⚓355)356)─1─フランスは、対馬を植民地とするべく租借権を要求した。日米和親条約。琉米修好条約。安政南海大地震。1854年〜No.761No.762No.763No.764No.765/@           

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   ・   ・   【東山道美濃国・百姓の次男・栗山正博】・  
 サムライの意地。
 サムライの痩せ我慢。
 武士は食わねど高楊枝。
 痩せても枯れても武士は武士。
 武士は食わねど高楊枝。
 サムライは、切腹覚悟で逃げ隠れせず堂々と行動していた。
 サムライは、現代日本人とは違って、相手が如何に優れた武器を持つ強大国であっても恐怖に怯える事はなく、戦争を覚悟して、取り得る限りの最善の方法を実行して対抗し国を守った。
 相手が強く巨大であればあるほど、全滅覚悟で武者震いして闘争心を掻き立てた。
 弱い者を苛めて利益を得る事は、サムライとして面汚しとして最も嫌った。
 武士道は、女子供や身分低い弱い者を苛め虐げる事を恥とし、強い者に立ち向かって弱い者を守る事を美徳とし、その為に死ぬ事を武士の本懐とする事を教えていた。
 日本の身分は、大陸の社会的格差を固定した階級ではなく、単に職業を表すだけの制度で、武士が百姓・町人になる事も、百姓・町人が武士になる事もあった。
 ただし、家・家業を継ぐ子供には、職業選択の自由はなかったが、それでも、家名を上げ、家を豊かにする為であれば、身分を換える事はその限りではなかった。
 それ故に。260年間の江戸時代は、他国のような内乱や内戦が起きず平和であった。
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 1854(安政元)年 阿部正弘は、ドイツ版世界地理書で日本を見て「我が国は狭い」と感嘆し、小さい国である為に門閥・家柄に囚われることなく広く優秀な人材を集めて知恵を結集しないと国難を乗り切れないと実感した。
 阿部正弘島津斉彬は、開国するに辺り諸外国の国旗に対応する国の旗を創る必要があるとして話し合い、そこで「日の丸」を国旗とする事を決めた。
 島津斉彬は、翌55年に、日本最初の洋式軍艦・昇平丸を幕府に寄贈し、そのマストに国旗「日の丸」を掲げた。
 諸外国は、「日の丸」の斬新でシンプルなデザインに感動した。
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 阿部正弘は、対米交渉担当者に外交通の林大学頭を任命した。
 林大学頭は、交渉方針を決定するにあたり外交通の学者らに意見を聞いた。
 ある学者は、ペリー艦隊は補給難から戦争はしないであろうと書簡を送った。
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 国家とは、他国との間に国境線を画定して成立した。
 国境を持たない国家は、国家ではなく無人の荒野に等しい。
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 イギリス軍艦アクティオン号は、ロシア帝国が南下して日本海を制圧する事を警戒して、日本領である対馬を測量した。
 イギリスやフランスは、日本にはロシア帝国の侵攻を防ぐ軍事力がないと分析し、非公式の雑談的な会話として幕府に対して対馬租借を持ち出していた。
 横井小楠は、フランスが対馬租借を申し込んでいる事を書き記した。
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 1854年 サミュエル・ボールディング「ある政治的統治が千年王国において、地上を覆うであろう。それは民主主義となるであろう。そうでなければ千年王国とはなり得まい。合衆国こそがおそらくその先端をなすところの民主主義となるであろう」「千年王国は、政治上は主として白人種に限られる、キリスト教徒の共和主義の時期である」「千年期における全地上を覆う民主主義の全般的な流布は漸進的であろうが、その進行には例えばメキシコ人や太平洋の諸島民のような劣等人種の完全な絶滅を伴うであろう」(『世界最終戦争(ハルマゲドン)』)
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 1854年 松前藩は、幕府の外国船打払令に従い、津軽海峡を防衛するべく海に向かって最新式のお台場を7つ建築した。
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 1月 長崎に於いて、日露交渉が始まった。
 ロシア側は、日本人が上陸していたウルップ島を確保する為に、択捉島は自国領土と強硬に主張した。
 幕府側の川路聖謨筒井政憲は、択捉島を確保する為に、主権を主張できるウルップ島の領有を放棄した。
 ロシア側は、譲歩すると見せかけてウルップ島を確保した。
 サムライ日本人は、狡猾な外交交渉に慣れていないだけに交渉能力が乏しく、相手の機嫌を損ねまいとするお人好しから、相手に配慮しすぎて領土交渉に失敗した。
 ゴンチャロフ「川路は非常に聡明で、……この人物は尊敬しない訳にはいかなかった」
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 1月10日 ペリーは、予告よりも3ヶ月早く軍艦10隻を引き連れて伊豆沖に姿を現した。
 1月11日 黒船艦隊は、制限付き鎖国策と外国使節は長崎で接待するという国法を無視して、交渉を強要する為に江戸湾に入り川崎大師沖まで侵入した。
 ペリー「条約の締結が受け入れられない場合、戦争になるかも知れない。当方は近海に50隻の軍艦を待たせてあり、カリフォルニアにはさらに50隻を用意している。これら100隻は20日間で到着する」
 ペリーは軍人として、沿岸部の台場群が敵艦隊が江戸湾への予定航路に基づいて建設されていることに、幕府の戦略戦術能力の高さを認め、中国とは違って油断できない事を痛感した。
 幕府は、交渉地を横浜村と定めると通知した。
 交渉の会話を英語ではなくオランダ語として、通訳の森山栄之助を派遣した。
 幕府は、1,漂流民保護は約束する、2,通商開始は準備を急いでも3、5年はかかるとして引き延ばす、3,長崎に限って薪水を給与するという、交渉方針を決めていた。
 黒船艦隊は、指定された横浜村に碇を降ろした。
 鎖国を守ろうとするサムライは、日本の国法を無視し、軍事力を持ってゴリ押しする無法ぶりに激怒した。
 老中阿部正弘は、異国事情と交渉史に詳しい朱子学者林大学頭(号 復斎)を応接掛に任命し、全権として交渉の全てを任さた。
 林大学頭は、儒学者でありながら外交官として、朝鮮通信使の応接と返書の作成、オランダ国王の国書に漢文で返事を書くなど、国際外交に携わっていた。
 幕府は、優秀な外交官を育てる為に、蕃書取調所を開設し、自分の事を犠牲にしても国事に奔走するという志の高い有能な若者を集めた。
 同時に。西洋列強の侵略に備える為に講武館を設立して、自分の命を犠牲にしても国を守るという優れた軍人の育成を命じた。
 危機感が、日本の軍国化を加速させた。
 林大学頭は、西洋諸国の動静を理解していただけに鎖国を維持する事は困難と考え、来航する異国船への薪・水・食料の補給はやむを得ずと判断したが、清国に惨状から開国、通商は時期尚早として拒絶する事とした。
 2月 ペリー艦隊が、「星条旗」を掲げて浦賀に来港した。
 日本には国旗がなかった為に、浦賀警備を命じられた各大名は自分の藩の幟(のぼり)を陣屋に立てた。
 幕府は、開国後は外国との付き合いが増え、外国船の入港を多くなる以上は、日本を代表する国旗「日本惣船印(そうふなじるし)」を制定しなければならないとして選定を急いだ。 
 老中首座の阿部正弘は、現在、日本を統治しているのは徳川氏である以上、徳川家所縁の徽章が好ましいとして、徳川家の祖先である新田氏の旗印に因んで「中黒」と決めた。
 「日の丸」の幟は、幕府の御用米を運搬する船を見分ける為に許された船旗で、特別に重要な旗ではなかった為に、国旗候補から外された。
 薩摩藩島津斉彬は、外国通として国旗はその国を代表する幟であるとして、皇室の徽章を差し置いて徳川家の旗幟(きし)を国旗にすることは恐れ多いと反対した。
 各国の国旗や旗印、徽章や目印を調べて、「日の丸」のデザインは、何れの国でも、何れ地域でも、何れの家でも、何れの組織でも、使用されてあらず、採用しても問題は起きないとして国旗とするように提案した。
 徳川家康の遺訓によって、大大名と外様大名は天下の政(政治)から排除されていた為に、幕府海防参与の水戸藩徳川斉昭に「日の丸」採用を訴えた。
 尊皇の志が強い徳川斉昭は、皇室の「菊の御紋」を差し置いて臣下の旗印を国旗に採用することは不敬に当たるとして猛反対し、「日の丸」こそ国旗にふさわしいと主張して、阿倍らと大激論した。
 「御書類返上 日本総印(そうじるし)は旭の丸旗に御定めの事申し遣す」
 神代から「日ノ本」と言う言葉と「日の丸」というデザインは、皇室と深く関わり、日本民族の心の拠り所であった。
 阿倍ら幕閣としては、一度は国旗として「中黒」を採用したのに、横槍が入り「日の丸」にデザインを変更する事は、幕府の権威に関わる重大事として譲らなかった。
 国旗を、徳川家所縁の「中黒」にするか単なる御用米運搬船専用の目印「日の丸」にするかで、幕府の威信をかけて揉めに揉めた。
 2月4日 林大学頭は、老中の阿部や海防参与の水戸藩徳川斉昭など幕閣と最終協議を行い、石炭・薪水・食料の供給と難破船の救助を認め、その供給・送還に当たる港の開港は5年後とし、それまでは来年正月から長崎でそれを行うという交渉方針を固めた。
 2月10日 黒船艦隊は、日本の法律を無視して測量を行った。
 アメリカ海軍将校は、抜刀し小銃発砲などの挑発行為し、勝手に上陸して日本の海防砲台を見聞した。
 サムライは、戦争を避ける為に横暴に耐えていた。
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 2月16日 第一回交渉。
 ペリーは、総勢466名を引き連れて、交渉会場と定められた横浜村に上陸した。
 交渉に当たっての基本方針。
 アメリカ側は、「親睦」「通商」「石炭等の補給」「アメリカ人漂流民保護」の4項目掲げた。
 ペリーは、戦争をちらつかせ恫喝した。
 林大学頭は、ペリーの黒船艦隊が江戸を砲撃して焼いたとしても、日本を占領する兵力もないし、戦争をする補給ができないと見ぬいていた。
 日本側は、第一に戦争回避、第二に通商拒否、の2項目に絞った。
 ペリーは、交渉に先立ち祝砲の名目として50発以上を発射した。
 真の目的は、メキシコで成功した砲艦外交を日本にも採用し、軍事力で恫喝すれば日本も恐怖して屈服し従うと高を括っていた。
 「本日の祝いとして、将軍様に21発。林大学頭様に18発。さらに発めての上陸を祝して18発の祝砲を撃ちたい」
 林大学頭ら日本側交渉団は、大砲の威嚇に動ずることなく交渉を開始した。
 他のアジア・アフリカ地域では、軍事的脅しに恐怖して、西欧列強の要求に従い言いなりに要求を受け入れ、屈辱的条約を結んだ。
 サムライ日本は、違っていた。
 幕府の交渉方針は、「開国し交易を始める」とアヘン戦争に負けて屈辱的講和を強要された清国の二の舞にならない為に、交易は断固拒否し、それ以外は受け入れるというものであった。
 幕府は、オランダから詳しい海外情報を仕入れ、アメリカやイギリスが砲艦外交で恫喝しても戦争をする気はない事を知り、国内が恐怖して混乱しなければ怖れる必要はないと確信していた。
 林大学頭は、日本側の回答を行い、交易を拒絶した。
 「昨年の、貴国大統領からのご要望にお答え申す。薪、水、食料を貴国の船に与える件は、これまでも実施されており、差し支えない。また漂流民の救助も、我が国の法に定められている通り受諾する。ただし、第三の交易に付いては、我が国の法によって固く禁じられている」
 ペリーは、優秀人種である白人が劣等人種である日本人に舐められた事に激怒して、手で机を叩き、サーベルで床を突き、大声で怒鳴って恫喝した。
 「我が国は、以前から人命重視を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交の無い国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら、貴国が人命を尊重するという話を聞いた事がない。難破船を救助せず、海岸近くに寄せると発砲するという。さらに、漂流民を罪人同様に扱って投獄すると聞く。漂流している日本国人民を、我が国人民が救助して送還しようにも受け取らない。自国人民を見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である。今後もこの様な態度を改めなければ、我が国は、国力を尽くして戦争し、雌雄を決する覚悟である」
 林大学頭は、冷静に、ペリーが訴える件で誤りを一つずつ正し、正論と国法に従って反論した。
 「誤った伝聞が広がったものと推察する。我が国に非道な政治などなく、貴国と我が国の間で、戦争に及ぶほどの事など毛頭ありません。我が国の人命尊重は、世界に誇るべきものがある。この三百年にわたって太平の時代が続いたのも、人命尊重の為である。第二に、大洋で外国船の救助ができなかったのは、大船の建造を禁止して来た為である。第三に、他国の船が我が国近辺で難破した場合、必要な薪、水、食料に十分の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂流民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂流民は手厚く保護し、長崎へ護送、オランダカピタンを通じて送還している。」
 ペリーは、恫喝が失敗し思わぬ反撃に驚き沈黙し、林大学頭の言い分を受け入れた。
 「貴国が、貴方の言われる様な国柄で、船に薪や水を与え、漂流民を温かく扱うのであれば、これ以上いう事はない」
 アメリカの砲艦外交は、戦争も辞さずの幕府の毅然とした外交に敗北した。
 アメリカは、国力を背景にして恫喝外交を行っていたが、相手を完全無視する中国とは違い、人としての常識を持っていた。
 問題は、開国して交易するかであった。
 ペリー「では、交易の件は、なぜ承知されないのか。そもそも交易とは有無を通じ、大いに利益のある事、最近はどの国も交易が盛んである。それにより諸国が富強になっている。貴国も交易を開けば国益にかなう。ぜひともそうされたい」
 日本は、中国が交易を許可した事でアヘンが密輸されて戦争に発展した事を知るだけに、交易の開始でアヘンが運び込まれる事を警戒した。
 交易で国が富み栄えても、その代償として、アヘンの密輸と犯罪者の流入は何としても避けたかった。
 林大学頭は、国法を盾にして交易を拒否した。
 「交易が有無を通じ国益にかなうと言われたが、日本国においては自国の産物で十分に足りており、外国の品がなくても少しも事欠かない。したがって交易を開くことはできない。先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。交易は人命と関係ないではないか。談判は済んだのではありませぬか」
 ペリーは、林大学頭の正論に反論できず引き下がり、別室でしばらく考えた末に答えた。
 「貴方の言われた事はもっともである。来航の目的は申したとおり、人命尊重と難破船救助が最重要である。交易は国益にかなうが、確かに人命とは関係が無い。交易の件は強いて主張しない」
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 2月19日 第二回交渉。
 林大学頭は、毅然として交渉を進めた。
 ペリーは、軍人であって外交官ではなかった為にやや押され気味に交渉を続けた。
 ペリーは、長崎以外の寄港地として5、6ヵ所の港を要求し、開港地を増やす事で済し崩し的に交易につなげようとした。
 「長崎の事は承知しているが、真に不便な場所にある。是非とも日本の東南に5、6ヵ所、北に2、3ヵ所の港を定めて頂きたい」
 日本側は、ペリーに花を持たせる為に開港地を与える事には同意したが、何処を開くかの即答を避けた。
 林大学頭「それほど長崎以外の港をお望みなら、なぜ昨年の親書に記さなかったのか。当方は長崎を予定し、何の異存もないはずと考えておりました」
 ペリーは、それ以上、強く要求できず譲歩して、返答を待つ事とした。
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 林大学頭はペリーに配慮する譲歩案を考えたが、水戸斉彬は猛反対したが、阿部正弘は賛成した。
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 2月26日 第三回交渉。
 林大学頭は、薪・水・食料の補給地として、南の下田と北の函館の二ヵ所を提示した。
 ペリーは、それ以上の開港を要求できず引き下がった。
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 2月30日 第四回交渉。
 ペリーは、新たな開港地に付属して、上陸して自由に行動できる範囲を港から四方に10里を要求した。
 西部開拓で、原住民のインディアンを騙して土地を奪っていった手法に似ている。
 林大学頭は、補給だけの上陸にそれ程の地域は必要はないと突っぱねて、四方七里を提示した。
 日本側としては、白人の行動範囲を広げては監視が出来ないし、地元民とのトラブルや異国人に反感を持つ者との不足な事態を防げないとして警戒した。
 白人が危害を受ければ、戦争に発展する恐れがあったからである。
 ペリーは、四方十里案を断念して、日本側の「四方七里」案を受け入れた。
 交渉最後の段階で領事問題が起こったが、日本は日本側に都合の良い様に、アメリカ側はアメリカに都合の良い様に書いた為に、禍根を残した。
 後年。アメリカは、交易を行う為の交渉に、この条文を理由にしてハリスを送り込んできた。
 ペリーは、武力を背景として交易を迫る事を断念した。清国とアメリカの交易を定めた条約文の抜粋を取り出し、林大学頭に参考にと渡しました。
 林大学頭は、オランダを通じて条約の全文を入手して研究していた。
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 ペリーは、小笠原諸島の領有を要求してはいない。
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 対馬が、日本領で有り朝鮮領でない事は世界が認めていた。
 世界は、「日本海」を正式名称とし、「宗谷海峡」の海峡名称を認めた。
 サムライ日本人は、日本の名誉と領土・領海・領空を命を捨てても守ろうとした。
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 3月3日 江戸幕府は、横浜村で、大国のイギリスやロシア帝国ではなく、発展途上の小国アメリカと日米和親条約(神奈川条約)を調印した。
 条文は、日本文、漢文、英文の3種類で交換された。
 交渉全権の林大学頭は、日本文版に署名したが、英文版には何が書いてあるのか判読できなかった為に署名を拒否した為に、国際法上の条約締結の体裁が整わなかった。
 アメリカ側には国際法の専門家がいなかった為に、条約正文を日本語に為るか英語に為るか結論が出せなかった。
 日本は、同条約12ヶ条で、開国を決断したものではなく、交易の許可も与えてはいなかった。
 ペリー「貴国の厳しい国法を伺っていたが、この様な親睦の誓いを結ぶ事ができた。今後、日本が外国との戦争に至った時には、軍艦、大砲をもって、加勢するつもりである」
 林大学頭「ご厚意、かたじけない」
 日本は、外国語を話せなかったが外交交渉に成功し、中国や朝鮮とは違って独自の道を独力で歩く事になった。
 ペリーは、外交官ではなく、法律家でも企業家でもなく、生粋な海軍軍人であった。
 日本人を個人的「利」に転びやすい貪欲な中国人と同じ卑しい人種と考えて行動した為に、外交交渉に失敗した。
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 ペリーは、下田の下水道技術を見て、アメリカの都市よりも優れているとして驚いた。 江戸時代の上下水道配管技術は、世界的にも優れていて、その衛生管理も行き届いていて西洋や中国・朝鮮のような疫病が発生しなかった。
 日本で最初に水洗便所が登場したのは、平安時代高野山であったと言われている。 
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 日本側は、国家間条約の不備を自覚し、条約を国際法に則った正式な物にすべく、林大学頭と岩瀬忠震や永井尚志などを下田へ派遣した。
 林大学頭は、下田でペリーと再交渉を行い、異国人遊歩地の範囲や批准書交換などその他の手順に従って下田追加条約を調印した。
 国際的に通用しない漢文版を廃し、新たにオランダ文版を作成し、オランダ文版と英文版に署名した。
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 サムライ日本は、祖国防衛戦に敗北し外交交渉に惨敗した中国や朝鮮とは違って、アメリカの強力な軍事力による砲艦外交に屈する事はなく、冷静に外交交渉を続けて勝利した。
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 孝明天皇は、 幕府の報告を聞き、開国と交易を許さなかった日米和親条約を喜んだ。
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 6月15日 伊賀・伊勢・大和地震
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 7月 幕府は、皇室の「菊の御紋」に遠慮して臣下の家紋を国旗とせず、米運搬船用の「日の丸」を国旗・日本総船印であると布告した。
 もし徳川家所縁の「中黒」を国旗に採用したら、天下の政が別の大名に移った時、国旗はその大名の家紋所縁のデザインに変更しなければならなくなる。
 サムライは、自分か所属する旗印のデザインに強い思い入れがあり、旗印を守る為には命させえ犠牲にした。
 日本軍人は、軍旗を敵に奪われる事は、天皇の臣下として、国家に忠誠を誓う国民とそて、一生の屈辱であるとして死んでも軍旗を守り通した。
 それ故に。サムライ達は、国旗制定に当たり命懸けで大激論を交わした。
 日本国旗「日の丸」は、こうして制定された。 
 日章旗「日の丸」には、先人達の深い思い入れ、子孫に伝えたい「心」、残したい「志」が詰まっていて、浮ついた軽いフラッグ(旗)ではなく、布切れに付けられたシミのような目印・デザインではなかったのである。
 7月11日 ペリーは、琉球王国を独立国と認めて琉米修好条約(「亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約」)を締結し、中国進出の前線基地とした。
 清国領台湾も欲しかったが、フィリピンを所有する海軍国スペインを刺激する恐れがあるとして手を出すのを控えた。
 アメリカがペリー準提督を日本に派遣して開国を迫ったのは、鎖国状態にある日本を国際社会の一員に迎え入れようという親切心・善意からではなかった。
 ましてや、太平洋を横断して中国に向かう商船や捕鯨船への燃料や食糧や水の補給でも、緊急時の避難する寄港地とするといった、子供騙し的な単純な理由ではなかった。
 欧米の軍需産業は、南北戦争終結アメリカ市場に溢れた大量の兵器を消費する為に、アジアで新たな戦争を起こす必要があった。
 来日した人種差別主義者のキリスト教徒白人は、軍事介入する為の大義名分を得る為に、日本人に対して横柄な態度をとって狂信的攘夷派を刺激した。
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 11月4日 東海大地震
 11月5日 安政南海大地震。死者3万人。全壊家屋2万戸。消失・流失家屋それぞれ6千余戸
 ペリー「地震によって生じた災禍にもかかはらず、日本人の特性たる反発力が表れていた。その特性はよく彼等の精力を証するものであった。彼等は落胆せず、不幸に泣かず、男らしく仕事に取りかかり、意気阻喪(そそう)する事も殆どないようであった」(『ペルリ提督日本遠征記』)    ・   ・   ・   
 ペリーは、帰国して数年後にニューヨークで講演を行った。「日本は何時の日か、他国の追随を許さない産業国家として台頭しよう。彼等の手先は、あまりにも器用だ」
 サミュエル・モリソン(自伝)「徳川家康将軍が1603年に鎖国政策を実施した後に、社会の全てがそれまでとまったく同じままに、取り残された。
 人々は昔からの手作りの衣服を着て、固定した階級の中に、閉じ込められた。
 260人の大名は、藩の中でしたい事をしていた。従者によって運ばれる漆塗りの椅子駕籠で、旅行をした。駕籠の行く手を塞いだり、恭順の礼をしなかった民衆は、サムライによってその場で斬られるか、殺された。
 世襲による戦士階級であるサムライは、藩主の食扶持で生きていたが、大多数が貧しかった。剣術を除けば、全てついて無教養だった。藩主と古い習慣と伝統に対してだけ、完全に忠実だった」



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