に対する感性が遺伝子のなかにあるんですね。そして16歳の時に学校で遊んでいる時に左目を怪我して、失明します。彼の受難のシンボルのようになっていますが、西洋世界以外のところに行きたいという思いと同時に、自己実現ができる場所を探していたと思います。それが日本でした』
八雲はその後、島根県尋常(じんじょう)中学校及び師範学校の英語教師として松江へ赴任。身の回りの世話として雇われた小泉セツと暮らし始める。
『東日本大震災の時にアメリカのメディアは、暴動や盗難がほとんどないところを評価しました。それは日本人が共同体のなかで助け合うという「生き神様」の世界に通じるところがありますよね。天災というのは、日本列島のどこでも起こりうるけれども、それによってかえって日本人の美徳が発揮されると八雲は書いています。彼は明治27年(1894)に「日本の面影」という紀行文学作品を発表しますが、旅をしながら、自然や人々と触れ合い、感動したものを描きました。しかしセツさんと結婚して、子供をもうけることによって、日本人の内面を描くようになります。それが「生き神様」を収録した1897年の「仏の畑の落穂(Gleanings in Buddha−Fields)」という作品集です』
天災を物語として語り継ぐ意味
では、日本で繰り返される災害を、あえて物語として伝え遺そうとする意味とは何だろうか。
『防災のためのノウハウは必要ですが、物語に別の意味があると思います。例えば柳田國男の「遠野物語」にも津波の話が出てきます。実際にどうやって逃げたら良いかということではなく、親子が生き別れたり、子供をなくしたりする感情、哀しみ、喪失感を文学なら伝えられる。どこで何人が亡くなったという数字だけでなく、その悲しみをどうやっていやすか、あるいは死んだ魂をどこに行くのか。東日本大震災で色々な幽霊話が生まれましたが、理性で割り切れない人間の思いがあるわけです。人間の切実な思いやその記憶は、物語りを通じて、私たちの心と魂に刻まれていくのでしょう。そうした物語がかろうじて忘却と風化から私たちを守ってくれているように思います。「古事記」や「遠野物語」などは人間の記憶喪失防止のための智慧とヒントが含まれており、過去から現在、未来へとつながっていく人間の生命力を感じ取ることができます。物語の力とは、人間の生き抜く力、生命力と言い換えても良いと思います。物語作家・小泉八雲の功績は、彼の作品が、人類の物語と真実とにいかに働きかけてきたかにあると思っています』」
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日本民族日本人は、古文書による物語の民族であって、科学による歴史の民族ではなかった。
現代日本の歴史教育は、西洋的科学の歴史を採用して民族由来古文書の物語を切り捨てている。
その傾向は、高得点で卒業した優秀・有能な人材である高学歴出身知的エリートに強い。
真の日本民族日本人は、自然災害多発地帯・複合被害地帯を生き残るべく、多足的に立って生きる為に古文書の物語と科学的の歴史の何れかに偏らず均等に並立させていた。
それが、花鳥風月と虫の音、苔と善い菌の自然風景文化である。
日本民族日本人の物語とは、光り輝く命の讃歌というよりどことなく薄暗い死の影を引きずっているが、陰湿・陰気ではなくむしろ諦めた明るさを持っている。
つまり、生から死を見つめて忌み嫌うのではなく、死から生を見つめて安堵して喜ぶと言う事である。
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個人の資産や権利を優先する現代日本では、如何なる理由があれ、他人の稲むらに許可なく火を付ける事は犯罪である。
ましてや、津波が起きなければどうなったことやら。
個人の権利が最優先される綺麗事は現代日本では、通用しない。
如何なる非常時や災害さらに有事においても、個人の権利は優先される。
昔の美徳や行為は、現代では通用しない。
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江戸時代の古き良き日本を潰したのは、明治の近代歴史教育(薩長史観・西洋キリスト教史観・儒教史観)ではなく、1946年以降の戦後教育、アメリア・プロテスタン系キリスト教史観とマルクス主義(共産主義)史観=東京裁判史観そして1980年代後半の日本人極悪非道な凶悪史観=自虐史観である。
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西洋キリスト教文明世界で、人を助けるのは絶対神とその子である救世主(メシア)の奇跡・恩寵・恵みであり、絶対神・救世主に代わって救済を行うのが教会の役目であった。
中華儒教文明世界では、人を助けるのは天・天帝のこである天子の徳であり、救済を怠った天子は徳を失ったとして殺された。
日本神道文明世界(日本仏教・日本儒教・日本道教その他)では、人を助けるのは天皇から唯一の統治者として認められた共同体内の実力者で、人を助けるのは共同体を構成する人であった。
天災は、キリスト教世界では絶対神であり、儒教世界では天・天帝であり、日本神道では八百万の神々であった。
天皇とは、福禍をもたらす八百万の神々と人の共同体をつなぐ唯一の祭祀王である。
反宗教無神論・科学至上主義の共産主義者(マルクス主義者)にとって、天災は人民革命を起こす好機であって被災者の救済は眼中にない。
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絶対価値観の西洋キリスト教・中華儒教・共産主義には、必然と奇跡・恩寵だけ存在し偶然・まぐれはなく、生きるには必ず「ハッキリ」とした意味があった。
相対価値観の日本神道には、偶然・まぐれと必然・奇跡が並立して存在し、生きるも死ぬも運次第で深い意味はなく、定められた寿命次第であった。
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1820(文政3)年6月15日 濱口儀兵衛(雅号は梧陵=ごりょう)は、醤油醸造業(現ヤマサ醤油)の創業家の一族として紀伊藩広村(現・和歌山県有田郡広川町)に生まれ、1853年に家督を継いで7代目濱口儀兵衛を名乗った。
店と醸造場のある下総の銚子と広村を行き来し、地震と津波が起きた時は広村に滞在していた。
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安政東海南海連動大地震。1854年。「稲むらの火」と「世界津波の日」。
1854(安政元)年11月4日(新暦12月23日)午前10時頃 安政東海地震。推定マグニチュード8.4。伊豆半島から伊勢にかけて大きな被害が出た。さらに、房総半島から四国にいたる太平洋沿岸各所を大津波が襲った。
家屋の被害は約9,000棟。死者は600人。
日本の伝統家屋は、台風などの強風対策はしていたが地震対策はしていなかった。
耐震建築として欠かせなかった壁の中の「筋違い」は、日本建築ではなく西洋建築で使われていた。
「筋違い」が日本建築に取り入れられたのは、明治になってからであった。
日本建築に耐震性のあった「筋違い」がなかったのは、日本建築が木と土を材料とした平屋を標準家屋としていたからである。
西洋建築は、木と石で作られ、閉ざされた城塞都市の中で大聖堂や高層住宅を作っていたからである。
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11月5日(新暦12月24日)午後4時 安政南海地震。前日の東海地震より西側の紀伊半島から四国沖を震源域として、マグニチュード8.4のが発生した。津波は、房総半島から九州までの太平洋沿岸を襲い、全半壊建物は約60,000棟、流失家屋2万1,000棟、死者約3,000人という被害を出した。
この周辺では、過去1605年の慶長地震、1707年の宝永地震など幾度となく連続または同時に東海地震、東南海・南海地震が発生していた。
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11月6日 海岸に出て異常な波を見て津波の襲来を予想し、村人等に避難を呼びかけた。
津波の恐ろしさを昔話で知っていた村人達は、濱口の指示に従い、安全な高台にある広八幡神社境内に避難した。
村役人は、避難者達に粥の炊き出しを行った。
濱口は、津波を警戒すると同時に空き家の盗難や火災か警戒する為に元気がいい者約30人を自警団として、海の監視と村内の巡廻を依頼した。
夜が明けて、海面が平常に戻えい津波はないと判断して村人は帰宅した。
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11月7日 高所で一夜を明かし帰宅して一息吐いた後で片付けを始めた村人を、午後4時頃に前日以上の激しい揺れが村を襲った。
濱口は、揺れが収まった後に、村の被害を見て回った。
村人達は、大混乱し、倒壊家屋の残骸で歩き歩き辛い状況の中を津波から逃げるべく広八幡神社境内を目指して走った。
その時、高さ5メートルの津波が押し寄せ、昔の領主・畠山氏が築いた波除石垣を乗り越えて村を襲った。
高台を目指して逃げる濱口や村人は、倒壊した家屋や流されてくる家具・建材などで足を取られ津波に巻き込まれた。
濱口は、小高い丘に辿り着いて助かり、なんとか広八幡神社境内に着いた。
避難していた村人達は、生き別れ行方が分からない家族を探して大混乱に陥っていた。
大小4回の津波が、村を襲った。
夜になり津波が収まってから、濱口は、元気のいい村人10人ほどと共に松明を持たせて村に戻り、方々に逃げて助かった者を広八幡神社に集めるべく目印として自分の田圃で収穫されたばかりの稲むら(稲わらの束)に火を点け高台に戻った。
村の被害は、建物被害339棟、死者30人であった。
津波による人的被害が他の村より少なかったのは、村人が一目散に高台に逃げたからである。
崎山光一(稲むら火の館館長)「梧陵は、その日のうちに、隣村の寺院に頼んで米を借り、直ちに炊いて握り飯にして、避難した人々の空腹をいやした上、深夜、隣村の庄屋を説得し、年貢米を借り受けます。翌日には仮小屋の建設準備に奔走し、その後、自身で玄米200俵を寄附し、それを高札に掲げて、他の資産家が続く先例も作っています」
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11月6日 冬空の下。村人達は、津波で家や家財道具一切をなくし行き場をなくしていた。
濱口は、村人達の食料を確保し次に、村復興の為に住宅の再建と道路や橋の修復工事などに必要な材木集めに奔走した。
自力で自宅を再建できない極貧者には、私財を投じて仮小屋を造って無料で提供した。
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田畑の農作物は津波に流され甚大な被害を受け、土地は海水が染み込んで農作物が作れるかどうか分からない惨状であった。
村人達は、濱口の奮闘の御陰で、雨露や寒風を凌ぐ仮小屋に寝起きし、食べ物を分けて貰って空腹に悩む事はなかったが、荒廃する田畑を目の前にし復興の気力をなくしていた。
村人の中から、広村での生活を諦めた他所に引っ越す者が出始めた。
濱口は、このままでは故郷の広村が廃村となるとの危機感から、村の再建の為に陣頭指揮を執り、近隣の資産家に呼びかけて寄付を募った。
春になれば農作業が再開できるとして、それまでの当座の生活資金を稼がせる方策として堤防建設を計画した。
過去にも大地震と大津波を経験した事から、次の津波被害対策として以前よりもしっかりした堤防を建設する必要があった。
広村は、1585年と1707年に大地震と津波の被害を受けていた。
濱口は、紀州藩と大堤防建設の交渉をし、材料費や人件費を全て店が負担する事で許可をえ、堤防を田畑の敷地に建設する事にして年貢を免除する事にも同意させた。
濱口「住民百世の安堵を図る」
被災のショックで無気力になっていた村人を奮い立たせる為に、堤防建設に働けば、女子供でも食事を与え日当を払った。
村人400〜500人が、天気が良ければ毎日、作業現場に出て一生懸命に働いた。
誰もが、不平も不満を言わず仕事をしていた。
高さ5メートル幅20メートル長さ600メートルの堤防と海側に潮風に強い松の木の2列の防風林をかねた立派な堤防は、3年10ヶ月の歳月、延べ5万6,736人が建設に従事して完成した。
崎山光一「堤防工事の実施は何重もの効果をもたらした。
まずは、防災効果。次には、雇用創出。年貢の重い海沿いの土地を官地として、村人の年貢負担を軽減する意味もありました」
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濱口と村人が建設した堤防は、1946年の1,400人の犠牲者を出した昭和南海地震で発生した津波(高さ4メートル)の勢いを弱め、広村の浸水被害を軽度に抑え、村人の命を救った。
河田恵昭(京都大学防災研究所教授)「濱口梧陵が村人の為に尽くした実績は、自助・共助のお手本。現代の防災活動にも通じます」
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村人達は、地震と津波で亡くなった村人の霊魂を鎮め、濱口の偉業を讃えその遺徳を偲び、そして災害の記憶を忘れず後世に語り継ぎ、自然災害は必ず襲ってくるから平生から備えを怠らない様にとの教訓を兼ねて、毎年11月に「津浪祭」を行った。
1933年 広村は、濱口への感謝を形として後世に残すべく広村堤防そばに感恩碑を建てた。
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幕末。紀州藩は、開国論を唱える濱口の見識を見込み、身分が低い醤油造りの商人であったが藩の勘定方や権大参事に任じ藩財政の舵取りを任せた。
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明治維新後。新政府に仕えて駅逓頭(現在の郵政大臣)になり、政治家となって活躍した。
晩年。中央の公職を辞して広村に戻り、和歌山県初代県会議長などを務めた。
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広村の村人達は、濱口の積年にわたる恩に報いその功績を讃える為に「浜口大明神」なる神社を建立する事を発願した。
濱口は、村人の気持ちは有り難いと感謝しつつも、人の分を超えて人神として祀られる事は頑なに固辞し、死後も許さなかった。
日本で最も大事なのは、私欲我欲を捨て公や世間や他人に如何に尽くして業績を残したかであって、地位や家柄や身分ではなかった。
問題とされたには、「人となり」であった。
1885(明治18)年4月21日 濱口儀兵衛こと濱口梧陵は、人々に惜しまれながら死去した。」
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命が幾つあっても足りないほどの、自然災害多発地帯日本。
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ムラ社会は、同質性が高い為にその場の空気を読み、事の善悪を自分で判断して「自分を厳しく律し、他人に迷惑をかけない社会」であった。
その為に、調和を乱す者に対しては個人若しくは集団で容赦なく攻撃し、よくて追放、最悪として自殺に追い詰める事がある。
伝統、文化、言語、習慣を受け入れて同化する者には寛大であるったが、同化を拒否して異化を貫く者には不寛容であった。
日本はムラ体質として「他人に寛容な社会」ではない為に、場の共通性を守る為に軋轢や摩擦を調整できない異質はどんなに小さくても完全排除した。
日本の空気圧は、他人の不始末、不祥事、不行跡を許さず、同質の調和を乱す異質に対する陰湿なイジメやリンチが秘められている。
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2016年4月15日号 週刊ポスト「昼寝するお化け 曾野綾子
『同じ答え』
……
東日本大震災のことを、あまりにも多くの人が語り、『あれ以来人生観が変わりました』という人さえいると聞いて、私は戸惑うことが多かった。
私も、被災者の突然の個人的運命の変化を痛ましく思っていたのだが、震災以来、私自身は人生観が変わったなどと感じたことはない。
私はカトリックの教育を受けたので、子供の頃から日々死を想うことに馴れさせられてきた。だから作家になった、とも言える。
人生はいつも無残と2人連れだった。安心して暮らせる人生など、どこにもない。しかし最近の例だが、2016年3月14日の朝7時のNHKニュースに登場した女性のアナウンサーは、たった10分か15分の間に少なくとも2回『安心して』という言葉を使った。放送内容は、一言一句、あらかじめ用意された文章を原稿として渡されるものなのか、それともこの方が自分の言葉で語る部分があるのか、私にはわからない。しかしまともに言葉の意味を考えたことのある人なら、この人生に『安心して』生きられる時間など、1分もないという自明のことを意識していなければならない。そんなことさえ考えず、オウムのように言葉の意味も考えず喋っている人にニュースを伝えられては、たまったものではない。
私はいつも考える。東日本大震災で家族を失った人だけが、大きな悲しみに耐えているのではない。同じ月日の間の極く普通の生活の中で起きる病苦、失業、裏切り、別離、死別などの悲しみは、どこにでも、常に、綿々と続いていたのだ。人の死はどこでも同じだ。津波による死は、それ以前や以後の日常的な死よりも大きいということはない。だから私は東日本大震災のことを軽々に触れるのは好まなかったし、私自身、それ以後に自分が変わるなどということは考えられなかった。
東日本大震災の5周年の頃、テレビも新聞も見るのはうんざりだ、という人が私の周囲にはたくさんいた。昔から、表現力のない新聞記者が書くのは、現地で名前と年を聞き、その後でその人の苦労や喜びを書く定型だ。震災記念日には、その手の番組や記事ばかりだったという。
人間は自分のことは語りたがるが、他人の話にはそれほど感動しない。作家や新聞記者は、話を聞くことが一種の職業だが、嫌いな人もいる。人の苦労話を聞いても仕方がない。だからもうテレビは見ない、とかげでは率直にいう人もたくさんいたように見える。
現実を拾えば、いかにも『取材して書いた』ということになるのだが、それだけなら作文のうまい高校生にでも書ける。記事を書くという行為には、背景に深い哲学が要る場合が多い。もちろん私自身は軽口を叩いている場合も多いのだが。
私が偶然衛星放送で見た5周年番組は、事故直後から働き続けた自衛隊の記録だった。『トモダチ作戦』と呼ばれた米軍との連携やオーストラリア軍の援助などよくわかったが、感動的だったのは、海上の小さな裏方的仕事をしていた人たちの活躍だった。どんな事業もその手の地味な支えなくしては成り立たない。
3月15日付の産経新聞によると、3・11の前と後で『何か変わったか』という問いに対して、かなり危険な任務についていた自衛隊員の多くが『変わらない』と答えたと言うのだ。それは私の実感的答えと全く同じだったので、私は嬉しくなった」
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2016年6月 SAPIO「災害に強い国を作るのは誰の仕事か
我々は今回の地震で、あらためて日本人の思いやり、そして強さを目の当たりにした。
幾度もの天災から立ち上がり、誇るべき国土を作り上げてきた日本人には、再び美しいふるさとを蘇らせることができるはずだ。
ただし一つ指摘しておかなければならないことがある。それは、政府が発した情報が被害を広げた側面があるということだ。
4月14日21時26分に発生した地震は、最大震度7、マグニチュード6.5と発表された。翌15日昼時点での死者は9人だった。
気象庁は同日午後の会見で、『今後3日間で、最大震度6弱の余震が起こる可能性が20%、震度5強以上となる可能性が40%』と発表し、それが繰り返し報じられた。あくまで『余震』への備えをするよう強調した。
日付が変わって16日1時15分からのNHKニュースでもその〝余震予報〟が伝えられた。再び震度7、M7.3の『本震』が熊本・大分を襲ったのは、わずかその10分後、深夜1時25分のことだった。
多くの人々が、のちに『前震』と訂正された最初の地震の後、『あとは余震だから』と自宅に帰っていた。本震により潰れた家屋の下敷きになるなどして、本稿締め切り時点で犠牲者は48人に急増した。気象庁は本震のあとの会見で、慌てて『今後の動きは予測できない』とお手上げ姿勢を示した。
その日の天気さえ外す気象庁に、地震を予測するなどそもそも不可能だ。東日本大震災(M9.0)でも2日前にM7.3の前震が起きていた。それを考えると、今回も最初かの地震より規模が大きな地震が来ることは、何ら不思議ではなかった。予測できない天災に対しできることは、早急な被害実態の把握と『最大限の注意を払ってほしい』という注意喚起なのではないか。
この国の『天災予知』は、役人たちの利権に使われてきた。国土地理院の『地震予知連絡会』と、気象庁の諮問機関の『火山噴火予知連絡会』などの研究関連予算は合わせて年間200億円超、この20年で4,300億円以上に上る。巨額の費用を使って得られた彼らの結論は〝天災は予測できない〟ということだった。
我々は、再び教訓を得た。
『自分の命は、自分で守るしかない』
隣近所と声を掛け合い、命を守ることが最優先である』
……
政府任せではいけない。災害に強い国を作るのは、他ならぬ我々自身なのだ」
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自然災害に対する心構えは、日本武道と同じ様に「相手の攻撃を柔軟に受け入れた上で、機を見て相手の隙を的確に判断して攻撃に転ずる」である。
人災であれば、攻撃が最大の防御として、相手が準備を整える前に先制攻撃して完膚なきまでに粉砕すれる事であった。
天災と人災では、全てが真逆であった。
当然、リーダーとして求められる資質も異なる。
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日本社会は、後方の安全地帯から下されるトップダウンではなく、現場からのボトムアップであった。
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日本民族の遺伝子は、生き残るの事を優先してアリとキリギリスのアリである。
多発する自然災害を生き残るのは、日々の生活で幸せ度の少ない生き方である。
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日本の理想的リーダーとは、積極的に辛抱強く話し合って説得する調整型である。
女性や子供も含めてムラ人全員が参加する事が重要であった為に、全会一致で賛成させる為に全員を説得した。
村の復興に反対し復興工事に参加しない者は、村から追放するか、村を出て行かなければ村八分として差別した。
病気やどうしても参加できない者は仕方がないとして、働ける者や動ける者は全員が参加した。
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現代に於いては、全員参加・全会一致の日本システムは、個人の自由を制限する不合理な手段として否定された。
個人の自由として、参加したくなければ参加しなくてもかまわない。
参加しなか事を理由にして、村から追放されたり差別する事する事は犯罪とされた。
個人の意志で反対を表明する権利がある為に、その場の空気圧で賛成する事は法律に違反する。
その場の空気は無視して構わない、と。
全会一致は異常である、と。
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2016年4月1日号 週刊朝日「最後の読書 服部真澄
『大日経』で生死を超える
くも膜下出血で急死するところだったのは、もう17年前のことになる。
幸いなことに、開頭手術が成功。以降も小説家として暮らし、毎年1冊程度を書いている。
人はいつ死ぬか分からない。人生は短い。これを機として、書きたいテーマを後回しにしなくなった。
歴史はなぜ動いたか。宗教とは何か。偉人はなぜ偉人なのか。核とは何か。時間や記憶とも取り組んだ。遺伝子、麻薬、微生物、資源、資金、情報網など、社会や未来を動かすツールも書いてきた。
そんななかで、好きになったのは大乗仏教の思想である。かつては空海を書き、いまは夢窓疎石を調べ、書き進んでいるさなか。時代でいえば、古代の密教、禅宗までざっとさらった。
人は本来平等である。されども、人生は苦の連続である。そう見極めて、仏法では戒や経、あるいは行を良薬として苦を和らげようとする。経を読むのが楽しくなったのは、それに気づいてからである。
仏教の思想の一つに、〝空〟がある。〝虚空蔵〟という甘美な言葉の広がりに惹かれる。これは虚しさを示すことばではない。空とは、微細かつ不可説のもので充ち満ちた空間なのだ。無数のものが限りなく集まると空になる。空は無量無数である。すべてが〝 無い〟ことは、すべてが〝有る〟ことでもある。
過去、現在、未来を超えてあまねく広がり、到底捉えることができない虚空の相こそ宇宙の姿であり菩薩であると、仏教は説く。
巷で虚空蔵菩薩が〝宝の仏〟と仰がれるのも、仏が象徴する無量無数の慈悲の蔵を宝庫と見るためだ。
虚空蔵の考え方のなかには、絶対の安心感がある。すべてが〝有る〟なるば、死してもなお続くことも〝有る〟し、再び蘇ることも〝有る〟ではないか。さらにいえば、現前するこの世界も、何もかもがある、果てし無き宝庫なのである。
いまわの際に読むとするならば、このことを教えてくれた『大日経』を開きたい。私は宮坂宥勝氏の名訳本を参考に、……」
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東日本大震災復興と日本建築。
2016年4月6日 読売新聞「『平等』にとらわれた復興 経済と別の豊かさ希望生む 瀬戸内で挑む庭園都市
自然を使った家取り戻す 建築家・伊東豊雄
間もなく緑あった釜石の復興に建築家として助言するボランティアを引き受けた。避難所、そして仮設住宅に暮らす人々の声を聞いて回った。
私は大震災の前から、20世紀以降の近代主義的な建築思想に疑問を感じていた。つまり、切り分ける思想だ。自然と人の暮らす場を切り分け、建築の内と外を隔て、建築内では部屋と部屋を機能に応じて切り分ける。
明治以前の日本の住宅は風を入れ、光を入れ、通風採光に留意してきた。日本人は自然をうまく利用して生活を営んできた。連続性が日本建築の特徴だった。
明治以降、日本人は一斉に近代化に向かった。人々はモダンな暮らしにあこだれて都市に集まり、住まいに家電製品を次々と取り入れるようになる。住まいは自然から切り離され、人工的な環境になった。
近年、都市で人々の意思疎通は閉ざされがちだ。人々は孤独になっている。少子高齢化が進み、お年寄りの孤独死が増えている。モダンな暮らしはエネルギー消費の点でも問題に直面している。
日本人は生き方を変えるべき時期に来ているのではないか。自然に開かれた住み方へ転換すべきではないか。私はそんな問題意識を抱き、釜石にかかわる。人々が培ってきた歴史・風土に即した街づくりを手伝いたい、と。
失った機会
……
私がイメージしたのは庭園都市だった。技術は自然と人間を隔てるためではなく、自然に連なるように使う。そうすることで新しい生活様式を作りたい。私は意気込んだ。
街の人々は喜んでくれたが、釜石の当局者らには『伊東さん、それをやろうとしても、予算がつかない。無理です』とことごとく拒まれた。何もできなかった。どの街も同じ復興でなければなたない。特別のことをやられては困る。一律の予算で、どこも同じように作る。そういう論理に日本は覆われている。一種の平等主義、均質主義である。通常の公共建築でも同様だ。よそと違うことは、なかなか許されない。
被災地の復興の柱は『防潮堤』『高台移転』『かさ上げ』の3点セットに行き着いた。私に言わせれば、技術偏重の近代主義的な復興計画だ。復興公営住宅は、近代建築の象徴でもある、都市の郊外団地の複製でしかない。
明治以降ひたすら近代化にまい進してきた日本人にとって、大震災は伝統的な暮らしや自然とのかかわる方を振り返り、考え直す機会でもあった。だが、日本は変わる機会を失った。
……
編集委員 鶴原徹也
均質さ 力損なう
明治初の日本の人口は約3,500万人だった。近代化は人口増と共に進み、画一的住居が都市に量産された。
均質な住まいはヒトを均質にして、自然に閉ざされた暮らしはヒトの力を損なうのではないか。……」
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11月27日 産経ニュース「【温故地震】浸水面積から津波の高さを解明―安政南海地震(1854年) 都司嘉宣
椿八幡神社の石灯籠=徳島県阿南市椿町(都司嘉宣氏提供)
津波が起きた際、海水が標高何メートルまで到達したかを解明することは、被害状況の調査と並び津波の実態を知る作業の第一歩だ。
2011(平成23)年の東日本大震災では、被災地の建物のあちこちに、海水が達した痕跡が線となって明瞭に残っていた。そのため津波の高さを知ることは比較的、容易だった。
近代的観測が行われていない時代の地震でも、津波の痕跡について古文書に記録されていることがある。
南海地震の一つである1707(宝永4)年の「宝永地震」については、高知県土佐清水市にある蓮光寺で、門前の石段の上から3段目まで海水が来たことが「幡南探古録」という古文書に記録されていた。
そこで筆者らは現地の測量を実施。この地点の標高を調べ、津波が標高14・6メートルまで到達したと判定することができた。
ただ古文書の記録は、このように測量作業に向いたものばかりではない。例えば1854(安政元)年の安政南海地震で津波に襲われた徳島県阿南市椿町で、椿八幡神社の門前にある石灯籠に刻み込まれた被害の様子は、このようなものだった。
「津波で流された家は9軒、浸水した家は18軒。土砂が混じった海水が流れ込んできた。津波が引いた後は、水田30町歩余りが、置き去りになった泥や砂、石だらけになった」
1町歩は約0・992ヘクタールだから、30町歩は約29・8ヘクタールとなる。この記述から、津波が到達した高さを知ることは可能だろうか。
椿八幡神社はどんな場所にあるのか地図で確認してみた。すると、カニのハサミのように東側へ突き出た2つの半島に挟まれてV字形の湾の最奥部にあり、最奥部から内陸の西側へ幅約400メートルの水田が帯状に続いていることが分かった。
これなら、津波に襲われた水田の面積を400メートルで割れば到達距離が分かる。計算してみると、すぐに745メートルと判明したので、さっそく海に近い水田の端から内陸に入り、その距離の地点の標高を計測した。
結果は4・1メートルだった。ただ、水田は「泥や砂、石だらけになった」というのだから、海水の厚みが10センチ程度はあっただろう。その分を足して、安政南海地震の津波は、この地点で標高4・2メートルに到達したと結論づけることができた。
古文書の記録は、分かりやすく直接的な表現ばかりではない。しかし、そこであきらめずに知恵を働かせて、なんとか解答を導き出してしまうのが津波研究者の仕事なのだ。(つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震・津波学)」
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